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嬰喰使の女
嬰喰使の女
Author: 夜野たけりゅぬ

一、関東検非違使所(カントウケビイシドコロ)

last update Last Updated: 2025-09-01 17:00:44

 平安初期の貞観年間(865年前後)、不死の名を冠する富士山は大噴火を繰り返し常に噴煙を上げていた。

その不死の山を西方に臨む最果ての地、武蔵の国に関東検非違使所けびいしどころはあった。

国衙こくが(=国の役所)に隣する検非違使所の館は貴顕の住まいもかくやというほど豪壮だ。

 檜皮葺きの巨大な母屋おもやに東西の対屋たいのやを従え、白砂を敷き詰めた御前の向こうは滔々と池水が広がり、須弥山を模した峻厳極まる中島が浮かんでいる。

館の主は地獄判官はんがん様。その名は、悪逆の咎を受け死罪となりながら地獄より蘇ったことが由来だという。

本来の長官、別当べっとうは京の都にあって武蔵国には下向しないゆえ、在所でまつりごとを司るのが判官である。

判官は辺境の地にあって衛門尉えもんのじょう従五位下じゅごいげという官位を持ち、さらに軍事・警察・裁判を統べるがゆえに、大守(国司)を凌ぐ権勢を誇る。

 その館の一角、東の対屋は上臈じょうろうの御方々の居所で、母屋並びに廂の間には御簾みす屏風びょうぶ几帳きちょうで仕切られた局室つぼねが並んでいる。

東廂ひがしびさし簀子すのこを通って一番奥まで行くと漆喰壁しっくいがべで囲われた一室、塗籠ぬりごめだ。

そこは間口が格子になっていて、まるで檻のような設えなのだった。

それでもこの離れの局室という扱いになっているが、居るのは上臈ではない。

格子から中を覗くと、光がうっすらと射し込む藁床の上に襤褸ぼろのようなものが載っていることに気づくだろう。

その襤褸は藁の上で全く動かないのだが、飽きずにじっと見ていると、かすかに上下に動いているのが分かる。息をしているのだった。

 足音が近づいて来る。

しっかりとはしているが調子の崩れた足音が格子の前に停まる。

その音に反応して襤褸が頭をもたげ、炯炯と光る眼を格子の外の人影に注いだ。

「クサビ、地獄様がお召しだ」

 クサビというのがその襤褸の名だった。

この関東検非違使所で走り隷はしりしもべの役につく女だ。

走り隷とは野盗や罪人の追捕ついぶを担うものを言う。

それならば上臈の住まう東の対屋でなく、域外の隷長屋しもべながやにいるのがふさわしいが、クサビは判官様の命で去る夏からずっと水と少しの食餌を与えられこの塗籠に幽閉されているのだった。

その間、月日も分からず常にひもじさを感じていたがクサビはそれを甘受した。

この度の罪穢ざいえはそれに値すると思ったからだ。

 妻戸つまどの向こうから呼びかけた男はザワと言う衛士だった。

悪い男ではないが、ここの大概の男どもに倣ってぞんざいで無愛想だ。

ザワは入り口の錠を開けると塗籠の中に何かを差し入れた。

それは水を張った手桶、洗いざらしの装束一式と櫛で、判官様に謁見するための支度道具だった。

ザワは無言で入り口に佇立している。

 クサビは垢じみたものを脱ぎ棄て裸になると、床の藁を一掴みとり手桶の水に浸して体を拭いだした。

クサビの細くしなやかで真白い背には鞭で打たれたような傷がいくつも刻まれている。

傷は顔と乳房以外体中いたるところにあって、その数たるや傷に慣れた仕置き隷しおきしもべ(拷問人)さえ目を見張るほどだった。

クサビは髪を梳き終わり装束を整えると壁に掛かったうちぎを羽織ってザワに声をかけた。

ザワがそれに応えて、

「出ろ」

 クサビは袿姿で塗籠を出る時必ず息をのむ。

この牢屋のような塗籠が今のクサビの局室だが、それでも屋根のある場所はクサビにはありがたい。

ここに来る前は流浪の身で雨曝しの藁草と変わらぬ扱いを受けていた。

また、判官様謁見用にあてがわれた袿は特別なものだ。

裸に襤褸のことが多かったクサビは、初任官の時錦糸の入ったこの袿を渡されたときには、体全体が打ち震えて声にならない嗚咽を漏らした。

無論、それらはクサビのものではない。

もしもこの先、下手を打てば袿は没収され局室から放逐される。もとの藁草にもどるのだ。

だから、ここに戻って来るために命も削る。心魂を月に奪われてもよい。それほど気を昂ぶらせているのだった。

 クサビは東の回廊を歩く。前を行くザワは足を引き摺っている。

以前走り隷とともに野盗を追捕したとき負った右足の傷のせいだ。

それまではクサビと組むこともあったが、今は庁内で走り隷を差配する任に就いている。

 二人が母屋の大屋根を見上げる曲がりにさしかかった時、随身所からの橋廊を雉の尾のようなものが棚引いているのが見えた。

きららのような光の帯となってクサビの行く手の先へ移動している。

それを見てクサビはザワに聞こえないように舌打ちをした。

チッ。

今度もあいつと一緒かと思うと虫唾が走る。

スハエ。

走り隷だが特殊な任を仰せつかるときのみ行動を同じくする男。

 この度判官様からお呼びがかかったのは、ただの追捕ではないと予想していたが、あの男が呼ばれたのであれば確定といえる。

その任があいつがいてこそ収斂するのは分かっているが、クサビにとっては気に障って仕方ない男なのだった。

 スハエの光彩は棚引きつつ回廊を曲がって進み、東中門の内の、真白く眩い空間に入って行った。

そこがこれからクサビが伺候する判官様の居所の御前おまえだ。

クサビたちが光彩を追いかけるかたちで東中門をくぐろうとすると、クサビだけ衛士の長槍に止められた。

ザワが少し先で立ち止まりこちらを振り返る。

ザワの肩越しに見えたのは、光彩が御前を横切り勾欄こうらんを飛び越え簀子の奥の南廂の間に吸い込まれて行くところだった。

 衛士の男が槍の柄でクサビの頭を小突く。

髪上げを忘れていると指摘したのだ。貴人に謁見するには女は髪を上げるのが掟なのだ。

クサビは腰紐を引きちぎって、走り隷にしては長い黒髪を纏めると頭の上で器用に束ねた。

衛士はほつれた前髪を槍の先で触れながら苦笑いするとクサビを中に通した。

この衛士の名はエツナ。ここでは感じのいい部類の男だ。

 ザワは、クサビを御前に連れてゆききざはしの下に座らせると南廂みなみびさしの奥に向かって、

「走り隷、クサビを連れ参りました」

 と奏した。

日の光が差し込まぬ南廂の奥は沈黙が支配している。

階の両脇に長槍を持った衛士が佇立しているが、そこを昇る者を峻別する以外は、常時何の反応もない。

ザワは、

「しばし待て」

 と言うなりクサビの目前に蹲踞して動かなくなった。

 こうして御前に伺候するのはいく日ぶりか。

この前は炎天の下で御前を穢したのだった。思い出すに恥がましいが、ここに戻れたのは一方ならぬ喜びである。

御前から天を振り仰げば、ただただ美しい檜皮葺の上に判官様の威勢を示すがごとく高々と青い空が見える。

クサビが応召して二度目の秋だった。

 いつになく長い刻を御前で待っている。

そのこと自体はクサビは苦痛でないが、苛立たしいのは南廂の間にスハエがいることだった。

 以前、何かに怯えた走り隷が間違って御前の階を昇り南廂に一歩足を踏み入れようとしところが、階の衛士に槍で串刺しにされた。

本来は六位以上の貴顕しか登れない聖域。走り隷の身分では決して上がることが許されない簀子の奥。

そこにスハエがいる。判官様の覚えめでたいとはいえ、あいつとて下郎に変わりないのだ。

スハエは胡坐をかき、鼻くそをほじっては、それをこっちに向かって弾き飛ばしている。

届くわけはないが所作のいちいちが腹立たしい。

めったに表情を変えぬザワでさえそれを見上げて顔をしかめている。

「判官様まいらせらるー」

スハエが奥に向かって這いつくばる。伺候する者ども全員がそれに倣う。

 南廂のさらに奥、御簾の向こうの御座おましの辺りに気配あった。

他を圧する勢いとあふれ出る土気つちけ臭。噂では両目に瞳が二つずつあるという。

その異形は僻地にあっても都をねめつける勢いがある。

 関東検非違使所は設置されて間もない役所だ。

まだ三年を経ていない。

不死の大噴火であまたの噴石や火山灰が降り注ぎ、人家はおろか山野も焼け尽くされ荒廃の極みを尽くしたこの地の民草混迷を鎮めるために開庁したことになっている。

しかしその内実が嬰嶽えいがく狩りであったということは、クサビやスハエたちのような嬰喰使えばみしが飼われているのでも明白なのだった。

 嬰嶽とは、不死山の噴火で飛び散った、大地の精である土魄どはくが人に憑いたものといわれている。

土魄は初め種子のように人の身中になりを潜めているが、何かの契機で人の心魂を核に結晶化して物の怪となる。

その姿は土魄に反応した心魂によって異なり定かではないが概ね小山の様態をなす。

ゆえに山の嬰児と書いて嬰嶽。

放置すれば不死山のごとき悪嶽となって大災疫をもたらすだろう。

嬰喰使は嬰嶽の所在を見出し解除げじょ、すなわち滅殺する役を担っている。

「クサビと言うか? そこの糞は」

 判官様の言であるはずがない。

判官様の言伝ことづての体でスハエが発した言葉だ。

「まさに」

「糞がクサビとは、言い得てよのう、スハエよ」

「仰せのとおりでございます」

「あやつの嬰喰の匂いといい、形といい糞そのもの」

「御意にございまする」

 スハエは自分に話しかけ自分に返事をしている。

御前にいる者たちは皆、その滑稽さに笑いをこらえているが、スハエ一人そのことに気付いていない。

「スハエよ、この糞と共に、嬰嶽を狩ってまいれ」

「かしこまりましてござります」

「下がれ」

 スハエの自演が終わらぬうちに御簾の中の気配が母屋の奥に消え土気臭が薄らいだ。

 それに気づいたスハエは平伏のまま南廂の簀子まで下がると、勾欄に片足を乗せて、見下したようにクサビに向かって言った。

「そこの糞。明日の明け、座間ざまへ出立だ。だが明日は方角が悪い。しかして一旦、西に出て明晩かたたがえし南に下る。行程は三日。門前にて控えおれ」

 スハエは返事を待ったがクサビは応じない。

スハエはそれを見て鼻を鳴らすと、勾欄をひと蹴りして東中門の向こうに飛び去った。

その背に虹色の光彩を引きずりながら。

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