クサビらが関東検非違使所に帰ると、局室が西の離れの隷長屋に移されていた。
判官様の居所からは少し離れたが檻でもなく明るい局室でクサビは気に入った。
それとクサビがユウヅツを連れ帰ったことに頓着する者はいなかったので、おのずとそこに同居することになった。
与えられる食餌はこれまでと変わらないので、そこはクサビの分をユウヅツに分けねばならなかったが。
そのユウヅツといえば、もとは貴顕の姫なのだからこの局室は決して相応しいとは言えない。
それなのに己が境遇を嘆かず、当たり前のように振る舞っている。
忌が明けてからというもの、内住まいの
クサビとてもそれが違和感なく、むしろいついなくなるかと不安が募って、夜半にふと目覚めては隣で寝ているユウヅツの艶やかな髪に触れてみて安堵することがあるくらいなのだった。
意外だったのは、これまでクサビを恐れて近づこうともしなかった女たちが、ユウヅツが来た途端に親しげに局室を訪うようになったことだ。
最初のうちはユウヅツに食べさせろと、山芋を干したものや赤米を盛ったのやらを持って来てすぐに帰って行ったのだが、そのうち何も用事がなくともクサビの局室へ来るようになって世間話というものをするようになった。
それでも女たちは相変わらずクサビは怖いらしく、機嫌のよさそうな時しか話を交わそうとしなかったものの、おかげでこれまで全くといっていいほど情報のなかった検非違使所の外の様子が少し分かるようになった。
厚木の市に現れるという嬰嶽を知ることにもなったのもここからである。
その時は、いつもより多くの女たちがクサビの局室に来て厚木の市の話で盛り上がっていた。それは先月の三の市が立った時のことだというから最近の事らしかった。
厚木から来ている身重の女の話では、市の初日、女が地の物を商う用意をしていると、いつの間にかユウヅツほどの童女が目の前に立っていたという。
装束からそれなりの身分らしいのだが連れもいず、直接話しかけるのも憚られるので女もそのままにしていた。
童女は品を物色する様子もなく、かと言って女に話しかけるでもなくずっとそこに佇んでいる。女も商いの邪魔だし何かと苛立つ時期で目障りに思ったがあっちへ行けとも言えず、そうするうちにいつの間にか日が高くなってしまった。
いよいよ女が困って何か用かと聞くと、その童女は女に向かって訳の分からない言葉で叫ぶと忽然と消えたのだそうだ。
クサビがその女にどんな匂いがしていたか問うと、女はそこにクサビいたことを初めて知ったかのように驚き、しどろもどろに返事をすると顔を隠しながら局室を出て行ってしまった。
クサビは、おそらく土気特有の黴臭い饐えたような匂いがしたろうと思った。
それは嬰嶽の匂いなのだ。
その後にも同じような話が何度となくクサビの耳に入って来たのだったが、不思議と判官様からのお呼びはかからなかった。
夏になるとユウヅツは髪も伸び
世話好きの女官たちなどは、軽々しい男に言い寄られぬうちに教養を身に着けさせるべきだとか、裳着の介添えになってくれる有力者を見つけなければなどとクサビに向かって言うことがあった。
当のユウヅツはまったくその気はないらしく、相変わらず中庭で童どもに混じって駆けまわっているのだったが。
いつからかユウヅツはクサビのことを母上と呼ぶようになっていた。
声は出ないのだが、ユウヅツがクサビを見て口を動かす時、たしかにそう言っている。
肉親のないユウヅツにとってみれば、寄る辺はクサビだけなのだからそれも当然とはいえ、子を産んだことのないクサビには少しくすぐったくもあった。
それでも、ユウヅツが中庭から局室に駆け込んで来てクサビに飛びつき、額に汗を浮かせて黒々とした瞳で見つめ、
「母上」
と言った時、クサビはユウヅツを思い切り抱きしめながら、身体の奥のずっと奥のほうで、なにか懐かしいものを感じずにはいられなかった。
秋もそろそろ終わろうかという寒い朝、ザワがクサビたちの局室にやって来た。
その特徴ある足音に、クサビは初め、判官様のお呼びがかかったかと襟を正したが、そうではなかった。
「母に会ってくれ」
ザワはそう言うと頭を下げた。
それが朴訥として口数少ないこの男の精一杯の懇願というのが分かったので、クサビは否と言わずザワの母親に会いに行くことにした。
クサビが出立の用意をしていると当然のようにユウヅツも準備を始める。
ここ最近はずっとこうやってクサビに付いて来たので、もはやクサビも当たり前になっている。
常の追捕は野盗・山賊の類、相手も捕まれば獄門首になるのを分かっているから必死な抵抗を試みる。
つまり油断をすれば命の危険を伴う役である。
また、嬰嶽の解除でさえ一度ならず同行して、さらに言葉にならないほどの恐ろしい目に会ってもいる。
なのに必ずこうして付いて来る。
もしかしたら、ユウヅツには走り隷の素質があって、クサビの後を襲ってこの局室の主になるのではないかと思わずにいられない。
しかしそれがユウヅツにとって良いことかどうかはクサビには測りかねた。
やはり検非違使所の女たちの言うことも少しは考えてやらねばならぬのかと思い返して見ることが一度ならずある。
もとは姫様なのだし、探せば後ろ盾になろうという貴紳が現れないとも限らないのだ。
次の朝、ザワとクサビたちは西に向けて出立した。
クサビはいつもの壺装束、ユウヅツは変わらず童装束で、ザワは衛士の重い甲冑姿である。
ユウヅツは足腰が強くなって二人の足に遅れずに付いて来る。途中、あの薄野を通った時、クサビはユウヅツの顔を覗き見たのだったが、そこには何の感慨も見て取れなかった。
あの凄惨な出来事を幼い体のどこに封じ込めたかと想像すると、クサビのほうが鬱々とした気分になるのだった。
三叉に付いたのは前の時よりも早く、まだ陽が高かったのでクサビはザワと相談して、さらに先へ進むことにした。
このまま歩き続ければ、ザワの母が住む厚木に着くのはおそらく夜半になる。
検非違使所から与えられた日数は二昼夜と少ない。無理は承知で進まねばならないのだった。
厚木に辿り着いたのは漆黒の宙にたくさんの星が瞬く頃だった。ユウヅツも黙って少し後ろをついてくる。
ザワにここからの道を尋ねると、母に会うのは明けてからの方がいいと言う。
この無骨な男は相変わらず説明もなく押し黙ったままなので、クサビは仕方なく市の立つ廃寺で夜を過ごすことにした。
屋根が朽ち落ちて宙が見える堂宇であっても雨露はしのげそうなので、月明かりが届かぬ陰にユウヅツを誘い横になるよう促した。
そうしてクサビはユウヅツに小袿を掛けてやり見張りをザワに頼んで寝床に敷く茅を集めに出かけた。
そこから少しはなれた場所に茅原があるのを来がけに目にしていたのだった。
茅野につくとすぐにクサビはザワから借りた山刀を手に茅を刈取りに掛かる。
思った以上に足もとは
クサビが刈り取った茅を束ね終わって腰を上げると目の前に童女が立っていた。
いつからいたのか分からないが、こちらをじっと見つめている。クサビはこれかと思った。あの女が言うようにユウヅツに似てはいるが、それは単に顔色だけのことだとクサビは思った。
この童女の目には陰惨な色があって、ユウヅツのそれとは似ても似つかなかったからだ。
さて、どうするか。
クサビは思案した。声を掛ければ叫んでいなくなるのは分かっている。
できれば捕縛して正体を明かしてやりたい。
声を掛けなければこのままこうしているはず。
ならば女たちの話からは分からなかったことを見極めてみよう、クサビがそう思った瞬間、クサビの中で何かが叫んだ。
これはこの童女のではない。
あの時の声。ユウヅツを初めて見た時の叫び声だ。
ユウヅツになにかあったのか。
クサビは目の前の童女のことを措いて、茅もそのままにユウヅツのいる堂宇に走った。
行ってその叫びを止めなければならない。
でなければまたぞろ粗相をして、汚泥の中でのたうつはめになる。
今はこの間のようにスハエの助けは期待できない。
クサビは急いた。
焦って駆けて堂宇に戻った。
ザワが堂宇の前で槍を構えて立っている。
血相を変えて駆け寄ってきたクサビにザワが驚いてその場に硬直する。
クサビは何があったかと問うたが、ザワは何もないと言うばかり。
中に入ってユウヅツを見ると先ほどのまま固い床の上で寝息を立てていた。
空耳だったのか。
いや、クサビは確かにあの叫びを聞いたのだ。
気のせいなどではなかった。
しばらくしてクサビは茅原に茅と山刀を置いてきたことを思い出し取りに戻った。
月明かりの下に茅の束と山刀はあったが、童女の姿はどこにも見当たらなかった。
明けて目覚めると隣にユウヅツがいない。
急ぎ起きかけたところで、ユウヅツが駆け込んで来て霜が降りたことを告げた。
見目も姿形もすでに女だが、まだしぐさには幼さが残る。
そんなユウヅツの真っ赤になった頬をクサビはそっと両手で包んでやった。
それは氷のように冷たかった。
この短い間に、ほんとうに美しい娘になったとクサビは思った。
溶岩帯は果てしなく続き、それにつれてクサビは自分の位置がわからなくなっていた。スハエの姿も見失っていまや溶岩の襞の中をはいずりまわる小動物の気分になっていた。両側は高々とそびえる溶岩の壁に迫られ、空は一筋の線のように見える。もうなん時も歩いているのに山へ登る感じがない。平坦な狭い場所をひたすら歩き続けている。世界から断絶してしまったかのようだった。 そんな中、溶岩壁が透けて見える時がある。幾重にもなった襞の中を戸惑いながら歩む衛士たちの姿が右手にも左手にも見える。大声をあげて呼んだが声は届かぬようだった。それに気を取られている間に足元がぬかるんで来ていた。底に溜まった蜜のようなものが絡みついて足を上げるのさえ億劫だ。蜜は溶岩壁の隙間からにじみ出ているようで、だんだんと嵩が増し、腰のあたりまで来て動けなくなった。蜜を手に取ってみる。刺激のある匂いがした。クサビはその時になってようやく気が付いた。関東最強の嬰嶽、琥珀地獄判官に取り込まれたのだと。 蜜はクサビの喉元の高さまで達し、いよいよ息の根を止めに来たかのようだった。泳ごうにも蜜は濃厚で重く、手先すら動かすことがままならない。このまま蜜に埋もれて嬰嶽の中で息絶えるのか。 その時、上方からずっしりとした衝撃音が響いてきた。見上げると一筋の空から強い光が降り注いでいる。そして再び、衝撃音とともに地鳴りのような振動が溶岩壁を伝って、蜜溜りの表面をゆらした。何度となく繰り返されるそれは、まさしくスハエが琥珀地獄判官へ打槌を仕掛けているものだった。その振動は蜜溜りを揺らし、クサビの体を浮き上がらせる。数十回も繰り返したころには、クサビは腰まで蜜溜りの上に出ることができた。そのまま溶岩壁に手を伸ばし、自分の体を引き上げ蜜溜りを脱出すると、クサビは溶岩壁をよじ登り始めた。壁か
クサビは人の背に負ぶわれていた。負ぶっているのは母のようだった。クサビは身を固くした。負ぶった赤子がぐずると後ろ頭でド突いて黙らすような女だからだ。そんなはずはない。母はずっと昔に死んだのだ。押しつぶされるような頭の重さを感じつつ、クサビはそこで目を覚ました。 クサビは衛士に負ぶわれていた。ザワだった。「どうして」「轍を追って来たらお前が道中で倒れていたので連れてきた」「サヨ姫は、いやユウヅツはどうした」「わからぬ。轍は足柄からずっと続いているが、ユウヅツは見当たらない」「ここはどこだ」「横走りの関」 そこから西に不死の山がもうもうと噴煙を上げる姿が遠望できた。「すまぬ。降ろしてくれ」 クサビはすこしよろけたが立てた。「礼を言う。ここからは一人で行く」「人手はいくらあってもよかろう」 相手はユウヅツだけではなく関東最強の嬰嶽、琥珀地獄判官と一緒なのだった。しかし、この任は誰のものでもない。クサビ自身のものだ。それにザワを巻き込むわけにはいかなかった。「ありがたいが一人で行く」 思った通りだという表情でザワは言った。「そう意固地になるな。援軍も直に来る」 すると真上から声が降ってきた。「すでにここに居るぞ」 見上げるまでもなく声でスハエだと分かった。逃げたのではなかったか。「糞のためではない。積年の恨みをはらす」 判官様から一番恩恵を受けたのはスハエだったはず。思いはザワも同じらしく、大げさなあきれ顔をクサビに向けた。 クサビは少し気持ちがほぐれて、ザワたちと同行することにした。「他の者たちは」 とクサビが聞くと、クサビの背後を指
館の西門からユウヅツたちの痕跡は続いていた。それは道幅いっぱいの轍と、真ん中のか弱げな足跡だ。轍も足跡も泥濘るんだ道にはっきりと残っていたので、暗い夜道でもよく分かった。クサビはそれを頼りにユウヅツを追うことにした。 途中、遊行の僧に行き会った。ユウヅツのことを聞くと国分寺の者だというその僧侶が笠の中から言った。「そなたの娘御は、巨大な泥の山を積んだ土車を一人で曳いておった。土車から荒縄が伸びて娘御の首に巻き付けられておった」 さらに続けて、「あまりに不憫であったので、拙僧が書にて『ひと引き引いたば千歳供養、ふた引き引いたば万歳供養』という札を泥の山に立てておいたので、奇特な御仁がおれば助けてくれよう」 クサビは僧侶にお辞儀すると不死山が噴煙を上げる西に向けて先を急いだ。 ユウヅツの曳く土車が速いのか、それともクサビの出立が遅すぎたのか、全力で駆けているはずなのにまったく土車に追いつかなかった。 出立してから夜通しクサビは駆け続け、時に暗闇に轍を見失っては道の上をはいずって探し、見出しては追いかけた。やがて当たる風が冷たくなり、あたりが明るくなってきた。振り返るとすでに東の空が白み始めていた。道の上に目を落とすと足跡とともに血痕が点々と残っている。クサビが遅れれば遅れるほどユウヅツの身が危うくなってゆく。 それからしばらく行くと前方に木々が鬱蒼と生い茂る山塊が迫って来た。足柄山、関東の西端にたどり着いたのだった。山中は昼にもかかわらず暗く静謐に包まれていた。足柄の山道にもこれまで通りユウヅツの足跡と土車の轍は続いていたが、ここに来てクサビにはユウヅツに近づきつつあることが分かっていた。ところが山中に踏み入れてよりクサビは不思議な感覚にとらわれてなかなか歩が進まなくなってしまう。それはこの轍が今できたものなのか、ずっと以前にできたものなのかが分からないというものだった。さらにありえないことだが今よりもずっと先
世話好きな刀自や采女たちが、紅潮した頬をクサビに向けて話しかけてくる。「またとない話じゃないか。なにを拒む理由があるのかい」 無論だ。関東最強の判官様がユウヅツの裳着の後見をしてくださると仰せになられたのだから。たかが走り隷の養女ごときを、この関東でおそらくもっとも権勢のある、これ以上望みようもない御方が介添えを申し出てくださるなど、僥倖以外のなにものでもない。だから拒んでいるわけではない。クサビは不安なのだ。ユウヅツの後見人になるということは、親になるのも同じこと。判官様のおわします御簾の向こうにユウヅツをやるということ、それは二度と会うことができなくなるということだった。ユウヅツのことを思えばその方がよいに決まっているが、同時にユウヅツと離れて暮らすなど今となっては考えられない、ユウヅツとの出会いは運命だとも思う。クサビはそれでずっと逡巡しているのだった。 ある日、大きな地震があった。ユウヅツが早朝より外出して不在だったためクサビは無事を案じた。大きな揺れがおさまり隷長屋から中庭へ出ると、人々が慌てふためいて行き来していて、全ての視線が不死の頂に向けられていた。西の空では噴煙の勢いが増し、黒々とした叢雲が広がり出していた。 クサビが局室にもどり倒れた調度を片付けているとエツナが訪れて言った。「地獄様が御馬を曳けと仰せだ」 以前は天災、人災に関わらず事が起きた時は、御前に馬を曳く習わしとなっていたが最近では珍しいことだった。それでも、それは御厩の役まわりだ。走り隷の任ではない。判官様の御馬を自分のような下郎に曳かせて良いものではあるまいとクサビは思ったが、それが仰せとあらば否応するべきことではないのだった。 判官様の御馬は鬼鹿毛という名で、庁の南に広がる牧のさらに奥、茅の生い茂る野原の中で飼われている。噂では相当な気性の荒さだと聞いていた
クサビたちは晴れ渡った空の下をザワの母の居所に向かう。厚木の集落を抜けた先に小高い山が見えてきた。麓から続く急勾配の石段を上ると、貞観の大噴火前からのものなのか蒼然とした杜に隠れて古びた祠があった。さらにその杜に分け入り斜面を北側に回ると岩屋があった。入り口周辺には割れた土器が散乱していてどれもが錆色に赤く染まっている。ザワの母はこの中に居ると言う。「三秋になる」 ザワが絞り出すように言った。クサビが身をかがめて中を覗くとすぐ手前で二方に分かれていてどちらの奥も見えないが、洞内の饐えた土気の匂いから推して嬰嶽の巣であることがすぐに分かった。クサビはザワに小袿を渡し、ユウヅツを下の祠まで連れて行って見張っているように頼むと一歩中に足を踏み入れた。天井は低く赤錆色の壁が奥に向かって続いている。左手はすぐに行き止まりで、土気の匂いは右手の奥からしているようだ。じめついた中に進むとすぐに光が届かなくなった。クサビは脂燭に火を灯し壁に頼って洞内を進む。濡れた壁は丸みを帯びた小さな突起物がいくつも連なっていて蝋のように滑らかだ。洞は奥まるにつれ傾斜していて滑りやすく、草鞋に付いた泥濘の重さを足指に感じながら転ばぬように慎重に進む。さらに洞内を行くと、前方に一点の紫の光が見えてきた。クサビはそれまでの咽返るほどの土気が晴れて息苦しさが少し和らいだ気がした。灯に導かれつつさらに進むと、段々と足もとが水に浸されてきて、気付けば腰のあたりまで水没していた。その水は温かくそのままそこで安らいでいたい気にさせる。クサビは脂燭を捨て、手で水を漕ぎながら灯りに向かって行く。近付いて見ると、池の中に苔生した小島があって、そこに尺高の燈台が置かれ紫に光る玉が乗っていた。 クサビが寄せると小島が小さな波音をたて上下し、小島の燈台も右に左に揺れる。まるで波間の小舟のようなそれはおそらく浮島なのだ。クサビは燈台を倒して紫玉を落とさぬように慎重に取りつい
クサビらが関東検非違使所に帰ると、局室が西の離れの隷長屋に移されていた。嬰嶽の一、座間輝安彙を解除したことによる物忌のためであるが、おそらくこれからここがクサビの局室になる。判官様の居所からは少し離れたが檻でもなく明るい局室でクサビは気に入った。それとクサビがユウヅツを連れ帰ったことに頓着する者はいなかったので、おのずとそこに同居することになった。与えられる食餌はこれまでと変わらないので、そこはクサビの分をユウヅツに分けねばならなかったが。 そのユウヅツといえば、もとは貴顕の姫なのだからこの局室は決して相応しいとは言えない。それなのに己が境遇を嘆かず、当たり前のように振る舞っている。忌が明けてからというもの、内住まいの刀自や采女の子らに誘われて西の離れの中庭で駆けまわったりしているのを見ると、もともとここで育ったかのような気さえして来る。クサビとてもそれが違和感なく、むしろいついなくなるかと不安が募って、夜半にふと目覚めては隣で寝ているユウヅツの艶やかな髪に触れてみて安堵することがあるくらいなのだった。 意外だったのは、これまでクサビを恐れて近づこうともしなかった女たちが、ユウヅツが来た途端に親しげに局室を訪うようになったことだ。最初のうちはユウヅツに食べさせろと、山芋を干したものや赤米を盛ったのやらを持って来てすぐに帰って行ったのだが、そのうち何も用事がなくともクサビの局室へ来るようになって世間話というものをするようになった。それでも女たちは相変わらずクサビは怖いらしく、機嫌のよさそうな時しか話を交わそうとしなかったものの、おかげでこれまで全くといっていいほど情報のなかった検非違使所の外の様子が少し分かるようになった。厚木の市に現れるという嬰嶽を知ることにもなったのもここからである。 その時は、いつもより多くの女たちがクサビの局室に来て厚木の市の話で盛り上がっていた。それは先月の三の市が立った時のことだというから最近の事らしかった。