クサビとユウヅツが三叉に辿り着いたのは、一つ星が西の地平に消えた後だった。
スハエはさらに先に行ったのか三叉周辺には見当たらなかった。
道標は苔生して読み取りにくかったが苔を削り落とすと「左 さま」とあった。
座間とは古くは大寺があって栄えた場所で、ここからだと南に位置する。
右は、夜空に不死の噴煙が赤く見えるから西へ行く道だ。
今クサビが行くべきは南へ向かう左の道であろう。
左の道を進み出そうとした時ユウヅツを見ると月の光を浴びて不吉な顔色になっていた。
クサビは思わずその小さな体を引き寄せて近くの木陰に隠れた。
クサビは先を急ぎたかったが、ユウヅツはひどく疲れていそうだ。
元は貴顕の姫様。おそらく今まで長い道を歩いたことなどなかったのだろう。
クサビはしかたなくこの辺りで夜を過ごすことにした。
といっても
道ばたで寝ていれば、それこそ野盗や野犬の餌食だ。
見渡すと少し離れたところに夜空を背に森が黒く見える。
あそこの木に拠れば休むことができるだろう。
近づくとそれは森と言うにはあまりに若すぎる
これでは樹上に昇る事も出来ないし、細すぎる木の幹には身を隠す事も出来ない。
しかしユウヅツはこれ以上歩けなさそうだ。
クサビは黙ってユウヅツを背負うと橡林の奥へと入って行った。
遠くで犬が吠えている。
ここで野犬の群れにでも襲われたら逃げようがないなと思いながら、クサビはさらに奥へと進む。
クサビはユウヅツのために梢の狭間から射し込む月の光を避けながら森の中を歩いてゆく。
月光は人の命を吸い取るという迷信があるからだ。
道からかなり離れてしまって三叉に戻れるか心もとなくなった。
クサビもそろそろ疲れを感じ始めている。
そうでなくとも今日はいろいろあったのだ。
一人ならばそこらに体を横たえればいい。
だが夜露も凌げないこんな所にユウヅツを寝かせられない。
せめて屋根のある場所が必要だ。
さらに寝床となる藁の一抱えでもあれば申し分ないのだが。
そう思っても、行けど進めど同じような若木が並んでいるばかりで人家など見当たらない。
それはそうだろう。
貞観の大噴火の後、人畜逃散してしまい茫漠たる焼け野原と廃墟だけになったのはここらも同じなのだから。
草木が芽吹き始めたのだとて最近のことだ。
ユウヅツがクサビの背に重くのしかかる。
どうやら寝てしまったらしい。
いよいよどこか休む場所が必要になって来た。
とその時、視界の先に木々を透かしてほのかに灯りが揺らいでいるのが目に入った。
どのくらいの距離かは分からないが人家があるらしい。クサビはその灯を目指して行くことにして歩み続けた。
橡の饐えた蜜の匂いの中をひたすら歩く。
木々の間に仄見える灯火の光だけが今のクサビの力の源だった。
とにかく早くたどり着きたい。
そしてこの子を休ませてやりたい。
その一心でユウヅツを背にクサビは森の中を行く。
どれくらい進んだか、木々に見え隠れしながら僅かに見えていた灯が視界から消えた。
ついにあてどをなくしたと思った矢先、クサビたちは森を抜け開けた場所に出た。
月光が降り注ぐその場所一面に死者の花が風に揺らめいている。
その中に見捨てられ朽ちかけた御堂が建っていた。
草を載せた瓦屋根や朱の剥げた巨大な柱から推して、以前これは大寺の堂宇であったろう。
その中から微かに明かりが漏れていた。
どんな人間が住むのかクサビには見当もつかない。
もしかしたら野盗の塞かもしれない。
しかしクサビは何が棲もうがいまはここで休みたいと思った。
危険を冒したとしてもユウヅツ一人守ることができればよい。
クサビは堂宇のぐるりを歩いて見た。
その三方は塗込め壁で扉らしきものはなかった。
ただ南に面する一面が観音開きの大扉になってい、その端に人が一人くぐれるほどの小扉がある。
クサビはその扉を叩いてみた。
しばらくして中から返事があって扉を透かして灯が近づいて来る。
閂を開けて顔を出したのは年のころはクサビほどの女だった。
道に迷ったと言うと、クサビと背中のユウヅツを交互に見て、招じ入れてくれた。
中に入るとその女の他に誰もいないようだった。
床は石敷でひんやりとしている。
正面に主のいない須弥壇があって、そこに上がると火桶の周りに
クサビたちはその一つしかない円座を勧められた。
背中のユウヅツをそこに座らせようとすると、すでに目覚めていて素直に従った。
クサビもその隣に坐して何気に見回すと天井が高い。
おそらく衛士の長槍で突いても届かないのではないか。
そしてその天井を支える柱の太さといえば、大人で二抱えはありそうだった。
その女は親しげに接し、風呂はないがゆっくりしてくれとまで言う。
女の歓待ぶりが気味悪くもあるが、今のクサビにはそんなことを気に掛ける余裕すらなかった。
それほど疲れていたのだ。
一人かと尋ねると父と住んでいるという。
今は出かけていて今夜帰って来るはずだったので、本来ならばこんな夜中に訪いがあっても無視するが、そういうことなので思わず出てしまったと言った。
女は身体が冷えて青い顔をしているユウヅツのために、火桶に火をくべてくれた。
女はそこに鍋を置き、粗末なものだがと汁物を勧めてくれる。
クサビにとっては久しぶりの暖かい食餌であったから、ありがたく頂戴した。
ユウヅツも少し口にして体が温まったらしく、やがてクサビの膝を枕に寝てしまった。
クサビは女としばらくは夜語りなどした。
女が話すのは、市が立つのがここから半日もかかる厚木だから大変だとか、人里離れているせいでこのように人と話すのは有難いことだとか、とりとめのないことばかりだった。
クサビはそれを聞きながら屋内の様子を見るとはなしに眺めていたが、西面の板壁に目が行ったとき違和感を覚えた。
外観からするとこちら側は塗り壁だったはずで、板で仕切られている向うにわずかばかりの空間があるように見えたのだ。
女がクサビの視線に気づいて、
「そろそろお休みになられては」
女は火桶の始末をして燈台から
クサビは寝ているユウヅツを起こさぬようにそっと抱き上げると女の後を追った。
女が西面の隅を引くと板壁に人が一人やっと通れるくらいの隙間ができる。
クサビが女の後をついてその隙間に入ると、そこから幅の狭い階が上に伸びていた。
女は途中で振り返り手招きしている。
クサビは女の背後の暗闇に気を配りつつ階を昇る。
女は脂燭を壁に掛け、一番上でクサビたちが来るのを待っている。
クサビが慎重に昇り切ると、女は天井から垂れた紐にぶら下がって思いっきりそれに体重を載せた。
すると、いま上がってきた階が持ち上がって床と等しい高さに収まった。
昇降式の隠し階だった。隠し扉と言い、用心というにはいささか手が込んだ仕掛けだ。
女は紐の端を壁の突起に結わえると、階に閂を掛けてから脂燭を手にして暗闇に進む。
すると脂燭の光が屋根裏部屋をぼんやりと浮かび上がらせた。調度も整っていて、ここが主たる生活の場であるらしかった。
女は奥の暗がりを指差し、あすこで寝ろと言う。
見れば一抱えどころでない藁が敷かれている。クサビは礼を言うとユウヅツをそこに寝かせ、自分もその隣に横たわった。
女はクサビ側に少し距離を置いて床に就く。
クサビはすぐに眠気に襲われ眠りに落ちた。
クサビがうつらうつらする中で、女がユウヅツに顔を寄せ覗き込んでいるのに気付いた。
クサビが声を掛けると女はすぐに自分の寝床に戻ったようだった。
よくある鬼女の話を思い出したが、女のその時の目はそれとは違うように見えた。
クサビは普段夢を見ない。
これまで単に寝て覚めるの繰り返しで夜をやり過ごして来た。
しかし、この日はどういうわけか夢を見た。夢の中でこれは何かと問うたが応える者はなかった。
その若い男は娘のユウヅツの手を取りクサビのもとから連れ去ろうとしていた。
夢の中ではユウヅツはクサビの実の娘だった。
クサビの呼び声にユウヅツは振り向こうともしない。
まるでそれが当たり前のようにクサビのもとを去ろうとしている。
クサビは胸の内にこれまでにない痛みを感じて涙が溢れ出す。
男はユウヅツを連れて森の中に入って行く。
クサビは必死に追いかけるが途中で見失ってしまう。
森の中を方々さがしてやっと、この堂宇にたどり着いた。
大扉の隙間から覗くと、男がユウヅツを抱え壇の板間を剥がし地下への階を降りて行くのが見えた。
クサビも追いかけ階を降りる。
地下は暗く土気が充満していて息苦しい。
じめついた狭い石廊を腰をかがめつつ進むと、一番奥に赤銅色の檻が見える。
その中で何かが蠢いている。形の定かでない醜悪な体でのたうっているもの。
クサビは恐れた。
これは
こんなところに嬰嶽がいる。
クサビは恐れ戦き、踵を返して元来た石廊を戻ろうとした。
クサビが一歩踏み出した途端、何かが足に絡んで転んでしまった。
足首にまきついたものを見るとそれはあの時クサビが掴んだユウヅツの汗衫の裾だった。
その根元を見ると、嬰嶽の肉体に取込まれたユウヅツがクサビを捕まえようとしていた。
ユウヅツの顔は不吉な色をして無表情だ。
クサビはさらなる恐怖にその裾を引きちぎり、必死で階を駆け昇り屋外に逃げ出し明るい日の光の下に出た。
溶岩帯は果てしなく続き、それにつれてクサビは自分の位置がわからなくなっていた。スハエの姿も見失っていまや溶岩の襞の中をはいずりまわる小動物の気分になっていた。両側は高々とそびえる溶岩の壁に迫られ、空は一筋の線のように見える。もうなん時も歩いているのに山へ登る感じがない。平坦な狭い場所をひたすら歩き続けている。世界から断絶してしまったかのようだった。 そんな中、溶岩壁が透けて見える時がある。幾重にもなった襞の中を戸惑いながら歩む衛士たちの姿が右手にも左手にも見える。大声をあげて呼んだが声は届かぬようだった。それに気を取られている間に足元がぬかるんで来ていた。底に溜まった蜜のようなものが絡みついて足を上げるのさえ億劫だ。蜜は溶岩壁の隙間からにじみ出ているようで、だんだんと嵩が増し、腰のあたりまで来て動けなくなった。蜜を手に取ってみる。刺激のある匂いがした。クサビはその時になってようやく気が付いた。関東最強の嬰嶽、琥珀地獄判官に取り込まれたのだと。 蜜はクサビの喉元の高さまで達し、いよいよ息の根を止めに来たかのようだった。泳ごうにも蜜は濃厚で重く、手先すら動かすことがままならない。このまま蜜に埋もれて嬰嶽の中で息絶えるのか。 その時、上方からずっしりとした衝撃音が響いてきた。見上げると一筋の空から強い光が降り注いでいる。そして再び、衝撃音とともに地鳴りのような振動が溶岩壁を伝って、蜜溜りの表面をゆらした。何度となく繰り返されるそれは、まさしくスハエが琥珀地獄判官へ打槌を仕掛けているものだった。その振動は蜜溜りを揺らし、クサビの体を浮き上がらせる。数十回も繰り返したころには、クサビは腰まで蜜溜りの上に出ることができた。そのまま溶岩壁に手を伸ばし、自分の体を引き上げ蜜溜りを脱出すると、クサビは溶岩壁をよじ登り始めた。壁か
クサビは人の背に負ぶわれていた。負ぶっているのは母のようだった。クサビは身を固くした。負ぶった赤子がぐずると後ろ頭でド突いて黙らすような女だからだ。そんなはずはない。母はずっと昔に死んだのだ。押しつぶされるような頭の重さを感じつつ、クサビはそこで目を覚ました。 クサビは衛士に負ぶわれていた。ザワだった。「どうして」「轍を追って来たらお前が道中で倒れていたので連れてきた」「サヨ姫は、いやユウヅツはどうした」「わからぬ。轍は足柄からずっと続いているが、ユウヅツは見当たらない」「ここはどこだ」「横走りの関」 そこから西に不死の山がもうもうと噴煙を上げる姿が遠望できた。「すまぬ。降ろしてくれ」 クサビはすこしよろけたが立てた。「礼を言う。ここからは一人で行く」「人手はいくらあってもよかろう」 相手はユウヅツだけではなく関東最強の嬰嶽、琥珀地獄判官と一緒なのだった。しかし、この任は誰のものでもない。クサビ自身のものだ。それにザワを巻き込むわけにはいかなかった。「ありがたいが一人で行く」 思った通りだという表情でザワは言った。「そう意固地になるな。援軍も直に来る」 すると真上から声が降ってきた。「すでにここに居るぞ」 見上げるまでもなく声でスハエだと分かった。逃げたのではなかったか。「糞のためではない。積年の恨みをはらす」 判官様から一番恩恵を受けたのはスハエだったはず。思いはザワも同じらしく、大げさなあきれ顔をクサビに向けた。 クサビは少し気持ちがほぐれて、ザワたちと同行することにした。「他の者たちは」 とクサビが聞くと、クサビの背後を指
館の西門からユウヅツたちの痕跡は続いていた。それは道幅いっぱいの轍と、真ん中のか弱げな足跡だ。轍も足跡も泥濘るんだ道にはっきりと残っていたので、暗い夜道でもよく分かった。クサビはそれを頼りにユウヅツを追うことにした。 途中、遊行の僧に行き会った。ユウヅツのことを聞くと国分寺の者だというその僧侶が笠の中から言った。「そなたの娘御は、巨大な泥の山を積んだ土車を一人で曳いておった。土車から荒縄が伸びて娘御の首に巻き付けられておった」 さらに続けて、「あまりに不憫であったので、拙僧が書にて『ひと引き引いたば千歳供養、ふた引き引いたば万歳供養』という札を泥の山に立てておいたので、奇特な御仁がおれば助けてくれよう」 クサビは僧侶にお辞儀すると不死山が噴煙を上げる西に向けて先を急いだ。 ユウヅツの曳く土車が速いのか、それともクサビの出立が遅すぎたのか、全力で駆けているはずなのにまったく土車に追いつかなかった。 出立してから夜通しクサビは駆け続け、時に暗闇に轍を見失っては道の上をはいずって探し、見出しては追いかけた。やがて当たる風が冷たくなり、あたりが明るくなってきた。振り返るとすでに東の空が白み始めていた。道の上に目を落とすと足跡とともに血痕が点々と残っている。クサビが遅れれば遅れるほどユウヅツの身が危うくなってゆく。 それからしばらく行くと前方に木々が鬱蒼と生い茂る山塊が迫って来た。足柄山、関東の西端にたどり着いたのだった。山中は昼にもかかわらず暗く静謐に包まれていた。足柄の山道にもこれまで通りユウヅツの足跡と土車の轍は続いていたが、ここに来てクサビにはユウヅツに近づきつつあることが分かっていた。ところが山中に踏み入れてよりクサビは不思議な感覚にとらわれてなかなか歩が進まなくなってしまう。それはこの轍が今できたものなのか、ずっと以前にできたものなのかが分からないというものだった。さらにありえないことだが今よりもずっと先
世話好きな刀自や采女たちが、紅潮した頬をクサビに向けて話しかけてくる。「またとない話じゃないか。なにを拒む理由があるのかい」 無論だ。関東最強の判官様がユウヅツの裳着の後見をしてくださると仰せになられたのだから。たかが走り隷の養女ごときを、この関東でおそらくもっとも権勢のある、これ以上望みようもない御方が介添えを申し出てくださるなど、僥倖以外のなにものでもない。だから拒んでいるわけではない。クサビは不安なのだ。ユウヅツの後見人になるということは、親になるのも同じこと。判官様のおわします御簾の向こうにユウヅツをやるということ、それは二度と会うことができなくなるということだった。ユウヅツのことを思えばその方がよいに決まっているが、同時にユウヅツと離れて暮らすなど今となっては考えられない、ユウヅツとの出会いは運命だとも思う。クサビはそれでずっと逡巡しているのだった。 ある日、大きな地震があった。ユウヅツが早朝より外出して不在だったためクサビは無事を案じた。大きな揺れがおさまり隷長屋から中庭へ出ると、人々が慌てふためいて行き来していて、全ての視線が不死の頂に向けられていた。西の空では噴煙の勢いが増し、黒々とした叢雲が広がり出していた。 クサビが局室にもどり倒れた調度を片付けているとエツナが訪れて言った。「地獄様が御馬を曳けと仰せだ」 以前は天災、人災に関わらず事が起きた時は、御前に馬を曳く習わしとなっていたが最近では珍しいことだった。それでも、それは御厩の役まわりだ。走り隷の任ではない。判官様の御馬を自分のような下郎に曳かせて良いものではあるまいとクサビは思ったが、それが仰せとあらば否応するべきことではないのだった。 判官様の御馬は鬼鹿毛という名で、庁の南に広がる牧のさらに奥、茅の生い茂る野原の中で飼われている。噂では相当な気性の荒さだと聞いていた
クサビたちは晴れ渡った空の下をザワの母の居所に向かう。厚木の集落を抜けた先に小高い山が見えてきた。麓から続く急勾配の石段を上ると、貞観の大噴火前からのものなのか蒼然とした杜に隠れて古びた祠があった。さらにその杜に分け入り斜面を北側に回ると岩屋があった。入り口周辺には割れた土器が散乱していてどれもが錆色に赤く染まっている。ザワの母はこの中に居ると言う。「三秋になる」 ザワが絞り出すように言った。クサビが身をかがめて中を覗くとすぐ手前で二方に分かれていてどちらの奥も見えないが、洞内の饐えた土気の匂いから推して嬰嶽の巣であることがすぐに分かった。クサビはザワに小袿を渡し、ユウヅツを下の祠まで連れて行って見張っているように頼むと一歩中に足を踏み入れた。天井は低く赤錆色の壁が奥に向かって続いている。左手はすぐに行き止まりで、土気の匂いは右手の奥からしているようだ。じめついた中に進むとすぐに光が届かなくなった。クサビは脂燭に火を灯し壁に頼って洞内を進む。濡れた壁は丸みを帯びた小さな突起物がいくつも連なっていて蝋のように滑らかだ。洞は奥まるにつれ傾斜していて滑りやすく、草鞋に付いた泥濘の重さを足指に感じながら転ばぬように慎重に進む。さらに洞内を行くと、前方に一点の紫の光が見えてきた。クサビはそれまでの咽返るほどの土気が晴れて息苦しさが少し和らいだ気がした。灯に導かれつつさらに進むと、段々と足もとが水に浸されてきて、気付けば腰のあたりまで水没していた。その水は温かくそのままそこで安らいでいたい気にさせる。クサビは脂燭を捨て、手で水を漕ぎながら灯りに向かって行く。近付いて見ると、池の中に苔生した小島があって、そこに尺高の燈台が置かれ紫に光る玉が乗っていた。 クサビが寄せると小島が小さな波音をたて上下し、小島の燈台も右に左に揺れる。まるで波間の小舟のようなそれはおそらく浮島なのだ。クサビは燈台を倒して紫玉を落とさぬように慎重に取りつい
クサビらが関東検非違使所に帰ると、局室が西の離れの隷長屋に移されていた。嬰嶽の一、座間輝安彙を解除したことによる物忌のためであるが、おそらくこれからここがクサビの局室になる。判官様の居所からは少し離れたが檻でもなく明るい局室でクサビは気に入った。それとクサビがユウヅツを連れ帰ったことに頓着する者はいなかったので、おのずとそこに同居することになった。与えられる食餌はこれまでと変わらないので、そこはクサビの分をユウヅツに分けねばならなかったが。 そのユウヅツといえば、もとは貴顕の姫なのだからこの局室は決して相応しいとは言えない。それなのに己が境遇を嘆かず、当たり前のように振る舞っている。忌が明けてからというもの、内住まいの刀自や采女の子らに誘われて西の離れの中庭で駆けまわったりしているのを見ると、もともとここで育ったかのような気さえして来る。クサビとてもそれが違和感なく、むしろいついなくなるかと不安が募って、夜半にふと目覚めては隣で寝ているユウヅツの艶やかな髪に触れてみて安堵することがあるくらいなのだった。 意外だったのは、これまでクサビを恐れて近づこうともしなかった女たちが、ユウヅツが来た途端に親しげに局室を訪うようになったことだ。最初のうちはユウヅツに食べさせろと、山芋を干したものや赤米を盛ったのやらを持って来てすぐに帰って行ったのだが、そのうち何も用事がなくともクサビの局室へ来るようになって世間話というものをするようになった。それでも女たちは相変わらずクサビは怖いらしく、機嫌のよさそうな時しか話を交わそうとしなかったものの、おかげでこれまで全くといっていいほど情報のなかった検非違使所の外の様子が少し分かるようになった。厚木の市に現れるという嬰嶽を知ることにもなったのもここからである。 その時は、いつもより多くの女たちがクサビの局室に来て厚木の市の話で盛り上がっていた。それは先月の三の市が立った時のことだというから最近の事らしかった。