クサビたちは晴れ渡った空の下をザワの母の居所に向かう。
厚木の集落を抜けた先に小高い山が見えてきた。
麓から続く急勾配の石段を上ると、貞観の大噴火前からのものなのか蒼然とした杜に隠れて古びた祠があった。
さらにその杜に分け入り斜面を北側に回ると岩屋があった。
入り口周辺には割れた
ザワの母はこの中に居ると言う。
「三秋になる」
ザワが絞り出すように言った。
クサビが身をかがめて中を覗くとすぐ手前で二方に分かれていてどちらの奥も見えないが、洞内の饐えた土気の匂いから推して嬰嶽の巣であることがすぐに分かった。
クサビはザワに小袿を渡し、ユウヅツを下の祠まで連れて行って見張っているように頼むと一歩中に足を踏み入れた。
天井は低く赤錆色の壁が奥に向かって続いている。左手はすぐに行き止まりで、土気の匂いは右手の奥からしているようだ。
じめついた中に進むとすぐに光が届かなくなった。
クサビは脂燭に火を灯し壁に頼って洞内を進む。濡れた壁は丸みを帯びた小さな突起物がいくつも連なっていて蝋のように滑らかだ。
洞は奥まるにつれ傾斜していて滑りやすく、草鞋に付いた泥濘の重さを足指に感じながら転ばぬように慎重に進む。
さらに洞内を行くと、前方に一点の紫の光が見えてきた。
クサビはそれまでの咽返るほどの土気が晴れて息苦しさが少し和らいだ気がした。
灯に導かれつつさらに進むと、段々と足もとが水に浸されてきて、気付けば腰のあたりまで水没していた。
その水は温かくそのままそこで安らいでいたい気にさせる。
クサビは脂燭を捨て、手で水を漕ぎながら灯りに向かって行く。
近付いて見ると、池の中に苔生した小島があって、そこに尺高の燈台が置かれ紫に光る玉が乗っていた。
クサビが寄せると小島が小さな波音をたて上下し、小島の燈台も右に左に揺れる。まるで波間の小舟のようなそれはおそらく浮島なのだ。
クサビは燈台を倒して紫玉を落とさぬように慎重に取りついて浮島に這い上がると辺りの水域を見渡した。
そこは大きな池の中らしいのだが、光が弱すぎてすべては見通せない。
上を見上げてもどれくらい高いか分からない。
クサビが腰を下ろすと温かい水のせいなのか浮島の上はとても居心地がよかった。
手に触れた地面は柔らかな苔が程よく乾いて感触が良い。濡れたクサビの装束もいつの間にか乾いて、心地よい眠気が襲って来る。
クサビはそのまま横になってみた。
苔に触れた耳元から聞き覚えのある懐かしい音が響いて来る。
クサビはいつしか目を閉じていた。
後ろに何かの気配を感じる。
寝返りを打つと昨夜の童女が燈台の横に立ってこちらを見下ろしていた。
その童女は今度はユウヅツそのものでクサビの実の子なのだった。
クサビは夢の中にいる。
この洞が見る夢に取込まれたのだ。
クサビは童女の目を見た。
そこには昨夜と同じ陰惨な色が浮かんでいる。
クサビはその濁った眼に微かな隙間を見つけ、童女の苦悶に滑りこんで行く。
そこに童女と母がいる。
母は跪き童女を抱きしめている。
母は童女の顔を見て別れねばならないと告げる。
童女は表情を変えぬまま母を強く抱き返して放さない。
母は顔をゆがめ痛みにもだえるが、童女の抱擁はさらに強く母を締め付ける。
母が両の手を突っ張り童女から逃れようと胸を反らした時、童女は片手に隠し持った脇差を高く掲げ、それを真っ直ぐ母の胸に突き立てた。
童女は凍り付いた水面のような表情をして何度も何度も母の胸に脇差を突き立てる。
脇差に吸われた血が燈台から溢れ出し、苔の根を伝って周囲の水を赤く染めてゆく。
あまりに夥しい血の量で池の水がじわじわと上昇しクサビの居る浮草を持ち上げる。
気付けば上は天蓋がすぐそこに迫っている。
それは肉襞が絞り込むよう中心に集まっていて、池の血潮を欲するがごとく急速に接近して来る。
天蓋がクサビの手の届くところまで達っし、ついに燈台がその肉壁の中心に突き刺さる。
紫玉の光が消え、辺りは漆黒の闇に包また。
クサビは天蓋と浮島に挟まれ血の池の水で息ができない。
クサビが死を想った時、凝集していた肉壁が急激に緩み中心に穴ができた。
そこから陽の光が差し込んだかと思うと、クサビは血飛沫とともに一気に洞の外へひり出された。
外から見た洞は巨大な
尻の穴から血飛沫を飛び散らして周囲を錆色に染め、這いずりながら杜の木々を押し倒して祠に向かってまろび落ちて行く。
そこに母を想って心配顔のユウヅツと、同じく母の真の姿を見て驚愕するザワがいる。
嬰嶽は祠を押しつぶし、石段のユウヅツたちにその大口を開き襲いかかった。
クサビの憎悪が解き放たれたのはその時だった。
厚木蛍宇津保に向かってクサビの嬰喰が襲いかかる。
嬰喰に憑かれた嬰嶽は己が体を石段にたたきつけもがき苦しむ。
クサビも嬰喰の中で恥辱に耐える。
クサビの真白い乳房が、四肢が、黒髪が嬰喰の表皮を流れ横切るのが見える。
クサビは苦悶に引き裂かれながら厚木蛍宇津保の心魂を見極めるため意識を集中させる。
クサビは嬰嶽の脈動に耳を澄ます。
そしてクサビはついにあの叫び声を聞いた。
しかし、叫んだのは童女でなく母親のほうだった。
母は顔を両手で覆い、伏しまろんでいる。
その傍で童女がその母を見下ろしている。
母は童女に言う。
殺されたはずの母が生きていて、母を殺したお前がいない。
何故お前はいないのか。童女が答えて言う。
そうではないと。
脇差を手にしたのは親なる母だった。
親なる母は別れを告げるとその笑顔のままに脇差をわが胸に突き刺したのだと。
嘘だと母が言う。
ならばあの夢は何なのだ。
何度も何度も夢は母を苛み苦しめる。
お前が母を殺すあの夢は何なのだ。
童女はそれは母が母を苛む夢なのだと諭す。
己が犯した罪障を己が裁かんとする夢なのだと。
「汝の劈開を示せ!」
とクサビが言うと、母が声のない叫びをあげ、いっさいの蝕穢を受けんと身構えた。
母の心魂が姿を現した瞬間だ。
クサビが事後の打槌を案じるよりも先に、大いなる衝撃が劈開に向けて放たれた。
予想外の打槌が敢行されたのだ。
すかさずクサビが母の劈開へ向かって嬰喰を放つ。
嬰嶽、厚木蛍宇津保はすべての相を一度に現し、それとともに洞の口が捲れ上がってその禍々しい内奥一切を血潮とともに晒し尽くすと、紫玉一点にすべてが凝縮し、遂に昇華、宙に霧散した。
――ここに嬰嶽の一、
クサビが光に導かれて目を覚ますと、傍らにザワが立って見下ろしていた。
どうしてこの世に戻れたのか。打槌を敢行したのは誰なのか。
スハエを探したがいなかった。
「スハエか?」
「そうではない」
と言ってザワが指さした先にはユウヅツが涙を流してこちらを見ていた。
「この子が?」
ザワが無言で頷いた。
クサビは、ユウヅツが打槌をしたことに驚愕し動揺した。
なぜならそれは、ユウヅツもまた嬰喰を身中に宿す者、嬰喰使ということだからだ。
昨夜の叫び声の主がこの美しい娘の中にいた。
クサビの頬に涙が伝った。
ザワは小袿をクサビに掛ける。
クサビは右肩に新しい疼きを感じ愉楽の時を思い出した。
ユウヅツがクサビの首に抱き着いて来る。
クサビがユウヅツを抱き返すと髪から乾いた土の匂いがしていた。
ザワは多くを語らなかったが、自分が衛士になれたのは義父のおかげだと言った。
義父は母と幼いザワのみを欲した。
溶岩帯は果てしなく続き、それにつれてクサビは自分の位置がわからなくなっていた。スハエの姿も見失っていまや溶岩の襞の中をはいずりまわる小動物の気分になっていた。両側は高々とそびえる溶岩の壁に迫られ、空は一筋の線のように見える。もうなん時も歩いているのに山へ登る感じがない。平坦な狭い場所をひたすら歩き続けている。世界から断絶してしまったかのようだった。 そんな中、溶岩壁が透けて見える時がある。幾重にもなった襞の中を戸惑いながら歩む衛士たちの姿が右手にも左手にも見える。大声をあげて呼んだが声は届かぬようだった。それに気を取られている間に足元がぬかるんで来ていた。底に溜まった蜜のようなものが絡みついて足を上げるのさえ億劫だ。蜜は溶岩壁の隙間からにじみ出ているようで、だんだんと嵩が増し、腰のあたりまで来て動けなくなった。蜜を手に取ってみる。刺激のある匂いがした。クサビはその時になってようやく気が付いた。関東最強の嬰嶽、琥珀地獄判官に取り込まれたのだと。 蜜はクサビの喉元の高さまで達し、いよいよ息の根を止めに来たかのようだった。泳ごうにも蜜は濃厚で重く、手先すら動かすことがままならない。このまま蜜に埋もれて嬰嶽の中で息絶えるのか。 その時、上方からずっしりとした衝撃音が響いてきた。見上げると一筋の空から強い光が降り注いでいる。そして再び、衝撃音とともに地鳴りのような振動が溶岩壁を伝って、蜜溜りの表面をゆらした。何度となく繰り返されるそれは、まさしくスハエが琥珀地獄判官へ打槌を仕掛けているものだった。その振動は蜜溜りを揺らし、クサビの体を浮き上がらせる。数十回も繰り返したころには、クサビは腰まで蜜溜りの上に出ることができた。そのまま溶岩壁に手を伸ばし、自分の体を引き上げ蜜溜りを脱出すると、クサビは溶岩壁をよじ登り始めた。壁か
クサビは人の背に負ぶわれていた。負ぶっているのは母のようだった。クサビは身を固くした。負ぶった赤子がぐずると後ろ頭でド突いて黙らすような女だからだ。そんなはずはない。母はずっと昔に死んだのだ。押しつぶされるような頭の重さを感じつつ、クサビはそこで目を覚ました。 クサビは衛士に負ぶわれていた。ザワだった。「どうして」「轍を追って来たらお前が道中で倒れていたので連れてきた」「サヨ姫は、いやユウヅツはどうした」「わからぬ。轍は足柄からずっと続いているが、ユウヅツは見当たらない」「ここはどこだ」「横走りの関」 そこから西に不死の山がもうもうと噴煙を上げる姿が遠望できた。「すまぬ。降ろしてくれ」 クサビはすこしよろけたが立てた。「礼を言う。ここからは一人で行く」「人手はいくらあってもよかろう」 相手はユウヅツだけではなく関東最強の嬰嶽、琥珀地獄判官と一緒なのだった。しかし、この任は誰のものでもない。クサビ自身のものだ。それにザワを巻き込むわけにはいかなかった。「ありがたいが一人で行く」 思った通りだという表情でザワは言った。「そう意固地になるな。援軍も直に来る」 すると真上から声が降ってきた。「すでにここに居るぞ」 見上げるまでもなく声でスハエだと分かった。逃げたのではなかったか。「糞のためではない。積年の恨みをはらす」 判官様から一番恩恵を受けたのはスハエだったはず。思いはザワも同じらしく、大げさなあきれ顔をクサビに向けた。 クサビは少し気持ちがほぐれて、ザワたちと同行することにした。「他の者たちは」 とクサビが聞くと、クサビの背後を指
館の西門からユウヅツたちの痕跡は続いていた。それは道幅いっぱいの轍と、真ん中のか弱げな足跡だ。轍も足跡も泥濘るんだ道にはっきりと残っていたので、暗い夜道でもよく分かった。クサビはそれを頼りにユウヅツを追うことにした。 途中、遊行の僧に行き会った。ユウヅツのことを聞くと国分寺の者だというその僧侶が笠の中から言った。「そなたの娘御は、巨大な泥の山を積んだ土車を一人で曳いておった。土車から荒縄が伸びて娘御の首に巻き付けられておった」 さらに続けて、「あまりに不憫であったので、拙僧が書にて『ひと引き引いたば千歳供養、ふた引き引いたば万歳供養』という札を泥の山に立てておいたので、奇特な御仁がおれば助けてくれよう」 クサビは僧侶にお辞儀すると不死山が噴煙を上げる西に向けて先を急いだ。 ユウヅツの曳く土車が速いのか、それともクサビの出立が遅すぎたのか、全力で駆けているはずなのにまったく土車に追いつかなかった。 出立してから夜通しクサビは駆け続け、時に暗闇に轍を見失っては道の上をはいずって探し、見出しては追いかけた。やがて当たる風が冷たくなり、あたりが明るくなってきた。振り返るとすでに東の空が白み始めていた。道の上に目を落とすと足跡とともに血痕が点々と残っている。クサビが遅れれば遅れるほどユウヅツの身が危うくなってゆく。 それからしばらく行くと前方に木々が鬱蒼と生い茂る山塊が迫って来た。足柄山、関東の西端にたどり着いたのだった。山中は昼にもかかわらず暗く静謐に包まれていた。足柄の山道にもこれまで通りユウヅツの足跡と土車の轍は続いていたが、ここに来てクサビにはユウヅツに近づきつつあることが分かっていた。ところが山中に踏み入れてよりクサビは不思議な感覚にとらわれてなかなか歩が進まなくなってしまう。それはこの轍が今できたものなのか、ずっと以前にできたものなのかが分からないというものだった。さらにありえないことだが今よりもずっと先
世話好きな刀自や采女たちが、紅潮した頬をクサビに向けて話しかけてくる。「またとない話じゃないか。なにを拒む理由があるのかい」 無論だ。関東最強の判官様がユウヅツの裳着の後見をしてくださると仰せになられたのだから。たかが走り隷の養女ごときを、この関東でおそらくもっとも権勢のある、これ以上望みようもない御方が介添えを申し出てくださるなど、僥倖以外のなにものでもない。だから拒んでいるわけではない。クサビは不安なのだ。ユウヅツの後見人になるということは、親になるのも同じこと。判官様のおわします御簾の向こうにユウヅツをやるということ、それは二度と会うことができなくなるということだった。ユウヅツのことを思えばその方がよいに決まっているが、同時にユウヅツと離れて暮らすなど今となっては考えられない、ユウヅツとの出会いは運命だとも思う。クサビはそれでずっと逡巡しているのだった。 ある日、大きな地震があった。ユウヅツが早朝より外出して不在だったためクサビは無事を案じた。大きな揺れがおさまり隷長屋から中庭へ出ると、人々が慌てふためいて行き来していて、全ての視線が不死の頂に向けられていた。西の空では噴煙の勢いが増し、黒々とした叢雲が広がり出していた。 クサビが局室にもどり倒れた調度を片付けているとエツナが訪れて言った。「地獄様が御馬を曳けと仰せだ」 以前は天災、人災に関わらず事が起きた時は、御前に馬を曳く習わしとなっていたが最近では珍しいことだった。それでも、それは御厩の役まわりだ。走り隷の任ではない。判官様の御馬を自分のような下郎に曳かせて良いものではあるまいとクサビは思ったが、それが仰せとあらば否応するべきことではないのだった。 判官様の御馬は鬼鹿毛という名で、庁の南に広がる牧のさらに奥、茅の生い茂る野原の中で飼われている。噂では相当な気性の荒さだと聞いていた
クサビたちは晴れ渡った空の下をザワの母の居所に向かう。厚木の集落を抜けた先に小高い山が見えてきた。麓から続く急勾配の石段を上ると、貞観の大噴火前からのものなのか蒼然とした杜に隠れて古びた祠があった。さらにその杜に分け入り斜面を北側に回ると岩屋があった。入り口周辺には割れた土器が散乱していてどれもが錆色に赤く染まっている。ザワの母はこの中に居ると言う。「三秋になる」 ザワが絞り出すように言った。クサビが身をかがめて中を覗くとすぐ手前で二方に分かれていてどちらの奥も見えないが、洞内の饐えた土気の匂いから推して嬰嶽の巣であることがすぐに分かった。クサビはザワに小袿を渡し、ユウヅツを下の祠まで連れて行って見張っているように頼むと一歩中に足を踏み入れた。天井は低く赤錆色の壁が奥に向かって続いている。左手はすぐに行き止まりで、土気の匂いは右手の奥からしているようだ。じめついた中に進むとすぐに光が届かなくなった。クサビは脂燭に火を灯し壁に頼って洞内を進む。濡れた壁は丸みを帯びた小さな突起物がいくつも連なっていて蝋のように滑らかだ。洞は奥まるにつれ傾斜していて滑りやすく、草鞋に付いた泥濘の重さを足指に感じながら転ばぬように慎重に進む。さらに洞内を行くと、前方に一点の紫の光が見えてきた。クサビはそれまでの咽返るほどの土気が晴れて息苦しさが少し和らいだ気がした。灯に導かれつつさらに進むと、段々と足もとが水に浸されてきて、気付けば腰のあたりまで水没していた。その水は温かくそのままそこで安らいでいたい気にさせる。クサビは脂燭を捨て、手で水を漕ぎながら灯りに向かって行く。近付いて見ると、池の中に苔生した小島があって、そこに尺高の燈台が置かれ紫に光る玉が乗っていた。 クサビが寄せると小島が小さな波音をたて上下し、小島の燈台も右に左に揺れる。まるで波間の小舟のようなそれはおそらく浮島なのだ。クサビは燈台を倒して紫玉を落とさぬように慎重に取りつい
クサビらが関東検非違使所に帰ると、局室が西の離れの隷長屋に移されていた。嬰嶽の一、座間輝安彙を解除したことによる物忌のためであるが、おそらくこれからここがクサビの局室になる。判官様の居所からは少し離れたが檻でもなく明るい局室でクサビは気に入った。それとクサビがユウヅツを連れ帰ったことに頓着する者はいなかったので、おのずとそこに同居することになった。与えられる食餌はこれまでと変わらないので、そこはクサビの分をユウヅツに分けねばならなかったが。 そのユウヅツといえば、もとは貴顕の姫なのだからこの局室は決して相応しいとは言えない。それなのに己が境遇を嘆かず、当たり前のように振る舞っている。忌が明けてからというもの、内住まいの刀自や采女の子らに誘われて西の離れの中庭で駆けまわったりしているのを見ると、もともとここで育ったかのような気さえして来る。クサビとてもそれが違和感なく、むしろいついなくなるかと不安が募って、夜半にふと目覚めては隣で寝ているユウヅツの艶やかな髪に触れてみて安堵することがあるくらいなのだった。 意外だったのは、これまでクサビを恐れて近づこうともしなかった女たちが、ユウヅツが来た途端に親しげに局室を訪うようになったことだ。最初のうちはユウヅツに食べさせろと、山芋を干したものや赤米を盛ったのやらを持って来てすぐに帰って行ったのだが、そのうち何も用事がなくともクサビの局室へ来るようになって世間話というものをするようになった。それでも女たちは相変わらずクサビは怖いらしく、機嫌のよさそうな時しか話を交わそうとしなかったものの、おかげでこれまで全くといっていいほど情報のなかった検非違使所の外の様子が少し分かるようになった。厚木の市に現れるという嬰嶽を知ることにもなったのもここからである。 その時は、いつもより多くの女たちがクサビの局室に来て厚木の市の話で盛り上がっていた。それは先月の三の市が立った時のことだというから最近の事らしかった。