All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 181 - Chapter 190

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第181話

その様子からして……どうやら会社を辞めたようだ。「もうエイジアは辞めたんです」エレベーターに乗り込みながら、詩織は簡潔に説明した。誠は事情を知らなかったらしく、彼女の言葉に「え?」と素っ頓狂な声を上げる。無理もない。エイジア・キャピタルといえば、誰もが羨む福利厚生と高待遇で知られる大企業。入りたくても入れない人間の方が多いくらいだ。彼の考えを見透かしたように、詩織は自分の社員証をちらりと見せた。「独立したんです」そこに記された会社名と肩書きを目にして、誠は再び驚きながらも、すとんと腑に落ちたようだった。彼とは仕事で関わったことがあるため、詩織がどれほど有能で、先見の明がある人物かは身をもって知っている。以前から、彼女ほどの人がただの秘書でいるのは、才能がもったいないとさえ感じていた。たとえ、あの賀来柊也の秘書であったとしても、だ。「おめでとうございます!」誠が心からの祝辞を口にする。「ありがとうございます」詩織は礼を述べ、彼の腕の中にある段ボール箱に視線を落とした。「……アーク・インタラクティブを、辞められたんですか?」「ええ」誠は力なく笑う。「パートナーと理念が合わなくて……意見の食い違いが大きくなりすぎて、もう一緒にやっていけなくなったんです」詩織は内心、彼に深く同情した。高遠誠という男は、ずば抜けた才能と独創性の持ち主だ。かつて詩織が彼のプロジェクトに投資を決めたのも、その非凡さを見抜いたからだった。「いやあ、お恥ずかしい……」「今後のご予定は?」と詩織は尋ねる。誠は力なく首を振った。「わかりません。正直、途方に暮れてて……」彼と三上陽介は、大学の同級生でルームメイトだった。ゲームを作りたい誠と、裕福な家庭に育ち資金力のある陽介。二人の思惑が一致し、共同で会社を立ち上げたのだ。当初から些細な意見の食い違いはあった。だが、出資者である陽介に配慮し、誠はこれまでずっと我慢を重ねてきた。それでも、どうしても譲れない一線を越えられてしまい、袂を分かつという結末を迎えずにはいられなかったのだ。「今はまず、ゆっくり休んで。気持ちを立て直すのが先決ですよ」 詩織はそう言うと、彼の言葉を待った。「……はい」誠もそれをわかっていた。たしかに今は、なによりも心の整理が必要だった。詩
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第182話

予想だにしなかった検査結果は、詩織の心に重くのしかかった。この専門医を紹介したのは柊也だ。そう思うと、詩織は診察室を出る前に、日向医師にひとつだけ釘を刺しておきたくなった。誰にも、私の検査結果を漏らさないでほしい、と。すると日向医師は眼鏡の奥の目を細め、静かに頷いた。「患者さんのプライバシーを守ることは、医師の重要な務めです。私には職業倫理がありますから、どうぞご安心を」「……ありがとうございます」詩織は重い足取りで病院を後にした。空模様まで気持ちに合わせたように、どんよりと曇っている。結局、柊也は現れなかった。どんな気持ちかと問われても、うまく言葉にできない。彼が来ようが来まいが、心が揺らぐことなんてない。もう、とっくに麻痺しているはずだった。ただ……できない約束なら、最初からしなければいいのに、と。それだけを思った。……正月休みが明けると、再び慌ただしい日々が始まった。出社してオフィスに入るなり、詩織は密に声をかける。「密、眠気覚ましに濃いめのブラック、お願い」「はい!」と返事があったのに、差し出されたのはブラックコーヒーではなかった。湯気の立つマグカップの中身は、体を温めるという黒糖生姜湯だ。詩織は思わず眉をひそめる。「生理中なんですから、冷たいコーヒーはだめですよ。こっちのほうが楽になるはずです」密は得意げに言った。「どうして私が生理中だってわかるの?」詩織が不思議そうに尋ねる。「見てればわかります。いつも顔色が悪くなりますし、無意識にお腹のあたりを押さえてますから」「……へえ。よく見てるじゃない。気が利くようになったわね」詩織は素直に彼女を褒めた。密は、詩織が手ずから育てたアシスタントだ。なにごとも飲み込みは早いが、そそっかしいのが玉に瑕だった。エイジアにいた頃から、その点は口を酸っぱくして指導してきた。ようやく、その成果が表れてきたらしい。褒められた密は、「当然です! 誰に鍛えてもらったと思ってるんですか!」と胸を張った。そして、「さあ、冷めないうちに飲んじゃってください。ポットにまだたっぷりありますから、おかわりはいつでも言ってくださいね!」と念を押す。詩織は、その勢いに苦笑するしかなかった。午後からは、詩織自ら書類選考で選び抜いた応募者たちの面
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第183話

しかし、中央の席に座る人物が詩織だとわかった途端、言葉が喉の奥で凍りつく。その瞬間、沙耶の顔から血の気が引いていく様は、実に見事だった。詩織はあくまで事務的な口調で、彼女に着席を促す。質問もごくありふれたもので、相手が沙耶だからといって特別な扱いをしたり、意地悪な問いを投げかけたりはしなかった。むしろ、緊張からかミスを連発しているのは沙耶のほうだった。「本日は面接にお越しいただき、ありがとうございました。結果は一週間以内にメールかメッセージにてご連絡します。……では、次の方をお呼びいただけますか」沙耶はこわばった体のまま、面接室を後にした。結果など、聞くまでもなかった。受付の前を通りがかると、声をかけられる。「赤城さん、面接終わりました?手応え、ばっちりでしたか?」どう答えればいいのかわからず、沙耶は立ち尽くした。受付の女性は、屈託なく笑いかける。「赤城さんほど優秀な経歴なら、絶対受かってますよ!これから同僚ですね!よろしくお願いします!」「……江崎詩織さんって……」沙耶は、絞り出すように尋ねた。「ここの社長、なんですか?」「そうなんですよ、見えませんよね!あんなにお若いのに、すごいですよね。能力もあって、美人で……まさに勝ち組って感じです!」その言葉が続くたび、沙耶の顔色はどんどん青ざめていく。「でも、安心してください。私たちの社長、すごくいい人なんですよ。社員にも優しいし、全然偉ぶってなくて。今はまだ小さい会社ですけど、社長の腕があれば、あっという間に大きくなるって信じてます」まるで抜け殻のようになった沙耶は、華栄キャピタルを後にした。オフィスビルのエントランスに立ち、言いようのない無力感に襲われる。エイジアを解雇されてからというもの、彼女はずっと必死に仕事を探し続けてきた。はじめは、エイジアでの華々しい経歴を武器に、大手企業ばかりを狙っていた。だが奇妙なことに、どこもかしこも書類選考で落とされてしまう。それとなく裏から手を回して探ってみると、信じがたい事実がわかった。自分が、賀来柊也によって業界から締め出されているのだと。納得がいかなかった。自分はただ、あの江崎詩織を少しばかり皮肉っただけだ。それくらいのことで、柊也がここまで事を荒立てて自分を潰しにかかる理由がどこにあると
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第184話

沙耶の告げ口にも、詩織は表情ひとつ変えなかった。その態度はどこまでも冷ややかだ。「……それから、エイジアの祝賀パーティーの件。柏木さんは、自ら向井文武について行きました。私はあの人がろくな男じゃないって忠告したんです。それでも彼女は、わざとついて行った。あれは、あなたの監督不行き届きを理由に、賀来社長から責任を問わせるためだったんです」よほど八方ふさがりなのだろう。沙耶は、自分が切り札だと思っている情報を必死に差し出している。これで忠誠心を示し、面接に受からせてもらおうという魂胆だ。だが、彼女は詩織という人間を甘く見ていた。こんな浅はかな取引を持ちかけさえしなければ、二日も待たずに採用通知が届いただろうに。彼女は、自らその道を断ってしまったのだ。智也のスタジオは、相変わらず多忙を極めていた。詩織が顔を出すと、以前よりスタッフが何人か減っていることに気づく。アシスタントに事情を尋ねると、最近辞めたスタッフたちは皆、高給で他社に引き抜かれたのだという。一人か二人なら、ただの退職ですむ話だ。だが、立て続けに七、八人となると、偶然とは考えにくい。詩織は懇意にしているヘッドハンターの城戸に調査を依頼し、すぐに答えを得た。案の定、彼らを引き抜いたのは志帆だった。プロジェクト『飛鳥』のために、高値で移籍させている。智也本人を動かせないから、彼のチームの人間を狙う。明らかに、詩織に対する妨害工作だった。詩織は智也と直接話し合った。「人手がきついんだ。今から新しい人を入れても、チームに馴染ませるのに時間がかかる。このままじゃ、スケジュールに深刻な影響が出てしまう」智也の顔には、疲労の色が濃く浮かんでいる。詩織は東華キャピタルの坂崎社長と固い約束を交わしているのだ。『ココロ』の自社開発モデルが期日までにリリースできなければ、両社の提携に傷がつくのは避けられない。「しばらくはみんなに無理をさせることになるわ。でも、ここを乗り切ったら、特別ボーナスを出すから!」詩織はチームの士気を高めようとした。「大丈夫です、社長! 俺たちは『ココロ』と運命共同体ですから!」残ったスタッフの一人が、力強く答える。金に釣られず、ここに残ることを選んだ者たちは、みな『ココロ』に強い愛着を抱いている。彼らにとって『ココロ』は、我
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第185話

詩織が会社に着くと、密がきのこをたっぷり使った滋養スープを手に、待ち構えていた。このところ彼女は実に甲斐甲斐しく、毎日飽きもせずに違う種類のスープを作ってきてくれる。そのおかげか、最近はあれほど悩まされていた胃の痛みが、少しだけ落ち着いていた。密は詩織の器にスープを注ぎながら、不満げに口を尖らせた。 「エイジアは一体『飛鳥』にいくら宣伝費を注ぎ込んでるんでしょうか。どこもかしこも『飛鳥』の広告だらけ。江ノ本市中の地下鉄の駅が、全部ジャックされてるんですよ!主要なニュースサイトやテレビ局でも、ひっきりなしにCMが流れてます」詩織はスープを一口すする。じんわりと、胃のあたりが温まっていくのを感じた。そして内心で溜め息をつく。……20億単位、か。甘く見ていたわね。莫大な資金力に後押しされ、『飛鳥』はリリースからわずか三日でダウンロード数一位に躍り出た。それだけではない。多くのインフルエンサーを起用した宣伝も功を奏している。SNSでは毎日必ずトレンドの上位に『飛鳥』関連のワードが三つは入っていた。この成功によって、志帆の名声は一気に高まった。最近では、いくつもの経済番組からゲストとして出演依頼が舞い込んでいるという。今や、時の人だ。それに引き換え、詩織のほうはと言えば、目の前の仕事で手一杯だった。智也は、もう半月以上も泊まり込みで作業を続けている。詩織も、華栄キャピタルでの仕事を終えると、毎晩のように車を飛ばして智也のスタジオへ駆けつけ、手伝えることはなんでもやった。自分が少しでも多く作業をこなせば、その分、智也たちの負担が軽くなる。金曜の夜も、作業は深夜まで続いた。今夜は徹夜になるだろう、と智也が言うのを聞いて、詩織は皆の夜食を買い出しに出た。ところが、スタジオを出て自分の車に乗り込んだところで、詩織は愕然とした。ガソリンが、ない。このところ忙しすぎて、燃料計に目をやる余裕すら失っていた。レッカー車を呼ぼうとした、その時だ。一台の黒いベントレーが、彼女の車の隣に静かに停車した。後部座席の窓が下がり、中から声がかかる。「詩織?どうしたんだ、こんなところで」「……京介、さん?」思いがけない場所で、懐かしい顔に行き当たった。詩織は驚きを隠せない。「なにかあったのか?車、故障し
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第186話

柊也の体から、強い酒の匂いがした。どこかで飲んできた帰りなのだろう。詩織は、彼をドアの外で食い止めようと、無意識に体を張った。だが柊也は、それを読んでいたかのように、強引に彼女を押し退け、ずかずかと部屋の中へ上がり込んできた。借りている部屋は広くない。ワンルームとダイニングキッチンだけの、コンパクトな間取りだ。猫の額ほどのスペースを、柊也は一分もかからずに見て回った。詩織は彼を止めず、ただ静かにスマートフォンを取り出し、誰かにメッセージを送る。部屋に誰もいないことを確認すると、柊也は再び詩織の方へ向き直った。詩織はメッセージを送るのに夢中で、男がすぐそこまで迫っていることに気づかなかった。殺気を感じたときには、もう遅い。詩織は危険を察知し、反射的にあとずさる。だが、背後は玄関のドアだ。逃げ場は、ない。詩織の体は、あっけなくドアに押し付けられた。むき出しの敵意をまとった男の力は、女一人の抵抗でどうにかなるものではなかった。柊也はいとも簡単に彼女の動きを封じると、顎を掴んで乱暴に唇を塞ぐ。知らないようで、知っている匂い。アルコールと混じり合ったその香りが、詩織の鼻腔を突き、目の奥が熱くなった。詩織はためらわず、平手で柊也の頬を打とうとする。しかしそれも読まれていた。手首を掴まれ、頭の上へと強引に引き上げられる。詩織の上半身が不本意に反らされ、かえって男が動きやすい体勢になってしまった。柊也はそれをいいことに、さらに深く、執拗にキスを続ける。手足も体も、まったく力が入らない。唯一できる抵抗は、彼の唇に噛みつくことだけ。詩織は、一切のためらいなくそうした。だが、その行為は男の狂気を止めるどころか、むしろ火に油を注ぐ結果にしかならない。柊也は顔を逸らし、今度は詩織の鎖骨に、牙を立てるように強く噛みついた。その痛みは、容赦がなかった。「っ……!」詩織は激痛に身をよじる。「賀来柊也、あなた、一体なんなの!」「離して!」柊也はなにも答えず、ただ世界をすべて焼き尽くしてしまいそうなほどの殺気を全身から立ち上らせている。彼女の細い腰を摑んでいた手は、そのまま乱暴に、寝間着の胸元を掴んで引き裂いた。ビリッ、と布が破れる音。その音を合図に、詩織の張り詰めていた神経の糸がぷつりと切れた
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第187話

志帆が駆けつけたとき、柊也は道端の花壇の縁に腰かけ、一人で煙草を吸っていた。もうほとんど燃え尽きそうなそれを、彼はただ指先に挟んだまま、動こうとしない。夜風が吹き抜けていく。火の粉を散らした灰が、手の上にぽとりと落ちた。じり、と焼けるような熱さに、思わず手が震える。彼は遠くへ向けていた視線を、自分の手元に戻した。痩せた手の甲に、煙草の火が残した赤い痕が、くっきりと浮かんでいる。痛みは、感じなかった。彼はただ、短くなった煙草を再び口にくわえ、麻痺したように数回、煙を吸い込んだ。そしてようやく、燃え尽きた吸い殻を花壇の土に押し付けて、火を消した。「柊也くん」 ようやく志帆が、彼の名を呼んだ。立ち上がる頃には、柊也はもういつもの、何事もなかったかのような無表情に戻っていた。穏やかで、冷淡な顔。彼が尋ねる。「どうして来た?」たばこを立て続けに吸ったせいだろうか。彼の声は、いつもよりひどくしゃがれて低かった。志帆は少し間を置いてから言った。「江崎さんからメッセージが来たの。柊也くんがここにいるから、迎えに来てほしいって」その答えに、柊也は驚かなかった。詩織は、本当に「完璧な元カノ」だった。別れると決めたら、二度と振り返らない。最初から最後まで、彼とはひとかけらの関わりさえ持ちたくないのだ。「行くぞ」柊也は、それ以上なにも言わなかった。本当は、志帆には彼に聞きたいことが山ほどあった。どうして、詩織に会いに来たの?二人の間に、一体なにがあったの?そして、どうして詩織は、私に柊也くんを迎えに来て、なんて連絡をしてくることになったんだろう?けれど、その疑問はすべて胸の奥でつかえて、言葉にならなかった。柊也のほうも、なにも説明する気はないようだった。志帆は心の中の疑問をすべて飲み込んで、小走りで彼の後を追う。「……次は、もうあんなに飲んじゃだめだよ」柊也が「ああ」と短く応える。車に乗るなり、柊也は目を閉じた。その顔に表情はなく、まとう空気はただひたすらに冷え切っている。志帆が車を発進させ、Uターンした、その時だった。通りの向こう側にあるコインパーキングに、見覚えのある一台の車が停まっているのが目に入った。志帆の胸に、ふと疑問がよぎる。京介の車が、どうしてここに……?…
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第188話

愛し合った記憶の中でひときわ輝く瞬間は、二人の関係を繋ぎとめる最後のお守りになる。でも、愛を裏切った相手には、どんなお守りも意味をなさない。詩織が七年間も関係を続けてこられたのは、そこに第三者がいなかったからだ。だから、過去の美しい記憶を盾に、自分を納得させることができた。この一年、柊也がどれだけ冷たくなっても、無視されても、受け入れることができたのだ。けれど、裏切りだけは、どうしても許せなかった。裏切りは、裏切った側ではなく、裏切られた側を殺すのだから。昨夜はほとんど眠れなかったというのに、朝の五時五十分、詩織はいつも通りに目を覚ました。おそらく、布団から手足が出ていたのだろう。ひどく冷え切っている。だから、あんな夢を見たのか。もう終わったことなのに。思い出せば、今でも胸が揺さぶられる。人はコンピューターのファイルじゃない。都合よく削除したり、保存したりなんてできない。人はただ、時間がすべてを洗い流してくれるのを、待つしかないのだ。午前中、京介が自ら詩織の会社、華栄キャピタルまで足を運び、車を交換しに来てくれた。予想外の来訪に、詩織はかえって恐縮してしまう。「わざわざ来てもらっちゃって、ごめんね。午後に小林さんに届けさせるつもりだったのに」「だろうと思ったから」だから、自分で来たんだ。京介はそう言って柔らかく笑った。最近は仕事で顔を合わせる機会もなく、詩織が多忙を極めていることは知っていた。だから、しばらく会えていなかった彼女の顔を見るためにも、自ら足を運んだのだ。もちろん、そんな下心はおくびにも出さず、プロジェクトの状況を尋ねる。「順調に進んではいるんだけど、とにかく人手が足りなくて。みんなで残業して、なんとか間に合わせてる感じかな」「何か手伝えることがあったら、いつでも声をかけて」「……ありがとう」京介は少しだけ話すと、すぐに腰を上げた。今の詩織は、息つく暇もないほど忙しい。自分がここに長居するのは、かえって邪魔になるだけだろう。華栄キャピタルを出た直後、太一がグループチャットで全員にメンションを飛ばした。【今、志帆と江ノ本市で一番有名な経済誌の取材を受けてきた!表紙、めっちゃ綺麗に撮れてっから、来月発売したらみんな買えよな!】譲が「OK」のスタンプ
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第189話

「いつの間に、そんなに私の好みを把握したの?」詩織が尋ねると、密は「観察です!」と胸を張る。「ボスの好みを把握するのは、秘書として一番大事なことですから。その方が、もっときめ細やかで効率的なサービスができますし、いい仕事の関係も築けますしね」「密の成長には本当に驚かされるわ」詩織が素直に褒めると、密は少しだけ得意げに笑った。「私が仕えてるのが、最高のボスだからです!」「ささ、早く食べてください。冷めたらおいしくなくなっちゃいますよ」密に急かされ、詩織は食事を始める。密はソファの隅に座ってスマホを眺めていたが、何かを見つけたらしく、ぷんぷん怒りながら呟いた。「っ、よくもまあ、どのツラ下げてこんな賞もらえるんだか!」「何のこと?」仕事の手を止めずに、詩織が聞き返す。「柏木志帆ですよ!エイジアの年間最優秀社員賞、本当に彼女が受賞したみたいです!」詩織はぴしゃりと言った。「大げさよ。……ごちそうさま。みんなに連絡して、すぐ会議だって伝えて」言い終えると、詩織は再び仕事に没頭した。その日も、残業は夜十一時過ぎまで続いた。家に帰り着いたのは、もう十二時を回っている。シャワーを浴びてベッドに倒れ込むと、一秒で眠りに落ちてしまいそうだった。だが、意識が完全に途切れる寸前、詩織はかっと目を見開く。最後の気力を振り絞ってベッドから這い出すと、ダイニングテーブルへ向かう。そして、花瓶代わりに使っていたトロフィーを掴み、キッチンのゴミ箱へためらいなく叩き込んだ。一瞬の間を置いて、ゴミ袋の口を固く縛る。そのままドアを開けて階下へと向かい、マンションのゴミ捨て場にそれを力任せに放り投げた。すぅっと、胸のつかえが下りる。満足して部屋に戻り、今度こそ深く眠るため、詩織はベッドにもぐりこんだ。『ココロ』の正式リリース三日前。詩織は製品発表会のため、主要なメディア各社を招待しようとしていた。ところが、何社に連絡しても、返ってくる答えは同じだった。「その日はあいにく予定がありまして」。前後の日ならいつでも対応できるが、発表会の当日だけは都合がつかない、と。一社や二社なら偶然かもしれない。だが、こうも立て続けに同じ返事が続けば、さすがに疑念が湧く。知人の記者に頼んで裏を探ってもらうと、すぐに真相が判明した。『ココロ
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第190話

七年間?それが何だというの?男も、仕事も、後から来た私が追い抜いてみせる!志帆が自分を標的にしていることはわかっていた。けれど、ここまであからさまとは、さすがに想像していなかった。同じ日に祝賀パーティーをぶつけてくるだけならまだしも、開催するホテルまで同じだなんて!その事実を密から聞かされた時、詩織は怒りを通り越して、思わず乾いた笑みを浮かべてしまった。「詩織さん、ここは避けたほうがいいんじゃ……?」密が心配そうに尋ねる。今、一番勢いがあるのは志帆のほうだ。正面からぶつかれば、『ココロ』に勝ち目はないかもしれない。ここは一度引いて、別の場所で発表会を開くのが賢明だ。今日までの詩織なら、きっと密の提案を受け入れただろう。感情で動くのは、彼女のやり方ではない。すべてはプロジェクトの利益を最優先に考えるべきだ。だが、今の彼女は違う。その胸には、確かな勝算があった。だから、引くつもりはなかった。密は、詩織にどんな策があるのか見当もつかない。けれど、彼女がそう決めたのなら、きっと何か考えがあるのだろう。そう信じて、それ以上は聞かなかった。ただ、その指示に従うだけだ。それは、開発責任者である智也も同じだった。彼もまた、詩織に全幅の信頼を寄せていた。三日後、発表会は予定通り開かれた。その知らせに、志帆は人知れず笑みをこぼす。詩織はもっと賢い女だと思っていたのに。どうやら、買いかぶりすぎていたらしい。まあいいわ。これで自分の身の程を、骨の髄まで思い知ることになるでしょう!顔がいいだけの、中身のない女。何で私と張り合おうっていうのかしら。私にあるのは、見た目だけじゃないのよ。この間、柊也が酔って詩織のもとへ行ったことは、さすがに少し気になった。でも、すぐに思い直した。男なんて、一度手に入れた女に多少の執着心を見せるものだわ。私も、京介の動向はつい気にしてしまうじゃない。でも、それはただ見ているだけ。それ以上の意味はないし、ましてや何かを起こす気もない。大人だから、損得勘定で動くのが当たり前。それに、本当に柊也が詩織に未練があるなら、七年も何もないまま終わるはずがない。だから、賢い私はその件には触れなかった。柊也も何も言わなかったし、二人の関係は少しも変わらなかった。
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