All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

詩織の全身が、まるで内側から光を放っているようだった。会場のすべての視線が、彼女一人に引き寄せられる。誰もが、彼女を見ていた。ふと振り返ると、柊也がその光景に我を忘れたように見入っている。その横顔を見て、志帆の顔からさっと血の気が引いた。ドレスの脇で垂れ下がっていた手が、ゆっくりと固く握りしめられる。爪が掌に食い込む痛みも感じなかった。この瞬間、自分がひどく滑稽な道化のように思えた。詩織が何を語っているのか、もう一言も耳に入ってこない。志帆はかさついた唇をなんとか動かし、絞り出すように彼の名を呼んだ。「柊也くん……気分が悪いわ。もう、帰りましょう」幸いにも、柊也はすぐに我に返り、詩織から視線を外した。「ああ」彼は志帆の体を支え、会場を後にする。車に乗り込んだ瞬間、張り詰めていた志帆の神経がようやく少しだけ緩んだ。「少し休暇を取るといい。ゆっくり休め」柊也は、まだ自分のことを気遣ってくれている。その態度に、志帆の心はいくぶん救われた。「大丈夫。一晩休めばよくなるわ」こんなことで、くじけてはいられない。ここで負けを認めるわけにはいかない。今回、詩織が自分に勝ったのは、ただのまぐれだ。あの女の運が、そう何度も続くはずがない。だから、ここで気力を奮い立たせ、もう一度自分の陣地を、そして海雲をはじめとする皆の心を、自分の手で取り戻すのだ。確かに今日の詩織は、脚光を浴びていた。おそらく、柊也でさえ彼女を見直しただろう。でも、それがなんだというの?彼の心は、今も自分のここにある。それだけで、十分じゃない。……『ココロ』の発表会がもたらした空前の成功は、詩織の予想をはるかに超えていた。提携を申し出る企業が、文字通り列をなしている。それだけではない。『ココロ』の登場は、世界中で大きな議論を巻き起こした。世界中のAI専門家たちが『ココロ』を絶賛し、「世界のAI開発の構図を塗り替えた」「高コスト・長期間というAI研究開発への固定観念を覆した」と評価する。海外メディアの一部は、これを「AIのスプートニク・ショック」とまで呼んだ。国際社会に驚きと称賛をもって迎えられた『ココロ』は、社会現象と呼べるほどのテクノロジーとなり、ついには技術覇権を握る国家の戦略にさえ、多方面から衝撃を
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第202話

太一は慌てて画像を拡大し、絶句した。今月の特集インタビューと表紙は志帆のはずだった。それがなぜ、突然江崎に変わっているんだ?頼む、志帆ちゃんはまだ見てないでくれ!太一は心の中で祈りながら、メッセージを送信取り消しにする。まだ投稿してから時間は経っていない。間に合うはずだ。ついでに譲にも合図を送る。譲もすぐに意図を察し、自身の発言を削除した。二人の見事な連携プレーによる隠蔽工作だったが、それは何の意味もなさなかった。志帆は、見ていたのだ。ただ何も言わなかっただけ。いや、言葉が見つからなかったと言うべきか。彼女は静かにスマートフォンを置くと、経済誌の編集長に直接抗議の電話をかけた。受話器の向こうから聞こえてくるのは、「上層部の決定でして」「私どもとしても話題性と売上を優先せざるを得ず」「どうかご理解ください」といった、事務的で冷たい言い訳ばかりだった。電話を切った志帆は、憤然としてスマートフォンを放り出した。顔色は最悪だ。「お姉ちゃん、コーヒーでも飲んで落ち着いて」美穂が慌ててなだめにかかる。「あいつらなんて所詮、相手の顔色見て態度を変えるような連中だよ。江崎詩織だって、『ココロ』がたまたま当たって調子づいてるだけ。今はちょっと話題になってるからって、お姉ちゃんと比べものになるわけない」美穂はさらに言葉を重ねる。「でも、あいつがいい気になってられるのも今のうちだって!お姉ちゃんはなんたって、あのWTビジネススクールで経済学博士号まで取ったエリートだよ?柏木家と森田家、一族の誇りなんだから。江崎詩織なんかじゃ、一生かかったって届かない場所にいるんだってば!柊也さんも、お姉ちゃんの才能に惚れ込んで、三顧の礼を尽くしてユニコン・バンクから引き抜いたんでしょ?たった一回これくらいのことで、気落ちすることないよ」美穂の畳みかけるような励ましに、志帆の胸のつかえが少しずつ降りていく。確かに、その通りだ。「ほら、お化粧直して!もうすぐ柊也さんが迎えに来る時間でしょ?リゾートで気晴らししようって言ってくれてるんだから、しゃきっとしなきゃ!」「……そうね」そうだ、柊也がいる。『飛鳥』が『ココロ』に負けたことで私が落ち込んでいるのを心配して、わざわざ忙しい中時間を作ってリゾートへ連れ出してくれるのだ。そう思うと
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第203話

詩織はこの日のために、わざわざスケジュールを空けていた。すべては海雲への敬意とお祝いのためだ。以前、柊也からこの件について水を向けられた際は無視を決め込んだが、それは単に彼の相手をするのが億劫だったからに過ぎない。今日の訪問は、あくまで詩織個人の意思であり、柊也の「ついで」などでは決してなかった。賀来家の屋敷を訪れるのはずいぶんと久しぶりだが、その静謐な佇まいは記憶の中と変わっていない。門はわずかに開かれており、少し力を込めるだけで詩織を招き入れてくれた。リビングの掃き出し窓越しに、ソファに腰掛けた海雲がこちらの姿を認める。彼が傍らに控える家政婦の松本に何かを囁くのが見えた。すぐに松本が満面の笑みで出迎えてくれた。「詩織さん、お待ちしてましたよ。さあ、どうぞ中へ。あなたが揃えば全員集合ですから」私が揃えば?まさか、柊也も来ているのだろうか。詩織の足が一瞬止まりかけたが、すぐに思い直した。二人は親子なのだ、柊也が実父の祝いで顔を出すのは当たり前のことだ。気になるのは、志帆まで同席しているかどうかだが……いや、誰がいようと関係ない。今日の主役はあくまで海雲であり、他の客の顔色をうかがう必要などないのだから。詩織は背筋を伸ばし、堂々とした足取りで屋敷へと足を踏み入れた。通されたリビングには海雲の姿があるだけで、柊也は見当たらない。もちろん、他の客の姿もなかった。海雲はお茶を楽しんでいるところだった。詩織は手土産を差し出しながら、柔らかく微笑んだ。「これ、産地から直接取り寄せた最高級の玉露です。お口に合うといいんですが」「ほう、それは嬉しいね」海雲は目を細めて贈り物を受け取ると、自ら急須を手に取り、手慣れた手つきで詩織のために一煎淹れてくれた。詩織はそれを両手で恭しく受け取る。海雲も一口啜り、その香りと味わいに満足げに頷いた。「素晴らしい香りだ。これほどの手摘み茶はそうそう手に入らない。ずいぶんと気を使わせてしまったね」「いいえ、そんな。友人の実家が茶園の近くでして、運良く譲っていただけただけですから」謙遜する詩織の傍らで、松本が微笑ましげに口を挟んだ。「柊也様が贈られたのも、確か同じ銘柄でしたよ。お二人とも気が合いますこと。示し合わせていらしたんですか」その言葉に、詩織は少
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第204話

妙に懐かしい味がする。どこかで食べたことがあるような……そんな既視感。詩織は首を傾げながら、もう一口確かめるように飲んだ。だが、彼女は美食家ではない。味覚の記憶を正確に分析し、再現できるほどの舌は持っていなかった。二口目には、その微かな違和感はもう消えていた。所詮は鶏の煮込みスープだ、店や作り手が違っても似たような味になるのだろう。スプーンを置き、詩織は淡々と言った。「悪くないですね」その言葉を聞き届けてから、柊也は黙ってキッチンへと戻っていった。残った松本も味見をして、「あら?」と声を上げた。「少し甘いわ。柊也様、お砂糖を入れたのかしらね」松本は困ったように苦笑する。「まったく、海雲様は糖質を控えなきゃいけないのをご存知なのに、どうしたことでしょう」その言葉に、詩織はすかさず海雲に釘を刺した。「おじ様、あまり飲みすぎないでくださいね」食卓は彩り豊かだった。松本の説明によると、並べられた料理のうち四品は、柊也の手によるものらしい。奇遇にも、その四品すべてが詩織の好物だった。もし彼が志帆にゾッコンだと知らなかったら、勘違いしてしまいそうな偶然だ。意外だったのは、柊也の料理の腕が思いのほか悪くないことだった。ただ、全体的に味付けがやたらと甘い。幸い、残りの皿はベテランの松本が腕を振るったものだったので、海雲が箸をつけるものに困ることはなかった。食事が半分ほど進んだ頃、柊也のスマートフォンが震えた。隣に座っていた詩織の目には、画面に表示された「柏木志帆」の文字がありありと飛び込んできた。柊也は無言で席を立ち、通話のために部屋を出て行った。……随分と話し込んでいるようだ。詩織は気に留める様子もなく、黙々と食事を続けた。一方で、松本は気が気でないようだった。「まったく柊也様ったら。何の電話か知らないけど、こんなに長く待たせて。せっかくのご飯が冷めちゃうじゃない。この季節は冷えるのが早いのに」そりゃあ、本命の彼女からの電話だもの。重要でないわけがない。柊也がようやく戻ってきた頃には、テーブルの上の料理はほとんど片付いていた。「本当に。上着も着ないで外に出たら風邪を引きますよ」松本の小言に、柊也は短く答えた。「平気だよ」詩織も、平気なんだろうなと思った。恋の熱があれば、寒さ
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第205話

そのために、密かにプレゼントまで用意していたのに。結局、当日になっても彼からの言葉はなかった。待ちきれなくなった志帆は、プライドをかなぐり捨てて賀来家まで押しかけ、あの電話をかけたのだ。電話越しに不満をぶつけた後、柊也はすぐに出て行くとなだめてくれた。そして実際に彼は出てきてくれた。それで少しは気が晴れたはずだったのに。よりによって、あの女がこの家から出てくるのを目撃してしまうなんて。抑圧された嫉妬と焦りが、再び火を吹いた。柊也の瞳は冷ややかで、感情の色は見えない。だが、そこには強い圧力が潜んでいた。彼は静かに問いかけた。「本当に、父さんに会う気か」「……当たり前じゃない」「わかった。連れて行く」柊也は短く告げた。「その代わり、何があっても耐えろよ」言葉通り、彼は志帆を連れて屋敷へと引き返した。玄関のチャイムが鳴る。詩織が忘れ物でもしたのかと思った松本が、笑顔で扉を開けた。「あら、詩織さん。何かお忘れ……」そこに立っていたのが柊也だと気付き、松本は不思議そうな顔をした。「おや、柊也様。どうして戻ってらしたの?詩織さんとは入れ違いですか?」志帆は柊也の背後からひょいと顔を覗かせた。「こんにちは」松本はその顔に見覚えはなかったが、声には聞き覚えがあった。口を開いた瞬間、彼女の正体を悟った松本の表情が、さっと曇る。「どなたですか。存じ上げませんね。お引き取りください」使用人にこれほど無礼な態度で追い払われるなど、志帆にとって初めての経験だった。彼女は不快げに眉をひそめた。「あの、私は柊也くんの恋人です。海雲おじ様のお祝いに伺ったんですが」「柊也様に恋人ができたなんて話、聞いておりませんよ。お帰りください」松本はそれだけ言い放つと、ピシャリと扉を閉めた。柊也ごと、二人を締め出したのだ。志帆はしばらく呆気にとられていたが、助けを求めるように柊也を振り返った。彼なら何か言ってくれるはずだと思ったのだ。だが、柊也の顔には何の感情も浮かんでいない。目元に冷ややかな諦めのようなものが漂っているだけだ。「……だから言っただろ。連れてこなかった理由がわかったか」海雲が気難しい人物だとは聞いていた。だが、ここまでとは思わなかった。わざわざ足を運んだのに、海雲本人に会うどころか、た
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第206話

諦めきれない太一は、スマホを取り出し詩織にメッセージを送ろうとした。送信ボタンを押した瞬間、目に飛び込んできたのは赤いビックリマーク。エラー通知だ。太一は呆然と画面を見つめた。嘘だろ……いつの間にブロックされてたんだ?全然気づかなかった。万策尽きた彼は、藁にもすがる思いで柊也に電話をかけた。「柊也、柊也!お願い、ちょっと助けてよ」「どうした」「江崎に連絡取ってくれませんか?仕事の話があるからブロック解除してくれって伝えてほしいんすよ」電話の向こうで、柊也が深くため息をついた気配がした。「悪いが無理だ。俺もブロックされてる」太一は絶句した。「はあ!?あんたまでブロックされてんの?」太一の認識では、詩織という女は柊也に対して絶対服従、右と言えば右を向くような存在だった。たとえ地殻変動が起ころうとも、彼女が柊也をブロックするなんて事態はありえないはずなのだ。なにせ七年だぞ?七年もの間、彼女は柊也に尽くし抜いてきた。腐れ縁なんて言葉じゃ生ぬるいほどの執着を見せていたのに、そう簡単に切れるわけがない。以前、詩織が会社を辞めた時も、周囲は皆「ただの痴話喧嘩だろ」と高を括っていた。気が済めば、また以前のように尻尾を振って柊也の元へ戻ってくる。あの忠犬が、飼い主に逆らうわけがないと。彼女が自分で会社を立ち上げたのも、プロジェクトを成功させたのも、結局のところ柊也への当てつけか、あるいは「私を見て」というパフォーマンスに過ぎないと思っていたのだ。それなのに、柊也までブロックされているだと?「マジかよ。あいつ、あんたのことまで眼中になしかよ」太一の声が裏返る。「……ああ」柊也の声は平坦で、その奥にある感情は読み取れない。「ま、まあ気にすんなって。柊也には志帆ちゃんがいるんだし」咄嗟にフォローを入れた太一だったが、返ってきたのは無機質な通話終了の合図だけだった。プツッ、ツーツー……スマホを耳に当てたまま、太一は瞬きをした。今の慰め方、マズかったか?なんとなく、柊也が不機嫌になったような気がする。まあいい、人の機嫌を案じている場合じゃない。今の自分は泥舟に乗っているようなものだ。問題は、どうやって詩織という氷の壁を突破するかだ。翌日、太一は再び『華栄キャピタル』へ突撃した
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第207話

年末が近づき、街は慌ただしさを増している。詩織もまた、殺人的なスケジュールに追われていた。母の初恵に見舞いに行く時間すら取れないほどだ。出張先の空港で搭乗待ちのわずかな隙間を見つけ、詩織は初恵に電話をかけた。「お母さん、病院の検査ちゃんと行ってね」心配そうに念を押すと、初恵は明るい声で答えた。「あら、もう済ませたわよ。先週行ってきて、今は結果待ち」詩織は言葉に詰まった。「え……一人で行ったの?」「ううん、柊也くんが付き添ってくれたのよ」は?詩織の眉間に深い皺が刻まれた。あいつ、一体何を考えているの?母には関わるなとあれほど言ったはずなのに。もう限界だ。これ以上、母に隠し通すのは無理がある。詩織は腹を括り、柊也との破局を打ち明けることにした。「お母さん、実はね。私と柊也……もう」その時、横にいた智也が声をかけてきた。「詩織さん、搭乗始まるよ!」……ダメだ、タイミングが悪すぎる。こんな込み入った話、電話で、しかも搭乗直前の数分で片付けられるわけがない。中途半端に伝えて、離れている母を余計に不安にさせるだけだ。もうすぐ正月休みになる。その時に膝を突き合わせてゆっくり話そう。「……ううん、なんでもない。もう行かなきゃ。お母さんも体に気をつけてね」詩織は慌ただしく通話を切った。今回の出張先は北里市。『東華キャピタル』との正式契約を結ぶためだ。調印式は滞りなく終わった。「以前、『エイジア』のパーティーでお見かけした時から、あなたは只者ではないと思っていましたよ」東華の坂崎社長が、上機嫌で詩織を称えた。その言葉に、詩織はふと苦笑した。この縁も、元を辿れば柊也のおかげということになるのか。彼があのパーティーで、私に酌をするよう命じたからこそ、坂崎社長の記憶に残ることができたのだから。そうでなければ、実績も後ろ盾もない自分が、東華のような大企業と渡り合えるはずもなかった。皮肉なものだ。帰りの機内、智也がふと尋ねてきた。「ねえ、正月の予定は決まってるの?」「実家で母とゆっくり過ごすつもり。それだけかな」詩織にとって、それがこの連休唯一にして最大の計画だった。「紬がさ、詩織さんと遊びたいって言ってたんだ」「本当?もちろんいいわよ。いつでも遊びに来てって伝えて」「うん、わかった」
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第208話

一昔前なら、正月といえば親戚や知人の家を回って歩くのが習わしだった。けれど今は、SNSやメッセージアプリでの挨拶が主流だ。今年はいつにも増して、詩織の元に届く新年の挨拶が多かった。なにしろ今の彼女は、一介の秘書ではない。『華栄キャピタル』の社長であり、AIプロジェクト『ココロ』の共同創設者なのだから。もはや誰も、彼女を「賀来柊也の付属品」とは見なしていない。やっぱりお金って素晴らしい。男なんかより、よっぽど頼りになるわ。詩織は膨大なメッセージの中からいくつかを選んで返信し、ついでにSNSにも新年の挨拶を投稿した。「穏やかな一年でありますように」毎年変わらず、この言葉だけを記すのが彼女の流儀だ。以前、柊也に尋ねられたことがある。「みんなハッピーニューイヤーとか景気のいいこと書くのに、どうしてお前だけそんな地味なんだ?」母が病に倒れて以来、彼女は痛感していたのだ。「楽しい」ことよりも、「平穏無事」であることの方が、どれほど得難く尊いものかを。平穏であればこそ、喜びもまた生まれる。この言葉には、母の健康と安寧への切実な祈りが込められていた。投稿して間もなく、一通のメッセージが届いた。【穏やかな一年でありますように】詩織は画面をタップしたが、見覚えのないアイコンだった。アカウント名は『chill』。プロフィール欄は真っ白で、まるで作りたてのアカウントのようだ。仕事関係で名刺交換した誰かだろうか。よほど嫌な相手でない限り、連絡先を消したりはしない主義だから、登録されていること自体は不思議ではない。心当たりがないので返信はせず、詩織はスマホを置いてダイニングへ向かった。食事の後も、智也と紬はしばらく江崎家に残っていた。紬が最近の悩みを打ち明けてきた。大学でとある男子に猛アプローチされているらしい。人気スイーツの行列に並んでくれたり、図書館の席を取っておいてくれたり……とにかく献身的なのだという。話を聞き終えた詩織は、静かに諭した。「相手の手間や時間を、愛の深さだと勘違いしちゃダメよ。それは誰にでもできる安っぽい優しさなんだから」紬はハッとしたように、ちらりと智也の方を見た。どうやら兄のために、詩織の恋愛観を探ろうとしていたらしい。夜九時を回り、二人が帰る段にな
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第209話

「前の恋が君をどれだけ深く傷つけたか、分かってるつもりだ。だから僕も、ずっと気持ちを抑えてきたんだ。でも詩織さん、僕は柊也じゃない。絶対に君を傷つけたりしない」智也の言葉は熱を帯びていく。「今すぐ答えを出してほしいわけじゃないんだ。負担に思わないでほしい。友達のままでいいなら、それでも構わない。ただ、君を想うことだけは許してくれないか」彼は必死だった。「いつか君が、また誰かを愛そうと思える日が来たら……その時、僕を一番の候補にしてほしい。それだけでいいんだ」その真摯さに、胸が痛んだ。彼の姿に、かつての自分自身を重ねてしまったからだ。打算も計算もなく、ただひたすらに相手を想っていた頃の自分を。そんな「かつての私」を拒絶することなど、できるはずもなかった。詩織は静かに頷いた。智也が安堵の息を漏らす。「ハグしてもいい?」詩織は少し迷ってから、彼に歩み寄った。けれど抱きしめる代わりに、その肩を優しく叩いた。それは、過去の自分への励ましのようでもあった。「……あけましておめでとう、智也さん」……智也たちを見送った後も、詩織はしばらく外に留まっていた。冷たい夜風に当たり、熱った頭を冷やしたかったのだ。ふいに、対岸の空がパッと明るく染まった。花火だ。今年の元日は珍しく晴れている。夜空に咲く大輪の花火は、澄み切った空気の中でより一層鮮やかに輝いて見えた。見とれていると、ポケットの中でスマホが震えた。京介からだ。「もしもし」「詩織、あけましておめでとう」「あけましておめでとう」「花火、見えたか?」唐突な問いかけに、詩織は眉を上げた。「どうして私が花火を見てるって分かったの」「勘だよ」電話の向こうで彼が笑う気配がした。詩織は冗談めかして言った。「まさか、対岸で上げてるのって京介さん?」「お、正解。ご褒美は何がいい?」詩織は絶句した。「……マジで?」「ああ」江崎家の向かい側は開発前の寂しいエリアだ。京介の自宅がある高級住宅街とは方向がまるで違う。わざわざこんな辺鄙な場所まで来て、花火を上げたというのか。さっき智也に告白されたばかりだというのに。詩織は眉間を揉んだ。どうして急に、モテ期なんてものが押し寄せてくるのかしら。いや、考えすぎだ。自意識過剰になるのはよそう
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第210話

夜十時過ぎ。仕事を片付けた詩織は、そろそろ休もうとベッドに入った。ふと枕の下に手を差し込むと、二つのポチ袋が隠されていた。指で厚みを確かめると、結構な額が入っているようだ。物心ついた頃から、誕生日と正月には、母の初恵が必ず二つのお年玉を用意してくれる。「どうして二つなの?」と幼い頃に聞いたことがある。「他の子はみんな、お父さんとお母さんから一つずつ貰うでしょう?あなたも同じよ」母はそう答えた。父親がいない寂しさを感じさせないように、自分一人で二人分の愛情を注ぐのだという、母なりの決意だったのだろう。そのおかげで、詩織は片親だからといって引け目を感じたことも、不幸だと思ったことも一度もなかった。世界一のお母さんがいるのだから、何ひとつ欠けていない。ポチ袋を抱きしめて温かい気持ちに浸っていると、スマホが震えた。画面を見るまでもない。相手は分かっている。開けば案の定、海雲から送金通知が届いていた。毎年、この時間に正確に送られてくるお年玉だ。だが今年は受け取りボタンを押さなかった。柊也とは別れたのだ。今さら彼の父親から金品を受け取るわけにはいかない。詩織は丁重に辞退するつもりで、【穏やかな一年でありますように】とだけメッセージを送った。いつもなら既読スルーが定石の海雲だが、今年は珍しく返信があった。【穏やかな一年でありますように】そして追撃でお年玉の受け取りリマインドが届く。【受け取り忘れておるぞ】詩織は意を決して打ち込んだ。【おじ様。私、柊也とはもう別れましたから】だから、もうお年玉をいただく立場ではありません、という意味を込めて。だが、海雲の返信は簡潔にして剛速球だった。【私が小遣いをやるのに、息子の事情なぞ関係あるか。まだ私のことを叔父貴分と思ってくれるなら受け取れ。嫌なら結構だが】ここまで言われては拒めるはずもない。詩織は慌てて受け取りボタンを押し、感謝のメッセージを送った。【ありがとうございます、おじ様】日付が変わる頃、再び外で花火が上がり始めた。賑やかすぎるその音を遮るように、詩織はイヤホンを装着した。喧騒をシャットアウトして、静寂の中で新しい年の眠りにつくために。翌朝の食卓で、初恵が尋ねてきた。「昨夜のカウントダウン花火、見た?」「見てないわ。九時過
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