All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 661 - Chapter 670

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第661話

「じゃあ聞くけど、私がどうして見張ってるのか分かってる?」「……」正論を突きつけられると、初恵はぐうの音も出ない。観念したように肩を落とし、大人しく居候生活を受け入れた。最後の一枚にサインを終えると、詩織は腕時計を一瞥した。「さて、時間ね。病院に行きましょう。今日は術後の定期検診よ」検査結果は極めて良好だった。詩織は胸を撫でおろし、その足で母の以前のアパートへ立ち寄ることにした。冬物の衣類など、必要な私物をいくつか持ち出すためだ。マンションのエントランスで、偶然にも隣人の鈴木おばあちゃんに出くわした。なぜか鈴木おばあちゃんの顔は煤(すす)で黒く汚れており、きな臭い匂いが漂っている。初恵が驚いて事情を尋ねると、鈴木おばあちゃんは溜息交じりに答えた。「いやだねえ、台所のコンセントから火が出ちゃってさ、ボヤ騒ぎよ」幸い、同居している息子夫婦がすぐに消火したため、大事には至らなかったらしい。初恵は心配そうに、「古い配線やコンセントは早めに取り替えないと危ないわよ」と注意を促した。鈴木おばあちゃんはしきりに頷き、後悔しきりの様子だ。「本当だねえ。去年、お宅が火事になった時に私も取り替えとけばよかったよ。変にケチったせいでこの有様さ」その言葉に、詩織と初恵は顔を見合わせた。「え?うちが火事に?いつの話ですか?私、初耳だけど……」初恵はキョトンとしている。「あら、ご存じなかったの? 確か去年の今頃よ。お宅の台所から火が出たの」鈴木おばあちゃんは当時の光景を思い出すように身振り手振りを交えて続けた。「あの時、初恵さんは留守でね。詩織ちゃんの彼氏さんが気づいてくれたのよ。なんと彼、うちのベランダから外壁を伝って、あんたの家のベランダまで素手でよじ登っていったのよ!見てるこっちが肝を冷やしたわ。ここ十二階よ?一歩間違えば真っ逆さまなんだから、あの勇敢さには驚いたわ」「去年……彼氏……」詩織の心臓が早鐘を打った。鈴木おばあちゃんが知っている「彼氏」といえば、柊也しかいない。鈴木おばあちゃんも自分の失言に気づいたのか、慌てて言い繕った。「あ、今はもう『元彼』よね。去年、詩織ちゃんから別れたって聞いて残念だったのよ。あんなに誠実そうな好青年、逃がすのは惜しいと思ったんだけどねえ」初恵はそんな出来事があったことなど露知
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第662話

父親である海雲が匙を投げるほどなのだ。自分ごときが何を言っても、彼を翻意させることなど不可能なのだろう。海雲の屋敷を出ると、空からはまた雪が落ちてきていた。前回よりも粒が大きく、牡丹雪のようだ。少し立ち止まっていただけで、詩織の頭や肩には薄っすらと白い層が積もり、冷気で鼻先が赤く染まっていく。今年の冬は厳冬になると天気予報が告げていたが、どうやらその通りになりそうだ。年末が近づき、詩織の多忙さはピークに達していた。それでも彼女は、仕事のほとんどを自宅に持ち帰り、片時も初恵のそばを離れないようにしていた。監視とかねて、少しでも長く一緒にいるために。あと一週間で新しい年を迎えるという頃、グループチャットの通知が鳴り止まらなくなった。震源地は、澪士だ。彼はメンバー全員にメンションを飛ばし、騒ぎ立てていた。澪士:【ねえみんな、正月休みは海外でスキー合宿しない?】詩織:【無理かな。母のそばにいたいし、高村先生の課題も山積みだから】雲斗:【俺は実家でお見合い地獄だよ。パス】律:【千尋と過ごすから無理だ】愛妻家の律にとって、長期休暇は妻への奉仕のためにあるようなものだ。最後に返信したのは悠人だった。【忙しい。行けない】澪士:【はあ?お前ごときが何を忙しがることがあるんだよ?】澪士の容赦ないツッコミに、悠人は既読スルーを決め込んでいる。怒っているのか、図星で返す言葉がないのかは分からない。結局、誰も乗ってこないことに白けたのか、澪士が適当な提案を投げ込んできた。「ちぇっ、誰も行かねーのかよ。じゃあ俺も今回はパス。その代わり江之本市まで行って、詩織ちゃんの遊び相手でもしてやるよ」詩織:【私と遊ぶ時間なんてないわよ】冷たくあしらったわけではない。事実、詩織は殺人的なスケジュールに追われていたのだ。家庭、ビジネス、そして高村先生からの課題。睡眠時間を秒単位で削って回している状況で、優雅に遊ぶ余裕など微塵もない。澪士:【いいってことよ。ついでに衆和銀行の頭取の結婚式に出席する予定だからさ】スマートフォンの画面を見て、詩織の手が止まった。衆和銀行の頭取――京介が、結婚?いくらなんでも早すぎる。彼が霜花と婚約したのは、つい一ヶ月前のことではなかったか。午前の会議を終えて一息ついたところへ、密がノックをし
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第663話

「兄貴、本当にこれでいいのかよ?後悔しねえのか?」京介と霜花の結婚が秒読み段階に入った頃、太一は堪えきれずに従兄に問いかけた。京介の瞳は深く沈み、読み取れない色をしていた。長い沈黙の末、彼はぽつりと漏らす。「……どちらを選んでも、後悔は残るさ」愛を選べば、宇田川家は破滅する。家を選べば、愛を失う。それに、自分には資格などない。莫大な負債を背負い込み、泥舟になりかけた自分に、詩織を巻き込む権利などあるはずがないのだ。人生とは、ままならないものだ。愛する人と結ばれずに終わる人間など、この世にごまんといる。自分だけが特別不幸なわけではない。太一は納得できないように呟いた。「でもよ、八年だぜ?」八年もの間、胸に秘め続けた想いだ。それを諦める痛みが、生半可なものであるはずがない。そこまで口にして、太一はふと言葉を詰まらせた。不意に、詩織のことが脳裏をよぎったからだ。柊也のそばで尽くし続けた、彼女の七年間。遠くから想いを寄せていただけの京介とは違う。彼女は七年もの間、その身を削り、心を砕いて、文字通り全てを捧げてきたのだ。その彼女の真心に対し、自分はずっと冷淡な嘲笑を浴びせ続けてきた。誰の想いが尊くて、誰の想いが軽いなどと、誰が決めたというのか。パチン、と乾いた音が響いた。太一がいきなり自分の頬を張った音だ。かなりの強さだったらしく、頬が赤く腫れ上がっていく。「何やってんだ、お前?」京介が怪訝な顔でこちらを見ている。太一はジンジンと熱を持つ頬をさすりながら、気まずそうにへらりと笑うしかなかった。……正月休みは、初恵の希望もあり、詩織は久しぶりに実家の古いマンションで過ごすことにした。ここにはもう二十年も住んでいるため、ご近所付き合いも深い。年越しの夕食を食べ終えるやいなや、初恵は「ちょっと年始の挨拶回りに行ってくるわね」と上機嫌で出かけてしまった。部屋に一人残された詩織は、手持ちの書類仕事を片付けると、書きかけの論文の推敲に取り掛かった。一通りの修正を終え、高村教授宛てにメールで送信する。ふと時計を見ると、まだ夜の九時を回ったところだった。詩織はホットミルクの入ったマグカップを手に、気分転換にベランダへと出た。先日までの厳しい寒波が嘘のように、ここ数日は幾分寒さが和らぎ、風も穏や
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第664話

紬はしゃくり上げながら、衝撃的な言葉を振り絞った。「さっき……知らない女の人が家に来て……兄さんの子供が出来たから、責任取って結婚してくれって……」その言葉を聞いた瞬間、すべての事情を察し、詩織は冷静さを取り戻した。彼女は諭すように、優しく紬に語りかける。「紬ちゃん。お兄さんはもう立派な大人よ。自分のことは自分で判断できるし、選択もできる。紬ちゃんが巻き込まれる必要はないわ。今は兄さんのことより、自分の勉強に集中しなさい」「……だって、私」紬は涙に濡れた瞳で詩織を見上げた。「私……詩織さんがお義姉さんになってくれると思ってたのに」詩織のあまりに理性的すぎる態度に、紬の胸の奥がすうっと冷えていくのが分かった。詩織は驚きもしなければ、怒りもしない。まるで最初から何も期待していなかったかのように、凪いだ水面のように静かだった。その平穏さが、残酷な事実を物語っている。こういう話を聞いても心が乱れないということは、理由は一つしかない。詩織さんは、兄さんのことなんて、これっぽっちも好きじゃないんだ。男として、少しも気にしていないから、傷つきもしないのだ。初恵が背中をさすり、言葉を尽くしてなだめると、紬の激情もようやく静まってきた。そのタイミングを見計らったように、智也から詩織の携帯に着信が入った。紬がこちらにいると知るや、彼は血相を変えて車を飛ばしてきたらしい。詩織は紬を連れてマンションの下まで降り、エントランスで彼の到着を待つことにした。夜風に当たりながら、詩織は静かに諭すように語りかけた。大人の世界は、白と黒だけでは割り切れないこと。複雑な事情が絡み合ってできていること。紬は分かったような、分からないような顔をしていたが、最後には諦めたように呟いた。「……でも、やっぱり詩織さんがお義姉さんだったらよかったのに」その願いがもう永遠に叶わないことを、彼女自身も痛いほど理解していた。到着した智也は、詩織と目を合わせようともしなかった。ただうつむき加減に、「迷惑をかけた」と消え入りそうな声で詫びるだけだった。「運転、気をつけてね」詩織は余計なことは何も言わず、ただそれだけを告げた。詮索もしないし、責めもしない。智也は一瞬言葉に詰まったが、背を向けたまま、絞り出すように言った。「……あけましておめでとう」「ええ、
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第665話

たった一年。ほんの少し目を離した隙に、世界は残酷なまでに変貌してしまった。自分を誰よりも甘やかしてくれた父・宇田川厳はもういない。友人の柊也は拘置所の中だ。志帆もまた、同じように塀の向こう側へ行ってしまった。そして京介兄貴は、愛のない政略結婚へと突き進んでいる。誰も彼もが、思い描いた未来とは違う場所でもがいている。……いや、例外が一人いたか。江崎詩織。彼女だけは、柊也という足枷から解き放たれて以来、まるで翼を得たかのように高く、強く、人生の上り坂を駆け上がっている。元日。詩織はまず恩師である高村教授のもとへ新年の挨拶に向かい、その足で海雲の屋敷を訪ねた。リビングに通されると、そこには既に、先客の太一がいた。彼は海雲の話し相手として、茶を飲みながらくつろいでいたようだったが、詩織の姿を認めるやいなや、反射的に背筋を伸ばしてソファから立ち上がった。どこか居心地が悪そうに、自分の席を詩織に譲る。それまで太一と海雲の間で交わされていたのは、他愛のない世間話だった。だが詩織が加わった途端、場の空気は一変した。話題はビジネスの最前線、経済動向、そして複雑な経営戦略へとシフトしていく。太一には、二人が何を話しているのか専門用語の半分も理解できなかった。しかし、肌で感じることはできる。海雲という百戦錬磨の怪物を相手に、詩織が一歩も引かず、対等に言葉を交わしているという事実。その凄味、その知性。親父が……無理やりにでも俺を江崎の下で学ばせようとした理由は、これか。太一は今さらながら、亡き父・厳の慧眼に思い至った。詩織の成功は、運や偶然の産物ではない。彼女自身の圧倒的な実力が手繰り寄せた必然だったのだ。ヘッドハンターの城戸渉が以前、「江崎さんが『エイジア』で秘書に甘んじているのは、才能の浪費だ」と言い放ったことがあったが、あれはお世辞でも何でもなかったのだ。そんな彼女が、七年もの間、ただの一秘書として柊也の影に徹していた理由。それはただ一つ、柊也への深すぎる愛情ゆえだった。柊也……お前、本当にとんでもないものを失ったんだな。太一の胸に、親友へのやるせない思いが去来する。ビジネス談義が一段落すると、海雲は詩織の学業について尋ねた。「高村先生のもとでの課程は、あと半年ほどで修了する見込みです。その後
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第666話

詩織は少し考えたが、そのまま車を寄せさせることも、声をかけることもせず、あえて気づかないふりをして自室へと戻った。それから十分ほどして、初恵が帰宅した。「ずいぶん遅くまで出歩いてたのね」詩織は何食わぬ顔で声をかけた。初恵は一瞬、びくりと身体を強張らせ、視線を泳がせた。「あ、ああ……ちょっと夕飯を食べ過ぎちゃってね。腹ごなしに散歩してたのよ」明らかに動揺している。詩織は何も言わずにじっと母を見つめたが、初恵はその視線から逃げるように「もう遅いから、早く寝なさいね」と言い残し、逃げるように自分の寝室へと消えていった。公判当日。詩織は初恵を伴い、裁判所へと向かった。正面玄関に差し掛かったところで、ちょうど中から出てきた人物と鉢合わせになった。柏木長昭だ。詩織自身は一瞥しただけで気にも留めなかったが、隣を歩いていた初恵の足が、凍りついたようにピタリと止まった。「……母さん?」「う、ううん、何でもないの。行きましょう」初恵は慌てて視線を伏せ、小走りに歩き出した。すれ違いざま、長昭の視線がこちらに向けられたようだったが、二人は言葉を交わすことなくそのまま通り過ぎた。法廷での審理は、詩織の予想通り淡々と進み、判決に驚きはなかった。だが、その後の光景は醜悪だった。実刑判決を聞いた瞬間、和代はその場で泣き崩れ、「私はただ手伝っただけなのに!なんでこんなに重いのよ!」と絶叫した。「静粛に。不服があるなら控訴しなさい」裁判長に冷たく一喝されても、彼女の錯乱は収まらない。あろうことか、今度は隣に座る佳乃に向かって罵詈雑言を浴びせ始めた。「全部あんたのせいよ! あんたが私と息子をこんな目に遭わせたのよ、この悪魔!」法廷内に響く罵声。だが、主犯とされた佳乃は、微動だにしなかった。彼女は罵声など聞こえていないかのように、ただ一点、傍聴席に座る初恵の方を凝視していた。その瞳は、まるで毒蛇のように昏く、底知れない憎悪に満ちていた。刑務官に促され退廷する際も、彼女は何度も振り返り、初恵を睨みつけていた。その執念深い視線が、詩織の脳裏に焼き付いた。……一月の終わり。賢が北里市から戻ってきた。噂は瞬く間に広まっていた。賢が北里市の中央省庁へ栄転するというのだ。それは単なる異動ではない。わずか二年で二階級
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第667話

ただ、唯一気がかりなのは……恋愛の方だ。彼女のような才色兼備の女性を、周囲が放っておくはずがない。このまま自分が遠く離れてしまえば、チャンスは永遠に失われてしまうかもしれない。そんな焦燥感があった。「ええ、すべて順調よ」詩織の淡々とした答えに、賢は意を決したように切り出した。「君は……遠距離恋愛って、どう思う?抵抗あるかな」賢は、以前から直球勝負の人だった。初めて出会ったあの食事会の席で、いきなり好意を伝えてきた時のことを思い出す。だから、この唐突な問いにも、詩織はさほど驚かなかった。「したことないから、実際のところは分からないわね」詩織が正直に答えると、賢はさらりと言葉を重ねた。「じゃあ……試してみる気はない?」詩織は言葉に詰まった。彼女にとっての「恋愛」の基準は、良くも悪くも柊也との経験に基づいている。あの時、絶望の淵にいた自分に手を差し伸べてくれた彼。柊也の存在は、暗闇に差す一条の光そのものだった。感謝が感動へ変わり、それがやがて恋心へと昇華していく——その過程は、まるで川が海へ流れるように自然だった。だが、賢に対してはどうだろう。彼への感情には、あの時のような切実な引力がない。「試してみる」——言葉にするのは簡単だが、もし気持ちが芽生えなかったら?関係がこじれ、友人としての心地よい距離感さえ失ってしまったら、後には気まずさしか残らない。それならば、曖昧な期待を持たせるよりも、ここで線を引く方が誠実だ。「ありがとう。……でも、ごめんなさい」きっぱりとした拒絶。だが賢は予想していたかのように、傷ついた様子も見せず、ただ静かに問い返した。「理由を聞いてもいいかな」「あなたの時間を無駄にしたくないから」詩織の脳裏に、かつて聞いた噂話がよぎった。賢の実家、篠宮家は彼に対してかなり結婚を急かしているという。彼の年齢的にも、キャリア的にも、もし交際が始まれば、その先には「結婚」「出産」というプレッシャーが雪崩のように押し寄せてくるだろう。そう想像しただけで、詩織は頭痛がしてくるような気がした。「僕は気にしないよ」賢は即座に、力強く答えた。「でも、君の言いたいことも分かる。……僕が少し、焦りすぎたみたいだね」会食を終え、詩織を乗せた車が夜の街へと消えていくのを
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第668話

高村教授の警告は本当だったのだ。事態は誰が想像するよりも遥かに深刻で、絶望的だった。だからこそ、柊也はあんなことを言ったのか。『もう二度と会うことはない』彼の最後の言葉が、詩織の脳裏にリフレインする。何とも言えない空虚感が胸に広がる。まさか本当に、あれが今生の別れになってしまうなんて。正月最後の日、京介の結婚式が執り行われた。詩織は澪士と共に会場を訪れた。エントランスへ足を踏み入れると、新郎新婦が並んで参列者を出迎えていた。京介と霜花。二人は適度な距離を保って立っていたが、詩織の姿を認めた瞬間、霜花がわざとらしいほど急に京介の腕に絡みつき、親密さをアピールし始めた。詩織はその些細な変化には気づかないふりをして、澪士と共に二人の前へと進み出た。「お忙しいのに、来てくださって嬉しいわ」「お約束しましたから。ご結婚おめでとうございます」詩織が祝いの言葉と共に軽くハグを交わすと、霜花は上機嫌で微笑んだ。「ありがとう。そういえば京介に聞いたんだけど、詩織さん、もう一年以上もフリーなんですって? そろそろ新しい恋をしてみたら? 私たちみたいに、運命的な出会いからロマンチックなスピード婚、なんてこともあるかもしれないわよ」悪気があるのかないのか、霜花の言葉には微かな棘が含まれていた。詩織が返答に困るよりも早く、横から澪士が口を挟んだ。「おっと、その意見には賛同しかねるな」澪士は皮肉っぽく笑い飛ばした。「恋愛なんて何の役に立つんだい?男なんて、彼女が金を稼ぐスピードを鈍らせる邪魔者に過ぎないよ」霜花の笑顔が凍りついた。まさかこんな祝いの席で、面と向かって水を差されるとは思っていなかったのだろう。だが相手は二階堂澪士だ。その社会的地位を考えれば、あからさまに不快感を露わにすることもできない。彼女は引きつった愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった。簡単な挨拶を済ませ、詩織と澪士は披露宴会場へと足を踏み入れた。その間、京介とは一度も視線が合うことはなかった。彼は徹底して詩織を見ないようにしているようだった。一方、会場内では新郎側の受付や案内係を任された譲と太一が、忙しくゲストの対応に追われていた。だが、譲は詩織の姿を見つけた途端、血相を変えた。「あと頼む」「はあ!?」譲は太一に全ての仕事を強引に押し付け、
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第669話

そのうちの一人が詩織の姿を認めるやいなや、あからさまに軽蔑の色を浮かべて鼻を鳴らした。詩織には見覚えのない顔だ。気にする価値もないと判断し、そのままホールへ戻ろうと足を向けた。だが、彼女たちの横を通り過ぎようとした瞬間、先ほどの女がわざと聞こえるような声量で嫌味を放った。「ホント、人は見かけによらないわよねぇ。今の涼しい顔からは想像もつかないもの」すかさず別の女が調子を合わせる。「そりゃそうでしょ。『恥知らず』なんておでこに書いて歩くバカはいないもの」「きっと今の地位だって、裏で汚いことして手に入れたんでしょうね。ああ、みっともない」「厚顔無恥とはこのことね」詩織は最初、誰のことを言っているのか分からなかった。興味もなかったので無視して歩き続けたが、背後からの嘲笑はさらにボリュームを増していく。「聞いた? 彼女、昔『エイジア』の賀来社長に取り入るために、薬まで盛ってベッドに潜り込んだらしいじゃない」「うわ、引くわー。そういうゲスな手口、私たちには真似できないわよね。だからあんなに偉くなれたってわけ?」「育ちの悪い人間って怖いわね。なりふり構わないっていうか、プライドがないっていうか」——ああ、私のことか。かつても、似たような陰口を叩かれたことはあった。あの頃は、柊也の立場や会社への影響を考え、ひたすら耐え忍んだ。「やましいことは何もない」「清廉潔白であればいい」と自分に言い聞かせ、心を殺してやり過ごしてきた。だが、今は違う。なぜ、私が我慢しなければならないのか。同じ人間同士、理不尽な悪意に対して黙って頭を下げる義理など、どこにもない。詩織は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。ヒールの音を響かせて四人の前に歩み寄ると、静かな、しかし凍てつくような視線で彼女たちを見据えた。「今の話、私のことかしら?」先ほどまで得意げに毒を吐いていた女たちの表情が、一瞬で強張った。詩織が放つ圧倒的な威圧感に気圧されたのだ。何より、現在の江崎詩織という存在は、彼女たちが逆立ちしても敵わない社会的地位を持っている。その事実に今さら気づいたのか、彼女たちの顔に明らかな動揺と恐怖が浮かんだ。沈黙に耐えかねたのか、一人が慌てて愛想笑いを浮かべた。さっきまで嘲笑していた唇が、今度は媚びへつらうように歪む。「あ、あら誤解です、江崎社長!
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第670話

詩織の糾弾に対し、譲は何も言い返すことができなかった。過去の記憶が、棘となって胸に刺さる。かつて、柊也が詩織の母・初恵に骨髄を提供した後、詩織はその恩に報いるため、自ら柊也のもとを訪れたことがあった。その場には譲と太一も居合わせていた。だから彼らは知っている——詩織が自らの身を捧げようとし、柊也がそれを拒絶したことを。富裕層の世界で育った彼らは、幼い頃から、権力や金目当てにすり寄ってくる女性たちを飽きるほど見てきた。だから自然と、詩織のことも「その種の女」だと決めつけ、仲間内で嘲笑のネタにしていたのだ。そして、決定的な出来事が起きた。柊也が何者かに薬を盛られた夜のことだ。一報を受けた詩織は誰よりも早く現場に駆けつけ、彼を病院へ運ぼうとした。だが、仕掛けられた罠のようにマスコミが嗅ぎつけてきたため、身動きが取れなくなってしまった。彼女は苦渋の決断でホテルの一室に留まり、譲と太一に助けを求めた。「人目を避けて柊也を連れ出してほしい」と。確かに彼らは行った。だが、到着したのは翌朝のことだった。その時すでに、二人は一線を越えてしまっていた。薬の影響で泥のように眠る柊也を前に、詩織は気丈にも「彼を病院で検査してあげてほしい」と頼み込み、自らは痛む身体を引きずって大学へと戻っていった。それなのに——あろうことか譲たちは、「江崎詩織が既成事実を作るために薬を盛ったのだ」と勝手に解釈し、侮蔑の眼差しを向けたのだ。俺たちは……なんて愚かだったんだ。喉元まで出かかった謝罪の言葉は、湿った綿のように重く、声にならなかった。今さら謝ったところで何になる?遅すぎるのだ。詩織はもう、彼らの承認も、理解も、謝罪さえも必要としていない。彼女は独力で自分の潔白を証明し、彼らが見上げるほどの高みへと登り詰めてしまった。遠ざかっていく詩織の冷ややかな背中を見つめながら、譲は自分の頬がじりじりと熱くなるのを感じた。さきほど彼女が傲慢な女に見舞った平手打ちは、まるで時空を超えて、過去の愚かな自分自身の頬をも打ち据えているようだった。廊下での一件ですっかり興が削がれてしまった詩織は、もう祝杯をあげる気分ではなかった。会場へ戻り澪士に帰る旨を伝えると、彼も「なら俺も付き合うよ」と腰を上げた。二人は新郎へ別れを告げるため、メイ
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