Tous les chapitres de : Chapitre 641 - Chapitre 650

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第641話

立て続けの衝撃に精神の瓦解をきたしたのか、志帆は唐突に笑い出した。「あ……ははっ、アハハハ!」涙を垂れ流しながら、狂ったように哄笑する。刑務官が再び警棒で扉を叩いて警告するが、今の彼女の耳にはもう届かない。その笑い声は、極限まで張り詰められ、ついに断ち切られた弦の音色のようだった。耳障りで、悲痛で、どこまでも不協和音。ついに刑務官が踏み込み、錯乱する彼女をその場から引きずり出した。娘の断末魔のような笑い声を背に受けながら、長昭は静かに席を立った。だが、彼はこれで終わりにはしなかった。その足で、今度は妻の佳乃との面会に向かったのだ。佳乃もまた、獄中で指折り数えて時を待っていた。計算が正しければ、もうそろそろ柊也があの「大物」と接触しているはずだ。ならば、釈放される日も近いに違いない。そう胸算用をしていた矢先、刑務官に呼び出された。「柏木、面会だ」佳乃の目に期待の色が走る。彼女はいそいそと刑務官の後に続いた。しかし、面会室に座っていたのが夫の長昭だと分かると、瞬時に眉間の皺を深くした。戸籍上の夫婦とはいえ、長年冷え切った仮面夫婦だった二人だ。椅子に座るなり、彼女は露骨に嫌悪感を滲ませて言い放った。「何しに来たの?」長昭は冷ややかな目で妻を一瞥し、嘲るように笑った。「決まっているだろう。泥船が沈む様を見物に来たんだ」佳乃は不快そうに顔を歪め、鼻で笑い返す。「私が潰れても、あなたに得なんてないでしょう?それに、勝ち誇るには少し早すぎるんじゃない?」私にはまだ切り札がある。最強の逃げ道が。だから、落ちぶれた夫の嫌味など痛くも痒くもない。余裕綽々の佳乃に対し、長昭は淡々と、しかし決定的な事実を突きつけた。「お前のその逃げ道なら、もう塞がれたよ」佳乃の表情が凍りついた。鋭い眼光で夫を射抜き、顔に穴が開くほど強く睨みつける。そんな彼女の威圧など意に介することなく、長昭は静かに告げた。「昨夜遅くに入った確かな情報だ。『あの男』は昨晩、極秘裏に拘束された。収賄容疑や職権乱用……いわゆる汚職摘発だよ」佳乃の顔から血の気が引いた。胸を抑え、目の前が真っ暗になるような眩暈に襲われ、彼女はよろめいた。「……そんな、ありえない」すぐに、これは長昭の狂言だと思い直す。あの人の現在の地
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第642話

さらに、泥酔した長昭を介抱するふりをして、既成事実をでっち上げた夜のこと――一夜を共にしたと偽り、腹の中の子供を彼の子だと信じ込ませ、恋人と別れさせて強引に結婚へと持ち込んだのである。……そう、信じ込ませたはずだった。まさか彼が出産直後に密かにDNA鑑定を行い、血縁関係がないことを見抜いていたとは、夢にも思わなかった。だが、どれだけ真実を知っていようと、佳乃は父親の不祥事をネタに彼を脅し続け、長昭は沈黙を守らざるを得屈辱に耐え続けた、二十余年の歳月。なかった。屈辱に耐え続けた、二十余年の歳月。だから佳乃は百も承知だ。この男が自分を心の底から憎んでいることなど。拘束されて以来、彼が助けに来るとは微塵も期待していなかった。自分には、彼よりも遥かに強大な後ろ盾があるのだから。動揺から立ち直り、再び不遜な笑みを浮かべる佳乃を見ても、長昭の表情は変わらなかった。この女の狡猾さと図太さは、嫌というほど知っている。彼は議論する気もなかった。ただ静かに告げる。「そこまで自信があるなら、高みの見物を決め込めばいい。すぐに分かることだ」そして、もう一つの用件を切り出した。「それから、弁護士に離婚届を用意させた。後日、お前の元へ行かせる」余裕を保っていた佳乃の表情が、一瞬にして崩れた。「ふざけないで!離婚なんて絶対に認めないから!」「その話は、私の弁護士にしてくれ」「あなた、自分のキャリアを捨てる気なの!?」佳乃は歯噛みしながら、いつもの脅し文句を吐き捨てた。だが、長昭は憑き物が落ちたように穏やかに笑った。「ああ、捨てるよ。この歳になってようやく分かったんだ。出世だの地位だの、そんなものは泡沫の夢に過ぎないとな。だから、もう二度と私を脅すことはできない」「駄目よ!」彼の本気を悟り、佳乃は金切り声をあげた。「離婚なんてさせない!志帆が柊也くんと結婚するまでは、絶対に別れないわよ!」「あれはお前の娘だ。私には何の関係もない。どうして赤の他人の子供の未来を、私が背負わなきゃならないんだ?」佳乃の取り乱しように、長昭は昏い快感を覚えた。「それに、言っておくが……賀来柊也が志帆と結婚することはない」「するわよ!」佳乃は断言した。確信に満ちた声だった。「彼は絶対にするわ」柊也があれほど志帆を想っていることは、彼女自身が一
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第643話

佳乃のヒステリックな絶叫が、無機質な面会室の壁に反響する。代理人弁護士はそんな彼女の狂態に眉一つ動かさず、手慣れた様子で書類を鞄に収めると、背を向けて立ち去った。この一件で激昂した反動か、佳乃は高熱を出して寝込んでしまった。拘置所側の配慮で病監の独房に移されたものの、そこは一般房よりもさらに狭く、薄暗く、息が詰まるほどの圧迫感に満ちていた。巡回の看護師が検温に来るたび、彼女は縋るように問いかけた。「ねえ、今日は誰か来てない?面会人は?」看護師は決まって「分かりません」と短く答えるだけ。それでも佳乃は待ち続けた。柊也が必ず現れると信じて。長昭は言った。柊也はもう来ないと。私を守ってくれる『あの大物』も失脚したと。お前にはもう逃げ道などないと。だがあんなもの、私を動揺させるための脅しに決まっている。諦めて離婚届に判を押させ、自分だけ初恋の女と幸せになろうだなんて、虫が良すぎる。絶対に離婚なんてしてやらない。死んでも離してやるものか。それに、私はまだ終わってなどいない。じめじめとした独房でさらに数日を耐え忍び、ついにその時は訪れた。「柏木、面会だ」刑務官の声に、佳乃は弾かれたように顔を上げた。「その人、賀来さんって言うんじゃない!?」刑務官は手元の記録簿に目を落とし、短く頷く。「ああ、そうだ」佳乃の瞳に、狂おしいほどの希望の火が灯った。やっぱり!柊也くんは裏切らなかった!数日の病臥ですっかり衰えていた体に力が漲り、彼女は逸る足取りで面会室へと急いだ。アクリル板の向こうに座る柊也の姿を確認した瞬間、張り詰めていた緊張の糸が解け、心の底から安堵のため息が漏れた。頬に久しぶりの笑みが戻る。「柊也くん……やっと来てくれたのね」椅子に腰を下ろすなり、彼女は万感の思いを込めて言った。地獄のような日々の中で、初めて心から発せられた安らぎの言葉だった。柊也はゆっくりと瞼を上げ、彼女を見据えた。その瞳は漆黒の深淵のように暗く、底知れず、一切の感情や温度を感じさせない。だが、救済が訪れたという歓喜に浸りきっていた佳乃は、彼のその異様な冷徹さに気づくことができなかった。「志帆には会ってくれた?あの子、きっと怖がってるわ」何よりも真っ先に気にかかるのは、やはり愛娘のことだった。柊也は視
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第644話

一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思った。佳乃は聞き間違いであってほしいと願いながら、怪訝な顔で問い返す。「……え?今、なんて言ったの?」柊也の瞳に揺らぎはない。冷徹なまでに静かな声で、彼は繰り返した。「そんな日は、二度と来ないと言ったんです」「どういう……意味?」脳内で警報が鳴り響く。佳乃の表情が強張った。「私は柏木志帆その人を妻にするつもりはありません」柊也は淡々と、最後通告を突きつける。「そして、あなた方をここから出すつもりも、毛頭ない」側頭部を殴りつけられたような衝撃が走り、耳鳴りが止まらない。目の前にいる柊也が、まるで別人のように冷たく、遠い存在に見えた。彼の言葉の意味を必死に噛み砕こうとするが、何度反芻しても理解が追いつかない。佳乃は射抜くような視線を彼に向け、震える唇で問い詰めた。「……何言ってるの?あなた、志帆を愛してるんじゃなかったの!?」この目で見てきたじゃない。嘘のはずがない。何度も何度も確かめた。彼の愛は本物だと、そう確信したはずなのに。柊也は視線を逸らすことなく、言い切った。「彼女を愛したことなど、一度もありません」「ありえない!」佳乃は即座に否定した。だが、彼の瞳の奥に宿る絶対零度の冷徹さに触れ、胸騒ぎが猛烈な勢いで膨れ上がっていく。過去の記憶が走馬灯のように駆け巡る。志帆が誘拐され、犯人に汚されたあの時も、彼は事実を知りながら何も言わずに婚約関係を続けてくれた。ウィリアム教授との不貞を知った時でさえ、彼は志帆を責めるどころか、彼女の薄汚れた過去ごとすべてを受け入れた。仕事でどれだけ失態を犯し、会社に莫大な損害を与えても、文句ひとつ言わなかった。そのあまりに深い包容力に、疑り深い佳乃でさえも心を動かされ、彼を全面的に信頼したのだ。それほどの盲目的な愛なのだと、信じ込んでいた。だが今、その違和感が氷のように鋭く突き刺さる。愛は許しだ。だが同時に、愛は独占欲であり、排他的な感情だ。本当に愛しているなら、あの爛れた過去に嫉妬し、苦悩し、葛藤するのが正常な男の反応ではないか。何事もなかったかのように平然と受け入れるなど、異常だ。そこに愛があるはずがない。あるのは――無関心か、あるいは、もっと別の……背筋を氷の手で撫で上げられたような悪寒が
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第645話

今の賀来柊也は、彼女が知っていた誠実な青年ではない。猛毒をその身に隠し持った、得体の知れない怪物だった。柊也は、魂を抜かれたように立ち尽くす佳乃を冷ややかに見下ろし、椅子から立ち上がった。細められた双眸には、勝負の行方を見届けた者特有の静けさがある。もう、ここに用はない。彼が踵を返すと、その背中には深淵のような闇と威圧感が漂っていた。佳乃は凍りつくような絶望の中で、わずかに残った理性をかき集めた。去りゆく背中に向かって、悔しさと怨念を込めて叫ぶ。「あの方を知っているのなら分かるでしょう!?あの人の権力がどれほど巨大か、その手がどれほど血塗られているか!あなたごときが歯向かって勝てる相手だとでも思ってるの!?」彼女は半ば錯乱状態で喚き、狂ったように嘲笑を浴びせた。「甘いわよ!身の程知らずもいいところだわ!アハハハ!」その狂騒を背に、柊也は面会室を後にした。廊下に出ると、そこには一人の男が待っていた。峰岸丞(みねぎし たすく)。北里市でその名を知らぬ者はいない、デビュー以来無敗を誇る伝説の敏腕弁護士だ。彼は柊也が来るのを待ち構えていたかのように、悠然と佇んでいた。柊也が近づくと、峰岸はゆったりとした口調で報告を始めた。「手筈通り、柏木志帆に会ってきましたよ。意外なほど落ち着いていましたね。何も喋ろうとはしませんでした」峰岸は含みのある笑みを浮かべる。「どうやら、あなたが必ず助けに来てくれると信じて疑わないようです。だからこそ、頑として口を割らない。……お急ぎなら、あなたが直接会いに行ってはどうです?少しばかり『触媒』になってやれば、反応も進むでしょう」触媒、という言葉には皮肉が込められていた。正しくは『爆薬の起爆剤』と言うべきだろう。峰岸も承知しているのだ。柊也に残された時間は少ないということを。当初、柊也はこのままここを立ち去るつもりでいた。志帆と顔を合わせる気など毛頭なかった。だが、峰岸の提案を聞き、考えを改める。とどめを刺すには、自らの手で引導を渡すのが一番早い。……長昭からの衝撃的な告白を受けて以来、志帆の心は奇妙な静けさを取り戻していた。それは悟りにも似た、ある種の諦念だったのかもしれない。江崎詩織に能力で負けたこと?もういい。父親だと思っていた長昭と血縁がなかったこと?それも
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第646話

彼女は涙ながらに、積もり積もった思慕の情を訴えた。だが、ガラスの向こうに座る男は沈黙を守っていた。その瞳は深淵のように暗く、どこか底冷えするような光を宿している。喜びで盲目になっている今の志帆には、その冷徹さが目に入らない。単に監視つきの面会室という場所柄、感情を表に出せないだけなのだと好意的に解釈した。「この間、柊也くんも大変だったでしょう?」志帆はあふれ出る感情を少しだけ抑え、赤く腫らした目を向けた。この状況は確かに絶望的だ。けれど、柊也さえいれば、どんな難題も解決できるはずだ。ここを出られるのは時間の問題だと、彼女は疑っていなかった。「そうそう、さっき峰岸丞とかいう弁護士が来て、また新しい容疑が増えたって言うの。でもね、肝心の告訴人が誰なのかは教えてくれなかったわ。……ねえ柊也くん、あとで調べておいてくれない?どこの誰が私を訴えたのか」志帆は一方的にまくしたてた。本当はもっと甘い言葉を交わしたい。けれど今は非常時だ、要件だけを済ませなくてはと、彼女なりに気を利かせたつもりだった。「告訴したのは、俺だ」今まで石のように黙り込んでいた男が、不意に口を開いた。その声はけっして大きくはなかったが、残酷なほど明瞭に志帆の耳を打った。志帆の表情が凍りつく。言葉の意味が、脳に浸透しない。唖然とする彼女に対し、柊也は淡々と続けた。「お前が逮捕されたのも、すべて俺が描いた絵図だ」「お前の母親も、叔母も、従兄弟が捕まったのも、すべて俺の差し金だ」「もっとも、彼らが法を犯していなければ、俺とてここまで綺麗に追い込むことはできなかっただろうがな。要するに、今の没落はあいつらの自業自得というわけだ」柊也は凍てつくような視線を志帆に据え、とどめを刺した。「もちろん、お前もな」柊也の声音は、どこまでも平坦で静かだった。まるで道端ですれ違っただけの赤の他人に、事務的な伝達事項でも告げているかのような、徹底した無関心。そこには一片の情けもなく、ただ研ぎ澄まされた冷気だけが漂っていた。しかし、その一つ一つの言葉が、鋭利な刃となって志帆の心臓を抉っていく。彼女が胸に抱きしめていた希望という名の光は、彼の手によって粉々に握りつぶされ、無残に踏みにじられていく。志帆の瞳が、充血で赤く染まった。目の前の男を凝視する視
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第647話

あろうことか、私は彼を……本気で愛してしまっていたのに。数多の男たちと浮名を流してきた私が、唯一心を許したのが賀来柊也だった。だからこそ、「好きだったことなどない」という宣告は、死刑判決よりも重い絶望をもたらした。愛憎が反転し、狂気が鎌首をもたげる。志帆は狂乱したように面会室の柵に掴みかかり、悲鳴に近い声で叫んだ。「じゃあ、江崎詩織は!?あの女のことは愛してるの!?」その名が出た瞬間、柊也の瞳に渦巻いていた殺気がふっと和らいだ。声色すら、無意識のうちに優しさを帯びる。「ああ、愛している」迷いのない、確固たる答え。それこそが、志帆にとって最大の致命傷だった。鉄柵を握りしめていた指から、力が抜けていく。志帆は糸の切れた人形のように椅子へと崩れ落ち、瞳から完全に光が消え失せた。「そう……」そうか。最初から最後まで、賀来柊也にとって私は、ただの道具に過ぎなかったのだ。柊也の残酷さは、志帆の想像を遥かに超えていた。彼女が口にするのを躊躇った最悪の推測を、彼は平然と肯定してみせたのだ。「俺はお前を利用したんだよ。詩織を正しい軌道に乗せ、彼女が栄光をつかむための踏み台にするためにな」「卑劣……!なんて卑怯な男なの、賀来柊也!」志帆は絶望に顔を歪ませ、悲鳴のような声で彼を罵った。だが、柊也はその罵倒すら柳に風と受け流す。眉ひとつ動かさないその態度が、志帆をさらに狂乱へと駆り立てた。「こんなことをして……江崎詩織があんたの元に戻ってくるとでも思ってるの!?」「戻ってくることなど、望んでいない」柊也の瞳は、光を吸い込むブラックホールのように暗く深く、志帆の魂を絞め殺すような重圧を放っていた。目的は達した。これ以上、ここに留まる理由はない。彼は椅子を引くと、背を向けて歩き出した。背後から、志帆の怨嗟の声が追いかけてくる。「覚えてなさい!あんたなんか、畳の上で死ねると思わないで!」最上級の呪詛を浴びせられても、柊也は足を止めなかった。ただ口元に自嘲めいた笑みを浮かべ、感情のない瞳で呟く。「……ああ、分かっているさ」峰岸が柊也を見つけたのは、建物の外にある喫煙所だった。男の足元には、すでに何本もの吸い殻が灰皿に山を成している。立ち上る紫煙が、張り詰めた空気を象徴していた。峰岸は隣に立つと、
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第648話

どんなに社会的地位があろうと、ビジネスで成功を収めていようと、人の本質は噂好きだ。詩織と柊也の過去は、この界隈では公然の秘密である。事情を知る者たちは皆、グラス片手にささやき合い、彼がこの場に現れた意図を探り始めた。もちろん、譲と太一も例外ではない。そこへ、譲の母である悦子が血相を変えて飛んできた。彼女は息子の腕を掴むと、周囲を警戒しながら声を潜める。「ちょっと、どういうこと?なんで柊也さんが来てるのよ。まさか、詩織ちゃんとヨリを戻すつもりじゃあないでしょうね?」譲の瞳に、ふっと暗い色が差した。持っていたワイングラスのステムを、無意識に強く握りしめる。「……まさか。そんなわけないでしょう」そう答える声には、自分自身すら納得させられない脆さが混じっていた。母がそう疑うのも無理はないし、会場の多くの人間が同じ邪推をしていることだろう。柊也と志帆の交際は、あまりにも派手で周知の事実だった。だが今、その志帆は檻の中におり、破滅の道を突き進んでいる。このタイミングで柊也が彼女と縁を切り、婚約を解消するのは賢明な判断だ。誰だってそうする。そして目の前には、飛ぶ鳥を落とす勢いで輝く元恋人、江崎詩織がいる。柊也が掌を返し、彼女との復縁を画策したとしても不思議ではない。大人の世界は、いつだって損得勘定で回っている。ましてや賀来柊也は骨の髄まで商売人だ。どちらを選ぶのが利益になるか、彼なら冷静に計算するはずだ――会場の空気は、好奇と憶測で満ちていた。悦子は、眉間に深い皺を寄せ、会場へ進み入る柊也の姿を凝視していた。隣に立つ譲も、無意識に息を詰め、張り詰めた表情を隠せない。柊也は、須藤宏明を伴って現れた。一歩足を踏み入れれば、真っ直ぐに詩織の元へと向かう。迷いのない足取りだ。その瞬間、ざわめいていた宴会場の雑音がピタリと止み、数百の視線が一斉に二人の一点へと注がれた。対する詩織は、その場から一歩も動くことなく自然体で彼を迎え入れた。その唇には柔和な笑みを湛えているが、同時に他者を拒むような透明な壁――明確な境界線を感じさせる。たとえ相手がかつての恋人であろうと、彼女の鉄壁の仮面は微塵も揺るがない。招待状など送っていないはずの闖入者だが、来たる者は拒まず。ビジネスの場における礼節をもって、詩織は彼に声をかけ
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第649話

「やあ、詩織さん」なんとか会話の糸口を掴もうとした、その時だった。「おや、盛況ですね」柔らかな声とともに、新たな来賓が姿を見せた。篠宮賢だ。詩織が華やいだ顔で彼と話し始めるのを見て、そして何より、賢が詩織に注ぐ熱っぽい視線を見て――譲の顔から、ゆっくりと笑顔が消えていった。賢は、詩織への好意を隠そうともしない。その眼差しには、単なるビジネスパートナーへの敬意を超えた、明らかな「興味」と「称賛」が宿っていた。誰の目にも明らかなその好意を前に、譲は無意識のうちに唇を真一文字に引き結んだ。少し離れた場所からその光景を眺めていた智也の胸には、言いようのない喪失感が渦巻いていた。このところ、彼はまるで霧の中を彷徨うように生きてきた。会社の上場という大仕事を成し遂げ、自身の社会的価値が跳ね上がったというのに、喜びなど微塵も感じられない。あの夜の過ち――それが、決して越えられない深い溝となって、彼と詩織の間を隔てている。自分自身の愚かさすら直視できない男に、どうして彼女と向き合う資格などあろうか。「何ぼーっとしてるの?お兄ちゃん!」不意に脇腹を小突かれ、智也は我に返った。妹の紬だ。彼女は何も知らない。あのクルーズ船で何が起きたのかも知らず、以前と変わらぬ無邪気さで焚きつけてくる。「もたもたしてたら、詩織さんが誰かに取られちゃうよ!さっき会場を一周してきたけど、みんな虎視眈々と狙ってるんだから。詩織さんの恋人はいるのかとか、お見合いさせるなら誰がいいかとか、そんな話ばっかり!」紬は鼻息も荒くまくし立てる。「うちは誰よりも有利なポジションにいるんだからね。ここでうかうかしてて横から拐われたら、一生の不覚だよ!……どう?お兄ちゃんが言えないなら、私が代わりに援護射撃してこようか?」智也はどうにか表情を取り繕い、ぎこちない笑みを浮かべるのが精一杯だった。その瞳は、妹の視線から逃げるように揺れている。「……やめてくれ。今日は彼女にとって大事な晴れ舞台なんだ。余計なことで煩わせたくない」「もお、慎重なんだから。分かったよ」紬は不満げに頬を膨らませたが、兄の言葉にも一理あると引き下がった。「でも、これ以上ぐずぐずしてちゃダメだからね。ちゃんとアタックしてよ」「……ああ、分かってる」空虚な返事を残し、智也はグラスを見つめた。ひとしき
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第650話

……おいおい、マジかよ。太一が驚いて、もう一度柊也の方へ視線を戻したときには、その表情はすでに消え失せていた。そこにあるのは、いつもの氷のように冷たく、人を寄せ付けない鉄面皮だけ。まるで先ほどの光景は、酔いが見せた幻覚だったのではないかと錯覚するほどの早変わりだった。太一は少し迷ったが、意を決して柊也の方へと歩み寄った。当たり障りのない挨拶もそこそこに、彼は誰もが気になっている核心を突いた。「それで……柏木志帆のこと、どうするつもりなんだ?」会場中の人間が、いや、業界全体が固唾を飲んで見守っているトピックだ。普通の経営者なら、スキャンダルの火の粉が降りかかる前に即座に関係を断ち切るだろう。それが常識だ。だが、相手は賀来柊也だ。彼の手腕とコネクションがあれば、どんな強引な手を使っても志帆を救い出すかもしれない。その可能性が捨てきれないからこそ、誰もが結論を出せずにいた。太一もまた然りだ。かつてのように世間の関心が薄れるのを待ち、裏で手を回して母娘をこっそり出所させるのではないか――そう踏んでいたのだ。柊也はすぐには答えなかった。揺れる琥珀色の液体をゆっくりと喉に流し込み、空になったグラスを見つめてから、逆に問い返してきた。「お前ならどうする?」虚を突かれた太一は数秒口ごもったが、やがて絞り出すように答えた。「……切り捨てる。それしかない」男という生き物は、こういう時に残酷なほど理性的になる。それに太一の目の前には、従兄である京介という強烈な実例があった。家業である『衆和銀行』が存亡の危機に瀕した時、京介は己の心を殺した。長年想い続けてきた詩織への恋を切り捨て、政略結婚という生贄の道を選んだのだ。その苦渋の決断を間近で見てきた太一には、感情に流されることの危うさと、時に非情な決断を下す必要性が身に染みていた。答えを聞いた柊也は、口元だけで薄く笑った。「そうか。お前も大人になったな」言うなり、彼は空のグラスをテーブルに置き、太一の肩をぽんと叩いて背を向けた。流れるような動作で、そのまま会場を去っていく。残された太一は、呆気にとられて立ち尽くした。え……?帰るのかよ?わざわざこんな場所まで顔を出しておいて、たった一杯の酒を飲んだだけで?それに結局、俺の質問には一言も答えてないじゃないか。助け
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