All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 311 - Chapter 320

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第311話

詩織には見覚えがあった。高坂響太朗の秘書だ。「わかりました。案内をお願いします」貴賓室に入ると、響太朗は数人の男たちと歓談していた。しかし詩織の姿を認めるや、すぐに立ち上がって出迎えた。「やあ、江崎さん」それにつられて他の男たちも一斉に立ち上がり、詩織に視線を注ぐ。皆、心中でこの若い女性の正体を推し量ろうとしているのがわかった。なぜ高坂響太朗ほどの人物が、これほど丁重に扱うのか、と。「こんにちは、高坂さん」詩織は自分から手を差し出し、握手を求めた。「さっき会場で君を見かけたんだが、あいにく話し込み中でね。ようやく一段落したんで、秘書に君を呼んでもらったというわけだよ」響太朗は、わざわざ詩織に経緯を説明してくれた。だが、その気遣いは周囲の男たちの憶測をさらに加速させることになった。高坂氏が一目置く相手だ、ただ者であるはずがない……と。「いやあ、前回の別れからこんなに早く再会できるとは。縁があるね」響太朗は人懐っこい笑顔で尋ねた。「ゲーム事業に乗り出すつもりかい?」「ええ。まだ歩き始めたばかりなので、今回は勉強させてもらいに来たんです」「それはちょうどいい。ここにいるのは業界の重鎮ばかりだ。彼らに教えを乞うといい。経験豊富な先輩たちだからね」そう言って、響太朗は部屋にいる男たちを振り返った。「君たち、江崎さんの力になってやってくれ。自分たちが踏んだ地雷や失敗談を教えてやって、彼女が同じ轍を踏まないようにしてやるんだ。女性の起業家ってのは大変なんだから、できるだけサポートしてやってくれよ」「ええ、もちろんですとも」「お任せください」あの高坂響太朗の頼みとあっては、誰も否とは言えなかった。響太朗は詩織に席を勧めると、本当に自分の経験やノウハウを惜しみなく語り始めた。詩織は一言一句聞き漏らすまいと真剣に耳を傾け、先人たちの知恵と失敗談を貪るように吸収していった。話が盛り上がってきた頃、主催者側のスタッフが控えめにノックをして入ってきた。「失礼いたします。そろそろ開会のお時間ですので、高坂様、ならびに皆様、貴賓席へご移動をお願いいたします」当然ながら、詩織に貴賓席など用意されていない。彼女は潔く身を引こうとした。「先輩方、貴重なお話をありがとうございました。またの機会にお食事でも」だ
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第312話

「混乱を招いてしまい、誠に申し訳ございません」スタッフは平身低頭して謝罪しつつも、有無を言わせぬ口調で促した。「開会のお時間も迫っておりますので、恐れ入りますがご協力をお願いできますでしょうか」志帆は不満を抱きながらも、スタッフの誘導に従って立ち上がった。彼女が席を立つや否や、別のスタッフが素早く新しいネームプレートを貼り付けにくる。志帆は立ち去り際、何気なく振り返った。ちょうどスタッフが、元々「柏木志帆」と印字されていたプレートの上に、新しい名前を上書きしているところだった。その名前が、目に飛び込んできた。『江崎詩織』足が止まる。我が目を疑った。どうして……江崎詩織なの!?なんであの女が!?志帆は反射的に踵を返し、もう一度確認しようとした。だが、誘導のスタッフがそれを遮る。「柏木様、こちらへどうぞ!お時間が押しておりますので、ご協力をお願いいたします」こうして志帆は、腸が煮えくり返るような思いを抱えたまま、後方の席へと連れて行かれた。そこはメインテーブルからは遥か彼方、会場の隅と言ってもいい末席だった。志帆の表情が険しく歪む。悔しさを滲ませながら、彼女はメインテーブルを睨みつけた。ちょうどその時、響太朗の一行が到着したところだった。詩織は響太朗のそばにぴったりと付き従い、何やら親しげに談笑している。それだけではない。詩織の周囲を固めている顔ぶれにも見覚えがあった。ゲーム業界の重鎮たちや、名の知れた投資家たちが何人もいるではないか!そして何より志帆にとって耐え難かったのは、その配置変更によって、詩織が柊也の隣に座ることになったという事実だ。詩織自身も、会場に来て初めて自分が柊也の隣に座らされることを知った。一瞬、眉間に微かな皺が寄る。柊也も詩織に気づいた。男の表情は凪いだ水面のようで、彼女を捉えた視線はわずか二秒ほどで何事もなかったかのように外され、響太朗への会釈へと移った。詩織もまた視線を外し、響太朗たちが着席するのを見届けてから、あてがわれた席に静かに腰を下ろした。それきり、二人の視線が交わることはなかった。他人よりもなお他人行儀なほどの静けさ。かつて七年もの間、肌を重ね心を通わせた深い関係にあったなどとは、誰一人として見抜けないであろう冷めた空気だけが漂
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第313話

詩織は少し気まずさを覚えた。だが、広瀬社長の方から積極的に連絡先の交換を求めてきた。「江崎社長、ゲーム事業で何か不明な点があれば何でも聞いてください。私でよければ、微力ながら力になりますから」「ありがとうございます。その時はご指導をお願いします」「いえいえ、こちらこそ」広瀬社長は腰の低い人物のようだ。一方、会場の隅に追いやられた志帆は、その光景を食い入るように見つめ、目から火花を散らさんばかりに嫉妬を燃え上がらせていた。特に、詩織が周囲の重鎮たちと親しげに話し、あの響太朗から丁寧な扱いを受けているのが面白くない。唯一の救いは、柊也が終始一貫して詩織を無視していることだ。視線を合わせようともしていない。ああ、よかった。やっぱり柊也くんは私の味方だわ。大会が閉会するや否や、志帆は弾かれたように立ち上がった。狙いは一つ、響太朗だ。何が何でも彼の注意を引かなければならない。「高坂様、ご無沙汰しております。柏木志帆です。以前、お食事をご一緒させていただいたのですが、覚えていらっしゃいますでしょうか?」志帆は、自分なりに最大限の自信と洗練さを込めた態度で話しかけた。響太朗は軽く頷いたが、その瞳の奥には隠しきれない不快感が揺らめいていた。ただ、持ち前の育ちの良さがそれを表に出すことを許さず、彼はあくまで礼儀正しく応対した。「ああ、覚えていますよ。賀来社長の……」彼はそこで言葉を詰まらせた。わざとなのか、それとも本当に失念していたのか。「フィアンセです」志帆はすかさず補足した。「ああ、そうか。フィアンセだったね」響太朗は危うく「彼女」と言いかけて飲み込んだ。以前、渡しそびれていた婚約式の招待状が、ようやく日の目を見る時が来た。「私たち、近々婚約いたします。もしお時間がございましたら、ぜひ式にいらしてください」「わかりました」響太朗は目配せをして、秘書に招待状を受け取らせた。そしてすぐに詩織の方へ向き直った。「江崎さん、もし時間があるなら、さっきの話の続きをしようか」「はい、もちろんです」詩織に断る理由などあるはずがない。志帆は、自分が手がけた新作ゲームの話題を振る間もなく、響太朗に背を向けられてしまった。取り残された彼女の心に、冷たい風が吹き抜ける。さすがに無理やり押し売りするわけにもい
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第314話

目の前に立っていたというのに、彼は志帆の存在を完全に素通りしたのだ。まるで彼の瞳には詩織しか映っておらず、詩織以外の人間など背景にすぎないと言わんばかりに。……せめてもの救いは、振り返った先の柊也が詩織を見ていなかったことだ。「行くぞ。食事だ」柊也の声は淡々としており、その内面を窺い知ることはできない。志帆は従順に頷き、彼の後ろについて歩き出した。だが、去り際についもう一度だけ、詩織のいる方へと視線を投げてしまう。詩織と合流した譲の横顔からは、先ほどの笑みが消えるどころか、喜びが溢れ出しているようだった。距離こそ離れていたが、譲が詩織に向けている眼差し──そこに潜む特別な感情の熱は、志帆の肌にも痛いほど伝わってきた。いったいいつからだろうか。志帆は移動中の車内で、ずっとその問いを反芻していた。帰国したばかりの頃、譲はまだ優しかった。太一のように尻尾を振って駆けつけてくるわけではなかったが、誘えば時間を割いてくれていたはずだ。けれど、いつしか彼を捕まえることができなくなった。彼はいつも「忙しい」と言って、のらりくらりと躱すようになったのだ。特に、従姉妹の美穂を譲に紹介しようと画策していた時期──何度誘っても、彼が応じることは一度もなかった。記憶が確かならば、ちょうどその頃だ。「サカザキ・モータース」と詩織の会社「華栄キャピタル」が提携を結んだのは。そこまで思い至り、志帆の瞳が冷たく光る。どうやら、あの江崎詩織という女を侮っていたらしい。能力もなければ教養もない、中身の空っぽな女だと思っていた。だが、男をたぶらかす手腕だけは一級品ということか。母の佳乃が忠告してくれた通りだ。柊也のそばに七年も居座り続けた女なのだ。一筋縄でいくはずがない。自分が油断した隙に、譲まであのような手合いに籠絡されてしまったのだろう。志帆は乱れる心を落ち着かせると、隣の柊也に声をかけた。「ねえ、せっかくここで会えたんだし、譲くんも食事に誘ってみない?」「お前がそうしたいなら」柊也の返答は短かった。「だって、譲さんたちと最後に食事したの、ずいぶん前でしょ?お友達との縁は大切にしないと」志帆は言い訳がましく言葉を継ぐ。「わかった。かけてみる」柊也はいつもこうだ。志帆が望めば、理由も聞かずに叶えてくれる
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第315話

その一連の光景を、志帆は冷ややかな目で見つめていた。皿の上に載った極上のフォアグラが、急に砂を噛むように味気なく感じられる。詩織は今日一日フル回転で働いていたため、空腹は限界に達していた。譲にメニューを渡され、遠慮なく自分の好きなものを次々とオーダーしていく。その飾らない姿を見て、譲はまたしても彼女への評価を新たにしていた。本当の彼女は、こんなにも自然体で魅力的な女性だったのか。それに引き換え、以前の自分はどうしてあんなにも目を曇らせていたのだろう。「江崎詩織は媚びを売るのが上手い、あざとい女だ」などと。よくよく思い出してみれば、かつての彼女は常に柊也を中心に回っていた。自分の意志を殺し、全てを柊也の望むままに捧げていた。太一の言葉を借りれば、「柊也の金魚のフン」そのものだった。世界の終わりが来ない限り、彼女が柊也から離れることなどないだろうと思われていた。だが結局、世界は終わらなかったし、詩織は柊也と別の道を歩き始めたのだ。夕食時ということもあり、レストランは多くの客で賑わっていた。二人の隣の席では、親子3連れが食事を楽しんでいた。母親に一足先にご飯を食べさせてもらった幼い娘が、ベビーチェアから降りてテーブルの周りをちょこちょこと歩き回っている。するとその女の子が、詩織のそばを通った拍子に、突然彼女の膝へと飛び込んできた。「きれいなおねえちゃん!」「蛍、お姉ちゃんのお食事の邪魔しちゃだめよ。こっちへいらっしゃい」母親が慌てて声を上げるが、詩織は笑顔で手を振った。「いえ、大丈夫ですよ」詩織は愛おしそうに女の子の頭を撫でた。その声は、無意識のうちに柔らかく甘い響きを帯びる。「ふふ、お嬢ちゃんもとっても可愛いわよ」「おねえちゃんのほうがきれい」無邪気な言葉に、詩織の心はとろけそうになる。自然と口元が綻び、眼差しがいっそう優しくなった。「プリン食べる?このキャラメルプリン、すごくおいしいのよ」「うん!」「お姉ちゃんが食べさせてあげようか?」「うん!」向かい側に座っていた譲は、その微笑ましい光景から目を離せずにいた。詩織がこれほどまでに慈愛に満ちた表情を見せるのは、初めてだったからだ。仕事で見せる凛とした姿も、プライベートでの飾らない姿も、そして今見せている母性的な優しさも─
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第316話

正確に言うなら。柊也はずっと、自分自身のために「逃げ道」を残していたのだ。彼と、彼の『運命の人』が結ばれる未来のために。親友のミキが言っていた言葉は正しかった。七年もの間、結婚という形を取ろうとしなかったのは、そもそも最初からその気がなかった証拠だ。だから、あの七年間に実りなどなくてよかったのだ。あれは何の成果もなかった時間ではない。天が、愚かな自分を救ってくれた時間だったのだから。女の子はプリンを食べ終えると、母親に呼ばれて席へと戻っていった。それを見送ると、詩織の顔からは穏やかな笑みが消え、再びいつもの凛とした涼やかさが戻ってきた。彼女は先ほどの譲の問い──「子供は何人欲しい?」への答えを口にする。詩織は無意識のうちに、平らな腹部をそっと指先でなぞった。その胸中は複雑だった。主治医の日向先生には、妊娠の確率は限りなく低いと告げられている。だから恐らく、今生で母になる機会は巡ってこないだろう。「……産みません」私には、そんな資格も幸福も縁がないのだから。譲はずいぶんと待たされた挙句、そんな答えが返ってくるとは予想もしていなかった。本来なら、彼女の答えに合わせて話を合わせるつもりだったのだ。彼女が「二人がいい」と言えば、自分も「俺も二人だ」と答える。たとえそれが作為的な『共鳴』であっても、彼女との共通点を作りたかった。だから彼は、詩織の言葉を受けてすぐさま軌道修正を試みる。「奇遇だな。俺たちの考えは意外と似てるかもしれない。実は俺も、子供はいらないと思ってるんだ」それを聞いた詩織は、沈んでいた気分が少し晴れたようで、くすりと笑みをこぼした。「ふふ、でも坂崎家の御曹司ともなれば、そうもいかないでしょう?」坂崎春臣の子供は、息子と娘の二人だけだ。長男である譲には、当然ながら家を継ぎ、血を繋ぐ義務が課せられているはずだ。「俺が嫌だと言えば、親父だって無理強いはできないさ」譲も笑って調子を合わせる。「俺の人生だ。最終的な決定権は俺にある」この言葉に込めた真意は、もっと切実なものだった。──俺は政略結婚なんてするつもりはない。本当に愛した女性とだけ、結婚するつもりだ。果たしてこの遠回しな告白とも取れる暗示が、彼女に届いただろうか。食事を終えた詩織は、ホテルへ戻る支度を始
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第317話

詩織と譲、そしてリモートで参加した智也を交えたミーティングが終わったのは、それから一時間が経過した頃だった。実のところ、秘書からは三十分も前に『部屋確保しました』との連絡が入っていたのだが。譲は少しでも長く詩織のそばにいたくて、わざと時間を引き延ばしていたのだ。ミーティングが終わると、彼は名残惜しそうに別れを告げた。「遅くまで悪かったな。明日は一緒に江ノ本へ戻ろう」「ええ、わかりました」詩織の部屋を出た譲は、自分の部屋へと戻ろうと廊下を歩き出した。その時だ。突然、どこからともなく飛び出してきた甘い香りの塊が、彼の胸に飛び込んできた。「譲きゅ~ん!奇遇じゃな~い?」柔らかい感触と共に、譲は壁にドンと押し付けられる。反応する間もなかった。態勢を立て直してよく見れば、相手は彼の元カノ──のうちの一人だった。腰に回された腕を引き剥がそうとするが、女はさらに強くしがみつき、彼の唇を奪おうと顔を寄せてくる。「っ、おい!」譲は咄嗟に顔を逸らした。女の唇は狙いを外し、彼のYシャツの襟元と首筋の境目に吸い付く。そこには鮮やかな口紅の跡がくっきりと残された。いい加減うんざりしてきた譲は、苛立ちを隠さずに警告する。「ふざけるな。旦那にバラすぞ」「……ちぇっ、つまんない男」女はようやく腕を解き、不満げに唇を尖らせた。「昔は『僕の愛しいハニー』なんて囁いてくれたくせに!新しい女ができたらこれだもん。ほんと男って薄情よね」「はいはい、わかったから。嫁に行ったんなら大人しくしてろ。火遊びも大概にな」譲はそそくさと距離を取った。これ以上絡まれてはたまらない。幸い、女のスマホが鳴りだした。どうやら旦那からのようだ。彼女は電話に出ながら、軽い足取りで去っていった。厄介払いが済んだところで、譲はチェックインの手続きをするためにエレベーターホールへと向かった。だが、そこでまたしても鉢合わせる。──柊也と志帆だ。ついてねぇな、クソッ。譲は内心で悪態をついた。どうしてこうも行く先々で出くわすのか。ふと、過去の記憶が蘇る。かつて自分や太一は、詩織のことを散々罵っていたものだ。「あいつはストーカーか?」「柊也の行くところ必ず現れるよな」「GPSでも仕込んでるんじゃないか?気持ち悪い」なんてことはない。今ならわかる。
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第318話

まともに拳を食らった柊也だったが、引く気配は微塵もない。すぐさま譲に殴りかかる。「上等だ、やってやるよ!」譲は口の端から滴る血を乱暴に拭い、応戦した。二人は取っ組み合いになり、互いに容赦のない打撃を応酬する。鈍い音が何度も響き渡る。志帆は狂乱状態で止めに入ろうとしたが、揉み合う二人の勢いは凄まじく、彼女の存在など目に入らない。どちらかの腕が彼女を激しく突き飛ばした。「あっ……!」志帆はたたらを踏んで転倒し、近くにあった観葉植物の鉢に頭を打ち付けた。視界に星が散り、激痛が走る。それでも殴り合いを続ける野獣のような二人を見て、志帆は金切り声を上げるしかなかった。「誰か!誰か来て!!」詩織は譲と別れた後、手早くシャワーを浴びてベッドに入る準備を整えた。怒涛の一日を終え、体は悲鳴を上げている。泥のように眠りたい気分だった。うとうとと微睡み始めた矢先、廊下から聞こえてくる騒音に意識を引き戻された。怒号と物音が酷くなる一方で、とても無視できるレベルではない。詩織は仕方なくバスローブを羽織り、様子を見に部屋を出た。まだ現場は見えないが、悲痛な声が響いてくる。「お願いだからもうやめて!」志帆の泣き声だ。……修羅場?途端に眠気が吹き飛んだ。詩織はむしろ好奇心を刺激され、野次馬根性丸出しで足早に現場へ向かう。だが、そこで目にしたのは予想外の光景だった。譲が通路に派手に投げ出され、顔には痣を作っているのだ。詩織は慌てて駆け寄り、助け起こす。「ちょっと、どうしたの!?」「……知るかよ。いきなり殴られたんだ」譲は痛みに顔を歪めながら毒づいた。ふと見やれば、柊也もまた無残な姿で座り込んでいた。口端からは血が滲んでいる。その少し向こうには、額を押さえながら涙目で座り込む志帆の姿があった。見るからに痛々しく、か弱さを演出しているようにも見える。だが今の詩織には、あの二人を憐れむ余裕などない。彼女は譲を抱え起こし、心底心配そうな声をかけた。「ひどい怪我……病院行こうか?」「いや、平気だ。大したことない」譲は強がって見せた。詩織の前で無様な姿は晒したくない。「俺だってやり返してやったしな」一方、柊也は床に座り込んだまま、ゆっくりと上体を起こした。立ち上がろうとはしない。手の甲で雑に血を拭いながら、その視線だ
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第319話

……呆れた。そうと分かれば長居は無用だ。詩織はさっと譲から手を離した。「なら、病院に行ってらっしゃい。頭でも打ってたら大変だものね」もともと女を見る目がないのだから、これ以上脳味噌までダメになったら目も当てられない。彼女は一つあくびを噛み殺すと、「じゃあ、私はこれで。お先に休ませてもらうわ」と言い残し、踵を返した。「あ……」譲はすがるような目で彼女の背中を見送るしかなかった。彼女は一度も振り返ることなく、スタスタと去っていく。それを見届けた柊也の眉間から、わずかに険しさが消えた。彼は苛立ちを隠さずに譲を急かす。「何ボサッとしてるんだ。行くぞ」……太一がG市に降り立ったのは、深夜のことだった。本来なら志帆に同行してゲーム開発者会議に出席する予定だったのだが、親父の方で少しトラブルがあり、足止めを食らっていたのだ。空港に着くや否や、彼はすぐさま志帆に電話をかけた。ところが彼女が病院にいると聞き、血の気が引く思いでタクシーに飛び乗り、送られてきた位置情報へと急行した。病院に到着してみれば、そこには負傷した三人の姿があった。太一は呆気にとられる。「……何があったんだよ?」柊也は不機嫌そのもので、一言も発しようとしない。譲もまた拗ねた子供のように口を閉ざしている。重い沈黙の中、志帆だけが事情を説明した。「ただの誤解なのよ。会場で偶然譲くんに会ったから、柊也くんが食事に誘おうとして電話したんだけど……切られちゃって。だから私、少し心配になって理由を聞いただけなの。変な誤解が生じて、関係がギクシャクするのは嫌だから」彼女は申し訳なさそうに続ける。「私の言い方が悪かったのかもしれないわ。譲くんを怒らせてしまって……彼に突き飛ばされたの。それを見た柊也くんが庇おうとして手を出して、喧嘩になっちゃって」「私は止めようとして巻き込まれただけ」あらすじを聞いた太一は呆れ果てた。「お前ら、ガキかよ?マブダチ相手に本気でやり合ってどうすんだ」譲が鼻を鳴らす。「コイツに言えよ。先に手を出したのはそっちだ」「殴りてぇ時に殴っただけだ」柊也の怒りは未だ収まっていないようだ。これ以上拗れる前にと、太一は冗談めかして場を収めにかかる。「譲、お前も悪いぞ。柊也がどんだけ志帆ちゃんを大事にしてるか知ってんだろ?なんで突き
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第320話

ウェイターが朝食を運んできた。譲がパンケーキに手を伸ばそうとした瞬間、横から伸びてきた手が皿をさらっていく。「ちょうど食いたかったんだ」柊也が涼しい顔で奪い取った。譲が睨みつける。「食いたいなら自分で注文しろよ」また喧嘩が始まる前にと、太一が割って入る。「わかったわかった、俺が追加で頼んでやるから」彼がウェイターを呼ぼうと手を挙げた、その時だった。カツカツとヒールの音を響かせ、やけに派手な美女が小走りで近づいてくるなり、背後から譲の首に抱きついた。「譲きゅ~ん!また会っちゃったねぇ。もしかして私のこと考えてた?」太一はその女に見覚えがあった。以前、譲が飲みの席に連れてきたことがあった女だ。名前は神崎美咲(かんざき みさき)という。譲は慌ててその腕を引き剥がす。「やめろ、ふざけるな」「ちぇっ、男ってほんと薄情よね。ヤるだけヤったらポイなんだから」美咲が鼻を鳴らす。「昨日の夜だって、ホテルの廊下であんなにイチャイチャしてたくせに。今日は他人のフリ?」「はあ?イチャイチャなんかしてねえよ。適当なこと言うな」譲は冷や汗をかいていた。詩織を別のエリアに誘導しておいて本当によかったと、心底安堵する。「適当ですって?じゃあ、昨日のシャツ見せてみなさいよ。私のキスマーク、ばっちり残ってるはずだけど?」「……」譲は言葉に詰まる。元カノが多すぎるというのも、考えものだ。そのやり取りを聞いた瞬間、一晩中張り詰めていた目の前の男の眉間から、ふっと力が抜けた。太一が頭をポリポリと掻きながら美咲に尋ねた。「お前、結婚したんじゃなかったか?」「結婚したからって遊んじゃダメな法律でもあるわけ?」美咲は悪びれもせずに切り返す。「は?……スゲェな」「男がやってることを、私もやってるだけよ。文句ある?」肩をすくめる彼女に対し、太一は返す言葉もなかった。譲の元カノは、どいつもこいつも強烈なキャラばかりだ。どうやら譲は、こういうぶっ飛んだタイプが好みらしい。先ほど強奪したパンケーキだ。ようやく美咲を追い払い、譲がほっと息をついたところへ、柊也が皿を差し出した。先ほど強奪したパンケーキだ。「……は?」譲が怪訝な顔をする。「やるよ。詫びの印だ」「……」人の朝食を奪っておいて、それを返すのが詫びだと?相変わ
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