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沈む夕陽、届かぬ便り
沈む夕陽、届かぬ便り
Author: 画蒼瀾

第1話

Author: 画蒼瀾
橘川澪奈(きっかわ みおな)は、本来なら静かに最期を迎えるはずだった。だが、夫が臨終の際に残したひと言が、彼女の「幸福な一生」を一瞬で嘲りに変えてしまった。

「澪奈、俺は君と離婚して瑠花と結婚したい。死んだあと彼女と同じ墓に入りたいんだ」

そして続けた。「昔、彼女に君の芸術大学の合格証を譲った。その償いは、この人生をかけて十分果たした。澪奈、俺はもう君に借りはない。残されたわずかな時間は、一番愛する人と過ごしたい」

雷に打たれたような衝撃だった。その言葉を胸に刻んだまま、夫が息を引き取ってほどなく、澪奈も心労に押し潰されるようにして命を落とした。

――次に目を開けると、かつての若かりし頃だった。

「問題なければ、結婚の日は七月七日にしようと思う。どうだ?」

御影綾人(みかげ あやと)の低く冷ややかな声が、氷を心臓に叩き込まれたように澪奈の胸を締めつけた。

はっとして顔を上げ、居間を見渡す。

両親は落ち着かない様子ながらも、どこか誇らしげに微笑んでいる。ズボンの裾にはまだ泥が点々とついていた。壁の時計が「カチ、カチ」と規則正しく音を刻み、天井の扇風機がゆるやかに回っている。

――これは、あの大学受験が終わったあとの風景だ。

生まれ変わったのだ。

心臓が荒々しく跳ねる。綾人へ視線を向けた。

純白のスーツに身を包み、長い指で数珠をいじっている。その姿は清廉さを際立たせ、俗世から切り離されたように見えた。

都の令嬢たちが皆憧れる「月のような人」。常に数珠を手にし、俗に染まらぬ存在――それが綾人だった。

胸の奥に激痛が走り、前世の記憶が雪崩れるように押し寄せる。

澪奈が初めて綾人にあった時、彼は誰もが憧れる人気者だった。それに比べ、彼女はただの田舎娘にすぎない。

誰もが彼を落としたいと願い、澪奈もまたその一人だった。

三年間、彼を追いかけ続けた。

彼のいる場所には、必ず澪奈の影があった。

けれど綾人は誰に対しても冷淡だった。

ただ一人――七瀬瑠花(ななせ るか)にだけは違った。

彼らは幼なじみで、小学校から高校まで机を並べた存在。

澪奈は何度も見てきた。雨の日に差し出す傘。病床に寄り添い夜を明かす姿。「小学校のそばの肉まんが食べたい」と瑠花が言えば、町の反対側まで走って買いに行く姿も。

その優しさに澪奈が触れたことは一度もなかった。

――自分と彼は結ばれない。そう悟り、涙をのみながら祝福した。

ちょうどその年、芸術大学の入試があった。澪奈は必死に稽古に励み、運命を変えようとした。

けれど不合格。運命は残酷だった。

すべてを諦めかけたそのとき、不意に綾人が縁談を申し入れてきた。「結婚したい」と。

澪奈は歓喜に震えた。ついに待ち望んだ答えが返ってきたのだと。理由は分からなくても、迷うことなく頷いた。

だが、結婚生活は決して幸せではなかった。

大学に進めず、一般家庭の出身だ。「御影家には釣り合わない」そう周囲は囁いた。

澪奈は自分を控えめにしながら、家庭に尽くし、夫と子どものためだけに生きた。文句を口にすることは、一度もなかった。

綾人が出張で一年、二年と家を空けて、帰ってくるのは数日だけでも、彼女は何も言わず黙っていた。

やがて年老いて、綾人は病床に伏した。息は細く、声は掠れていた。

枕元で彼女は涙をこぼしながら、彼の最後の願いを尋ねた。返ってきたのは――

「澪奈、俺は君と離婚して瑠花と結婚したい。死んだあと彼女と同じ墓に入りたいんだ」

「昔、彼女に君の合格証を譲った。その償いは、この人生をかけて十分果たした。澪奈、俺はもう君に借りはない。残されたわずかな時間は、一番愛する人と過ごしたい」

その瞬間、彼女の世界は崩れ落ちた。

――あの時、本当は芸術大学に合格していたのだ。

しかし瑠花がどうしても進学したいと泣きつき、綾人は澪奈の合格証を奪い、代わりに「一生をかけて補償する」と決めた。

その後、瑠花は名高いダンサーとなり、大舞台に立ち、喝采を浴びた。

一方で澪奈は「田舎育ちの取り柄のない女」と蔑まれた。

孫を連れて市場へ行くときでさえ、ふと瑠花を羨んだ。――あの時、進学できていればよかったのに……

だが瑠花が手にしたものは、もとはすべて自分のものだったのだ。

澪奈は泣き叫び、夫を責め立てた。だが子どもたちはうんざりした様子で、彼女をあしらった。

「ただの学歴でしょ?大げさなんだよ。お母さんの頭じゃ、どうせ退学になってたかも知れないし。瑠花さんのような経歴を得るなんて、絶対無理だよ」

「そうそう。だいたい御影家の奥様として贅沢してきたじゃない。お父さんと瑠花さんは本当に愛し合ってたのに、お母さんのせいで隠れて会わなきゃならなかったんだよ?早くその席を渡しなよ。こんな恥ずかしい母親、もういらないわ」

その時になって、澪奈は知った。綾人が長く家を空けていたのは、すべて瑠花と過ごすためだったと。

そして――子どもたちもそれを知りながら、ずっと綾人の味方をしていたのだ。

頭が真っ白になり、子どもたちに突き飛ばされ、離婚届を出す途中で心臓発作を起こした。だが子どもたちは救急車を呼ぶこともせず、先に役所へ連れて行って離婚を済ませた。

その場で血を吐き、澪奈は息絶えた。

――次に目を開けたとき、彼女はあの日に戻っていた。綾人が縁談を持ち込んできた、まさにその日。

生まれ変わったこの人生で、彼と結ばれることは、もう二度とない。
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