身につけているのは船内スタッフの制服だ。正規の客ではなく、業務の合間を縫って紛れ込んだのだろうか。あるいは、仕事を得て乗船したものの、誘惑に負けたのか。テーブルに積まれたチップの塔は、あまりにも低く、脆い。男の顔は苦悶に歪み、脂汗が滲んでいる。今夜の戦績が芳しくないことは一目瞭然だった。隣では、先ほどの口論相手と思しき少女が、目を赤く腫らして男の袖にしがみついていた。「兄ちゃん、もうやめて!これ以上負けたら本当にお金が……!」「今度こそ勝てる。絶対だ。俺を信じろ」「兄ちゃん……っ!」少女の悲鳴のような懇願を、男は荒々しく振り払った。「ベット!」男が全財産を賭けようとしたその刹那、詩織は滑り込むようにテーブルへ近づいた。「数学的に言えばね」涼やかな声が、熱に浮かれた空気を切り裂く。「ルーレットの回転は毎回が独立事象なの。以前の結果がどうあれ、十回目だろうが百回目だろうが、赤と黒が出る確率は常に変わりません」その一瞬の隙を突き、少女がテーブル上のチップをすべて自分の手元へかき集めた。「ノー・モア・ベット」ディーラーが無機質に告げ、象牙色の球が盤面に放たれる。乾いた音を立てて転がる白い球。男は祈るように、あるいは呪うように、その軌跡を凝視した。カラン、コロン……カッ。球が落ちたのは――赤。またしても、赤だった。「あ、ああ……」男は糸が切れた操り人形のように床へ崩れ落ちた。もし賭けていれば、全てを失っていたところだ。「ありがとうございます……ありがとうございます……ッ」少女はチップを握りしめ、震える声で詩織に何度も頭を下げた。最悪の事態は免れた。だが、彼らの手元には、依然として絶望的なまでに少ないチップが残るのみ。状況が好転したわけではない。ここはあくまでカジノだ。胴元の顔を潰すような真似は避けたい。詩織はこれ以上の介入を控え、少女に軽く会釈をしてその場を立ち去ろうとした。「待ってくれ!」背後から男が叫んだ。切迫した声だった。「じゃあ、何を賭けたら勝てるんだ?あんたなら分かるのか?」詩織は足を止め、振り返らずに言い放った。「賭けないことよ」「金が要るんだよ!どうしても!」それは先刻の会話で承知している。だが、同情で確率が変わるわけではない。「ギャンブルに絶対の勝者なんていないわ。長く
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