七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した のすべてのチャプター: チャプター 681 - チャプター 690

715 チャプター

第681話

二審がどうなるか、誰も予測がつかない。だが、詩織の目は「無期懲役」の四文字に釘付けになっていた。スマホを握る指先に、じっとりと力がこもる。呼吸を整え、少し時間を置いてから、海雲に電話をかけた。声のトーンは、いつも通りを心がけた。「……今日が出発じゃなかったかね?」電話に出た海雲は、開口一番、気遣わしげに尋ねてきた。「ええ、今空港にいるんです」詩織は喉の奥が震えないよう、慎重に言葉を選んだ。「飛び立つ前に、一言ご挨拶をしておきたくて」「こっちはいいから、安心して勉強してきなさい。私のことなら心配いらんよ」海雲の声は、穏やかで力強かった。詩織は喉の奥に熱いものが込み上げるのを感じた。しばらく唇を噛みしめ、どうにか平静を取り繕って言葉を絞り出す。「……分かりました。お体、大切になさってくださいね。休暇のたびに江ノ本へ帰りますから、その時は必ず顔を見に伺います」「ああ、待っているよ」慌ただしく通話を切った。これ以上話し続ければ、感情のダムが決壊してしまうのが分かったからだ。一人残された海雲に対し、かけるべき言葉が見つからない。自分の無力さが歯がゆかった。「先輩」ようやく心のざわめきを静めた時、不意に声をかけられた。顔を上げると、そこには見慣れた青年が立っていた。黒のシェルパーカーを羽織り、大きなショルダーバッグを背負った悠人だ。彼は小首を傾げ、悪戯っぽく微笑んでいる。「あなた、どうしてここに……?」詩織が呆気にとられていると、悠人はバッグから一枚の書類を取り出し、得意げに見せてきた。それは、WTビジネススクールの大学院合格通知書だった。詩織は目を丸くした。「まさか、あなたが『忙しい』って言ってたのって、このことだったの?」「その通りです」悠人は自信たっぷりに頷いた。詩織がWTへの進学を決めたと知るや否や、彼は即座に同じ大学院への出願準備を始めていたのだ。この合格通知を勝ち取るために、それこそ血の滲むような猛勉強をしたらしい。努力の甲斐あって、彼は晴れて詩織を追いかけ、海を渡る切符を手に入れた。父である悠玄もこの決断を支持し、「彼女から多くを学べ」と背中を押してくれたという。「じゃあ、これで本当に私の後輩になるわけね?」「はいっ、先輩!」悠人は屈託のない、眩しい笑顔を向
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第682話

それから、三年が過ぎた。深夜の北里空港到着ロビーに、詩織を迎えに来た小林密の姿があった。ホテルへ向かう車内で、密は手際よくスケジュール表を渡し、今回の「北里スタートアップ・ベンチャーサミット」の要点と、上層部からの指示事項を報告した。資料に目を通し、詩織は赤ペンでいくつかの項目を丸で囲んだ。「この案件、バックグラウンドチェックをお願い」密が覗き込むと、それは製薬、民間宇宙開発、新素材に関するプロジェクトだった。相変わらずの先見の明だ。密は改めて、上司の鋭い嗅覚に舌を巻いた。ホテルにチェックインし、シャワーを浴びる。時差ボケのせいで、まだ眠気は訪れない。スマホを見ると、悠人から【着きましたか?】とメッセージが入っていた。【着いたわ】と返信する。安心したように、悠人から初惠の今日の様子が送られてきた。実のところ、向こうでの生活は四人の専門スタッフが万全の体制でサポートしているため、逐一報告を受けなくても心配はないのだが、彼の心遣いはありがたい。【ありがとう】と打ち込もうとした時、部屋のドアがノックされた。密かと思い、何の気なしにドアを開ける。そこには、見知らぬ男たちが立っていた。「江崎さん!『トヨシマ・テック』の長谷川です!ぜひ弊社の企画書をご覧ください!」「こっちも見てください!『クラウド・ソリューション』の創業者です!」「私のも!江崎さん!」「俺の話も聞いてください……!」深夜のホテル廊下に、七、八人の男たちがひしめき合っている。異様な光景に、詩織は背筋が寒くなった。幸い、騒ぎを聞きつけたホテルスタッフが飛んできて、男たちを制止してくれた。「お客様のご迷惑になります!直ちにお引き取りください!」「退去しない場合は警察を呼びますよ!」スタッフたちの必死の警告により、男たちは未練がましく何度も振り返りながら、ようやくその場を去っていった。「誠に申し訳ございませんでした。私どもの管理不行き届きで、このような事態を招いてしまい……」スタッフたちは平身低頭して謝罪を繰り返した。こんな真夜中だ。責任を追及して事を荒立てる元気もない。「今後は気をつけてくださいね」とだけ釘を刺し、詩織は静かにドアを閉めた。即座に密へ電話をかけ、ホテルの変更を指示する。事情を聞いた密は
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第683話

その素振りに気づき、譲は慌てて口調を改めた。「ああ、ごめん。もうこんな時間だね。早く部屋に戻って休んで。明日、会場で会おう」詩織は礼儀正しく会釈を返し、背を向けようとした。その拍子に、手元のカードキーが滑り落ちてしまう。拾おうと身を屈めかけた時には、もう譲がそれを拾い上げていた。差し出されたカードキーを受け取る際、指先がわずかに触れ合う。「ありがとう」短く礼を述べ、詩織はエレベーターホールへと消えていった。彼女の後ろ姿を見送りながら、譲はゆっくりと手を下ろした。視線は自分の指先に釘付けになっている。そこには、彼女の温もりが微かに残っているような気がした。その余韻を逃すまいとするように、彼はそっと拳を握りしめた。北里ベンチャー・サミットは、国内最大規模を誇る資金調達イベントだ。厳正な審査を通過した有望なスタートアップ企業が集結し、政府の重点支援も相まって、その将来性は極めて高いと評価されている。詩織がわざわざ帰国してまで参加を決めた理由もそこにあった。翌日、詩織は定刻通りに会場入りした。三年間も表舞台から遠ざかっていたのだから、自分のことなど覚えている人は少ないだろう――そんな彼女の予想は、会場に足を踏み入れた瞬間に打ち砕かれた。「江崎さん!」「江崎代表、お久しぶりです!」またたく間に人だかりができ、次々と挨拶や名刺交換を求められる。詩織は笑顔を貼り付けたまま対応に追われ、開会のアナウンスが流れてようやく解放された時には、すでに疲労困憊していた。密がさっとミネラルウォーターを差し出す。数口飲んで喉を潤し、詩織は深いため息をついた。「……もう私のことなんて、誰も覚えてないと思ってたのに」密は呆れたように首をすくめた。「詩織さん、ご自分の知名度を甘く見すぎですよ」決して大袈裟な話ではない。華栄キャピタルは今や業界の頂点に君臨し、絶対的な指標となっている。その動向一つで市場の流れが変わるとさえ言われるほどだ。たかだか三年姿を消したところで、江崎詩織という名のブランド価値が揺らぐことはない。今の彼女を知らぬ者は、この業界にはいないのだ。詩織がようやく席に着くと、ほどなくして会議の開始が告げられた。壇上に上がった進行役は、これまた彼女の知る人物だった。篠宮賢だ。三年の歳月
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第684話

小春は詩織との再会がよほど嬉しかったのか、彼女の手を握ったり腕に絡みついたりしながら、小鳥がさえずるように楽しげに話し続けていた。そんな二人の横で、普段は主役級の存在感を放つ響太朗は、今日ばかりは完全に「付き添い」に徹していた。彼は黙々とナイフとフォークを動かし、メインディッシュの肉を切り分けている。几帳面な性格のせいか、あるいは軽い強迫観念めいた癖なのか、一口サイズにカットされたその身は、二つの皿の上に定規で測ったかのように整然と並べられていた。彼は完成したその「作品」を、小春と詩織、それぞれの前にすっと差し出した。詩織が一瞬、手を伸ばすのを躊躇うと、響太朗はすぐに察したように口を開く。「ついでだよ。他意はない」淡々と言われてしまうと、あえて固辞するほうが自意識過剰のようで気恥ずかしくなる。詩織は礼を言って皿を引き寄せた。楽しいディナーも終盤に差し掛かった頃、響太朗のスマートフォンがテーブルの上で震えた。画面を一瞥した彼は、無表情のまま通知を切る。だが、間を置かずに再び着信音が鳴り響いた。響太朗の眉間に微かな皺が寄る。瞳の奥を一瞬、鋭い不快感がよぎった。年齢のわりに聡明な小春は、その空気の変化を見逃さなかった。「パパ……もしかして、あの人たち?」恐る恐る、といった様子で小春が尋ねる。響太朗は短く「ああ」と肯定した。「わたしが出るわ。貸して」響太朗は躊躇いを見せたが、小春は引かなかった。その瞳に宿る強い意志を見て取り、彼は観念したように端末を娘に手渡した。通話ボタンを押した瞬間、小春の表情から幼さが消え、氷のような冷徹さが宿った。「――あなたたちは、単なる生物学上の親に過ぎません。わたしを捨てたあの瞬間に、もう他人になっているはずです。これ以上、私の生活を邪魔しないでください。……以上です」相手に反論の隙も与えず、小春は一方的に通話を切った。受話口からの声までは聞こえなかったが、その毅然とした口ぶりだけで、詩織は事の次第をすべて理解した。ディナーを終え、響太朗が詩織をホテルまで送る車中のことだった。顧問弁護士から響太朗に連絡が入った。内容は芳しいものではなかった。小春の実の両親が、弁護士を立てて親権を取り戻すための訴訟に動き出したというのだ。かつて彼らが小春を育児放棄したのは明白な事
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第685話

あの大火災の後、賀来家の屋敷は海雲の手配した業者の手によって、かつての間取りそのままに完全復元されていた。だから門をくぐった瞬間、詩織は一瞬タイムスリップしたような錯覚に陥った。何もかもが、あの頃のままだ、と。だが、海雲の髪に混じる白いものが目に入った途端、現実に引き戻される。時は決して戻らない。老いは確実に、静かに進行しているのだ。海雲は、詩織の来訪を心から喜んでくれた。松本さんもわざわざ市場まで買い出しに行ってくれ、詩織の好物をテーブルいっぱいに並べてくれた。食卓を囲みながら、話題は自然と詩織の学業のことへ移る。「本来は修士までで帰国するつもりだったんですが、教授に熱心に引き留められてしまって。博士課程まで進むことにしたので、あと二年は向こうにいることになりそうです」詩織がそう報告すると、海雲は箸を置き、すまなさそうに目を伏せた。「……すまないね。あの時、君が迷わず留学を選んでいれば、今頃とっくに博士号を取れていただろうに。賀来家が、君の時間を奪ってしまった」「そんなことおっしゃらないでください、おじ様。すべて私が自分で決めたことです。誰かのせいじゃありません」詩織は慌てて笑顔で否定した。示し合わせたわけではないだろうが、誰も柊也の名を口にはしなかった。まるで彼の名が、触れてはならない禁句であるかのように。こうして彼は、長い歳月の中で、少しずつ人々の記憶の彼方へと埋葬されていくのだろうか。さらに一年が過ぎた。詩織が無事に博士号を取得した日、M国で盛大な祝賀パーティーが開かれた。澪士たちがわざわざ駆けつけてくれ、今回はなんとミキまで海を渡ってやってきた。久々の再会に、詩織のテンションは最高潮だった。「今日は朝まで語り合うわよ!」とばかりにワインボトルを掴み、ミキのグラスに注ごうとする。ところが、ミキが手でグラスを塞いだのだ。「私、お酒やめたの」詩織の手が止まる。まじまじと親友の顔を見つめた。あの酒豪のミキが?水代わりに酒を飲んでいたあの女が?誰が信じるというのか。「……冗談でしょ?」「ガチだって」ミキは涼しい顔でオレンジジュースの入ったピッチャーを持ち上げ、「今日はこれで付き合うから」とグラスに注ぎ始めた。「ガチだって」ミキは涼しい顔でオレンジジュースの入ったピッチャーを持ち上
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第686話

「もし君が、小春の母親になって親権獲得に協力してくれるなら――その見返りとして、僕の持っているすべての人脈とリソースを好きに使っていい。君がさらに高みへ登るための踏み台にしてくれて構わない」響太朗は静かに、だが強い決意を込めて続けた。「もちろん、これは契約だ。親権の問題が片付いた後、この関係を解消するか続けるかは、すべて君の自由でいい」響太朗から「契約結婚」を提案されたとき、詩織の脳裏に浮かんだのは小春の顔だけだった。もし、偽りの結婚をするだけで小春の未来を守れるなら。彼女に迷いはなかった。私は、それを受け入れる。ただ、当然ながら条件があった。同席していた弁護士の説明によれば、小春の正式な親権を獲得するまでの間、二人が「偽装結婚」であることは誰にも漏らしてはならないという。それは世間に対してはもちろん、詩織の親族や友人に対しても同様だった。少しでも綻びが出れば、相手側の弁護士に付け入る隙を与えることになる。詩織はそのリスクを理解し、大局的な判断として了承した。彼女は弁護士から差し出された秘密保持契約書に、躊躇なくサインをした。響太朗の仕事は迅速だった。婚約披露パーティーの日取りは、早くも一ヶ月後に設定された。サインをしたのはいいものの、問題はどうやって初恵やミキにこの唐突な結婚を説明するかだ。詩織はまだうまい言い訳を思いつかずにいた。そもそも、ミキの様子がおかしい。彼女がここに滞在して一週間になるが、一向に帰国して撮影に戻る気配がないのだ。不審に思って尋ねると、「長年馬車馬みたいに働いてきたから、自分へのご褒美に長期休暇を取ることにしたのよ」と笑い飛ばされた。あの仕事人間のミキが?どう考えても異常だ。胸騒ぎを覚えた詩織は、ミキの目を盗んで彼女のマネージャーである佐伯に電話をかけた。「えっ、まだ聞いてなかったの?」電話口の佐伯は驚いたような声を上げた。「ミキちゃん、あっちでひどい目に遭ったのよ。てっきり詩織さんのところに泣きつきに行ったんだと思ってたわ」詩織の心臓が早鐘を打つ。「ひどい目って……一体何があったんですか?」佐伯の話は、詩織が想像していた以上に理不尽なものだった。少し前、ミキは実力で大物監督の新作映画の主演を勝ち取った。契約も済み、クランクインしていたはずだった。ところ
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第687話

ミキは顔を真っ赤にして咳き込み続けた。詩織が背中をさすり続け、ようやく呼吸が整うまでにはかなりの時間を要した。ようやく呼吸が落ち着いたミキは、まだ涙目のままで、詩織の襟首を掴まんばかりに詰め寄った。「で、相手は誰なのよ!?」「この間、訪ねてきた人……高坂響太朗よ」ミキは目を丸くし、小首をかしげて考え込む仕草を見せた。「ああ、あのイケ紳士か……確かに顔はいいし、清潔感もある。それに、なんていうの、あの漂う『金持ちの余裕』みたいな雰囲気?悪くないわね」ミキは指折り数えながら、まるで査定官のように分析を始めた。「年齢はちょっと上かもしれないけど、まあ許容範囲か。年上の方が包容力もあるし、可愛がってくれそうだし」ぶつぶつとメリットを並べ立てていたかと思うと、不意に彼女は表情を引き締め、核心を突く問いを投げかけてきた。「で、あんたはどうなの?好きだから結婚するの?」詩織はきょとんとして、まるで抽象画でも見せられたかのような顔をした。「……それ、重要なこと?」「うーん、そうでもないか。愛だの恋だの言ってる女に限ってろくな目に遭わないしね。いっそ金とか名誉とか、実利を取った方が幸せになれるのかも」今度は詩織が小首をかしげる番だった。「ねえミキ。あんた、もしかして男にひどいことされた?」ミキの視線が泳いだ。彼女は詩織と目を合わせようとせず、いつもの調子でヘラヘラと笑ってみせた。「はあ?まさか!私の心臓はダイヤモンド製よ?男ごときに傷つけられるほどヤワじゃないっての。泣かされるのはいっつも男の方なんだから!」「……ならいいけど」詩織は優しくミキの頭を撫でた。「ここ数年、自分のことばっかりで全然連絡できなくてごめんね」「何言ってんのよ。私は私で勝手に楽しくやってたんだから、気にしないで」相変わらずの能天気さを装っているが、それでいいのかもしれない。悩みなど何もないように振る舞うことが、彼女なりの防衛本能なのかもしれないから。……九月の北里市。その風は、昼と夜の寒暖差を鋭利な刃のように研ぎ澄ましていた。高い塀に囲まれた長い通路。重厚な鉄の扉が、ひとつ、またひとつと開かれていく。金属同士が擦れる冷たい音が響き、最後の扉が開いた瞬間――彼は久しく忘れていた、自由な風の匂いを嗅いだ。一人の男が、その場に立ち尽く
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第688話

江ノ本市へ向かう機内で、太一は空白の三年を埋めるように、世の中の変化を語り続けた。「今の江崎は……マジですげえよ。大袈裟でもなんでもなく、江ノ本の産業の半分はあの人の息がかかってると言っても過言じゃない」柊也はただ静かに耳を傾けていた。質問もしなければ、感想も言わない。窓の外の雲海を見つめるその横顔は、どこか魂が抜け落ちてしまったかのように空虚だった。……G市の名門・高坂家が主催する婚約披露パーティーは、その名に相応しく壮大で華やかなものだった。詩織は響太朗の腕に軽く手を添え、二人で会場を回りながら、次々と現れる招待客たちへの挨拶をこなしていた。「高坂社長、おめでとうございます」グラスを片手に近づいてきたのは、小宮山序だった。彼は響太朗に声をかけつつも、その視線は彼の隣に立つ詩織に釘付けになっていた。まさか、五年もの間探し続けていた女性が、他人の婚約者として目の前に現れるとは。詩織は彼に気づくと、儀礼的な微笑みを浮かべて軽くグラスを合わせただけだった。その瞳に彼を認識したような光はなく、視線はすぐに次のゲストへと移っていった。どうやら完全に忘れられているらしい。今の小宮山は以前より地位を向上させてはいたが、高坂家のような伝統ある名門の前ではまだ吹けば飛ぶような存在に過ぎない。今の小宮山は以前より地位を向上させてはいたが、高坂家のような伝統ある名門の前ではまだ吹けば飛ぶような存在に過ぎない。響太朗も彼に対しては最低限の挨拶を交わしただけで、すぐに詩織を促してその場を離れてしまった。取り残された序は、遠ざかる詩織の背中を、亡霊のようにただじっと見つめ続けていた。視線を逸らすことすら惜しいかのように。しばらくして、ポケットの中のスマートフォンが震えた。彼は我に返り、通話ボタンを押した。妹の小宮山遥(こみやま はるか)からだった。家で『あの狂った女』がまた暴れて物を壊しているという苦情だ。「……壊させておけばいい。お前は手を出すな、怪我をするぞ」序は気のない声で答えた。「そう言われても、もったいないじゃない!あれ全部高いのに……」かつて貧しい暮らしをしていたせいか、遥は物の価値に執着するきらいがある。だが序の意識は受話器の向こうにはなかった。彼の心はまだ、会場の奥へと消えていった詩織の残像を
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第689話

ほどなくして、階下の騒音は潮が引くように収まった。限界に達していた詩織は、そのまま深い眠りへと落ちていった。翌朝。ドアをノックする音とともに、主治医が日課の健康チェックに訪れた。小春は特殊な体質の持ち主で、響太朗が雇った専属医が毎日こうしてバイタルや数値をモニタリングし、万全を期しているのだ。検査を受けながら、小春がばつが悪そうに切り出した。「先生……ごめんなさい。昨日の夜、お薬飲まなかったの」医師の手が止まる。「眠れましたか?」と心配そうに問う彼に、小春は力強く頷いてみせた。「うん!ぐっすり眠れたよ」医師は驚きを隠せない様子で目を見開いた。「驚きました……あなたが安定剤なしで自力で眠れたのは、ここ五年で初めてのことですよ」その声は興奮に震えていた。詩織は小春が何らかの投薬治療を受けていることは知っていたが、睡眠障害がそこまで深刻だとは知らなかった。まさか特製の安定剤なしでは眠ることさえできない体だったとは。小春が洗面所へ向かった隙に、詩織は医師に詳しい病状を尋ねてみた。医師の説明によれば、小春の脳波は常人とは異なる波形を示しているという。脳の活動レベルが異常に高く、それが睡眠や日常生活に干渉してしまうらしい。一種の「天才病」とも呼べる症状だ。それを聞き、詩織はますます小春のことが愛おしく、そして不憫に思えてならなかった。「……江崎さん、ひとつお願いがあります。もしよろしければ、簡単な実験に協力していただけませんか?あなたのそばにいることが、彼女の睡眠を改善する鍵になっているのかどうか、データを取ってみたいんです」「もちろんです」詩織は即答した。検査を終え、二人が朝食をとるために一階へ降りると、詩織はリビングの雰囲気が少し変わっていることに気がついた。昨日まで飾られていたはずの年代物の花瓶が、いくつか姿を消していたのだ。模様替えでもしたのかしら。詩織は深く気に留めることなくダイニングへ向かった。響太朗は昨夜、結局戻らなかったらしい。使用人からそう聞かされても、詩織は「そう」と頷くだけで、特に理由を尋ねはしなかった。小春と朝食をとっていると、二人のメイドが誰にも聞かれないよう、ひそひそと話し込んでいるのに気がついた。距離があるから聞こえないと高を括っているのか、彼女たちはさして
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第690話

ホテルに到着し、医師団が車を降りた。詩織はこれから本社で会議があるため、小春を一時的に医師に預け、「あとで迎えに来るから」と言い含めてその場を離れた。後半の道程は、詩織と運転手の二人きりになった。車は滑るように、極めて滑らかに走っていた。詩織は手元のタブレットに視線を落とし、会社から上がってきた案件のスクリーニングに没頭していた。集中していた彼女は、バックミラー越しに注がれる熱っぽい視線に気づいていなかった。その視線は、貪るように彼女を追いかけていた。まるで記憶の画用紙に、いまの彼女の姿を一筆一筆写し取るかのように。白くしなやかな首筋、エアコンの微風に揺れる髪の一筋に至るまで――だが、その視線がある一点で凍りついた。彼女の右手の薬指に嵌められた、指輪の上で。車はいつの間にか華栄キャピタルのビル前に到着し、音もなく停止した。詩織がタブレットを閉じると、すでに運転手が降りてきてドアを開けてくれていた。「ありがとう」詩織は礼儀正しく声をかけたが、相手の顔をしっかりと見ることはなく、そのまま車を降りた。ビルの入り口では、密が今か今かと待ち構えていた。詩織の姿を認めるなり、小走りで駆け寄ってくる。「荷物、お願いね」詩織はPCバッグだけを手に持ち、トランクケースを密に任せて足早にエントランスへと向かった。密は運転手からトランクを受け取ると、階段を上がっていく詩織の背中をちらりと確認した。彼女が聞こえない距離まで離れたのを確かめてから、密は声を潜めて運転手の男に囁いた。「……今回だけですからね!こんなこと詩織さんにバレたら、私クビじゃ済みませんよ!」深く帽子を目深に被っていた男は、低く、懐かしい声で短く応えた。「わかってる」密はそれ以上何も言わず、逃げるようにトランクを引いて詩織の後を追った。その場に残された柊也は、誰にも気づかれないよう、遠ざかっていく彼女の背中を静かに見送った。しばらくして、ポケットの中でスマートフォンが震えた。柊也は慌てることなく、ゆっくりと通話ボタンを押した。「おい、どこにいるんだ!予約時間過ぎてるぞ!」電話の向こうから、精神科医の掛川一樹(かけがわ かずき)の焦った声が響いてきた。「今から行く」柊也の声には気だるげな響きがあった。「本当にお前ってやつは……自分
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