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第3話

Author: 画蒼瀾
その後澪奈は、これまでのように綾人の後を追い、お茶を運んだり、こっそり部屋を片づけたりすることをやめた。

自分から声をかけることもなくなり、綾人が視線を向けても、目をそらすばかり。まるでそこにいるのが他人であるかのように。

最初、綾人は気にも留めなかった。少し拗ねているだけだろう、と。

だがやがて、本当に変わってしまったのだと気づく。

かつてはどんなことにも気にかけてくれたのに、瑠花を助けようとして犬に噛まれたときでさえ、澪奈は何ひとつ心配しなかった。

その冷たさに気づいた綾人は、わずかに眉をひそめる。

「君、にぎやかな場所が好きだったろう。今夜はみんなで集まる。用事が済んだら迎えに行く」

怪我の見舞いにも来なかったことを、綾人は口にしなかった。

以前なら、くしゃみひとつでも大騒ぎして心配していたというのに。

うるさいとさえ思っていた彼女のせっかちな性格が、こうも静かになると、かえって不自然に思えた。

夜、綾人は澪奈を迎えに来て、自分の名義で新しく開いた会所へと連れて行った。

扉をくぐった途端、床いっぱいにピンクのバラが広がっていた。

澪奈は思わず足を止め、不思議そうに綾人を見上げる。

「飾りつけは、奴らが勝手にやった」

綾人が淡々と答えると、澪奈はうなずき、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

口元を手で覆い、奥へと進んでいく。

個室にはすでに大勢が集まっており、二人が現れるやすぐに取り囲まれ、席に着くなり酒を勧められた。そのとき、扉が勢いよく開いた。

綾人が顔を上げると、入ってきた人物を見て、グラスを持ったまま動きを止める。

「馬鹿な……ここに何しに来た」彼は眉をひそめ、低い声を落とした。

澪奈は知らなかった。彼がこんなに怒りをあらわにする姿を。

穏やかな人だと思っていたのに――

彼にも声を荒げる一面があるのだ。

入り口に立つ瑠花の目は赤く染まり、今にも壊れそうな様子で綾人を見つめていた。

やがて彼のもとに歩み寄り、嗚咽まじりに言う。「怪我をしてるのにお酒なんて……馬鹿じゃないの?」

綾人が何か言う前に、瑠花は彼の手からグラスを奪い取った。

涙を浮かべながら、怯えた子どものように顔を見上げる。

「電話をしても出てくれなくて……どれほど心配したか分かる?綾人、あなた言ったでしょ。ずっと私のそばにいるって」

その言葉が胸に刺さった瞬間、澪奈の心臓はきつく締めつけられた。痛みは全身へ広がり、やがて痺れるように感覚が鈍っていく。

誰一人、澪奈に目もくれない。すべての視線は二人に注がれていた。

綾人の顔はますます険しくなるが、声にはどうしても隠せない気遣いを感じた。

「来るべきじゃなかった」

「でも、私のせいであなたが怪我をしたのよ。会いたくないなら帰るけど……」

背を向けようとした瑠花は足をもつらせ、倒れかけた。

綾人は慌てて手を伸ばし、抱き寄せる拍子にテーブルにぶつかってしまった。その衝撃で、グラスが倒れ、酒が膝にこぼれる。

潔癖な彼が服を汚すなど、澪奈はこれまで一度も見たことがなかった。

取り乱した理由は――愛しているからに違いない。他には考えられなかった。

瑠花は振り向くと、また涙で目を赤くした。

綾人の手が宙をさまよったが途中で止まる。

涙をぬぐいたい気持ちを押し殺し、静かになだめた。

「大丈夫だ。もう遅い、帰ろう」

「私、帰りたくない」

「瑠花、いい子にして」

澪奈は、二人のやり取りを見て、すぐに視線を落とした。

この世でも前世でも、彼が自分に向ける声は、いつも冷ややかで冷淡なものだった。時には、名を呼ぶことさえ惜しむほどだ。

澪奈はただ、彼が冷淡な性格で、人との距離を詰めるのが下手なのだと思っていた。女の子を喜ばせる術を知らないのだと。

むしろ心のどこかで誇らしく思っていた。都で有名な娘たちとは違って、綾人にとって特別なのは自分だけ――そう信じていたから。

けれど今になって悟った。綾人にとって、特別なのは瑠花だけ。他はみな同じなのだと。

もう、ここには居たくなかった。

澪奈は立ち上がり、二人に背を向けて歩き出す。

扉にたどり着いても、誰ひとり彼女に気づかない。

まるで道化のように、静かに舞台を降りるしかなかった。

鼻の奥がつんと痛み、涙が抑えきれずにこぼれ落ちた。

扉の向こうからは、瑠花のすすり泣きが途切れ途切れに聞こえてくる。

「今日は私の誕生日。あなたが用意してくれた、このピンクのバラは……私のためじゃないの?

あなたは私を愛してる。なのに、どうして突き放すの?澪奈のためなの?」

周囲の男たちも口々に言う。「そうだ、綾人。瑠花のために澪奈の進学を犠牲にしたとしても、無理に結婚することはない。金で片をつければ済む話だ。婚約なんて、さっさと解消した方がいい」

「そうだ。田舎娘ひとり、金で納得させれば十分責任は果たせる。後悔する前に手を打て。本当に大事な幼なじみを手放すのか?」

「それじゃ彼女に不公平だ。だから償わなければならない」

綾人は数珠をいじりながら、冷たい声で答える。

瑠花は彼にすがりつき、涙に震えながら訴えた。「でも私は、あなたがそんなふうに感情を押し殺して生きていくのを見たくないの。私のために、そんなふうに……」

澪奈は泣き声というものが、これほど耳障りで苛立たしいと初めて思った。

聞かないように意識すればするほど鮮明に脳裏に焼きついていく。

視界がぼやけるなかふと見下ろすと自分の指先が赤く腫れあがっているのに気づいた。

綾人が自分の花アレルギーを忘れてしまったのだと思っていた。けれど違った。――このバラは、最初から自分のためのものではなかったのだ。

痒みは広がり、医者の言葉がよみがえる――水で洗って薬を飲めば大丈夫。

澪奈はトイレへ行き、顔を洗って出てきたところで、瑠花とばったり鉢合わせた。
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