まどろみの中、クサビは戸外に激しい衝突音を聞いた気がした。
それは地鳴りを伴ってクサビのいる屋根裏の床をも揺るがしている。
外で何事か起こっている。
クサビは飛び起きた。
ユウヅツが階の降り口に立って表を指差している。
そのユウヅツは夢の中とはうって変わって色つやのある頬をしていた。
クサビはひとまず安堵した。
階はすでに降ろされていて、屋根裏を明るくしていたのが下からの光だと気づく。
女は外にいるのか、屋根裏部屋には居なかった。
クサビはユウヅツにここにいるように言うと階を駆け降り、階下の石敷きにまろび出た。
一瞬その明るさに奪われた視力が戻ると、須弥壇が破壊され石敷がめくれ上がって破壊尽くされた宇堂を見た。
さらに壁にきららのような光の粒が踊っているのを見て振り返ると、昨夜は閉じてあった大扉も破られている。
前庭に生い茂った曼珠沙華にもきららが散華していて、その中心に、降り注ぐ日差しを乱反射する小山のごとき物体がある。
その上を舞うように動き回っている雉の尾がスハエだった。
屋根裏で聞いた地鳴りはスハエの打槌だったのだ。
スハエがクサビを待たず打槌を下すのは余程のことだ。それほど突然に対面したのだろう。
クサビはスハエに手を上げて合図すると、堂宇から日差しの中に飛び出しスハエとの間に立った。
クサビが代わって対峙する山、それこそ嬰嶽の一、
まるで近衛の剣のごとき輝く刺列を幾重にも纏ったその肢体、無数の切先をクサビに向けて蹲るその姿には一分の隙もない。
時折聞こえる地の底から響く破擦音は、突然現れたクサビへの威嚇なのか、それとも非道な攻撃を繰り出すスハエへの恨み言なのか。
「どこを攻める」
スハエがクサビに叫ぶ。
クサビには分からない。嬰嶽はこれまで何度となく目にして来たがこの型はまったくの初見だった。
まず、嬰嶽の心魂を見出さなければならない。そうでなければクサビは戦うことすらできない。
ここを慎重にしないと嬰嶽に呑み込まれて終わる。
「まだか?」
スハエのいら立ちを背後に感じながら、クサビは嬰嶽の心魂を探る。
懊悩に取込まれた心魂が光を求めて薄明の内を彷徨っているはずだ。
どこにあるのだ、その苦悶に、その悲哀にまとわり付かれた心魂は。
「汝が劈開を示せ!」
クサビが叫ぶ。嬰嶽の唸りが悲鳴に変わった。
クサビの目は嬰嶽の背後の曼珠沙華の中に立ったユウヅツに注がれた。
そして嬰嶽が後ろに飛びし去った刹那、クサビの憎悪は膨大な質量を解放し嬰嶽に躍りかかった。
「ひりだしやがった」
スハエが叫ぶ。クサビのハラから飛び出した巨大な肉塊が嬰嶽に覆いかぶさったのだ。
おぞましい汚濁の塊。これがスハエが糞と言って忌避するクサビの
嬰喰とはその名の通り、嬰嶽を喰らう嬰嶽の鬼子だ。
普段はその宿主に潜み、嬰嶽を感知すると主の体を引き裂いて姿を現し、嬰嶽に躍りかかって喰らい尽くす。
その姿が嬰喰を使役しているように見えるゆえクサビらのことを嬰喰使という。
その肉塊は形を為すことなくさまざまな位相を示しながら嬰嶽の刺列を覆い尽くして行く。
その鋭利な刃表に嬰喰の肉塊は創傷を負い汚泥を流す。
嬰嶽の刺列のきらめきが消えてゆく。
嬰嶽と嬰喰、お互いが吹き出す猛烈な土気が周囲を圧し、前庭の曼珠沙華を全てなぎ倒す。
その肉襞の隈々を何かが蠢いている。
白い人の肌が肉の塊の中を、とどまることなく蠢く、流れる、揺蕩うている。
クサビである。
クサビの肢体が見え隠れしながら肉塊の中で流動している。
時に背中、時に尻、時に乳房、時に肩から上腕、時に大腿を外気に露呈しながら。
嬰嶽を解放し肉塊に呑み込まれたクサビは、それでも座間輝安彙を見据えている。
劈開を探っている。
クサビがその一点を探り当てられれば、嬰嶽が取り込んだ人の心魂を解き放つ。
そうして嬰喰は嬰嶽を喰らうことが出来るようになる。
故に、劈開を見出すの間、クサビの嬰喰は嬰嶽を呑せず待つ。
童女が見えた。
嬰嶽の心魂に一人の童女がいる。
ユウヅツに似ているが違う。
見覚えがある。あの女、おそらくそうだ。
この座間輝安彙はあの女の過去を抱え込んでいる。
何故だろう。
クサビはさらに襞に分け入っていく。
手をつないで歩く男と童女の姿。
あの夢で見た光景だ。
あれは嬰嶽の借夢だったのだ。
ならばあの地下に居た物こそが嬰嶽。
この座間輝安彙の心魂はあの女の父なのか。
それは定かではない。
あの女の話にそこまで懇ろなものはなかった。
男が一人歩んでゆく。
彼方の童女の姿を幾度も幾度も見返している。
しかし男は行かなければならない。辺境の地に赴き、役を務めあげなければならない。
掌に童女の温もりが残る。
その掌を見つめている。いつまでも執拗に飽きることなく。
男が口を開き声のない叫びをあげる、父を許せと。
お前を一人にした父を罰せよと。
男は己が許せんと悲鳴を上げ自らを傷つけ苛み始めた。
その悲鳴が男を覆い尽くす嬰嶽を蝕み始める。
刺列の狭間の暗闇にあかぼしのごとき輝きが見える。
心魂が姿を現したのだ。
「汝の劈開を示せ!」
クサビが叫ぶと、そこに一閃亀裂が走る。
嬰嶽に取込まれていた男の心魂がその劈開を見せた瞬間だった。
深く刻まれた劈開に映されたのは、娘を手放した男の悔恨だった。
その時、強烈な振動がクサビの体に伝わってきた。
男の心魂が青い焔を発しながら溶けて出してゆく。
スハエの打槌が劈開に向け敢行されたのだ。
嬰嶽が邪気と憤怒の相をクサビにぶつけて来た。
クサビはそれを真っ向から受け止めるとさらに劈開に向けて嬰喰を捩じり込む。
嬰嶽は辛酸と苦悶の形を成し霧消への恐怖を現した後、寛容と祈念の情を見せ、昇華して宙に霧散した。
――ここに嬰嶽の一、次に来るのは、クサビへの打槌だ。
それは解き放たれた嬰喰をクサビの身中に戻すために打ち下ろされる。
従って嬰嶽への仕方とは違う。
嬰嶽への打槌はクサビの示した劈開に向けて槌の一撃を放つが、クサビへのそれは肉塊から露出したクサビの体表に向かって打ち込まれる。
その時、クサビの上半身前面を避けねばならず、でないとクサビは死に、嬰喰を野に放つことになる。
野に放たれた嬰喰とは嬰嶽以外の何物でもない。
ゆえにスハエもこの時ばかりは慎重ならざるを得ない。
捕食後の嬰喰は動きが敏捷にもなっているので、相当の技量が必要とされる。
一発目の打槌は肉塊に当たり、スハエは嬰嶽からの反撃の土気を喰らいよろけつつ次の一撃を打ち込む。
その打槌は見事にクサビに当たり嬰喰の動きはゆっくりと止まり、やがてクサビの身の内に取り込まれていった。
クサビの二の腕に鞭のような傷がまた一つ増えた。
裸で横たわるクサビに小袿を掛けたのはあの女だった。
ユウヅツがクサビのもとにしゃがんで汗で張り付いたクサビの前髪をかき分ける。
クサビはそれに応えてユウヅツに微笑んだ。
堂宇の前庭は嬰嶽が押し倒した曼珠沙華が巨大な真円を描いているばかりだ。
クサビはスハエの姿を捜したが、すでに雉の尾を引いて立ち去った後のようだった。
女はクサビに言った。去年の春、初瀬に詣でた時の夢告に関東のこの寺で父を待てとあった。
ゆえに都から来て幼いころに分かれた父を待っていた。
そして何日か前にいよいよ待ち人が来ると夢に告げがあった。
昨晩父が来たと思ったらクサビたちだったと言った。
クサビは女には他に事情があったと見たが、この夢語りを真に受けることにした。
女は地下に嬰嶽が住み着いていたことはおろか地下があることさえ知らなかった。クサビは、あの嬰嶽が女の父だったということを、女には知らせずにおくことにした。
出立の時、女はこれで都に帰ると言った。おそらく自分の役目は終わったのだと言って泣いた。
溶岩帯は果てしなく続き、それにつれてクサビは自分の位置がわからなくなっていた。スハエの姿も見失っていまや溶岩の襞の中をはいずりまわる小動物の気分になっていた。両側は高々とそびえる溶岩の壁に迫られ、空は一筋の線のように見える。もうなん時も歩いているのに山へ登る感じがない。平坦な狭い場所をひたすら歩き続けている。世界から断絶してしまったかのようだった。 そんな中、溶岩壁が透けて見える時がある。幾重にもなった襞の中を戸惑いながら歩む衛士たちの姿が右手にも左手にも見える。大声をあげて呼んだが声は届かぬようだった。それに気を取られている間に足元がぬかるんで来ていた。底に溜まった蜜のようなものが絡みついて足を上げるのさえ億劫だ。蜜は溶岩壁の隙間からにじみ出ているようで、だんだんと嵩が増し、腰のあたりまで来て動けなくなった。蜜を手に取ってみる。刺激のある匂いがした。クサビはその時になってようやく気が付いた。関東最強の嬰嶽、琥珀地獄判官に取り込まれたのだと。 蜜はクサビの喉元の高さまで達し、いよいよ息の根を止めに来たかのようだった。泳ごうにも蜜は濃厚で重く、手先すら動かすことがままならない。このまま蜜に埋もれて嬰嶽の中で息絶えるのか。 その時、上方からずっしりとした衝撃音が響いてきた。見上げると一筋の空から強い光が降り注いでいる。そして再び、衝撃音とともに地鳴りのような振動が溶岩壁を伝って、蜜溜りの表面をゆらした。何度となく繰り返されるそれは、まさしくスハエが琥珀地獄判官へ打槌を仕掛けているものだった。その振動は蜜溜りを揺らし、クサビの体を浮き上がらせる。数十回も繰り返したころには、クサビは腰まで蜜溜りの上に出ることができた。そのまま溶岩壁に手を伸ばし、自分の体を引き上げ蜜溜りを脱出すると、クサビは溶岩壁をよじ登り始めた。壁か
クサビは人の背に負ぶわれていた。負ぶっているのは母のようだった。クサビは身を固くした。負ぶった赤子がぐずると後ろ頭でド突いて黙らすような女だからだ。そんなはずはない。母はずっと昔に死んだのだ。押しつぶされるような頭の重さを感じつつ、クサビはそこで目を覚ました。 クサビは衛士に負ぶわれていた。ザワだった。「どうして」「轍を追って来たらお前が道中で倒れていたので連れてきた」「サヨ姫は、いやユウヅツはどうした」「わからぬ。轍は足柄からずっと続いているが、ユウヅツは見当たらない」「ここはどこだ」「横走りの関」 そこから西に不死の山がもうもうと噴煙を上げる姿が遠望できた。「すまぬ。降ろしてくれ」 クサビはすこしよろけたが立てた。「礼を言う。ここからは一人で行く」「人手はいくらあってもよかろう」 相手はユウヅツだけではなく関東最強の嬰嶽、琥珀地獄判官と一緒なのだった。しかし、この任は誰のものでもない。クサビ自身のものだ。それにザワを巻き込むわけにはいかなかった。「ありがたいが一人で行く」 思った通りだという表情でザワは言った。「そう意固地になるな。援軍も直に来る」 すると真上から声が降ってきた。「すでにここに居るぞ」 見上げるまでもなく声でスハエだと分かった。逃げたのではなかったか。「糞のためではない。積年の恨みをはらす」 判官様から一番恩恵を受けたのはスハエだったはず。思いはザワも同じらしく、大げさなあきれ顔をクサビに向けた。 クサビは少し気持ちがほぐれて、ザワたちと同行することにした。「他の者たちは」 とクサビが聞くと、クサビの背後を指
館の西門からユウヅツたちの痕跡は続いていた。それは道幅いっぱいの轍と、真ん中のか弱げな足跡だ。轍も足跡も泥濘るんだ道にはっきりと残っていたので、暗い夜道でもよく分かった。クサビはそれを頼りにユウヅツを追うことにした。 途中、遊行の僧に行き会った。ユウヅツのことを聞くと国分寺の者だというその僧侶が笠の中から言った。「そなたの娘御は、巨大な泥の山を積んだ土車を一人で曳いておった。土車から荒縄が伸びて娘御の首に巻き付けられておった」 さらに続けて、「あまりに不憫であったので、拙僧が書にて『ひと引き引いたば千歳供養、ふた引き引いたば万歳供養』という札を泥の山に立てておいたので、奇特な御仁がおれば助けてくれよう」 クサビは僧侶にお辞儀すると不死山が噴煙を上げる西に向けて先を急いだ。 ユウヅツの曳く土車が速いのか、それともクサビの出立が遅すぎたのか、全力で駆けているはずなのにまったく土車に追いつかなかった。 出立してから夜通しクサビは駆け続け、時に暗闇に轍を見失っては道の上をはいずって探し、見出しては追いかけた。やがて当たる風が冷たくなり、あたりが明るくなってきた。振り返るとすでに東の空が白み始めていた。道の上に目を落とすと足跡とともに血痕が点々と残っている。クサビが遅れれば遅れるほどユウヅツの身が危うくなってゆく。 それからしばらく行くと前方に木々が鬱蒼と生い茂る山塊が迫って来た。足柄山、関東の西端にたどり着いたのだった。山中は昼にもかかわらず暗く静謐に包まれていた。足柄の山道にもこれまで通りユウヅツの足跡と土車の轍は続いていたが、ここに来てクサビにはユウヅツに近づきつつあることが分かっていた。ところが山中に踏み入れてよりクサビは不思議な感覚にとらわれてなかなか歩が進まなくなってしまう。それはこの轍が今できたものなのか、ずっと以前にできたものなのかが分からないというものだった。さらにありえないことだが今よりもずっと先
世話好きな刀自や采女たちが、紅潮した頬をクサビに向けて話しかけてくる。「またとない話じゃないか。なにを拒む理由があるのかい」 無論だ。関東最強の判官様がユウヅツの裳着の後見をしてくださると仰せになられたのだから。たかが走り隷の養女ごときを、この関東でおそらくもっとも権勢のある、これ以上望みようもない御方が介添えを申し出てくださるなど、僥倖以外のなにものでもない。だから拒んでいるわけではない。クサビは不安なのだ。ユウヅツの後見人になるということは、親になるのも同じこと。判官様のおわします御簾の向こうにユウヅツをやるということ、それは二度と会うことができなくなるということだった。ユウヅツのことを思えばその方がよいに決まっているが、同時にユウヅツと離れて暮らすなど今となっては考えられない、ユウヅツとの出会いは運命だとも思う。クサビはそれでずっと逡巡しているのだった。 ある日、大きな地震があった。ユウヅツが早朝より外出して不在だったためクサビは無事を案じた。大きな揺れがおさまり隷長屋から中庭へ出ると、人々が慌てふためいて行き来していて、全ての視線が不死の頂に向けられていた。西の空では噴煙の勢いが増し、黒々とした叢雲が広がり出していた。 クサビが局室にもどり倒れた調度を片付けているとエツナが訪れて言った。「地獄様が御馬を曳けと仰せだ」 以前は天災、人災に関わらず事が起きた時は、御前に馬を曳く習わしとなっていたが最近では珍しいことだった。それでも、それは御厩の役まわりだ。走り隷の任ではない。判官様の御馬を自分のような下郎に曳かせて良いものではあるまいとクサビは思ったが、それが仰せとあらば否応するべきことではないのだった。 判官様の御馬は鬼鹿毛という名で、庁の南に広がる牧のさらに奥、茅の生い茂る野原の中で飼われている。噂では相当な気性の荒さだと聞いていた
クサビたちは晴れ渡った空の下をザワの母の居所に向かう。厚木の集落を抜けた先に小高い山が見えてきた。麓から続く急勾配の石段を上ると、貞観の大噴火前からのものなのか蒼然とした杜に隠れて古びた祠があった。さらにその杜に分け入り斜面を北側に回ると岩屋があった。入り口周辺には割れた土器が散乱していてどれもが錆色に赤く染まっている。ザワの母はこの中に居ると言う。「三秋になる」 ザワが絞り出すように言った。クサビが身をかがめて中を覗くとすぐ手前で二方に分かれていてどちらの奥も見えないが、洞内の饐えた土気の匂いから推して嬰嶽の巣であることがすぐに分かった。クサビはザワに小袿を渡し、ユウヅツを下の祠まで連れて行って見張っているように頼むと一歩中に足を踏み入れた。天井は低く赤錆色の壁が奥に向かって続いている。左手はすぐに行き止まりで、土気の匂いは右手の奥からしているようだ。じめついた中に進むとすぐに光が届かなくなった。クサビは脂燭に火を灯し壁に頼って洞内を進む。濡れた壁は丸みを帯びた小さな突起物がいくつも連なっていて蝋のように滑らかだ。洞は奥まるにつれ傾斜していて滑りやすく、草鞋に付いた泥濘の重さを足指に感じながら転ばぬように慎重に進む。さらに洞内を行くと、前方に一点の紫の光が見えてきた。クサビはそれまでの咽返るほどの土気が晴れて息苦しさが少し和らいだ気がした。灯に導かれつつさらに進むと、段々と足もとが水に浸されてきて、気付けば腰のあたりまで水没していた。その水は温かくそのままそこで安らいでいたい気にさせる。クサビは脂燭を捨て、手で水を漕ぎながら灯りに向かって行く。近付いて見ると、池の中に苔生した小島があって、そこに尺高の燈台が置かれ紫に光る玉が乗っていた。 クサビが寄せると小島が小さな波音をたて上下し、小島の燈台も右に左に揺れる。まるで波間の小舟のようなそれはおそらく浮島なのだ。クサビは燈台を倒して紫玉を落とさぬように慎重に取りつい
クサビらが関東検非違使所に帰ると、局室が西の離れの隷長屋に移されていた。嬰嶽の一、座間輝安彙を解除したことによる物忌のためであるが、おそらくこれからここがクサビの局室になる。判官様の居所からは少し離れたが檻でもなく明るい局室でクサビは気に入った。それとクサビがユウヅツを連れ帰ったことに頓着する者はいなかったので、おのずとそこに同居することになった。与えられる食餌はこれまでと変わらないので、そこはクサビの分をユウヅツに分けねばならなかったが。 そのユウヅツといえば、もとは貴顕の姫なのだからこの局室は決して相応しいとは言えない。それなのに己が境遇を嘆かず、当たり前のように振る舞っている。忌が明けてからというもの、内住まいの刀自や采女の子らに誘われて西の離れの中庭で駆けまわったりしているのを見ると、もともとここで育ったかのような気さえして来る。クサビとてもそれが違和感なく、むしろいついなくなるかと不安が募って、夜半にふと目覚めては隣で寝ているユウヅツの艶やかな髪に触れてみて安堵することがあるくらいなのだった。 意外だったのは、これまでクサビを恐れて近づこうともしなかった女たちが、ユウヅツが来た途端に親しげに局室を訪うようになったことだ。最初のうちはユウヅツに食べさせろと、山芋を干したものや赤米を盛ったのやらを持って来てすぐに帰って行ったのだが、そのうち何も用事がなくともクサビの局室へ来るようになって世間話というものをするようになった。それでも女たちは相変わらずクサビは怖いらしく、機嫌のよさそうな時しか話を交わそうとしなかったものの、おかげでこれまで全くといっていいほど情報のなかった検非違使所の外の様子が少し分かるようになった。厚木の市に現れるという嬰嶽を知ることにもなったのもここからである。 その時は、いつもより多くの女たちがクサビの局室に来て厚木の市の話で盛り上がっていた。それは先月の三の市が立った時のことだというから最近の事らしかった。