All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 321 - Chapter 330

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第321話

詩織:【ところで、勤務時間中になんでサボってSNSチェックしてるの?】密:【……ドロンします!】……午前中、大会の閉会式に出席した詩織が、江ノ本市への帰路につこうとしていた、その時だった。響太朗の秘書が詩織のもとを訪れ、『G市商工会設立三十周年記念パーティー』への招待状を恭しく差し出したのである。高坂響太朗主催のパーティー。それは、財界関係者ならば誰もが一度は参加を夢見る、垂涎の社交場だ。このチャンスを逃す手はない。詩織は即座にフライトの予定を変更すると、親友のミキに連絡を取り、G市でも指折りのスタイリストを手配してもらった。今夜の宴に、一分の隙もない完璧な装いで臨むためだ。ホテルの部屋でヘアメイクを受けている最中、譲からメッセージが届いた。【いつ空港に向かう?】短い問いかけに対し、詩織は淡々と返信を打つ。【急用ができたから、少し延泊するわ】それを見た譲は、あからさまに落胆した。帰りの道中で、あわよくば詩織と二人きりの時間を作れると期待していたからだ。だが、予定が変わってしまった以上、どうすることもできない。彼は諦めて、先にチェックアウトするしかなかった。ロビーに降りると、そこにはすでに太一、柊也、そして志帆の姿があった。「おせーよ譲!何ちんたらしてんだ、お前待ちだぞ」太一が待ちきれない様子で急かしてくる。「悪い、今行く」譲は短く詫びて合流した。車を待つわずか数分の間、志帆のスマートフォンが震えた。悠人からのメッセージだ。【先輩、今日江ノ本に戻る?】志帆は手慣れた様子で指先を走らせる。【ええ、もう空港へ向かうところよ】すぐに返信が来た。【本当は僕も同じ便で帰りたかったんだけど……高坂社長のパーティーに出席することになったから、もう一泊するよ】今回のG市滞在中、悠人は志帆と接点を持つ機会にほとんど恵まれなかった。彼女の隣には常に、賀来柊也という絶対的な存在がいたからだ。だから彼は、遠くから彼女の姿を目で追うことしかできなかった。たとえ一目だけでも、その姿を焼き付けておきたいと願うように。悠人からのメッセージを目にした瞬間、志帆の胸がざわついた。【……ねえ、その高坂社長って、リードテックの高坂響太朗氏のこと?】【うん、そうだよ】志帆はスマホを握る手にぐっと力を込め、もどかしげに柊
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第322話

詩織は悠人の挑発的な視線を無視し、受付へと進んだ。スタッフがマニュアル通り、恭しく招待状の提示を求める。「招待状を拝見できますでしょうか」「はい、こちら……」詩織はクラッチバッグを開いた。だが――あるはずの招待状が見当たらない。指先で中を探るが、どこにも手触りがない。焦りが募り、もう一度バッグの中を確認するが、招待状は煙のように消えていた。後ろに次のゲストが並び始めたのを見て、スタッフが申し訳なさそうに、しかし事務的に声をかける。「お客様、恐れ入りますが招待状のご提示をお願いいたします。招待状をお持ちでない方はご入場いただけませんので、ご協力いただけますでしょうか」「申し訳ありません、少し確認します」詩織は、後ろの列を塞がないよう、慌てて列から外れて脇へと退いた。その様子を見ていた悠人は、鼻で笑った。とんだ大根役者だ、と。まさか招待状を忘れたふりをして、どさくさに紛れて入り込むつもりだったのか?ここはそこらの安い飲み会とはわけが違う。また以前のように、小賢しい裏工作や、女の武器を使って潜り込めると思っているのなら、とんだ勘違いだ。笑わせるなよ。そんな人種に関わっている時間は一秒たりともない。悠人は侮蔑の色を隠そうともせず、詩織から視線を切ると、足早に会場へと消えていった。まさか招待状を紛失するとは。詩織は自分の失態に呆れつつ、響太朗へメッセージを送ることにした。この時間、彼はホストとして多忙を極めているはずだ。電話は迷惑だろうという判断だった。返信が来るまで、しばらく待つ覚悟を決める。エントランスの隅で待っている間にも、続々とゲストが到着する。その中には、柊也と志帆の姿もあった。車を降りた瞬間、志帆の足がピタリと止まった。詩織に気づいたからだ。そして、もっと最悪なことに気がついた――ドレスが被っている。二人とも黒のホルターネック。素材の質感まで同じだ。ただ一点を除いては。志帆が大ぶりの宝石で飾り立てているのに対し、詩織は高価なジュエリーを一切身につけていなかった。その代わり、首元のストラップに上質なシルクスカーフをさらりと結んでいた。長く垂れたその布地は腰まで届き、風が吹くたび優雅にたなびく。その佇まいは、飾り立てるよりも遥かに洗練され、鮮烈な印象を与えていた。宝石よ
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第323話

響太朗のあの反応……よほど重要なゲストなのだろう。秘書が去って間もなく、会場に柊也と志帆が入ってきた。志帆の姿を捉えた瞬間、悠人の瞳が輝く。吸い寄せられるように歩み寄ろうとするが、あと数歩という距離で足が止まった。彼女の隣には柊也がいる。自分が出る幕などないのだ。響太朗もまた、入口へと向かう途中で二人を見つけ、軽く挨拶を交わす。その様子を見た悠人は、さきほどの「重要なゲスト」とは彼らのことだったのかと合点がいった。悠人は志帆への未練を振り切り、意識を切り替える。今日の目的はビジネスだ。感傷に浸っている場合ではない。「やあ、来てくれたか」響太朗が柊也たちと形式的な挨拶を交わし終えた、まさにその時だった。詩織が会場に姿を現した。志帆が口を開き、響太朗に話しかけようとした瞬間――響太朗は満面の笑みを浮かべ、二人を素通りして詩織のもとへと歩み寄ったのである。「江崎さん、本当にすまなかった!携帯を見ていなくて、君が足止めされていたなんて露知らず……遠慮せず電話をくれればよかったのに」響太朗は心底申し訳なさそうに、詩織の手を握った。「いえ、謝らなければいけないのは私の方です。不注意で招待状を失くしてしまって、ご迷惑をおかけしました」詩織が恐縮すると、響太朗は朗らかに笑い飛ばした。「人間だもの、うっかりはあるさ。うちの家内なんかしょっちゅう僕のことを忘れん坊呼ばわりするよ」親しげに談笑する二人の姿を目の当たりにし、志帆の表情から笑みが消え失せた。……招待状を持っていたというの?それも、本物の?江崎詩織。あんな女のどこがいいのか。一体どんな手を使って、高坂響太朗をここまで夢中にさせているのよ。主催者である響太朗は来客対応に追われ、詩織と二言三言交わすと、秘書に彼女のケアを頼んでその場を離れた。「お気遣いなく。一人で大丈夫ですから、お仕事に戻ってください」詩織は秘書を気遣い、会場の少し静かな一角へと身を引いた。G市のビジネス事情に疎い詩織にとって、この会場はアウェイだ。知った顔もほとんどいないため、一人グラスを傾けるしかない。その孤立した姿を、志帆は「冷遇されている」と解釈し、優越感に浸っていた。対照的に、志帆の隣には柊也がいる。エイジア傘下の企業が数多く上場しているこの街で、彼の人脈は絶
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第324話

「私のことをご存知で?」と尋ねる間もなかった。再び電話が鳴り、女性は「すぐ行きます」と短く答えると、感謝のハンドサインだけ残して風のように去ってしまった。詩織も身支度を整え直し、化粧室を後にした。会場へ戻ろうと廊下を歩いていると、前から歩いてきた悠人と鉢合わせになった。悠人にとって、ここで会いたかったのは志帆であり、詩織ではない。あからさまな不運に、悠人の表情が冷たく凍りつく。詩織もまた、彼を無視して通り過ぎようとした。だが、すれ違いざま、悠人が低い声で吐き捨てた。「猿真似だな」濃密な嘲笑を含んだ一言。詩織は足を止めた。これ以上、黙って見過ごす道理はない。「……何か仰いました?」振り返り、視線を真っ直ぐに突き刺す。その瞳には鋭い光が宿っていた。悠人は予想外の反撃に一瞬だけ表情を動かしたが、すぐに冷徹な仮面を被り直した。「図星だろう?プロジェクトにしろ服装にしろ、お前がやっていることは志帆先輩の模倣に過ぎない。だが、どれだけ形だけ真似ようと無駄だ。彼女の経歴も、実績も、お前には一生かかっても真似できない」「ああ、そうですか。つまりあなたは、柏木さんの犬ってわけね」ようやく腑に落ちた。あの不可解な敵意の正体はこれだったのだ。これまでまともに会話したこともない相手から、なぜここまで嫌悪され、商談をすっぽかされるなどの嫌がらせを受けるのか不思議でならなかったが、謎が解けた。「……訂正しろ。俺はそんな下劣な考えは持っていない」『犬』という言葉に過剰反応した悠人の顔が歪む。「下劣?私はただ質問しただけですけど」詩織は鼻で笑った。図星を突かれた人間特有の反応だ。その嘲笑に、悠人の顔色は見る見るうちに悪くなっていく。だが、詩織の手は緩まない。じろじろと彼の全身を品定めするように眺め、さらに不敵な笑みを深めた。「あら、そういえばその服装……ずいぶんと賀来柊也に寄せてますね。それこそ猿真似じゃありませんこと?神宮寺さん」痛いところを突かれた悠人の顔色が、一気にどす黒く染まる。まさかこんな口の減らない女だとは思わなかった。たった数言で形勢を逆転され、あまつさえ自分のコンプレックスを容赦なく抉られるとは。言葉に詰まった悠人を見て、詩織は急速に興味を失った。なんだ、この程度の戦
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第325話

彼女は少し思案してから、毅然とした態度で答えた。「申し訳ありません、神宮寺さん。今日はプライベートな場ですので、ビジネスのお話は控えさせていただいております」これ以上食い下がるのは無粋だ。悠人は引き下がるしかなかった。「承知しました。では、後日改めて伺わせていただきます」百合子は優雅に会釈をすると、その場を離れた。悠人がその背中を目で追うと、彼女は迷うことなく一直線に詩織の方へと歩み寄っていった。その光景を目の当たりにし、悠人の顔から愛想笑いが消え失せる。「江崎さん、先ほどは本当にありがとう」百合子は詩織の手を取り、親愛の情を包み隠さず表した。「いいえ、困った時はお互い様ですから。お気になさらないでください」詩織は握られた手をそっと握り返したが、ふと微かな違和感を覚え、眉をひそめた。「……百合子さん、手がとても冷たいですが」百合子は一瞬言葉を詰まらせ、それから困ったように微笑んだ。「私、生理の時はいつもこうなの。ひどい冷え性でね……」生理時の極度な冷え――それは詩織自身もかつて悩まされた症状だった。だが、適切な体質改善を行い、今ではかなり回復している。同じ悩みを抱える百合子を見過ごせず、詩織は親身に提案した。「実は私も、以前は同じように冷え性がひどかったんです。でも専門医に見てもらって、体質改善の薬を処方してもらってからは、ずいぶん楽になりました。もしよろしければ、お薬のリストをお送りしましょうか?」「お気遣いありがとう。でもこれ、もう長年の持病のようなものでね……散々薬は試したけれど、どれも効果がなくて。もう諦めているからお構いなく。でも、その気持ちは本当に嬉しいわ」百合子は詩織の手をぽんぽんと軽く叩き、慈愛に満ちた眼差しを向けた。「以前からね、主人があなたの話をしていたのよ。『江崎詩織という非常に優秀な女性がいる』って。あの人がそこまで褒めるなんて珍しいから、どんな方なのかずっと気になっていたの。……今日お会いして納得したわ。本当に、気配りのできる素敵な方ね」すっかり意気投合し、百合子は詩織を離そうとせず、会話に花を咲かせた。その間も、主催者夫人への挨拶や乾杯を求めるゲストが後を絶たない。百合子の体調を案じた詩織は、彼女に代わって杯を受ける役を買って出た。「だめよ江崎さん、そんなこと」「大丈夫です、
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第326話

その直後――乾いた破裂音が室内に炸裂した。詩織が渾身の力で柊也の頬を張ったのだ。彼女は嫌悪感を露わにしながら男の体から這い出ようともがく。その拍子に、膝が柊也の急所を的確に捉えた。「うっ……」柊也が低く呻き、苦痛に顔を歪めて海老のように丸まる。だが、詩織の胸に罪悪感など微塵も湧かなかった。先に手を出してきたのはそっちだ。自業自得である。「これで酔いが醒めた?目を見開いて、私が誰かよく見なさいよ!」詩織は唇に残る感触を拭い去るように、ティッシュでゴシゴシと口元を拭った。怒りが収まらない。「相手を間違えるなんて、柏木さんへの愛もその程度なの?最低ね」ハッとした。そういえば、今の自分は志帆と同じデザインのドレスを着ている。おそらく泥酔した柊也は、ドレスだけで相手を志帆だと勘違いし、発情したのだろう。かつて自分が彼女だった頃、彼が酒に酔ってここまで乱れたことなど一度もなかった。やはり、彼を狂わせることができるのは柏木志帆だけということか。考えれば考えるほど腹が立つし、不愉快だ。詩織は、ようやくソファーから身体を起こしかけた柊也を、追い討ちをかけるようにもう一度蹴りつけた。「さっさと出て行って!」「今すぐ消えないと、痴漢で警察に通報するわよ!」柊也も騒ぎが大きくなるのを恐れたのだろう、反論ひとつしなかった。二度も蹴られたことすら、甘んじて受け入れたようだ。部屋を出て行く際、良心の呵責か、それとも隠蔽工作の一環か、彼は小さく詫びの言葉を口にした。「……すまない」詩織は後者だと確信した。ここで騒がれて志帆の耳に入れば、誤解(まあ実際、未遂だが)を解くのに骨が折れるからだろう。女の機嫌を直すのは、いつだって重労働だ。もっとも、彼が必死に誰かの機嫌を取る姿など見たこともないけれど。詩織は乱れた衣服と呼吸を整え、足早に控え室を後にした。急ぐあまり、彼女は気づかなかった。廊下の陰に、悠人が佇んでいたことに。悠人は、志帆に頼まれて柊也を探していたのだ。今夜はずっと耐え忍んでいた。志帆が一人になる瞬間を、祈るような気持ちで待ち続けていたのだ。チャンスが訪れるや否や、悠人は彼女の元へ駆けつけた。だが、会話も束の間。志帆はすぐに柊也の不在に気づき、不安の色を見せ始めた。電話をかけても出ない
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第327話

余計なことは喋るなという警告か?詩織がその真意を探ろうと睨み返した時には、彼はもう興味を失ったように視線を外していた。そして、自分の腕に愛おしそうにしがみつく志帆に向き直ると、先ほどとは打って変わった穏やかな声色で囁く。「ヒールで立ちっぱなしは辛いだろう。あっちで少し座ろうか」「うん、ありがとう」二人は見せつけるように寄り添い合い、人混みの中へと消えていった。詩織はふと視線を落とし、自らの足を包むハイヒールを見つめた。口元に、自嘲めいた笑みが浮かぶ。学生時代、親友のミキによく愚痴をこぼしていたものだ。「ハイヒールなんて、現代の拷問器具よ!」けれど社会に出れば、嫌でも『大人の女性』の仮面を被らなければならない。秘書として働き始めた最初の1年は、足の傷が癒える暇もなかった。救急箱の中身は、絆創膏と鎮痛テープの山。捻挫や靴擦れなど日常茶飯事だった。一番ひどかったのは、足の指を骨折した時だ。激痛が走っていたのに、単に靴が合わないだけだと思い込み、一日中柊也の視察に同行して歩き回ったのだ。限界が来て病院へ駆け込んだ時には、すでに手遅れの状態だった。医師には「折れているのに気づかないなんて」と呆れられ、ミキには「身体を大事にしろ」「柊也はあんたをこき使いすぎだ」と泣きながら怒られた。ミキは柊也に文句を言いに行こうとしたが、詩織はそれを止めた。当時、彼は二つの巨大プロジェクトを抱え、世界中を飛び回る殺人的なスケジュールをこなしていたからだ。これ以上、自分のことで彼を煩わせたくなかった。だから柊也は今も知らない。詩織が彼のためにハイヒールを履き続け、骨を折ったことさえも。接待で酒を飲みすぎ、胃から血を吐いたことさえも……過ぎ去った恋を振り返れば、自分はただひたすらに尽くすばかりだった。見返りなど求めなかった。愛とは、見返りを求めずに与えるものだと信じていたから。皮肉なことに、その理論は正しかったらしい。愛とは、心からの献身。ただし――柊也が心から何かを与えたいと願う相手は、私ではなく志帆だったというだけのこと。「愛されたいと願うのは、人間が抱く最後の幻想だ。それを手放せば、真の自由が手に入る」誰の言葉だったか。ふっ、と肩の力が抜けた気がした。今の自分を見てみればいい。この
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第328話

実力では先輩に遠く及ばないから、こういう枕営業まがいの裏工作をして勝ち取っていたのだ。こんな狡賢くて、恥知らずな女を相手に、純粋で高潔な先輩が太刀打ちできるはずがない。あまりにも不公平だ。今すぐにでも響太朗のもとへ乗り込み、「その女の罠にはまるな」と忠告してやりたい衝動に駆られたが、さすがに時と場合が悪すぎる。悠人は胸の奥で渦巻く嫌悪感を押し殺し、ターゲットを百合子のほうへ切り替えた。彼女の秘書を捕まえ、改めて面会を申し入れる。用件はもちろん、あのM&Aの話だ。「恐れ入ります。ただいま夫人は別の大切なお客様とお話し中でして……」秘書が申し訳なさそうに断るが、ここでもし引き下がるわけにはいかない。「構いません。終わるまで待たせていただきます。何時間でも」悠人は揺るがぬ誠意を示した。今回のG市訪問の目的はただ一つ。中博テックを買収し、半導体業界への足がかりを作ることだ。中博はG市を拠点とする老舗のチップメーカーだが、ここ数年は「エイジア・ハイテック」の攻勢に押され、シェアは激減。三年連続の赤字に喘いでいる。大株主である百合子が、合併による組織再編を検討し始めている――という情報は、まだ公式には発表されていない。悠人が父の人脈を駆使して掴んだ極秘情報だ。ライバルたちが嗅ぎつける前に先手を打ち、天宮グループの名乗りを上げる必要がある。勝算はある。自分なら中博を再生させ、あのエイジアとも互角に渡り合える企業に育て上げられるはずだ。そうすれば――きっと志帆先輩も、僕を一人の男として認めてくれるに違いない。そこまで考えた時、不意に脳裏にノイズが走った。あの女の、嘲るような声が蘇る。「その服装……ずいぶんと賀来さんに寄せてますね。それこそ猿真似じゃありませんこと?」悠人の瞳が暗く沈んだ。なぜだ。なぜ、あんな女の戯言を思い出す?不快極まりない。悠人は忌々しげに頭を振った。......響太朗が紹介したいと言った相手が、まさか彼の妻だとは、詩織は想像もしていなかった。彼が口を開きかけた瞬間、百合子がくすりと笑って遮った。「紹介なんていらないわよ。私たち、もう知り合いだもの」「へえ、そうなのか?」響太朗は百合子の隣に腰を下ろすと、自然な仕草で妻の肩を抱き寄せた。「いつの間に?俺の知らないところで
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第329話

「お二人のご期待に添えるよう、全力を尽くします」それは、詩織の覚悟のこもった約束だった。それからしばらく歓談が続いたが、百合子の顔色に疲労の色が濃くなっているのを見て取ると、詩織は気を利かせて会話を切り上げ、休息を勧めて退室した。部屋を出たところで、待ちくたびれた様子の悠人と鉢合わせになった。互いに視線を合わせるのも忌々しいといった風情で、表情を硬くする。そこには隠しきれない軽蔑と嫌悪が、火花のように散った。すれ違いざま、詩織の足取りが明らかに弾んでいたのとは対照的だった。控えていた秘書が、百合子の体調不良を理由に日を改めるよう丁重に断りを入れたが、悠人は頑として引かなかった。根負けした秘書は、仕方なく部屋へ戻り、百合子に取り次ぐことになった。二分後、ようやく悠人は百合子との対面を果たした。だが、開口一番に告げられたのは非情な通告だった。「神宮寺さん、先にお詫びしておくわね。中博テックの件だけれど、もう任せる相手を決めてしまったの。だから、これ以上あなたの大切な時間を奪うわけにはいかないわ」悠人は言葉を失った。脳裏をよぎったのは、先ほど軽い足取りで去っていった詩織の姿だ。そういうことか。合点がいった悠人の瞳に、暗く沈んだ色が宿る。彼はあえて、釘を刺すように尋ねた。「……その相手というのは、江崎詩織ですね?」百合子は否定しなかった。悠人は鼻で笑い、侮蔑を露わにする。「高坂夫人はご存じないのかもしれませんが、あの女……いえ、江崎社長には経営の手腕などありませんよ。学歴だって大したことはない。中博テックを本当に、あんな何一つ取り柄のない人間に任せるおつもりですか?」偏見と悪意に満ちたその言葉に、百合子は不快げに眉をひそめた。「神宮寺さん、彼女に対して随分と偏った見方をしているようだけれど、何か誤解があるんじゃないのかしら」悠人の顔には、さらなる嘲笑が浮かぶ。「誤解なんてありませんよ。個人的な親交はありませんが、彼女の噂はいろいろと耳に入ってきますからね。人間として問題があると思っているだけです」百合子はクッションを腰に当て直して深く座り込み、先ほどよりも数段冷ややかな視線を悠人に向けた。「神宮寺さん、言っていることが矛盾しているわよ。親交がないとおっしゃったわよね?それはつまり、彼女のことをよく知
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第330話

百合子がその場で真実を暴いた。映像が再生されるその瞬間まで、悠人は自分の正しさを微塵も疑っていなかった。なぜ百合子があそこまで詩織を信頼するのか、と訝しみさえしていた。「きっと、あの女に上手く丸め込まれたに違いない。想像以上に狡猾な女だ」と。だが、映し出された真実は、彼の憶測を冷酷なまでに打ち砕いた。言葉を失うしかなかった。防犯カメラの映像は鮮明だった。詩織がカーペットの段差にヒールを取られ、バランスを崩して前につんのめる瞬間まで、克明に記録されていた。響太朗が彼女を支えたのは、単なる反射的な人助けと紳士的な配慮に過ぎない。詩織が体勢を立て直すと、二人はすぐに適度な距離を取り直していた。最初から最後まで、やましいことなど何一つなかったのだ。悠人の表情が強張り、唇が一直線に引き結ばれる。対照的に、百合子は終始変わらぬ涼やかな表情を崩さなかった。勝負は決した。これ以上、時間を割く意味はない。百合子は静かに、だがにべもなく言い渡した。「神宮寺さん、申し訳ないけれど体調が優れないので、これでお引き取り願えるかしら。それと……約束はお忘れなく。江崎さんへの謝罪、きちんとして差し上げてね」悠人の顔色は土気色に淀んでいた。だが、一度口にした約束だ。どれほど屈辱的であろうと、反故にするわけにはいかない。彼は苦渋に満ちた沈黙の末、重々しく首肯するしかなかった。……宴も終わりに近づき、詩織は挨拶をして会場を後にしようと響太朗のもとへ向かった。しかし、先客がいた。柊也と志帆だ。志帆は一晩中この瞬間を待っていたのだろう。別れの挨拶という名目で、少しでも長く響太朗と言葉を交わそうと必死だった。だが、響太朗の対応は相変わらずそっけない。暖簾に腕押しといった手応えのなさに、志帆は肩を落とし、無力感に苛まれていた。この感覚は嫌というほど覚えがある。かつて柊也の父、賀来海雲と対峙した時と同じだ。そんな彼女を励ますように、柊也が視線を送る。詩織は響太朗への挨拶のタイミングを窺っていたため、二人のまるで周囲が見えていないかのような甘いアイコンタクトを目撃してしまった。間の悪いことに、志織の視線に気づいた志帆が、勝ち誇ったように挑発的な眼差しを向けてくる。詩織は遠慮なく白目を剥いて応戦した。「最近はビジネス
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