All Chapters of 七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した: Chapter 621 - Chapter 630

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第621話

身につけているのは船内スタッフの制服だ。正規の客ではなく、業務の合間を縫って紛れ込んだのだろうか。あるいは、仕事を得て乗船したものの、誘惑に負けたのか。テーブルに積まれたチップの塔は、あまりにも低く、脆い。男の顔は苦悶に歪み、脂汗が滲んでいる。今夜の戦績が芳しくないことは一目瞭然だった。隣では、先ほどの口論相手と思しき少女が、目を赤く腫らして男の袖にしがみついていた。「兄ちゃん、もうやめて!これ以上負けたら本当にお金が……!」「今度こそ勝てる。絶対だ。俺を信じろ」「兄ちゃん……っ!」少女の悲鳴のような懇願を、男は荒々しく振り払った。「ベット!」男が全財産を賭けようとしたその刹那、詩織は滑り込むようにテーブルへ近づいた。「数学的に言えばね」涼やかな声が、熱に浮かれた空気を切り裂く。「ルーレットの回転は毎回が独立事象なの。以前の結果がどうあれ、十回目だろうが百回目だろうが、赤と黒が出る確率は常に変わりません」その一瞬の隙を突き、少女がテーブル上のチップをすべて自分の手元へかき集めた。「ノー・モア・ベット」ディーラーが無機質に告げ、象牙色の球が盤面に放たれる。乾いた音を立てて転がる白い球。男は祈るように、あるいは呪うように、その軌跡を凝視した。カラン、コロン……カッ。球が落ちたのは――赤。またしても、赤だった。「あ、ああ……」男は糸が切れた操り人形のように床へ崩れ落ちた。もし賭けていれば、全てを失っていたところだ。「ありがとうございます……ありがとうございます……ッ」少女はチップを握りしめ、震える声で詩織に何度も頭を下げた。最悪の事態は免れた。だが、彼らの手元には、依然として絶望的なまでに少ないチップが残るのみ。状況が好転したわけではない。ここはあくまでカジノだ。胴元の顔を潰すような真似は避けたい。詩織はこれ以上の介入を控え、少女に軽く会釈をしてその場を立ち去ろうとした。「待ってくれ!」背後から男が叫んだ。切迫した声だった。「じゃあ、何を賭けたら勝てるんだ?あんたなら分かるのか?」詩織は足を止め、振り返らずに言い放った。「賭けないことよ」「金が要るんだよ!どうしても!」それは先刻の会話で承知している。だが、同情で確率が変わるわけではない。「ギャンブルに絶対の勝者なんていないわ。長く
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第622話

詩織は内心、激しく動揺していた。まさか、アングラ社会の大物である高坂剛太郎が、響太朗の実兄だったとは。公式な記録のどこを探しても、この二人の関係を示す情報はない。おそらく剛太郎は、高坂家が抱える「影」の部分なのだろう。巨大な名家がその地位を盤石にするためには、表の権力だけでなく、裏の世界に通じる力も必要とする。光と闇、その両輪があってこそ、組織は回り続けるのだ。響太朗は自らティーポットを手に取り、詩織のために紅茶を注いでくれた。「驚かせてしまってすまない。大丈夫かい?」「ええ、大丈夫です」詩織は首を横に振った。差し出されたカップを受け取る際、彼女の視線がふとテーブルの一角に留まった。飲みかけのティーカップが一つ置かれている。湯気が立っているところを見ると、誰かがつい先程までここに座っていたらしい。「さすがは賀来柊也が鍛えた秘蔵っ子だ。これくらいじゃ動じないか」剛太郎がニヤリと笑う。詩織は曖昧な笑みを返すに留めた。「静姫の件では、高坂家として詫びさせてもらう」剛太郎の表情が少しだけ改まった。「あんたには大きな借りを作っちまった。俺にできることなら何でも力になる。困ったことがあればいつでも連絡してくれ」そう言って差し出された名刺は、黒地に金箔押しの重厚なものだった。おそらく、この話をすることが彼なりのケジメであり、彼女を呼んだ最大の理由なのだろう。断る理由もない。詩織は素直にそれを受け取った。短い歓談の後、詩織は席を立った。剛太郎は丁重に部下に命じ、彼女を外まで送らせた。部屋を出ると、先ほどの兄妹がまだ近くで待っていた。詩織が無事に出てきたのを見て、兄のほうが安堵の息を漏らす。彼なりに心配していたらしい。詩織は軽く会釈だけして通り過ぎようとしたが、男が慌てて追いかけてきた。「待ってくれよ! まだ名前、教えてもらってない」詩織は足を止めず、黙って歩き続けた。所詮は行きずりの関係だ。名乗る必要などない。カジノを出るやいなや、詩織は自分を探し回っている密と湊の姿を見つけた。「密!湊くん!」詩織は声を上げ、小走りで二人の元へと向かった。ずっと後をついてきていた若い男は、詩織が連れと合流したのを見て、ようやく足を止めた。「俺は、小宮山……小宮山序(こみやま じょ)だ!秩序の序!
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第623話

かつて七年を捧げた恋の結末を、詩織はさらりと口にした。密は言葉を詰まらせる。その表情には、過去の傷を平然と語る詩織への複雑な感情が浮かんでいた。吹っ切れたと言えば聞こえはいいが、それは同時に、彼女が心の柔らかい部分を硬い殻で閉ざしてしまった証左のようにも思えたからだ。あの一件以来、智也はあからさまに詩織を避けるようになった。帰路のハイヤーも別々を手配し、顔を合わせないよう徹底しているのが痛々しいほど伝わってくる。経費節減のため、密が手配した帰国便は深夜フライトだった。文句を言う者は誰もいなかったが、江ノ本空港に到着した時には、時刻は午前一時を回っていた。疲れた体を引きずって到着ロビーへ出ると、待ち構えていた報道陣が一斉にフラッシュを焚いた。「江崎さん! 一言お願いします!」「今回のクルーズについてコメントを!」取材攻勢をかわすように、密と湊が詩織の前に立ちはだかる。「申し訳ありませんが、深夜ですのでまた後日!詳細は記者会見の際にお答えしますので!」密が大声で対応している最中だった。「おい、あれ!」記者のひとりが素っ頓狂な声を上げた。「柏木志帆だ!」「海外逃亡しようとしてるぞ!」その一声で、場の空気は一変した。詩織を取り囲んでいた記者たちは、蜘蛛の子を散らすように背後のゲートへと殺到していく。到着ロビーは瞬く間に怒号と悲鳴が飛び交う戦場と化した。ゴシップには関心のない詩織でさえ、その異様な光景には足を止めざるを得なかった。「海外逃亡……?」視線の先には、深く帽子を目深に被り、サングラスとマスクで顔を完全に覆った人影があった。露出しているのは鼻の穴くらいだろうか。よくもまあ、あんな完全武装の不審者を柏木志帆だと特定できたものだと感心する。正直なところ、詩織には誰だかさっぱり見分けがつかなかった。志帆にしてみれば、記者に見つかるなど想定外の悪夢だった。確かに、国外へ出るつもりだった。だがそれは「逃亡」ではない。柊也に会いに行くためだ。江ノ本市に留まれば、押し寄せる批判と圧力に押し潰されてしまう。限界だった。だからこそ、記者が寝静まる深夜便を選び、わざわざ到着ロビーを経由して出発ロビーへ向かうという迷彩工作まで講じたのだ。それなのに、なぜバレたのか。フラッシュの嵐と怒号に包囲された瞬間、
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第624話

名を呼ばれ、柊也は緩慢な動作でテーブルの写真に視線を落とした。整然と並ぶ男たちの顔を、値踏みするように視線が滑っていく。やがて、彼の唇の端が微かに持ち上がった。それは笑みと呼ぶにはあまりに淡く、自嘲の色を帯びていた。「俺の男を見る目は最悪だと、いつもこき下ろしていたでしょう」「いかにも、最悪だ」海雲は間髪入れずに肯定した。その言葉には容赦がない。「なら、お二人でどうぞ。俺は失礼します」柊也は立ち上がると、無造作に上着を掴み、背を向けた。その態度が癇に障ったのか、海雲は残りの写真をテーブルに叩きつけた。バシッという乾いた音がリビングに響く。「柊也様!」松本さんが慌てて追いかけた。「まだお食事もなさってないのに、もうお帰りになるんですか?」「食べてください。俺がいたら飯が不味くなる」投げやりなその声を背中で聞きながら、詩織は思わず視線を向けた。重厚な玄関の扉が開かれる。西日が室内に傾れ込み、逆光の中に立つ柊也の横顔を濃い陰影で縁取った。その表情は、夕闇よりも深く沈んでいるように見えた。結局、詩織もまた、翌日の会食の準備を理由に夕食を辞退し、早々に賀来邸を後にした。彼女の車が去ったのを確認し、松本さんはキッチンからリビングへ戻った。そこには、テーブルに広げた写真を無言で回収する海雲の姿があった。その顔は、急速に老け込んだかのように陰鬱に曇っている。松本さんは堪えきれずに問いかけた。「海雲様……本当に、もうどうにもならないのでしょうか」海雲は何も答えなかった。ただ、その瞳の奥に宿っていたわずかな光が、夕陽と共にゆっくりと、静かに消え失せていくのが見えただけだった。……その日の夜は、須藤宏明が主催する会食だった。招かれているのは江ノ本商工連合会の重鎮ばかりだが、須藤は迷うことなく上座のセンターを詩織のために空けていた。その配置に異を唱える者は誰もいない。むしろ、誰もが納得の表情で詩織を迎えた。この場にいる海千山千の猛者たちでさえ、AI事業とゲーム事業の二社同時上場という離れ業を成し遂げた者はいないからだ。かつて「若き商業の天才」と謳われた全盛期の賀来柊也でさえ、これほどの偉業は成し得なかっただろう。「いやあ、江崎さんには脱帽ですな」「まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだ」次々と浴びせられる賛
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第625話

すぐに席を用意させながら、須藤は平身低頭して詫びを繰り返す。柊也はそれ以上追求することなく、志帆を伴って須藤の反対側――詩織とはテーブルを挟んだ位置に腰を下ろした。ここにいるのは皆、海千山千の古狸たちだ。柊也がわざわざ志帆を連れて現れた意図など、言わずとも察しがついている。「俺がいる限り、こいつを無下にはさせない」という示威行為だ。最強の盾を得て、志帆は再びかつての傲慢さを取り戻していた。詩織のことなど存在しないかのように振る舞い、一瞥もくれない。もっとも、詩織のほうも彼女を視界に入れるつもりなど毛頭なかったが。須藤が柊也のご機嫌取りに追われている一方で、テーブルの端ではひそひそ話が交わされていた。「賀来さんも、あの女には本気なんだな。あんな泥舟状態になってもまだ庇い立てするとは……『金の切れ目が縁の切れ目』どころか、これぞ『真実の愛』ってやつか?」「馬鹿言え」隣の男が軽蔑したように鼻を鳴らす。「あんなもん、愛でも情でもない。『色香に迷って身を滅ぼす』、ただの阿呆だよ」声のトーンを落としたつもりだったのだろうが、志帆の耳には届いたらしい。彼女が氷のような冷たい視線を投げつけると、二人は慌てて口を噤み、気まずそうに酒を煽った。詩織は二人の愛の行方や茶番劇になど、これっぽっちも興味がなかった。彼女の思考は、もっと冷徹なビジネスの計算へと向いている。柊也がわざわざ志帆を同席させた理由――それは恐らく、『パース・テック』の再建と再上場への布石だわ。これまでに投入した莫大な資金をドブに捨てないためには、ここで引くわけにはいかないのだろう。今の志帆の信用度――地に落ちた評判では、新規の投資を募ることなど至難の業だ。天に登るよりも難しい。だからこそ、賀来柊也という看板が、保証人が必要なのだ。なるほど、確かに「真実の愛」だこと。詩織は心の中で乾いた笑いを漏らす。志帆のためなら、泥舟だろうが地獄だろうが喜んで漕ぎ出すというわけだ。古今東西、愛に生きた悲劇のヒロインたちも、彼を見れば裸足で逃げ出し、その座を明け渡すに違いない。そんな皮肉を脳内で反芻していると、個室の扉が三度開いた。現れたのは、悠人だった。バックに巨大な財閥を持つ神宮寺家の御曹司とあっては、主催者の須藤も無視できるはずがない。須藤は揉
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第626話

だが、悠人はそんな柊也の威圧感など意にも介さず、容赦なく志帆を追い詰めていく。「それに、江崎さんの学籍を乗っ取った件についても、まだ一度も公の場で謝罪していませんよね。……そんな不誠実な人間のプロジェクトに、一体誰が投資するというんですか?」悠人はにっこりと、しかし目は笑わずに言い放つ。「少なくとも、僕は御免です。また資金を持ち逃げされて、投資家たちが次々に飛び降り自殺に追い込まれるなんてまっぴらだ。その上、『死んだ人間は借金がチャラになって、生きてる人間より楽でいいよね』なんて嘲笑われたら、たまったものじゃありませんから」志帆の表情は、もはや蒼白という言葉では足りなかった。ここにいるのは皆、経済界の重鎮ばかりだ。そんな彼らの前で過去の悪行を事細かに暴露されるということは、この業界での彼女の未来を完全に断つに等しい。周囲の視線が針のように突き刺さる。志帆は耐えきれず、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。「し、失礼……少し、席を……」隣に柊也という最強の盾がいようとも、今の彼女には何の気休めにもならなかった。声は震え、足取りはおぼつかない。逃げるように背を向けた志帆に、悠人は追い打ちをかけるように声を投げた。「おや、また得意の『敵前逃亡』ですか?」志帆は何も答えられず、逃げるように部屋を飛び出していった。残された空気は重い。主催者の須藤が、凍りついた場を取り繕うように乾いた笑い声を上げた。「はは……いやあ、神宮寺くんは相変わらず、若さゆえの正義感に溢れているねえ」すると、ふいに柊也が立ち上がった。長く伏せていた睫毛を持ち上げ、淡々と言う。「俺も、中座させてもらう」傷ついた恋人を慰めに行く――誰の目にもそう映ったことだろう。須藤にしてみれば、厄介払いができて好都合だと言わんばかりだった。彼は愛想笑いを浮かべたまま、形式的な引き止めもせずに手を振る。「ええ、ええ。お気になさらず。またの機会にゆっくりと」二人が去ると、個室には再び和やかな空気が戻ってきた。好奇心旺盛な一人が、「一体どういうことなのか」と悠人に尋ねる。待っていましたとばかりに、悠人は包み隠さず全てを暴露し始めた。柏木志帆がいかにして詩織の論文を盗用したか。いかにして詩織の学籍を乗っ取り、海外のトップスクールへ潜り込んだか。そ
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第627話

志帆は糸が切れたようにソファへ崩れ落ちた。全身の震えが止まらない。骨の髄まで凍りつくような寒気が彼女を襲っていた。「どうしよう……どうすればいいの……?」歯の根も合わないほど怯える娘に、佳乃は険しい顔で告げる。「今、手を回せる人間に片っ端から連絡を取ってるわ。……でも、最悪の事態も想定しておかないと」佳乃もまた、苦渋の選択を迫られていた。彼女は意を決して、残酷な現実を突きつけた。「志帆、江崎詩織に頭を下げなさい。『この件は不問にしてください』と泣きついてでも懇願するのよ。あなたが被害者本人を黙らせれば、あとは私が裏から手を回して、事態を『示談』という形で収束させてみせるわ」「無理よ!」志帆は悲鳴に近い声で否定した。「あの女が私の頼みなんて聞くわけないじゃない!」「それでも、やるしかないのよ」佳乃とて、それが茨の道であることは重々承知だ。だが、もし詩織が口をつぐまなければ、学歴詐称の事実は白日の下に晒される。そうなれば……今度こそ、柏木志帆という人間は完全に終わる。事業の失敗どころではない。唯一残された「高学歴のエリート」という看板すら偽物だとバレれば、もう這い上がる場所などどこにもないのだ。それだけではない。この件が警察沙汰になれば、裏工作を行った佳乃自身にも捜査の手が及ぶ。最悪の場合、刑務所行きもあり得る。佳乃は志帆の冷たい手を強く握りしめ、言い聞かせるように語りかけた。「いい、志帆。私たちはもう、断崖絶壁に立っているの。……これしか、道はないのよ」志帆の表情が、見る見るうちに強張っていく。やがてその顔には、死人のような蒼白さだけが張り付いていた。翌日の昼下がり。詩織は恩師の高村教授から呼び出しを受けた。「学籍乗っ取りの件で動きがあったから、至急、江ノ本大学まで来てくれ」とのことだ。しかし、大学の正門に到着するなり、詩織の足は止められた。行く手を阻んだのは、志帆だった。今日の彼女は、いつもの彼女とはまるで別人のようだった。鎧のように完璧だったメイクもなければ、高級ブランドのドレスもない。かつて全身から発していたあの傲慢なプライドも、跡形もなく消え失せていた。そこにいるのは、ただ顔色を失い、生気を吸い取られたような女。赤く腫れた瞳には涙がたまり、風が吹けば飛びそうなほど危うげな姿は、
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第628話

詩織はゆっくりと振り返った。その瞳に同情の色はなく、ただ冷徹な理性だけが光っている。彼女は淡々と、しかし急所を突くように言葉を並べた。「あなたのその謝罪、ちっとも心に響かないわ。……だって、ただ追い詰められて仕方なく頭を下げに来ただけでしょう?」詩織の声は静かだが、一言一句が重くのしかかる。「事件が発覚してから今日まで、時間はいくらでもあったはずよ。謝るチャンスなんて山ほどあった。それなのに、あなたは何も行動しなかった。神宮寺さんにどれだけ責め立てられても、逃げ回って貝のように口を閉ざしていたくせに」詩織は一歩、志帆に近づく。「いよいよ崖っぷちになって、初めて『ごめんなさい』?……随分と虫がいい話だと思わない?今さら遅すぎるわ」冷ややかな視線が、志帆を射抜く。「そんな安っぽい謝罪で、私が許すとでも思ったの?それとも、私がそんなにお人好しに見えるかしら?」志帆がプライドを捨てて頭を下げたこと、それは確かに意外だった。だが、それだけだ。どれだけ低姿勢に見せかけようと、所詮は「ワニの空涙」。偽りの懺悔に過ぎない。帰国してから今まで、彼女はこの「偽りの高学歴」という看板を掲げ、あらゆる利益と称賛を貪ってきた。その日々のどこかで、一秒でも罪悪感を抱いたことがあっただろうか?いや、ありはしない。彼女の目に映っていたのは、自分自身の栄光だけだ。その輝きが、他人の人生から盗み取ったものであることなど、とうに忘却の彼方に追いやっていたはずだ。そんな人間に向ける慈悲など、持ち合わせているわけがない。詩織の容赦ない言葉に、志帆はさらなる屈辱に打ち震えた。目頭が熱くなり、握りしめた拳が白くなる。震える唇を必死に動かし、彼女は最後のカードを切った。「お願い……もし、この件を不問にしてくれるなら、何でもするわ。あなたの言うこと、なんだって聞くから……!」その必死の懇願を聞いて、詩織は音もなく笑った。ただし、その笑顔は氷点下のように冷たい。「残念だけど、今のあなたに何の価値があるの?私にとって、あなたは一文の値打ちもないわ」その一言は、あまりに無慈悲な宣告だった。志帆の顔から、最後の血の気が失われていく。世界が回るようなめまいに襲われ、彼女の体がふらりと揺らいだ。今にもその場に崩れ落ちそうだ。だが、詩織はその脆弱さを
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第629話

「謝罪よ。許しを請いに来たの」詩織が淡々と事実を告げると、悠人は冷ややかに鼻を鳴らした。「謝って済むなら警察はいりませんよ」高村教授も厳格な口調で割り込んだ。「柏木さん。人は誰しも、自分の行いに責任を持たねばならんのだ」かつて志帆の才能を高く評価していた深見教授でさえ、軽蔑の色を隠そうとせずに首を振る。「いやはや……人は見かけによらぬものだ。君のような人間が学術界にいること自体が恥だ」次々と浴びせられる非難の声。志帆の頭の中で、不快な耳鳴りが警鐘のように響き渡る。四方八方から突き刺さる視線は、どれも軽蔑と嫌悪に満ちていた。まるでドブネズミでも見るかのように。これまでちやほやされ、高嶺の花として生きてきた彼女にとって、この転落は耐え難い屈辱だった。「……っ!」志帆はふらつく足で立ち上がると、顔を隠したままその場から逃げ出そうとした。詩織に言われた通り、また自分の殻に閉じこもるために。だが、今回は悠人がそれを許さなかった。彼は逃走経路を塞ぐように立ちはだかり、死刑宣告にも等しい事実を突きつけた。「一時間前、WTビジネススクールが公式声明を出した。あんたの学位剥奪と、論文盗用および研究成果の不正利用に関する法的措置を検討するとな」言葉を失う志帆に、悠人は容赦なく追撃を加える。「それだけじゃない。ウィリアム教授との不潔な関係についても、奥さんがすべて公表したよ。……二人の情事の写真や動画、それに生々しいチャットの履歴まで、すべてね」志帆の瞳が、一瞬で充血したように赤く染まる。だが対照的に、その唇からは血の気という血の気が失せ、死人のような白さを晒していた。「本当、反吐が出るよ」悠人の双眸には、氷柱のような鋭い侮蔑が宿っていた。短く、それでいてこの上なく残酷なその一言は、鋭利な刃となって志帆の心臓を抉った。志帆の顔から表情が抜け落ちる。今の彼女にとって、それは死よりも深く、惨めな一撃だった。悠人が半歩下がると、堰を切ったように記者たちが殺到し、志帆を取り囲んだ。もう逃げ場はない。無数のマイクが突きつけられ、罵声にも似た質問が四方八方から浴びせられる。頭の中で何かが破裂し、思考が粉々に吹き飛んだ。「やめて、やめてよ……!」もがき、叫び、抵抗するうちに、髪は振り乱れ、衣服は無惨に着崩れてい
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第630話

志帆はどうやって実家まで帰り着いたのか、自分でも定かではなかった。地獄の釜の底を這いずり回ったような疲労感だけが残っているが、そこに生還した安堵など微塵もない。世界はまだ、息が詰まるような絶望に支配されていた。リビングに入ると、父・長昭がソファに沈み込み、食い入るようにテレビニュースを見つめていた。画面の中で、詩織が江ノ本大学の正門前でインタビューに答えている。WTビジネススクールからのオファーを受け、来春からMBA課程に進むこと。来週、G市証券取引所で上場の鐘を鳴らすこと。そして――「愛よりも金(キャッシュ)を愛している」と、不敵に微笑む姿。長昭は画面に釘付けで、娘の帰宅に気づきもしない。詩織の輝かしいインタビューが終わると、画面は一転し、不穏なテロップと共に次のニュースへ切り替わった。『現地有名教授への贈賄および不正学位取得疑惑』画面には、モザイク処理された男女の親密な写真が映し出されている。顔は隠されているが、そのシルエットが誰であるか、志帆を知る者なら即座に見抜けるだろう。長昭の眉間に深い皺が刻まれた、その瞬間――ガシャンッ!志帆は手近にあった花瓶を鷲掴みにし、液晶画面めがけて力任せに叩きつけた。亀裂の入った大画面の半分がブラックアウトする。だが、皮肉なことに音声だけは途切れることなく、無機質なアナウンサーの声で残酷な事実を垂れ流し続けた。続いて画面に残った半分に映し出されたのは、SNSのチャット履歴だ。放送コードに抵触しないよう選別されたものでさえ、その内容は十分に醜悪で、見るに耐えないものだった。【今夜、奥さんに睡眠薬飲ませておいてね。あなたのベッドでやりたいの。奥さんが隣で寝てる横で……その方がスリルがあって興奮するでしょ?】【ハニー、君ってやつは本当に淫乱だな】次の画像に切り替わる。そこには、ウィリアム教授からの「妻が妊娠した」というメッセージに対し、志帆が嫉妬に狂って彼を罵るログが残っていた。妻との性交渉を激しくなじり、あろうことか胎児を堕ろすよう強要する文言。そこには、人間の底知れぬ悪意が凝縮されていた。これらは全て、ウィリアム夫人が執念で集めた証拠だった。さらに、一連の心労による健康被害や、夫と愛人の策略による流産によって二度と子供が望めない体に
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