平安初期の貞観年間(865年前後)、不死の名を冠する富士山は大噴火を繰り返し常に噴煙を上げていた。
その不死の山を西方に臨む最果ての地、武蔵の国に関東
檜皮葺きの巨大な
館の主は地獄
本来の長官、
判官は辺境の地にあって
その館の一角、東の対屋は
そこは間口が格子になっていて、まるで檻のような設えなのだった。
それでもこの離れの局室という扱いになっているが、居るのは上臈ではない。
格子から中を覗くと、光がうっすらと射し込む藁床の上に
その襤褸は藁の上で全く動かないのだが、飽きずにじっと見ていると、かすかに上下に動いているのが分かる。息をしているのだった。
足音が近づいて来る。
しっかりとはしているが調子の崩れた足音が格子の前に停まる。
その音に反応して襤褸が頭をもたげ、炯炯と光る眼を格子の外の人影に注いだ。
「クサビ、地獄様がお召しだ」
クサビというのがその襤褸の名だった。
この関東検非違使所で
走り隷とは野盗や罪人の
それならば上臈の住まう東の対屋でなく、域外の
その間、月日も分からず常にひもじさを感じていたがクサビはそれを甘受した。
この度の
悪い男ではないが、ここの大概の男どもに倣ってぞんざいで無愛想だ。
ザワは入り口の錠を開けると塗籠の中に何かを差し入れた。
それは水を張った手桶、洗いざらしの装束一式と櫛で、判官様に謁見するための支度道具だった。
ザワは無言で入り口に佇立している。
クサビは垢じみたものを脱ぎ棄て裸になると、床の藁を一掴みとり手桶の水に浸して体を拭いだした。
クサビの細くしなやかで真白い背には鞭で打たれたような傷がいくつも刻まれている。
傷は顔と乳房以外体中いたるところにあって、その数たるや傷に慣れた
クサビは髪を梳き終わり装束を整えると壁に掛かった
ザワがそれに応えて、
「出ろ」
クサビは袿姿で塗籠を出る時必ず息をのむ。
この牢屋のような塗籠が今のクサビの局室だが、それでも屋根のある場所はクサビにはありがたい。
ここに来る前は流浪の身で雨曝しの藁草と変わらぬ扱いを受けていた。
また、判官様謁見用に
裸に襤褸のことが多かったクサビは、初任官の時錦糸の入ったこの袿を渡されたときには、体全体が打ち震えて声にならない嗚咽を漏らした。
無論、それらはクサビのものではない。
もしもこの先、下手を打てば袿は没収され局室から放逐される。もとの藁草にもどるのだ。
だから、ここに戻って来るために命も削る。心魂を月に奪われてもよい。それほど気を昂ぶらせているのだった。
クサビは東の回廊を歩く。前を行くザワは足を引き摺っている。
以前走り隷とともに野盗を追捕したとき負った右足の傷のせいだ。
それまではクサビと組むこともあったが、今は庁内で走り隷を差配する任に就いている。
二人が母屋の大屋根を見上げる曲がりにさしかかった時、随身所からの橋廊を雉の尾のようなものが棚引いているのが見えた。
きららのような光の帯となってクサビの行く手の先へ移動している。
それを見てクサビはザワに聞こえないように舌打ちをした。
チッ。
今度もあいつと一緒かと思うと虫唾が走る。
スハエ。
走り隷だが特殊な任を仰せつかるときのみ行動を同じくする男。
この度判官様からお呼びがかかったのは、ただの追捕ではないと予想していたが、あの男が呼ばれたのであれば確定といえる。
その任があいつがいてこそ収斂するのは分かっているが、クサビにとっては気に障って仕方ない男なのだった。
スハエの光彩は棚引きつつ回廊を曲がって進み、東中門の内の、真白く眩い空間に入って行った。
そこがこれからクサビが伺候する判官様の居所の
クサビたちが光彩を追いかけるかたちで東中門をくぐろうとすると、クサビだけ衛士の長槍に止められた。
ザワが少し先で立ち止まりこちらを振り返る。
ザワの肩越しに見えたのは、光彩が御前を横切り
衛士の男が槍の柄でクサビの頭を小突く。
髪上げを忘れていると指摘したのだ。貴人に謁見するには女は髪を上げるのが掟なのだ。
クサビは腰紐を引きちぎって、走り隷にしては長い黒髪を纏めると頭の上で器用に束ねた。
衛士はほつれた前髪を槍の先で触れながら苦笑いするとクサビを中に通した。
この衛士の名はエツナ。ここでは感じのいい部類の男だ。
ザワは、クサビを御前に連れてゆき
「走り隷、クサビを連れ参りました」
と奏した。
日の光が差し込まぬ南廂の奥は沈黙が支配している。
階の両脇に長槍を持った衛士が佇立しているが、そこを昇る者を峻別する以外は、常時何の反応もない。
ザワは、
「しばし待て」
と言うなりクサビの目前に蹲踞して動かなくなった。
こうして御前に伺候するのはいく日ぶりか。
この前は炎天の下で御前を穢したのだった。思い出すに恥がましいが、ここに戻れたのは一方ならぬ喜びである。
御前から天を振り仰げば、ただただ美しい檜皮葺の上に判官様の威勢を示すがごとく高々と青い空が見える。
クサビが応召して二度目の秋だった。
いつになく長い刻を御前で待っている。
そのこと自体はクサビは苦痛でないが、苛立たしいのは南廂の間にスハエがいることだった。
以前、何かに怯えた走り隷が間違って御前の階を昇り南廂に一歩足を踏み入れようとしところが、階の衛士に槍で串刺しにされた。
本来は六位以上の貴顕しか登れない聖域。走り隷の身分では決して上がることが許されない簀子の奥。
そこにスハエがいる。判官様の覚えめでたいとはいえ、あいつとて下郎に変わりないのだ。
スハエは胡坐をかき、鼻くそをほじっては、それをこっちに向かって弾き飛ばしている。
届くわけはないが所作のいちいちが腹立たしい。
めったに表情を変えぬザワでさえそれを見上げて顔をしかめている。
「判官様まいらせらるー」
スハエが奥に向かって這いつくばる。伺候する者ども全員がそれに倣う。
南廂のさらに奥、御簾の向こうの
他を圧する勢いとあふれ出る
その異形は僻地にあっても都をねめつける勢いがある。
関東検非違使所は設置されて間もない役所だ。まだ三年を経ていない。
不死の大噴火であまたの噴石や火山灰が降り注ぎ、人家はおろか山野も焼け尽くされ荒廃の極みを尽くしたこの地の民草混迷を鎮めるために開庁したことになっている。
しかしその内実が
嬰嶽とは、不死山の噴火で飛び散った、大地の精である
土魄は初め種子のように人の身中になりを潜めているが、何かの契機で人の心魂を核に結晶化して物の怪となる。
その姿は土魄に反応した心魂によって異なり定かではないが概ね小山の様態をなす。
ゆえに山の嬰児と書いて嬰嶽。
放置すれば不死山のごとき悪嶽となって大災疫をもたらすだろう。
嬰喰使は嬰嶽の所在を見出し
「クサビと言うか? そこの糞は」
判官様の言であるはずがない。
判官様の
「まさに」
「糞がクサビとは、言い得てよのう、スハエよ」
「仰せのとおりでございます」
「あやつの嬰喰の匂いといい、形といい糞そのもの」
「御意にございまする」
スハエは自分に話しかけ自分に返事をしている。
御前にいる者たちは皆、その滑稽さに笑いをこらえているが、スハエ一人そのことに気付いていない。
「スハエよ、この糞と共に、嬰嶽を狩ってまいれ」
「かしこまりましてござります」
「下がれ」
スハエの自演が終わらぬうちに御簾の中の気配が母屋の奥に消え土気臭が薄らいだ。
それに気づいたスハエは平伏のまま南廂の簀子まで下がると、勾欄に片足を乗せて、見下したようにクサビに向かって言った。
「そこの糞。明日の明け、
スハエは返事を待ったがクサビは応じない。
スハエはそれを見て鼻を鳴らすと、勾欄をひと蹴りして東中門の向こうに飛び去った。
その背に虹色の光彩を引きずりながら。
溶岩帯は果てしなく続き、それにつれてクサビは自分の位置がわからなくなっていた。スハエの姿も見失っていまや溶岩の襞の中をはいずりまわる小動物の気分になっていた。両側は高々とそびえる溶岩の壁に迫られ、空は一筋の線のように見える。もうなん時も歩いているのに山へ登る感じがない。平坦な狭い場所をひたすら歩き続けている。世界から断絶してしまったかのようだった。 そんな中、溶岩壁が透けて見える時がある。幾重にもなった襞の中を戸惑いながら歩む衛士たちの姿が右手にも左手にも見える。大声をあげて呼んだが声は届かぬようだった。それに気を取られている間に足元がぬかるんで来ていた。底に溜まった蜜のようなものが絡みついて足を上げるのさえ億劫だ。蜜は溶岩壁の隙間からにじみ出ているようで、だんだんと嵩が増し、腰のあたりまで来て動けなくなった。蜜を手に取ってみる。刺激のある匂いがした。クサビはその時になってようやく気が付いた。関東最強の嬰嶽、琥珀地獄判官に取り込まれたのだと。 蜜はクサビの喉元の高さまで達し、いよいよ息の根を止めに来たかのようだった。泳ごうにも蜜は濃厚で重く、手先すら動かすことがままならない。このまま蜜に埋もれて嬰嶽の中で息絶えるのか。 その時、上方からずっしりとした衝撃音が響いてきた。見上げると一筋の空から強い光が降り注いでいる。そして再び、衝撃音とともに地鳴りのような振動が溶岩壁を伝って、蜜溜りの表面をゆらした。何度となく繰り返されるそれは、まさしくスハエが琥珀地獄判官へ打槌を仕掛けているものだった。その振動は蜜溜りを揺らし、クサビの体を浮き上がらせる。数十回も繰り返したころには、クサビは腰まで蜜溜りの上に出ることができた。そのまま溶岩壁に手を伸ばし、自分の体を引き上げ蜜溜りを脱出すると、クサビは溶岩壁をよじ登り始めた。壁か
クサビは人の背に負ぶわれていた。負ぶっているのは母のようだった。クサビは身を固くした。負ぶった赤子がぐずると後ろ頭でド突いて黙らすような女だからだ。そんなはずはない。母はずっと昔に死んだのだ。押しつぶされるような頭の重さを感じつつ、クサビはそこで目を覚ました。 クサビは衛士に負ぶわれていた。ザワだった。「どうして」「轍を追って来たらお前が道中で倒れていたので連れてきた」「サヨ姫は、いやユウヅツはどうした」「わからぬ。轍は足柄からずっと続いているが、ユウヅツは見当たらない」「ここはどこだ」「横走りの関」 そこから西に不死の山がもうもうと噴煙を上げる姿が遠望できた。「すまぬ。降ろしてくれ」 クサビはすこしよろけたが立てた。「礼を言う。ここからは一人で行く」「人手はいくらあってもよかろう」 相手はユウヅツだけではなく関東最強の嬰嶽、琥珀地獄判官と一緒なのだった。しかし、この任は誰のものでもない。クサビ自身のものだ。それにザワを巻き込むわけにはいかなかった。「ありがたいが一人で行く」 思った通りだという表情でザワは言った。「そう意固地になるな。援軍も直に来る」 すると真上から声が降ってきた。「すでにここに居るぞ」 見上げるまでもなく声でスハエだと分かった。逃げたのではなかったか。「糞のためではない。積年の恨みをはらす」 判官様から一番恩恵を受けたのはスハエだったはず。思いはザワも同じらしく、大げさなあきれ顔をクサビに向けた。 クサビは少し気持ちがほぐれて、ザワたちと同行することにした。「他の者たちは」 とクサビが聞くと、クサビの背後を指
館の西門からユウヅツたちの痕跡は続いていた。それは道幅いっぱいの轍と、真ん中のか弱げな足跡だ。轍も足跡も泥濘るんだ道にはっきりと残っていたので、暗い夜道でもよく分かった。クサビはそれを頼りにユウヅツを追うことにした。 途中、遊行の僧に行き会った。ユウヅツのことを聞くと国分寺の者だというその僧侶が笠の中から言った。「そなたの娘御は、巨大な泥の山を積んだ土車を一人で曳いておった。土車から荒縄が伸びて娘御の首に巻き付けられておった」 さらに続けて、「あまりに不憫であったので、拙僧が書にて『ひと引き引いたば千歳供養、ふた引き引いたば万歳供養』という札を泥の山に立てておいたので、奇特な御仁がおれば助けてくれよう」 クサビは僧侶にお辞儀すると不死山が噴煙を上げる西に向けて先を急いだ。 ユウヅツの曳く土車が速いのか、それともクサビの出立が遅すぎたのか、全力で駆けているはずなのにまったく土車に追いつかなかった。 出立してから夜通しクサビは駆け続け、時に暗闇に轍を見失っては道の上をはいずって探し、見出しては追いかけた。やがて当たる風が冷たくなり、あたりが明るくなってきた。振り返るとすでに東の空が白み始めていた。道の上に目を落とすと足跡とともに血痕が点々と残っている。クサビが遅れれば遅れるほどユウヅツの身が危うくなってゆく。 それからしばらく行くと前方に木々が鬱蒼と生い茂る山塊が迫って来た。足柄山、関東の西端にたどり着いたのだった。山中は昼にもかかわらず暗く静謐に包まれていた。足柄の山道にもこれまで通りユウヅツの足跡と土車の轍は続いていたが、ここに来てクサビにはユウヅツに近づきつつあることが分かっていた。ところが山中に踏み入れてよりクサビは不思議な感覚にとらわれてなかなか歩が進まなくなってしまう。それはこの轍が今できたものなのか、ずっと以前にできたものなのかが分からないというものだった。さらにありえないことだが今よりもずっと先
世話好きな刀自や采女たちが、紅潮した頬をクサビに向けて話しかけてくる。「またとない話じゃないか。なにを拒む理由があるのかい」 無論だ。関東最強の判官様がユウヅツの裳着の後見をしてくださると仰せになられたのだから。たかが走り隷の養女ごときを、この関東でおそらくもっとも権勢のある、これ以上望みようもない御方が介添えを申し出てくださるなど、僥倖以外のなにものでもない。だから拒んでいるわけではない。クサビは不安なのだ。ユウヅツの後見人になるということは、親になるのも同じこと。判官様のおわします御簾の向こうにユウヅツをやるということ、それは二度と会うことができなくなるということだった。ユウヅツのことを思えばその方がよいに決まっているが、同時にユウヅツと離れて暮らすなど今となっては考えられない、ユウヅツとの出会いは運命だとも思う。クサビはそれでずっと逡巡しているのだった。 ある日、大きな地震があった。ユウヅツが早朝より外出して不在だったためクサビは無事を案じた。大きな揺れがおさまり隷長屋から中庭へ出ると、人々が慌てふためいて行き来していて、全ての視線が不死の頂に向けられていた。西の空では噴煙の勢いが増し、黒々とした叢雲が広がり出していた。 クサビが局室にもどり倒れた調度を片付けているとエツナが訪れて言った。「地獄様が御馬を曳けと仰せだ」 以前は天災、人災に関わらず事が起きた時は、御前に馬を曳く習わしとなっていたが最近では珍しいことだった。それでも、それは御厩の役まわりだ。走り隷の任ではない。判官様の御馬を自分のような下郎に曳かせて良いものではあるまいとクサビは思ったが、それが仰せとあらば否応するべきことではないのだった。 判官様の御馬は鬼鹿毛という名で、庁の南に広がる牧のさらに奥、茅の生い茂る野原の中で飼われている。噂では相当な気性の荒さだと聞いていた
クサビたちは晴れ渡った空の下をザワの母の居所に向かう。厚木の集落を抜けた先に小高い山が見えてきた。麓から続く急勾配の石段を上ると、貞観の大噴火前からのものなのか蒼然とした杜に隠れて古びた祠があった。さらにその杜に分け入り斜面を北側に回ると岩屋があった。入り口周辺には割れた土器が散乱していてどれもが錆色に赤く染まっている。ザワの母はこの中に居ると言う。「三秋になる」 ザワが絞り出すように言った。クサビが身をかがめて中を覗くとすぐ手前で二方に分かれていてどちらの奥も見えないが、洞内の饐えた土気の匂いから推して嬰嶽の巣であることがすぐに分かった。クサビはザワに小袿を渡し、ユウヅツを下の祠まで連れて行って見張っているように頼むと一歩中に足を踏み入れた。天井は低く赤錆色の壁が奥に向かって続いている。左手はすぐに行き止まりで、土気の匂いは右手の奥からしているようだ。じめついた中に進むとすぐに光が届かなくなった。クサビは脂燭に火を灯し壁に頼って洞内を進む。濡れた壁は丸みを帯びた小さな突起物がいくつも連なっていて蝋のように滑らかだ。洞は奥まるにつれ傾斜していて滑りやすく、草鞋に付いた泥濘の重さを足指に感じながら転ばぬように慎重に進む。さらに洞内を行くと、前方に一点の紫の光が見えてきた。クサビはそれまでの咽返るほどの土気が晴れて息苦しさが少し和らいだ気がした。灯に導かれつつさらに進むと、段々と足もとが水に浸されてきて、気付けば腰のあたりまで水没していた。その水は温かくそのままそこで安らいでいたい気にさせる。クサビは脂燭を捨て、手で水を漕ぎながら灯りに向かって行く。近付いて見ると、池の中に苔生した小島があって、そこに尺高の燈台が置かれ紫に光る玉が乗っていた。 クサビが寄せると小島が小さな波音をたて上下し、小島の燈台も右に左に揺れる。まるで波間の小舟のようなそれはおそらく浮島なのだ。クサビは燈台を倒して紫玉を落とさぬように慎重に取りつい
クサビらが関東検非違使所に帰ると、局室が西の離れの隷長屋に移されていた。嬰嶽の一、座間輝安彙を解除したことによる物忌のためであるが、おそらくこれからここがクサビの局室になる。判官様の居所からは少し離れたが檻でもなく明るい局室でクサビは気に入った。それとクサビがユウヅツを連れ帰ったことに頓着する者はいなかったので、おのずとそこに同居することになった。与えられる食餌はこれまでと変わらないので、そこはクサビの分をユウヅツに分けねばならなかったが。 そのユウヅツといえば、もとは貴顕の姫なのだからこの局室は決して相応しいとは言えない。それなのに己が境遇を嘆かず、当たり前のように振る舞っている。忌が明けてからというもの、内住まいの刀自や采女の子らに誘われて西の離れの中庭で駆けまわったりしているのを見ると、もともとここで育ったかのような気さえして来る。クサビとてもそれが違和感なく、むしろいついなくなるかと不安が募って、夜半にふと目覚めては隣で寝ているユウヅツの艶やかな髪に触れてみて安堵することがあるくらいなのだった。 意外だったのは、これまでクサビを恐れて近づこうともしなかった女たちが、ユウヅツが来た途端に親しげに局室を訪うようになったことだ。最初のうちはユウヅツに食べさせろと、山芋を干したものや赤米を盛ったのやらを持って来てすぐに帰って行ったのだが、そのうち何も用事がなくともクサビの局室へ来るようになって世間話というものをするようになった。それでも女たちは相変わらずクサビは怖いらしく、機嫌のよさそうな時しか話を交わそうとしなかったものの、おかげでこれまで全くといっていいほど情報のなかった検非違使所の外の様子が少し分かるようになった。厚木の市に現れるという嬰嶽を知ることにもなったのもここからである。 その時は、いつもより多くの女たちがクサビの局室に来て厚木の市の話で盛り上がっていた。それは先月の三の市が立った時のことだというから最近の事らしかった。