All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 331 - Chapter 340

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第331話

あの時、譲の膝の上に座り、首に腕を絡ませて熱いキスを交わしていたのが彼女――神崎美咲だった。おそらく譲の数あるガールフレンドの一人だと思っていたが、こうしてこの格のパーティーに参加しているところを見ると、ただの遊び相手というわけでもなさそうだ。志帆もそのあたりを察したのか、柊也の腕を軽く引いた。「もういいわ、柊也くん。少し疲れちゃった。帰りましょう」あくまでも寛容で分別のある態度を装って。柊也はすぐさま険悪な気配を消し、志帆をエスコートして去っていった。二人がいなくなったのを見計らって、詩織は響太朗に挨拶をするため歩み寄った。美咲の側を通り過ぎる際、つい視線を向けてしまうと、彼女は茶目っ気たっぷりにウインクを返してきた。詩織が少し呆気にとられていると、そこへ恰幅の良い五十代の男性が現れた。美咲はすぐさまその男性にすり寄り、猫なで声を出す。「ダーリン、遅いじゃない。このパーティー退屈すぎて死んじゃいそうだったのよ。もう帰りましょう、疲れちゃった」「よしよし、悪かったな。お前の言う通りにしよう」男性は目じりを下げ、彼女のご機嫌取りに余念がない様子だ。詩織は気を取り直し、響太朗に声を掛けた。響太朗は少し長めに言葉を交わしてくれた。おそらく百合子との話し合いの内容を知っているのだろう、「期待しているよ」と後押ししてくれたのだ。詩織は、その期待に応えるべく全力を尽くすと約束し、深く頭を下げた。挨拶を済ませ、会場を去ろうとした詩織を呼び止める声があった。振り返ると、そこにいたのは悠人だった。詩織が怪訝な顔をする間もなく、悠人は苦虫を噛み潰したような顔で、短く告げた。「……すまなかった」決して大きな声ではなかったが、かといって聞き逃すほど小さくもない。周囲にいた何人かが、驚いたようにこちらを振り返る。当の詩織は、自分の耳がおかしくなったのかと思った。だが、悠人がまっすぐに自分を見て謝罪の言葉を述べたのだと理解した瞬間、眉間の皺が深くなった。一体どういう風の吹き回しだろう。薬でも間違えたのか、それとも多重人格か?最近、情緒不安定な人間が多すぎて頭が痛くなる。心底うんざりした詩織は、何も言わずに踵を返し、その場を立ち去った。取り残された悠人の表情が、さらに凍りつく。屈辱に耐え、自分から
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第332話

一度は無視したが、譲は切羽詰まった様子で再びかけてきた。仕方なく通話ボタンを押すと、電話越しに彼が言いにくそうに口を開いた。「あのさ、その花火……柊也が志帆を喜ばせるために上げたやつなんだ」詩織は絶句した。……最悪だ。とんだとばっちりだ。詩織は「教えてくれてどうも」とだけ告げて電話を切り、急いで投稿を削除しようとした。だが、既に「いいね」がついている。誰かと思って確認すると、アカウント名は『chill』だった。以前、新年の挨拶メッセージを送ってきた謎のアカウントだ。柊也の関係者でないなら問題ない。詩織は迷わず投稿を削除した。すると今度は譲からメッセージが届いた。【明日、何時の便で江ノ本に帰る?】仕事の用件でもあるのかと思い、詩織はフライトの時間を返信した。翌日、空港に到着すると、到着ロビーには譲の姿があった。「何か急ぎの用件でも?」と詩織が尋ねると、譲は「いや」と首を横に振った。適当な嘘も思いつかなかったようで、彼は観念したように白状した。「単純に、迎えに来ただけだよ」詩織はなんと答えていいか分からなかった。とはいえ、彼なりの善意であることは間違いないし、むげに断るのも大人げない。何より両社は提携関係にあるのだ。最低限の顔は立てるべきだと判断し、詩織は譲の車に乗り込んだ。その様子を、偶然目撃してしまった人物がいた。志帆だ。車に乗り込もうとしていた彼女の手が止まり、表情がスッと冷える。「どうした?」と柊也に問われ、「ううん、何でもない」と慌てて視線を逸らし、何食わぬ顔で助手席に座った。だが、柊也がハンドルを握り車を出した隙に、彼女は母の佳乃にメッセージを送った。【坂崎のおば様とは会った?江崎詩織のこと、伝えた?】佳乃からの返信はすぐに来た。【坂崎の奥様は海外旅行に行かれていて、昨日帰国されたばかりよ。今日、アフタヌーンティーをご一緒する約束をしているわ】志帆は、焦る指先で文字を打ち込む。【急いで。一刻も早く伝えて】時間が経てば経つほど不利になる。譲が江崎詩織の毒牙にかかってしまう前に手を打たなければならないという焦燥感が、彼女を駆り立てていた。ちょうど週末ということもあり、詩織は実家で母の初恵とゆっくり過ごそうと考えていた。そのため、空港からは譲に家まで送っても
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第333話

「へえ、開発局の方ですか」詩織は気の抜けた相槌を打った。男は片眉を跳ね上げた。「仕事内容、分かるかい?」「ええ、知っていますよ」詩織が微笑むと、男は意外そうな顔をした。詩織のような見てくれのいい女性に、堅い仕事の話など通じないと思い込んでいたのだろう。「どうして?詳しくなさそうなのに」詩織はお茶を一口すすり、淡々と答えた。「ウチの会社も、官公庁のプロジェクトをいくつか請け負っていますので」男の表情が一瞬強張ったが、それでも鼻につく態度は崩さなかった。「僕としては、結婚したら君には今の仕事を辞めてもらいたい。家庭に入って、専業主婦として家を支えてほしいんだ」詩織は怒るどころか、余裕すら漂わせて続きを促した。「それで?他には?」「うちの両親は、今年中に結婚して、来年には子供を産んでほしいって言ってるんだ。一年休んだらもう一人。理想を言えば、一姫二太郎がいいね。それから、結婚後は同居が条件だ。僕は一人っ子だから、両親を残して家を出るなんて考えられない。彼らが寂しがるからね。母さんが胃弱だから、食事はかなり気を使ってもらわないと困る。三食きっちり、消化にいいものをね。父さんは眠りが浅くて、朝は十時まで寝てるから、家の中では静かに過ごさなきゃいけない。朝食とは別にブランチも要るから、一日に四回は食事の支度が必要になるかな。ああ、僕が残業や付き合いで遅くなる時は、夜食も頼むよ」詩織は、ふむふむと頷いてみせた。男はそれを承諾のサインと受け取ったのか、さらに増長して問いかけてきた。「君のほうはどうだい?何か希望はある?先に言っておくけど、結納金は常識の範囲内で頼むよ。それに、持参金としてそのまま持ってきてもらうのが筋だからね」詩織はゆったりとした動作で口を開いた。「特に要求はないわ。ただ一つ、質問があるの」男は、詩織が自分の条件をすべて受け入れたと勘違いし、勝ち誇ったように言った。「何だい言ってみなよ」「ご両親って、打たれ強い?私、殴ると結構痛いわよ。普通の人は耐えられないかも」「…………は?」男がポカンと口を開けた。詩織は心底つまらなそうにため息をつき、時間の無駄だとウェイターを呼んで会計を済ませようとした。その時だった。目の前の男が突然立ち上がり、背筋を伸ばして最敬礼したのだ。「し、篠宮室長!こんなところで
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第334話

詩織は賢の提案を真剣に検討したが、最終的には断りを入れた。理由は他でもない。恋愛に対する気力が、今の彼女には残っていなかったからだ。もし自分が三十歳だったら、適齢期ということもあり考えたかもしれない。あるいは賢が二十六、七歳くらいの若さであれば、試しに付き合ってみようと思えたかもしれない。だが、賢は三十一歳。結婚への圧力が最も高まる時期だ。対して自分は、七年にも及ぶ長い恋を終わらせたばかりで、心は麻痺したまま。新しい恋に踏み出す準備など、到底できていない。そんな状態で受け入れれば、彼の貴重な時間を無駄にするだけだ。断るための、これ以上の理由はなかった。賢は紳士だった。断られてもなお、その態度は崩れることなく優雅なままだった。食事が終わり、別れ際、彼は一歩踏み込んでこう言った。「江崎さん。君はもっと、自分自身にチャンスを与えてあげるべきだと思うよ」詩織と別れた後、賢のもとに悠人から食事の誘いの電話が入った。賢は少し考えてから答えた。「今日は、酒が飲みたい気分だな」電話の向こうで悠人が怪訝な声を上げた。「何かあったんですか?」悠人の知る限り、篠宮賢という男は常に理性的で、感情の起伏が少ない人間だ。だからこそ一族の期待を背負い、政界という修羅場へ送り込まれたのだ。その彼が自ら酒を所望するとは、初めてのことだった。合流するなり、賢は黙々とグラスを空けていった。悠人がしつこく問い詰めると、ようやく重い口を開いた。「……さっき、好きな子に振られちゃってね。少し落ち込んでるんだ」「誰ですか、そんな見る目のない女は」悠人は心底驚き、興味津々といった様子で身を乗り出した。容姿端麗、家柄も申し分なく、人柄も完璧。幼い頃から、賢に言い寄る女性は数知れずいたはずだ。そんな彼を振るなんて、一体どこの誰なのか。だが、どれだけ問い詰めても、賢はそれ以上口を割ろうとしなかった。悠人も分かっている。この男が一度口を噤めば、テコでも動かないことを。「いい加減にしなさいよ。それくらいにして、本題に入らせてください」六杯目が空になったところで、悠人が賢の手を止めた。「なんの話だ?」賢は悠人の手を払い、手酌でもう一杯注いだ。酔いつぶれるつもりはない。自分の限界は弁えている。「賢さんが江ノ本に来て、もう
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第335話

じゃあ、賀来柊也はどうだ?あの二人の関係はどう説明する?自分はこの目で見たのだ。彼女の尻軽さを。悠人の頑固な性格を知り尽くしている賢は、それ以上無理に勧めることはしなかった。多言は無用だ。酒席がお開きになると、悠人は賢と別れ、恩師である高村静行の自宅へと向かった。静行は近々開催される情報オリンピックの出題作成に追われていたが、悠人の顔を見るなり、手すさびに書いた問題を突きつけて「解いてみろ」と命じた。悠人が正解を導き出すまでに、十五分かかった。「こんな初歩的な問題に十五分もかけるとはな」静行は不満げに鼻を鳴らした。こういう時、悠人は下手に言い訳をしない。ただ神妙に叱責を受け入れるのみだ。「この問題な、かつてたったの三分で解いてみせた奴がいたんだぞ」そう語る静行の声には、深い惜別の情が滲んでいた。「当時、あいつはまだ十四歳だった。あれほどの傑物はそうそういない……本当に惜しいことをした」悠人は恐る恐る尋ねた。「先生、それって……噂の『姉弟子』のことですか?」過去の経験則から言って、この話題に触れると静行は豹変する。今回も例外ではなかった。彼は手近にあった定規で悠人の頭をピシャリと叩いた。「誰が喋っていいと言った!」叩かれた痛みと共に、悠人は確信を得た。やはり……自分の推測は間違っていない。その伝説の天才少女こそ、柏木志帆その人に違いない。一体いつになれば、兄弟弟子として名乗り合えるのだろうか。その日が一日も早く訪れることを、悠人は密かに心待ちにしていた。……賢と別れたその足で、詩織はわざわざ遠回りをして、評判のパティスリーへと向かった。仕方がないだろう。お見合いがあんな形で破談になった以上、帰宅すれば母からのお説教コースは確定だ。少しでも当たりを柔らかくするために、甘いもので母の口を塞ぐ――もとい、ご機嫌をとる作戦である。「人の口に戸は立てられぬ」と言うが、美味しいケーキでなら一時的に封印できるかもしれない。この店は今話題の人気店で、購入するには行列が必須だ。詩織は整理券を受け取ると、ロビーの隅にある目立たない席に腰を下ろした。呼び出しまでの待ち時間、スマホを取り出して溜まっていた業務メールを処理し始める。仕事に没頭するあまり、詩織は気づかなかった。すぐ近くのテーブル席
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第336話

悦子は「はぁ」と大きなため息をついた。「あの子が連れてくる子なんて、どの子もそんなものよ。私が気に入った試しがないんだから」そう言われて、佳乃は口元だけで笑った。「確かに、譲くんの女性を見る目はもう少し磨く必要がありそうですね。だって、その女性は本当にダメな人なんですもの!私、心配でつい……」あまりに熱心に言いつのるので、さすがの悦子も少し興味が湧いたようだ。「そこまで言うなんて。で、その女ってのは何て名前なの?」ちょうどその時、カウンターで詩織の整理番号が呼ばれた。詩織は商品を受け取るために席を立つ。一方、テーブル席では、佳乃がついにその名を口にしていた。「江崎詩織」悦子は小首をかしげた。「あら?どこかで聞いたことがあるような……」佳乃が追撃しようと口を開きかけた瞬間、悦子が手を挙げて制した。「ちょっと待って。主人に確認してみるわ」言うが早いか、彼女は夫・春臣に電話をかけ始めた。コール音が止むと、悦子はスマートフォンに向かって早口で問いかけた。「あ、あなた?この間あなたが言ってた女の子、名前なんて言ったかしら?確か、江崎とか言わなかった?」電話の向こうで、春臣が名前を告げる。悦子はパン!と大げさに膝を叩いた。「そう、江崎詩織!間違いないわね!」彼女は弾んだ声で叫んだ。「ビンゴよ!あなた、すぐにバカ息子に電話してちょうだい。早く家に帰って、詳しく報告させなさい!」佳乃は、悦子の剣幕を見て、てっきり「息子をたぶらかす悪女を成敗しに行く」のだと勘違いした。彼女は満足げに、にやりと笑みをこぼす。あの様子じゃ、坂崎夫婦も最初から江崎詩織の正体に気づいていたのね。だから名前を聞いた瞬間、あんなに色めき立ったんだわ。どうやら取り越し苦労だったようだ。悦子は本当に急いでいたようで、電話を切るなり「家で用事があるから」と慌ただしく席を立った。「ええ、構いませんわ。お引き止めしてごめんなさいね。こういう問題は、善は急げですもの」佳乃は親切な友人の顔をして、店先まで彼女を見送った。悦子の姿が見えなくなるのを確認してから、佳乃は志帆に電話をかけた。坂崎夫人は詩織を快く思っていないようだと伝えると、電話口の志帆は明らかに安堵した様子を見せた。「だから言ったでしょう。あなたが心配する必要なんてないのよ。江崎詩織の
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第337話

春臣も助け舟を出すように口を挟んだ。「まあ、精進することだな。あのお嬢さんは私も高く買っている。仕事ができるし、度胸もある。何より頭がいい。お前の足りないところを補うにはうってつけだ」「……」譲は無言になった。遠回しに「お前はバカだ」と言われた気がする。春臣にとって、何よりも優先すべきは「能力」だ。家柄だけの無能な令嬢を嫁に迎えれば、どんなに資産があろうと食い潰されるだけだ。「門地よりも才覚」。それこそが、あの賀来海雲から彼が学び取った、名家を存続させるための帝王学なのだ。賢い嫁こそが家の繁栄を約束する。「私だって会ってみたいわよ。なんとかセッティングしなさい」悦子が唇を尖らせる。家族の中で自分だけが詩織に会っていないのが不満らしい。譲は苦笑して言った。「ちょうどいい機会があるよ」……譲の言う「機会」とは、サカザキ・モータースが主催する新車発表会のことだった。提携パートナーである詩織も、当然ながら招待されている。会場に詩織が姿を現すと、譲はすぐに駆け寄って挨拶を交わし、自ら席までエスコートした。その直後に志帆が到着したのだが、詩織に気を取られている譲は、彼女の存在に気づきもしなかった。志帆の口元に、冷ややかな嘲笑が浮かぶ。最近、譲くんの態度がよそよそしいと思ってたけど……間違いなく、詩織があることないこと吹き込んで、自分と譲の仲を引き裂こうとしているのだ。そうとしか考えられない。健気なことね。そうやって外堀を埋めれば、坂崎家の嫁になれるとでも思っているのかしら?滑稽すぎて笑えてくる。坂崎夫婦が江崎詩織のような出自の女を認めるはずがない。所詮は叶わぬ夢だ。そこへ、太一と柊也が会場に入ってきた。「あれ?志帆ちゃん、なんで先に入っちゃったんだよ。待っててくれればよかったのに」太一が不思議そうに尋ねると、志帆はしとやかに微笑んで答えた。「柊也くんが、今日は風が冷たいから先に中に入ってなさいって」「うわぁ、ご馳走サマです!」太一は「やってらんねー」という顔をしつつ、どこか楽しげに茶化した。「譲のところへ挨拶に行くか」柊也が短く促し、三人は譲の元へと歩き出した。譲もちょうど詩織を席に案内し終えたところで、彼らの姿を認めると気安い調子で片手を上げた。「悪いな、特段のおもてな
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第338話

隣にいる柊也は、何の反応も示さない。興味すらないといった様子だ。まあ、そりゃそうか。太一は納得する。柊也はもともと詩織に関心がなかった。今や最愛の志帆が隣にいるのだから、元恋人のことなどアウトオブ眼中なのだろう。考えてみれば、二人が別れてからというもの、仕事上の接点は数知れずあった。だが、どちらも驚くほど淡白だ。まるで見知らぬ通行人とすれ違ったかのように、七年もの歳月を共有した痕跡が完全に消え失せている。柊也の冷淡さは分かる。彼は昔からそうだったし、そもそも遊びのつもりだったのだから。だが、太一にとって解せないのは詩織の方だった。あの子、どうやってあんなに平気な顔をしてられるんだ?泣き喚くことも、すがりつくことも、ただの一度もなかった。そのあまりの潔さが、逆に不気味ですらあった。志帆は高をくくっていた。悦子のあの異様なテンションも、所詮はビジネスパートナーに対する社交辞令の一環に過ぎないだろう、と。形式的な挨拶が済めば、すぐにこちらの席へ回ってくるはずだ。そうしたら笑顔で出迎えて、「母の佳乃がよろしくと申しておりました」とでも言えばいい。母の威光を使えば、自然と会話も弾むだろう。佳乃はこの手のマダム連中との付き合いが上手い。その娘である自分にも、きっと好意的な態度を見せてくれるはずだ。そのタイミングで、それとなく詩織への警戒心を煽るようなことを吹き込んでやればいい。そうすれば、譲との仲など一発で終わる。――そのはずだった。ところが、悦子は詩織に挨拶を済ませると、そのまま彼女の隣の席にどっかりと腰を下ろしてしまったのだ。それどころか、握りしめた手を離そうともせず、瞳をキラキラと輝かせて話し込んでいる。その好意は、誰の目にも明らかだった。まさに太一の言った通りだ。「息子の嫁候補」を査定するどころか、すっかり気に入ってデレデレになっている姑そのものだった。志帆の顔から、すうっと血の気が引いた。太一が小声で譲に尋ねる。「おい、あのおば様の反応は一体なんなんだよ?」譲は「やれやれ」といったポーズをとってみせたが、その声には隠しきれない甘さが滲んでいた。「オフクロ、詩織さんのことすごく気に入っちゃってさ。もっと話したい、今のうちに仲良くなっておきたいってうるさいんだよ」「は?なんで今のう
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第339話

見れば見るほど欠点がない。むしろ、「うちのバカ息子にはもったいないんじゃないかしら」と本気で心配になり始めていた。祝賀パーティーの会場は、江ノ本市で最も格式高いグランドホテルのバンケットルーム。豪華絢爛な宴だ。当初、詩織の席はビジネスパートナー用のテーブルに用意されていたのだが、悦子の鶴の一声で急遽変更され、あろうことか主賓席――つまり、悦子のすぐ隣に配置されてしまった。この異例の待遇に、周囲の人間が気づかないはずがない。会場のあちこちで、「あの女性は何者だ?」と囁き合う声が聞こえる。だが、勘のいい者たちはすでに悟っていた。坂崎夫人のあの溺愛ぶり。あれはどう見ても、未来の嫁としてのお披露目に他ならない、と。メインテーブルに顔を出した譲は、太一の隣に二つ並んで空いている席を見やり、軽く眉を上げた。「あれ?柊也と志帆は?」「志帆ちゃんが体調悪いってさ。柊也が送っていくって。言っといてくれって頼まれた」太一は二人の専属広報担当よろしく、慣れた様子で伝言を口にした。「ふーん、了解」譲はそっけなく頷いた。どうせ仮病か、詩織がいる場にいたくないだけだろう。すると、横から須藤宏明が茶々を入れた。「いやあ、賀来社長も相当ですな。柏木さんを本当に目の中に入れても痛くないほど可愛がってらっしゃる。いっそズボンのベルトにでも繋いでおきたいんじゃないですか?」その軽口に、テーブルを囲む面々からドッと笑いが起きた。譲もつられて笑う。「違いない。あの二人はずっと仲がいいからな。そういや、もうすぐ婚約だったか?」彼はふと思い出したように太一に向き直った。「あとどれくらいだ?」「一ヶ月後だな」「一ヶ月か……長いな」譲がしみじみと呟くと、太一は意外そうな顔をした。「いやいや、十分早いだろ!賀来家の格式でやる婚約式なんて、本来なら準備だけでとんでもない時間がかかるんだぞ。柊也、志帆ちゃんを一刻も早く正式な伴侶にするために、無駄な手順を全部ぶっ飛ばしたんだよ」それでも、譲は納得がいかない様子で首を振る。「いや、俺には長すぎる」頼むから明日、いや今すぐにでも籍を入れてくれ!心の中でそう叫んだ。二人が早く結ばれれば、詩織も完全に過去を断ち切れるかもしれないし、自分のチャンスも増えるというものだ。「つーか、なんでお前が柊也より焦ってん
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第340話

「……っ」佳乃は苛立ち任せに、マニキュアの小瓶をテーブルに投げつけた。「坂崎家の人たち、どいつもこいつも頭がおかしいんじゃないの!?」苛立ちを抱えたまま、志帆は母との会話を早々に切り上げた。自室に戻り、シャワーを浴びて少し落ち着いたところで、柊也にメッセージでも送ろうとスマホを手にする。すると、画面には従妹の美穂からの通知が表示されていた。【例の友達の件、どうなった?もう会ってくれた?】志帆の指が止まる。しまった、すっかり忘れてた……!彼女はすぐに行動を開始した。その日のうちに独自のルートを使って美穂の友人たち――あの夜、詩織を陥れようとした実行犯の男たち――の居場所を探らせた。二人のうち一人の足取りが掴め、翌日、志帆は彼を呼び出した。男は初め、何かを恐れるように言葉を濁し、要領を得ない返答を繰り返した。だが、志帆がアメとムチを使い分け、少しばかり強硬な手段を匂わせると、観念したように重い口を開いた。「……実はあの晩、俺たち失敗したんです」「どういうこと?」志帆の目が鋭くなる。「いや、あの女に薬を盛って意識を飛ばすとこまではいったんすけど……部屋に連れ込む前に見つかっちまって。どうも相手はあの女と知り合いだったみたいで、俺たちの手からかっさらっていったんです」「その男が誰だか分かるの?」志帆は即座に問い詰めた。「前は知らなかったんすよ。でも、昨日たまたまニュースで見かけまして」男は慌ててスマホを取り出し、画面を操作して昨日のニュース記事を表示させた。「こいつです!俺たちからあの女を奪っていったのは、この男ですよ!」画面上の写真を見た瞬間、志帆の表情が凍りついた。そこに写っていたのは、譲だった。……なるほど、そういうこと!胸にわだかまっていた違和感が、パズルのピースがはまるように一つの推論として組み上がっていく。なぜ譲が詩織に肩入れするのか、なぜあそこまで……カフェを出た志帆の顔色は最悪だった。彼女は震える指で美穂にメッセージを送った。【あの夜、江崎を連れ去ったのは、坂崎譲よ】その事実は、美穂にとって受け入れがたいものだった。【嘘でしょ?なんで譲さんが?】自分があれほど必死に近づこうとしても、冷たくあしらわれ続けてきた相手だ。それなのに、江崎詩織はどうだ?あんな絶体絶命
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