All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 341 - Chapter 350

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第341話

まさか、ブロックしていなかったの?どういう風の吹き回し?狐につままれたような気分で画面を見つめていると、すぐに柊也から返信が来た。【何か用か】あまりの即答ぶりに、詩織は一瞬携帯を取り落としそうになる。だが、すぐに気を取り直してビジネスモードの文面を打ち込んだ。【賀来社長に、折り入ってお願いがありまして】柊也からの返信はドライなものだった。【俺の流儀は知ってるだろ。頼み事なら対価を用意しろ。ボランティアじゃないんでな】詩織は脳内で柊也を八つ裂きにしてミンチにしてやりたい衝動を抑え込み、短く打ち返した。【条件は?】もしふざけた要求をしてきたら、即座にスクリーンショットを撮って、志帆に送りつけてやるつもりだった。しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。【詩織。俺、ケーキが食いたい】……は?これが条件?不気味すぎる……まるで詩織が断らないと確信しているかのように、すぐに柊也から追撃のメッセージが届く。【今回は正真正銘、お前の手作りな。この前みたいに既製品で誤魔化そうなんて思うなよ】「……」詩織は画面を見て絶句した。あいつ、味が分かるわけ?どうやら、同じ手口は通用しないらしい。詩織が場所を尋ねると、すぐに位置情報が送られてきた。詳細を確認してみれば、以前呼び出されたのと同じホテル、同じ部屋番号だ。おそらく、婚約者の志帆に見つかって修羅場になるのを避けるためだろう。だからこそのホテル密会というわけだ。詩織は仕方なくキッチンに立った。手作りしろとは言われたが、丹精込めろとは言われていない。形になっていれば十分だ。適当に焼いてやる。仕事を終えてから向かった詩織に対し、柊也はすでに部屋で待機していたようだ。ノックをした途端、すぐにドアが開く。柊也はシャワーを浴びた直後らしく、バスローブを一枚羽織っただけの姿だった。着崩した襟元からは、湯上がりの肌と、鍛え上げられた胸筋がちらついて見える。詩織は努めて冷静に視線を逸らし、手に持っていたケーキの箱を突き出した。しかし柊也は受け取ろうとせず、揶揄うような口調で言う。「まずは検品だ。手抜きされてないか確かめないとな」いちいち注文の多い男だ。露骨に警戒心を滲ませる詩織を見て、彼はくつくつと喉を鳴らした。「そんなに身構えるなよ。取
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第342話

その瞬間、詩織の脳裏には無数の言葉が駆け巡った。「末長くお幸せに」といった定型的な祝福。あるいは、「お似合いね、一生お互いを縛り合って世間に害を撒き散らさないでね」という皮肉たっぷりの毒舌。けれど結局、彼女は何も言わなかった。祝福の言葉だろうと呪いの言葉だろうと、かつて彼に真剣な想いを捧げた自分を裏切ることになるような気がしたからだ。だから彼女は沈黙を選び、そのまま静かに部屋を出て行った。詩織が去ったあとの部屋で、柊也は一人、黙々とケーキを食べ続けた。半分ほど平らげたところで手を止め、誰に聞かせるでもなく呟く。「……このケーキが、はなむけ代わりってことにしておくか」残りのケーキを捨てる気にはなれず、丁寧に小箱に戻して冷蔵庫にしまう。そして携帯を取り出し、ある番号へと発信した。「ああ、俺だ。近いうちに彼女から連絡が来るはずだ。よろしく頼む」……柊也との短いやり取りは、詩織の心にごくわずかな波紋を広げた。だが、それも一瞬のことだった。ホテルのエントランスを出て夜風に吹かれた瞬間、その感傷は霧散した。かつて彼女は、心の奥底で燻る意地だけを頼りに、長く苦しい低迷期を乗り越えた。そして今は、その苦難の中で培った実力を武器に、ひたすら前へと進んでいる。人生は長い。立ち止まって感傷に浸るよりも、やるべきこと、意味のあることが山ほどあるのだ。詩織はその夜のうちに真田源治へと連絡を入れた。そして翌朝一番の便で、彼の故郷へと飛んだ。真田も、まさか詩織がこれほど迅速に動くとは思っていなかったらしく、驚きを隠せない様子だった。詩織は持参した朝食を彼に差し出した。その際、真田の左手側へさりげなく置いたことに、彼は気づいた。「……?」彼の視線に気づき、詩織は微笑む。「以前お見かけしたとき、左利きだと拝見しましたので」「江崎さん……いやはや、本当によく見ていらっしゃいますね」真田は心底感心した。今の殺伐としたビジネス界において、これほど細やかな気配りができる人間は稀有だ。それに、彼女はただ気が利くだけではない。努力家であり、プロフェッショナルだ。かつて仕事で関わった際、真田はその能力の高さを肌で感じていた。当時は「単なる秘書にしておくには惜しい人材だ」と思ったものだ。その後、彼女が
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第343話

一方、隣のミキはといえば、まるで水を得た魚のように本領を発揮していた。その手練手管たるや、もはや芸術の域だ。「私、元カレに酷いことされて……もう恋なんて怖いんだよね」「もうずーっと彼氏いないの。こんなにドキドキしたの久しぶりかも」「ねえ、君と話してると緊張しちゃう。……これ筋肉?すごいね、硬い!」「わあ、手おっきいねぇ。喉仏もセクシー。……触ってみていい?」「私、あんまりお酒強くないんだあ」「ねえ、もうちょっと顔近づけて?ここ音楽うるさくて、よく聞こえないの」ミキの隣に座ったオラオラ系のホストは、すっかり骨抜きにされてデレデレだ。彼女は自分の獲物を籠絡しつつも、詩織の横にいる子犬系ホストへの指示も忘れない。「ちょっとレイトくん、何ボーっとしてるの?お姉さん退屈してるじゃない、もっと楽しませてあげなさいよ」「お姉さん、乾杯しましょう!」ミキからの愛あるダメ出しを受け、子犬系ホストが慌ててグラスを掲げる。詩織としても、彼らも仕事でやっているのだし、むげにするのも悪いと付き合うことにした。だが、その優しさが裏目に出たらしい。だが、その優しさが裏目に出たらしい。「じゃあ、これで」調子に乗った彼は、いきなり詩織の二の腕に自分の腕を絡ませ、強引に「ラブ飲み」の体勢に持ち込んできたのだ。その頃、二階のVIPフロア。悠人は友人の誕生パーティーに参加していた。個室には派手な男女が集まり、嬌声と笑い声が飛び交っている。その中の一人の女が悠人に色目を使ってきたが、彼は冷淡にあしらった。「無駄だよ。こいつ、心に決めた人がいて操を立ててる身だからさ」友人が茶化すように言うと、女は露骨に残念がった。神宮寺悠人という極上の物件を捕まえれば、一生遊んで暮らせるというのに。部屋の喧騒に耐えられず、悠人はテラスへ出て一人涼むことにした。手すりに体を預け、グラスの中の液体をゆっくりと揺らす。琥珀色のウイスキーが、店内の照明を反射してきらめいていた。ふと、グラス越しに階下を見下ろすと、見覚えのある人影が目に留まった。悠人はグラスをずらし、一階のVIPシートの一角に視線を凝らす。……間違いない。次の瞬間、彼の口元に軽蔑の笑みが浮かんだ。江崎詩織。あの女、相変わらず不潔でふしだらな遊びに興じているのか。悠人
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第344話

賢が電話を切った直後、入れ替わるように悠人からの着信が入った。彼はハンドルを握りながら通話ボタンを押した。「もしもし、賢さん?今どこですか?」「悪い。急用ができたから行けなくなった。みんなで楽しんでくれ」「えっ、マジですか? せっかく久しぶりに北里に戻ってきたのに……みんな待ってますよ」「また次の機会にな」賢はそれだけ告げると通話を切った。悠人がこの店に残っていたのは、ひとえに賢を待つためだった。主役が来ないのなら長居は無用だ。彼は興味を失い、友人たちに挨拶をして早々に引き上げることにした。運転手から「まもなく到着します」と連絡があり、店の外で待とうとエントランスを出た、その時だった。目の前を、見覚えのある一台の車が滑るように通り過ぎていく。悠人は足を止め、眉をひそめた。あれは……賢さんの車じゃないか?ここまで来ておいて、「急用で行けない」だと?さらに悠人を驚愕させたのは、助手席の影だ。女だ。あの篠宮賢が、友人との約束をドタキャンしてまで優先する女がいるなんて。彼にとっては相当重要な相手に違いない。車はすぐに走り去ってしまい、中の女の顔までははっきり確認できなかったが……どこか見覚えのあるシルエットだった。江崎詩織に似ていた気がする。いや、まさか。悠人は即座にその考えを打ち消した。あの篠宮賢が江崎詩織ごときを相手にするはずがない。篠宮家の敷居は高い。賢のパートナー選びには厳しい条件があるはずだ。家柄に見合った良家の子女か、あるいは彼と肩を並べられるような才色兼備のエリートか。そのどちらでもない、中身の空っぽな江崎詩織など論外だ。いくらなんでも、賢の趣味がそこまで悪いわけがない。とはいえ、気にならないと言えば嘘になる。悠人は探りを入れてやろうと、再び賢の番号をコールしてみた。だが、賢は出るどころか、無慈悲にも着信拒否ボタンを押して回線を切ったのだった。車内では、詩織が改めて賢に礼を述べていた。その間も、詩織のスマートフォンは震えっぱなしだ。ミキからの怒涛のメッセージ攻撃であることは見るまでもない。隣に座るミキが太ももを抓って「早く見ろ」と無言の圧力をかけてくるため、詩織は渋々画面を確認した。【この人いいじゃん!マジで当たりだって!】【イケメン
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第345話

すると横からミキが身を乗り出してきた。「北里出身だなんて最高じゃないですか!一等地のボンボンってことですよね、超優良物件!」「……」詩織は天を仰いだ。誰かコイツの口を縫い合わせてくれないかしら。ミキは詩織の殺気などどこ吹く風で、首を傾げながら賢にあれこれと質問を浴びせかけた。まるで職務質問だ。しかし賢は礼儀正しい男だった。ミキの踏み込んだ質問にも嫌な顔ひとつせず、誠実に答え続ける。とうとう見かねた詩織がミキの口を手でふさいで黙らせ、ようやく車内には静寂が戻った。そうこうしているうちに、車は詩織が滞在するホテルの前に到着する。詩織が降りようとしたその時、賢が声をかけた。「明日のフライトは何時だい?」その意図を瞬時に察知したミキが、詩織が止める間もなく即答する。「午前〇時〇分発の〇〇便です!」賢は満足げに微笑み、二人に別れを告げて走り去った。テールランプが見えなくなるのを待って、詩織はミキのわき腹をつねり上げた。「ちょっとミキ!一体何考えてんのよ!」ミキは腰に手を当てて胸を張る。「何って、アンタが新しい人生歩むって決めたんでしょ? だったら新しい男が必要不可欠じゃない!」「あの篠宮さん、かなり優良物件よ。キープしときなさい」詩織は夜空を仰いで深い溜息をつき、座右の銘とも言える言葉を突き返した。「いいこと、ミキ。男なんてね、金儲けの邪魔になるだけなの。分かった?」翌朝。ホテルのエントランスには、時間通りに現れた賢の姿があった。空港まで送ると言う。詩織は今すぐ部屋に戻り、まだ夢の中にいるミキを叩き起こして説教したい衝動に駆られた。だが、わざわざ迎えに来てくれた相手を追い返すわけにはいかない。それはあまりに失礼だし、大人の対応ではない。詩織は観念して助手席に乗り込んだ。幸い、賢は距離感を心得ており、詩織が居心地悪くなるような話題には触れてこなかった。世間話の中で、彼が休暇を利用して実家に帰省中であり、来週には職場に戻るということを知った。賢は詩織を搭乗口まで送り届け、彼女の姿が見えなくなるまで見送った。踵を返して戻ろうとしたところで、ばったりと悠人に出くわした。「賢さん?こんなところで何してるんすか?」「友人の見送りだよ」「友人?賢さんの実家から空港までって、北里を半周する
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第346話

智也は、誰かが詩織を侮辱するのを黙って見過ごせるような男ではない。即座に反論しようと身を乗り出したが、詩織がそっと手で制した。彼女は椅子の背もたれにゆったりと体を預け、笑っているようにも冷めているようにも見える瞳で悠人を見据えた。「神宮寺さん。その『人間の方に問題がある』というのは、具体的にどういう意味です?」悠人はもともと詩織を見下している。彼の中での江崎詩織評は、「中身のない女が、色仕掛けだけでのし上がってきた」というものだ。汚い手段で地位を得たのなら、隅っこで大人しくしていればいいものを。それなのに我が物顔で振る舞うその厚かましさが、彼の神経を逆撫でする。ならば容赦する必要はない。「知ったかぶりもほどほどにしてくださいよ、と言っているんです。滑稽なんで」悠人は足を組み替え、あからさまな嘲笑を浮かべた。「聞くところによると、江崎さんの最終学歴は国内の大学の学部卒だそうですね。今の時代、正直言って紙切れ同然だ。……言い方は悪いかもしれませんが、事実でしょう?」「国内大卒ごときが、海外トップスクールの金融学博士号を持つ志帆先輩に意見するなんて……自分の身の程知らず加減に笑えてきませんか?」詩織は冷ややかに切り返す。「神宮寺さんのお考えでは、金融学博士なら絶対にミスを犯さないと?」悠人がさらに言い返そうとしたその時、志帆が絶妙なタイミングで割って入った。「江崎社長、言い過ぎですわ。もちろん、『弘法にも筆の誤り』という言葉もあります。もし本当に私のミスであれば、訂正するのに吝かではありません」志帆はそう言って、悠人に優雅な会釈を送った。その視線には「助け舟をありがとう」という感謝の色が滲んでいる。悠人の眉間の皺が消え、表情が和らいだ。やはり志帆先輩は素晴らしい。自分の非を認める可能性すら排除せず、相手を受け入れる余裕がある。これこそが「器」の違いというものだ。下品な成り上がりとは格が違う。その横で、智也が詩織に耳打ちした。「……あの神宮寺って人、あからさまに君を敵視してるね」その敵意はあまりに個人的で鋭利だ。詩織とて、とっくに気づいている。なぜ彼がこれほどまでに自分を嫌悪しているのか、具体的な理由は分からない。だが、そんなことはどうでもいい。所詮、人間とはそういうものだ。「偏見」とは、心の中にそ
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第347話

周囲がどよめく。さすがは未来の社長夫人、待遇が違う。志帆は困ったように眉を下げつつも、その声音には隠しきれない優越感が滲んでいた。「もう、柊也くんてば……私だって子供じゃないんだから、食事くらい自分でどうにかできるのに。皆さんにお見せするようなものじゃありませんわ」副社長がすかさず持ち上げた。「とんでもない!社長と柏木さんの仲睦まじいご様子、羨ましい限りです」志帆は上機嫌だった。「柊也くん、いくら何でも買いすぎよ。私一人じゃとても食べきれないわ。ねえ、良かったら皆さんも一緒にどう?」彼女は余裕たっぷりに、詩織や智也にも声をかけた。だが詩織が答えるより早く、密がバッサリと切り捨てた。「結構です!うちの社長には、お金じゃ買えない特製・愛妻弁当ならぬ『愛・秘書弁当』があるんです!外注の添加物まみれのご飯なんてお呼びじゃありませんから!」言い放つと、密は詩織の手を引いた。「ほら詩織さん、行きましょう!お弁当持ってきてるんです、車の中で食べましょ」「ええ、分かったわ」詩織たちが去り、悠人はせいせいした顔つきになった。志帆からのランチの誘いを、彼は快く受け入れた。食事の最中、悠人はふと思い立ったように尋ねた。「そういえば先輩、高村静行教授って知ってる?」志帆は即答した。「もちろんよ。アカデミックな世界で彼の名を知らないなんて、モグリじゃないかしら?」悠人の脳裏に、詩織の顔がよぎった。きっとあの女は知らないだろうな。「……確かに、そうだよな」彼は確信した。やはり自分の予想通りだ。師匠が忘れられずにいる「あの弟子」とは、志帆先輩のことに違いない。一方、車内では──目の前に広げられた豪勢な料理の数々に、詩織は思わず眉を上げた。「これ、全部密ちゃんが作ったの?」「そーですよ!どうです、すごいでしょ?」「ええ、すごいわね……」同乗していた智也も感嘆の声を漏らす。「これは驚いた。店が出せるレベルだよ」「店なんて興味ありません!私は詩織さんにガッチリしがみついて、ビジネス界の頂点を目指すんですから!」密は鼻息荒く宣言すると、詩織を急かした。「ささ、冷めないうちにどうぞ!」詩織たちが箸を進める横で、密はスマートフォンをいじり始めたのだが、しばらくするとまた大声を上げた。「えっ、何これ!?」詩織は呆れて箸を止
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第348話

二人が顔を合わせるのは久しぶりだった。詩織はこの再会のために、役所との定例会議をキャンセルし、京介との食事の時間を確保していた。向かった先は、隠れ家的な健康スープの専門店だ。店長は詩織と顔なじみだったが、ここ最近は足が遠のいていたため、久しぶりの来店を大いに喜んでくれた。「あら、詩織さん!いらっしゃい。ちょうど良かったわ、新しいメニューが出たのよ。リラックス効果抜群で、安眠にもいいスープなんだけど、試してみる?」店長の勧めを、詩織は「いえ、それは結構です」と断った。かつて、柊也が酷い不眠症に悩まされていた頃、詩織は彼の体質に合うスープを探し求めて、江ノ本市中の店を駆け回っていた。そうして行き着いたのがこの店で、足繁く通ううちに店長とはすっかり親しくなっていたのだ。詩織があっさり断ったのを見て、店長は勘違いをしたらしい。ニコニコと明るい声を上げる。「そうよねえ、最近全然いらしてなかったもの。ってことは、彼氏さんの不眠症、すっかり良くなったのね?良かったじゃない!」詩織は涼しい顔で、さらりと言い放った。「別れましたから」「……へ?」店長の笑顔が凍りつき、気まずい沈黙が流れる。当の詩織はそんな空気など意に介さず、席に着くとメニューを手に取った。「それより、さっき言ってたスープについてだけど。胃腸を整えるようなメニューはある?」「あ、ある!もちろんありますよ!」店長は慌てて気を取り直し、早口で説明を始めた。「オーナーが大金をはたいて食事療法の専門家を招いてね、色々と開発した自信作なんです。特に胃腸のケアと滋養強壮系は力を入れていて、お客さんからの評判もすごくいいのよ」「薬っぽい匂いはする?」詩織は、京介が薬臭いものを嫌うことを覚えていた。「全然!うちのスープのすごいところはそこなんですよ」店長のあそこまでの絶賛ぶりだ、ここで顔を立てないわけにはいかない。詩織は素直に、胃に優しいおすすめのスープを一品選んでもらうことにした。店長は迷わずメニューの一点を指差した。「豚ガツと香味野菜の特製スープ」だ。「これね、オーナーの彼女さんが一番お気に入りなのよ」「あら、悪くないわね。私の秘書もよく煮込んでくれるの。食べてみて」詩織が選んだものなら、京介に異論あろうはずがない。彼は嬉しそうに頷いた。料理を待つ間、
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第349話

志帆の胸に失望が広がった。その夜の集まりに、京介は顔を出した。ただし、一人で。太一はすかさず、「昼間の女はどうしたんだよ」と尋ねた。京介は楽しげに笑い、こう答えた。「彼女、こういう酒の席はあまり好きじゃなくてね」「うわ、もう過保護かよ」太一は呆れたように茶化す。「そこまで大事にする相手って、一体どこの誰だよ?」「そんなに焦るなよ。そのうち分かるさ」「そのうちっていつだよ?結婚する時か?それとも子供ができた時?」「どっちも有り得るな」太一が椅子から飛び上がりそうな勢いで声を上げた。「マジか!兄貴、結婚前提ってこと!?」「ああ」京介の返事は、あまりにもきっぱりとしていた。二人の向かいに座っていた志帆の表情が、一瞬にして凍りつく。会話の一言一句が、鋭い棘となって彼女の耳に突き刺さった。京介と過ごした六年間、彼が結婚を考えたことなど一度もなかったはずだ。どれだけ彼女が遠回しに探りを入れても、彼は決して首を縦には振らなかった。それなのに、今は結婚を考えていると言う。志帆はグラスを持つ手に力を込め、指先を白くさせた。その顔色は優れない。だが、彼女の動揺に気づく者はいなかった。京介は、何気ないふりをして柊也の方へ視線をやった。柊也は眉一つ動かさず、凪いだ水面のような瞳でグラスを傾けている。まるで、彼らの会話になど何の興味もないといった様子だった。どれだけカマをかけても、京介の口は堅く、太一は何の情報も引き出すことができなかった。仕方なく諦め、自分のグラスに酒を注ごうとボトルに手を伸ばしたところで、彼はぎょっとした。いつの間にか、柊也が一人でボトルの半分以上を空けていたのだ。「柊也、どうしたんだよ?」太一は空になりかけのボトルを軽く揺らしてみせた。「接待でもないのに、そんなハイペースで飲んでさ」柊也は表情一つ変えず、淡々と答える。「酒量のトレーニングだ」「ああ、志帆ちゃんの代わりに飲む練習か?」「ああ。婚約披露パーティーも近いからな」「なるほど。流石だねえ、柊也。愛だねえ」太一は感心したように頷く。沈んでいた志帆の心も、柊也のその言葉に救われたようだった。表情がいくらか和らぎ、柔らかな声で彼を気遣った。「柊也くん、あまり無理しないでね」「分かってる」目の前で繰り広げられる
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第350話

また、気まぐれを起こしたのか。詩織は眉をひそめた。着信拒否もしないが、出るつもりもない。そのまま放置することにする。どうせあの男のことだ、すぐに痺れを切らして諦めるに決まっている。予想通り、一度目のコールが切れると、スマホは沈黙を取り戻した。柊也からの再コールはない。詩織がパジャマを手に取り、浴室へ向かおうとしたその時だった。三度、スマホが震え出したのは。せっかくの静かな夜だというのに。詩織は苛立ちを隠さずにスマホを掴み上げ、電源ごと落としてやろうとした。だが、画面に表示された名前に指が止まる。松本さんからだった。彼女は慌てて通話ボタンを押した。「もしもし、松本さん?」こちらが用件を尋ねるよりも早く、受話器の向こうから激しく咳き込む音が聞こえてきた。「風邪ですか?」詩織の声に心配が滲む。咳はなかなか収まらず、松本さんはしばらく答えられない様子だった。ようやく、荒い息の下から絞り出すような声が届く。「詩織さん……ごめんね。前にあなたが作ってくれた、咳止めのスープ……あれ、どうやって作るんだったかしら」言い終わるや否や、またしても激しい咳の発作が彼女を襲う。「松本さんは動かないで。今から私が作りに行きます」即座に詩織は言った。「でも、外は大雨よ……」「大丈夫ですから」詩織は上着をひっ掴むと、部屋を飛び出した。愛車を駆り、雨の夜道を賀来家の屋敷へと急ぐ。松本さんの病状は、詩織が想像していたよりも深刻だった。インフルエンザの余波で咳が長引いているらしい。本人曰く、ここ数日ずっと咳が止まらず、薬を飲んでも点滴を打っても一向に改善しないという。そんな時、去年インフルエンザが流行した際に詩織が差し入れた特製スープがよく効いたことを思い出し、藁にもすがる思いで連絡してきたのだそうだ。「すぐに作るわ。松本さんは少し横になって休んでて。できたら呼ぶから」「ありがとう……悪いんだけど、少し多めに作ってもらえるかしら。海雲様も同じように咳をなさってるのよ」「分かったわ」詩織は慣れた足取りでキッチンへ入った。元々、料理のセンスなど皆無に等しい。できることといえば、こうしたスープや汁物を煮込むことくらいだ。それすらも、柊也と付き合い始めてから必死で覚えたものだった。最初はひどい出来栄えだった
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