七年の恋の終わりに、冷酷な彼は豹変した のすべてのチャプター: チャプター 671 - チャプター 680

715 チャプター

第671話

「うん、大成功」ちょうどそこへ、カットフルーツの盛り合わせを持った初恵がやってきた。「あら、詩織。披露宴はもうお開き?」「ううん、途中で抜け出してきちゃった」詩織は小鳥のように口を開けて、母に「あーん」をねだる。初恵が苦笑しながら、大好物のイチゴを放り込んでやる。すると、隣でミキも同じように口を開けて待っていた。初恵は吹き出しながら、彼女の口にも甘い果実を運んでやった。ハムスターのように頬をいっぱいに膨らませたミキが、もごもごと口を動かしながら尋ねる。「んぐ……で、なんで早退?誰かに嫌なことでも言われた?」とっさに「ううん」と首を振りかけたが、すぐに思い直した。ミキの前で強がっても意味がない。二人の間に秘密など存在した試しがないのだ。詩織は観念して、式場での不愉快な出来事を洗いざらい話して聞かせた。話を聞き終えるなり、ミキは汚い言葉で罵った。「はあ?また猫かぶりの性悪女?京介さんってば、どうしてこう地雷ばっかり踏み抜くのかね。前のゲス帆といい、今回の霜花といい、女運が壊滅的じゃない?」京介の女運については、詩織の関知するところではない。それよりも気になるのは、なぜ今ここにミキがいるのかということだ。「昨夜のLINEじゃ、深夜ロケで死にそうって言ってたのに」「それは全部、休みを無理やりねじ込んであんたに会いに来るため!本当はずっと前から来たかったんだけど、撮影スケジュールが鬼でさ、制作陣が全然離してくれなかったのよ」「……もしかして」詩織はハッとしてミキを見つめた。「私が今日、結婚式で辛い思いをするんじゃないかって心配して、わざわざ駆けつけてくれたの?」ミキは「……」と口ごもった。図星らしい。詩織は友人の過保護ぶりに呆れつつも、きっぱりと言った。「心配しすぎよ。辛くなる要素なんて一つもないわ」京介とは何かが始まったわけでもないし、仮に過去に多少の縁があったとしても、今の詩織には何の影響もない。彼など、人生ですれ違っただけの「通行人」に過ぎないのだから。その夜、ミキと詩織は一つのベッドに潜り込んだ。電気を消してから小一時間、二人はまるで機関銃のように、ここ最近出会った「いけ好かない奴ら」八百人分の悪口を言い倒した。話題は自然と、賢のことにも及んだ。「もったいないなあ」ミキはずいぶ
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第672話

夫?そんな新出単語、ミキの辞書に載っていた記憶は一度もない。寝ぼけた頭で処理しきれなかった詩織は、即座に結論を下した。「間違い電話です!」相手の返答も待たず、ブチリと通話を切ってスマホを放り出した。翌朝。ミキは目を覚ますなり、心臓が止まるかと思った。ベッドサイドに仁王立ちした詩織が、まるで重要参考人を尋問する刑事のような冷徹な眼差しで、自分を見下ろしていたからだ。「ヒッ……な、なに?何なのその目、怖いんだけど」ミキは怯えながら頭をかいた。詩織は無駄口を叩かず、ミキの目の前にスマホを放り投げた。「昨日の夜中、男から電話があったわよ。『俺はミキの夫だ』って名乗ってたけど。これについて何か弁明は?」「はあ?ありえない!」ミキはベッドから飛び起きんばかりにオーバーリアクションをとった。まるで濡れ衣を着せられた悲劇のヒロインだ。「夫なんていたら、私、『近藤』やめて『江崎』に改名してやるわよ!」「そう。じゃあ今日から『江崎』ね」「……」ミキは言葉に詰まり、慌ててスマホの履歴を確認した。例の着信履歴を目にした瞬間、彼女の顔が怒りで歪んだ。「ちがっ、詩織、誤解だって!こいつはただの共演者!ドラマで夫婦役やったんだけど、役に入り込みすぎて頭おかしくなってるだけなの!」「ふーん、まあそういうことにしておくわ」詩織はそれ以上追及せず、「さっさと顔洗って食べてきなさい」と言い残して部屋を出て行った。一人残されたミキは、ベッドに倒れ込むようにして大きく息を吐いた。と同時に、ふつふつと怒りが湧いてくる。LINEを開き、『由木白彦(ゆうき きよひこ)』という名前をタップすると、怒りに任せてメッセージを連投した。【頭沸いてんのか?】【何わけわかんないこと言ってんのよ】【約束忘れたわけじゃないよね?】【余計なことすんな!】白彦からは既読すらつかない。まだ寝ているのか、仕事中なのか。まあいい、返信があったところで見たくもない。ミキはスマホを放り出し、洗面所へ向かった。朝食のテーブルについても、ミキはもぐもぐとパンを齧りながら、上目遣いで詩織の様子を窺っていた。今の言い訳、信じてくれたかな……?詩織は何も聞いてこない。とりあえず、今はこれでいい。こんな形でバレるわけにはいかないのだ。すべてを打
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第673話

空港でミキを見送った後、詩織はそのまま病院へ向かった。そこで母の初恵と合流する手はずになっていた。到着すると、初恵はすでに三つの小検査を終えていた。残る二つの大きな検査は、詩織が付き添って回った。結果が出るまでには時間がかかる。二人は外来の待合ベンチに腰を下ろして待つことにした。その時、詩織のスマホが鳴った。高村教授からだ。「論文、非常によかったよ。いくつか修正点をメールで送っておいたから確認しておくように。直したら、SSCI(国際的な学術誌)に推薦枠で送るつもりだから」それはつまり、高村教授のもとでの単位をすべて修得し、課程を修了できることを意味していた。詩織が胸を躍らせていると、廊下の向こうから慌ただしい足音と車輪の音が近づいてきた。「道を開けてください!急患です!そこ、下がって!」先頭を走る医師が、廊下の人々に大声で注意を促しながらストレッチャーを押してくる。脇を走る別の医師が、携帯電話で救急科に怒鳴るように病状を伝達していた。「……はい、移植後の合併症です!腎臓摘出後の感染症と血栓で意識不明!大至急、処置室の準備を!」腎臓摘出?その不穏な単語に、詩織は何気なくストレッチャーへ目を向けた。次の瞬間、彼女の心臓が早鐘を打った。酸素マスク越しでもわかった。蒼白な顔で横たわっているのは、久しく見ていなかったあの女――柏木志帆だったのだ。彼女は今、拘置所に収監されているはずではなかったか?それに、「腎臓摘出」とは一体どういうことなのか。詩織は遠ざかるストレッチャーの後ろ姿を、呆然と見送った。検査結果を受け取り、詩織は深い安堵の息を吐いた。初恵の術後経過は極めて順調だった。これなら、あとは医師の指示通りに定期検診を受けるだけでいい。「ありがとうございました」主治医に礼を言って立ち上がった時、デスクの上の内線電話が鳴った。「はい……え、さっきの?感染が酷すぎる……わかった、すぐ行く」電話を切った主治医は、険しい顔で急いで白衣を翻して出て行った。どうやら、先ほど運び込まれた患者――志帆のことらしい。病状はかなり深刻なようだ。病院を出ると、詩織は初恵をエントランスに残し、駐車場へ車を取りに向かった。数分後、車寄せに愛車を回した詩織の目に、見慣れない光景が飛び込んできた。母が誰かと話をし
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第674話

だが、詩織が口を開くより先に、初恵は慌てて釘を刺した。「先に言っておくけど、あの人はあなたのお父さんじゃないからね!」「……」まだ何も聞いていないのに。正直なところ、詩織もその可能性を一瞬疑い、複雑な心境だったのは事実だ。柏木長昭という男に対しては、以前から生理的な嫌悪感があった──彼が志帆の父親だと知る前からですら、なぜか好きになれなかったのだ。だから、母の否定の言葉を聞いて、詩織は心の底から安堵した。「それはよかった」詩織の声に、隠しきれない安堵が滲む。「でも、昔付き合っていたのは事実よ」初恵は少しバツが悪そうに付け加えた。詩織がちらりと視線を向けると、彼女は拗ねたように唇を尖らせた。「なによ、その目は。あなただって男運、散々だったじゃない。私だって若い頃に男を見る目がなかった時期くらいあるわよ。誰だって失敗の一つや二つ、あるでしょ?」「……」何も言っていないのに、流れ弾が飛んできた。まあ、母がそう言うのなら、そうなのだろう。詩織は苦笑しながらハンドルを切った。「あの人とは大学の同級生だったの。付き合い始めたのは三年の頃ね」初恵は窓の外を流れる景色を眺めながら、ぽつりぽつりと語り始めた。「卒業後、彼は公務員試験に受かって地方の過疎地に配属されたわ。私は江ノ本に残って就職して、そこから遠距離恋愛が始まったの」「あの頃は、二人で未来を語り合うだけで楽しかった。彼がいずれ江ノ本に栄転して戻ってきたら、結婚するんだって信じて疑わなかったわ」「新居の場所まで勝手に夢想して……それなのに、彼はある日突然、冷たくなったの。電話しても出ない、手紙を書いても梨のつぶて」初恵の声が、少しだけ低くなる。「どうしようもなくなって、彼に会うためだけに勤務先まで押し掛けたわ。でも、彼は私を避けて会おうともしなかった。理由の説明はおろか、言い訳の一つすらなかったわ。まさに『音信不通』という形での一方的な別れよ」「その帰り道、私は気が滅入っていたせいで交通事故に遭ったの。半月近く入院したけれど、彼からは一度だって連絡はなかった。生死の境をさまよって、ようやく目が覚めたわ。こんな男のために時間を浪費するのは馬鹿げてるってね。だから彼を私の人生から完全にデリートして、二度と関わらないと誓ったの」長い年月を経て語られるその口調は
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第675話

気のせいだろうか?今夜は付き合いで少し酒を飲んでいる。アルコールが回って、幻聴でも聞いたのかもしれない。詩織はそれ以上深く考えず、湊に促されて再び歩き出した。だが、廊下の一番奥にある個室では、まさにその時、必死の攻防が繰り広げられていた。ソファーに押し倒された美穂は、男の太い腕で口を塞がれ、呼吸もままならなかった。男の力は圧倒的で、美穂の抵抗などものともせず、その身体を強引に押さえつけている。「なに抵抗してんだよ?こんないやらしい格好して、俺を誘ったのはお前だろ?今さら清純ぶっても遅いんだよ」男の粘りつくような視線と、酒臭い息がかかる。「実はずっと抱きてえと思ってたんだよ。お前の流出した『あの動画』、擦り切れるほど見させてもらったぜ。なあ、この後俺とも同じことしようぜ?動画より気持ちよくしてやるからさ!」美穂の抵抗は次第に弱まり、ついにはピクリとも動かなくなった。酸欠で顔はどす黒く鬱血し、白眼を剥きかけている。死なれては困ると思ったのか、男はようやく彼女の口と鼻を塞いでいた手を緩めた。「ガハッ、ゲホッ、ゲホッ!」急激に流れ込んできた空気に喉を詰まらせ、美穂は激しく咳き込んだ。その隙を見逃さず、男の手が彼女の顎から首筋を這い、胸元へと滑り込んでいく。振り払いたいのに、指一本動かす力も残っていない。まるで泥の中に沈んでいくような脱力感だ。彼女は肩で息をしながら、掠れた声で罵るのが精一杯だった。「友達だと思ってたのに……こんなことして、ただで済むと思ってるの?この卑怯者!」それだけではない。体の芯から湧き上がる異常な熱さと、鉛のように重くなる手足。何かがおかしい。「あんた……私に何を飲ませたの?なんで力が入らないのよ」男はにやりと笑った。「とっておきの特効薬さ。ほら、前にお前が、あの江崎って女に使えって俺に渡したヤツだよ。ただし、こいつはさらに強力な改良版だ。天国に行けるって評判らしいぜ?」「っ!」男は乱暴に美穂のドレスを引き裂いた。露わになった肌に唇を寄せ、耳元でねっとりと囁く。「さあ、たっぷりと楽しませてくれよ」その夜、美穂は男に何度も嬲られ、その一部始終をスマートフォンのカメラに収められた。事が終わり、男は服を整えながら冷酷に告げた。「いいか、俺が呼んだらすぐに来い。拒否したら、今の動画
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第676話

三月半ば。詩織は江ノ本大学のMBA課程を修了し、無事に卒業の日を迎えた。これで心置きなく、七月末から始まるWTビジネススクールへの留学準備に取り掛かれる。とはいえ、残された時間は少ない。渡航までに「華栄キャピタル」の組織体制を盤石なものにせよと、やるべきことは山積みだ。有能な幹部候補の引き抜きや、管理職の育成に奔走する日々が続いた。そんな多忙を極める中、北里市から衝撃的なニュースが飛び込んできた。中央政界を揺るがす大粛正が始まったのだ。澪士が内部告発文書のコピーを送ってくれた。そこには、汚職の摘発リストと共に、事件の主犯格である大物政治家の罪状が記されていた。【重大な職務怠慢に加え、収賄額『極めて甚大』に及ぶ】澪士は、この「極めて甚大」という文言に赤いマーカーを引いて強調していた。【俺の予想だと、この「極めて甚大」ってのは数十兆円を超えてるね。少し前に10兆円の収賄で起訴された官僚がいたけど、あれはちゃんと数字が公表されただろ?今回あえて具体的な数字を伏せてるってことは、10兆円なんて可愛いと思えるレベルの額ってことさ】詩織は背筋が寒くなった。数十兆円……庶民が百円玉を貯金箱に入れるように、この国の寄生虫たちは10億円単位で私腹を肥やしていたのか。もはや人間の所業ではない。澪士のメッセージには続きがあった。【主犯の死刑は免れないだろうな。当然、連座した関係者も全員、重刑は確定だ】その言葉を見た瞬間、詩織の脳裏に自動的にある男の顔が浮かんだ。――賀来柊也。胸が締め付けられるようだったが、詩織は静かにため息をつくことしかできなかった。彼の実父である海雲でさえどうにもできない事態なのだ。ましてや、今の自分にできることなど何一つない。時を同じくして、譲と太一もこの情報を掴んでいた。事態の深刻さを悟った二人は、急ぎ北里市へ飛び、柊也との面会を試みることにした。出発前、太一がふと漏らした。「なあ譲、江崎にも声かけたほうが良くないか?柊也のやつ、最後に一目会いたがってるかもしれねえし」「……いや、やめておこう」譲は複雑な表情で首を振った。「あんな別れ方をしたんだ。今さら声をかけるのは酷だろう」「……だよなぁ」太一は重苦しい息を吐いた。「二人はもう赤の他人になっちまったんだ。連れて行くのは筋違い
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第677話

真実を知った瞬間、譲は自分自身を殴りつけたという。だが、母親の悦子からは「軽すぎるわよ。往復ビンタ十回でも釣り合わないわ」と皮肉られたそうだ。その通りだと思った。今、太一もまた、自分を殴り倒したい衝動に駆られていた。「……俺たち、彼女に土下座しても足りねえな」譲が静かに頷いた。「ああ。俺たちは全員、詩織さんに謝らなきゃならない」……六月中旬。梅雨の湿気が肌にまとわりつく頃、森田和代と柏木佳乃による殺人事件の控訴審判決が下された。従犯である和代は、懲役七年。主犯の佳乃については、犯行態様が極めて悪質であり、社会的影響も甚大、さらに反省の色が全く見られないとして、他の余罪も併合した結果、求刑通り刑が加重された。判決は、無期懲役。顧問弁護士から事前に見通しを聞かされていた詩織にとって、それは想定内の結果に過ぎなかった。だが、弁護士がもたらした報告はそれだけではなかった。――柏木志帆が、発狂したというのだ。心身共に崩壊してしまったらしい。あまりにあっけない結末に、詩織は複雑な溜息を禁じ得なかった。志帆の罪状は母親である佳乃たちほど重くはないとはいえ、それでも実刑五年以上は免れない状況だった。だが、まさか服役を前に精神に異常を来すとは、誰が想像できただろうか。以前、病院で目撃した痛ましい光景を思い出し、詩織は疑問を口にした。「彼女、拘置所にいたはずですよね?どうして腎臓を摘出するなんて事態になったんですか?」「報告によると、何度か自殺未遂を繰り返して病院へ移送されたようなんですが……そこでどういうルートか、大量の違法薬物を入手して服用したらしいのです。それが原因で急性ごく腎不全を起こし、重度の膿瘍まで併発して……結局、片方の腎臓を摘出せざるを得なかったとか」弁護士は声を潜めるように続けた。「まあ、真相は闇の中ですが、関係筋からはそう聞いています」物事の真実は、当事者のみが知る深い闇の底にある。部外者には、漏れ聞こえる風の噂を拾い集めることしかできないのだ。七月上旬、詩織は北里市を訪れていた。提携プロジェクトに関する打ち合わせが主な目的だったが、夜には澪士と雲斗が歓迎の席を設けてくれた。そこには当然のように、悠人の姿もあった。久しぶりに顔を合わせた四人だったが、澪士の口数の多さは相変
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第678話

その問いに、詩織は足を止めず、少しの間だけ沈黙した。流れる街の灯りを眺めながら、答えを出す。「行かないわ」理由は明確だった。まず、彼とはもう完全に終わった関係だ。今の自分には彼に会う立場もなければ、その必要もない。それに、仮に会いに行ったとして、何が変わるというのだろう。もし彼が本当に罪を犯したのなら、法の裁きを受けるべきだ。もし潔白であるならば、それは法が証明してくれるはずだ。悠人は彼女の言葉を聞いて、ほっとしたように息を吐いた。「行かなくて正解です。今回の事件、社会的影響が大きすぎて関係各所がピリピリしてますから。家族以外の面会となると当局の監視もつきますし、とにかく厄介なことになります」事の重大さは理解していたつもりだったが、詩織の想像以上に状況は緊迫しているようだった。「それに、先輩があの時エイジアを離れて、賀来柊也との関係を清算しておいて本当に良かった。もしあのまま半年でも残っていたら、今頃、長期間の厳しい取り調べに巻き込まれていたでしょうね。エイジアの経理部なんて、いまだに連日の聴取が続いているそうですから」悠人の言葉が途切れると、車内には重たい沈黙が降りた。詩織は何も答えず、窓の外を矢のように流れ去る夜景を見つめていた。その瞳の奥で何を思っているのか、表情からは読み取れなかった。譲と太一が柊也への面会を許可されたのは、申請から実に一ヶ月後のことだった。幾重もの厳しい審査を経て、ようやく掴み取った機会だ。柊也と顔を合わせるのは、八ヶ月ぶりになる。アクリル板の向こうに現れた彼は、以前より少し痩せ、髪は短く刈り上げられていた。通常であれば、絶望に打ちひしがれ、やつれ果てていてもおかしくない状況だ。だが、彼は驚くほど穏やかだった。かつての彼が纏っていた刺すような鋭さは消え失せ、あるのはただ、凪のような静けさだけ。あまりに静かすぎる。太一の心臓が嫌な音を立てた。まさか、この環境でおかかしくなっちまったんじゃ……?そう疑ってしまうほど、柊也の反応は不自然だった。こみ上げる憐憫の情を抑えきれず、何か慰めの言葉をかけようと口を開きかけたその時、先に口火を切ったのは柊也の方だった。「わざわざこんな遠くまで、何しに来たんだ?こっちは変わりなくやってる。心配はいらない」その言葉に、太一は
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第679話

太一は我が目を疑い、まじまじとガラス越しの友人を観察した。だが、見間違いではない。柊也の顔には、微塵の感情も浮かんでいない。かつての婚約者が狂ってしまったというのに、彼はただ淡々とそこに座っているだけだ。俺の知ってる柊也は、こんな薄情な奴だったか……?太一の脳内で、これまでの認識がグラグラと揺らぎ始めた。その違和感を察した譲が、助け舟を出すように話題を変えた。「でも、お前が自力で起業してて本当に良かったよ。賀来グループのリソースに頼ってたら、今回の一件でグループ全体が共倒れになってたかもしれない」「まあ、株価には多少影響が出たけどな。そこは海雲さんが健在だから、すぐに火消しして下げ止まったよ」そこまで言って、譲はふと言葉を詰まらせた。無意識のうちに、詩織のことを連想してしまったのだ。もし、彼女が一年以上前に柊也と別れていなかったら……間違いなく、この泥沼に引きずり込まれていただろう。『人間万事塞翁が馬』とはよく言ったものだ。あの時の別れは不幸に見えて、実は最悪の事態から彼女を救うための必然だったのかもしれない。……七月末。光復エンターテインメントが満を持して送り出した『クロニクル・オブ・アビス』が、ついに正式リリースを迎えた。国産初の大型AAAタイトルとして銘打たれた本作だが、発売前の海外での前評判は、実のところ芳しいものではなかった。『どうせ内輪向けの自己満足だ』『他と同じで一瞬だけ話題になって消えるだろう』――多くの海外メディアが冷ややかな記事を書き立てた。無理もない。わずか一年前、ネット中で嘲笑の的となり、国産ゲームの未来を閉ざしかけた『ドリーム・クラウド』の大失敗が記憶に新しかったからだ。ハイエンドゲーム市場の覇権は、長らく西側諸国の大手メーカーに握られ続けてきたのだ。だが、『クロニクル』は、誰の予想をも裏切る化け物だった。リリースされるや否や、世界中の販売プラットフォームで売り上げランキングの首位を独占。SNSには関連ワードが溢れ返り、トレンドを埋め尽くした。国内だけではない。グローバルチャートのトップに君臨し続け、わずか一週間で五十四の海外メディアが平均八十二点という高スコアをマーク。辛口で知られる最大手レビューサイトに至っては、異例の「満点」評価を叩き出したのだ。
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第680話

これまでであれば、柊也の答えは即答だった。迷いなど微塵もなかったはずだ。だが今回は、明らかな躊躇いがあった。「今ならまだ、引き返せるぞ」老紳士の静かな声が、部屋に響く。防弾ガラスには、柊也の陰りのある瞳が映り込んでいた。どれほどの時間が過ぎただろうか。ようやく、彼が重い口を開いた。「いいえ。彼女には輝かしい未来がある。俺のような人間に縛られて、時間を浪費するべきじゃない」老紳士は小さく首を振った。「まったく、相変わらず頑固な男だ」「自分で選んだ道ですから」柊也は静かに、けれど断固として告げた。「もう、後戻りはできません」……八月の上旬。詩織はWTビジネススクールへ留学するため、いよいよ旅立つことになった。空港へ向かう車中、隣に座る初惠が、先刻からずっとぼやいている。「ねえ、向こうの食事が合わなかったらどうしよう?やっぱり私、行くのやめようかしら」「却下。その件は議論の余地なしよ」詩織はぴしゃりと言い放った。「お母さんを目の届く所に置いておかないと、私が安心して勉強できないの」初惠は思惑が外れて口を尖らせた。まさか、あの時のたった一度の嘘が原因で、娘からの信用残高がゼロになるとは思わなかったのだ。海外留学にまで強制連行される羽目になるとは。抵抗しても無駄だと悟った初惠は、諦めて肩をすくめた。「分かった、分かったわよ。たかだか二年の辛抱だものね。安心して、足手まといにはならないから」「食事のことも心配いらないわ。ちゃんと口に合う料理を作れるシェフを手配してあるし、言葉が通じる人も多いエリアを選んだから。すぐに慣れるはずよ」母を連れて行くと決めた時点で、詩織は手を回しておいたのだ。母が異国の生活に馴染めず、ホームシックにかかるのだけは避けたかった。車が交差点で赤信号に捕まり、停車した。詩織が時間を惜しんでスマホで業務メールのチェックを始めると、不意に初惠が声を上げた。「あら、やだ……可哀想に。ご家族は何をしてるのかしら」「何が?」詩織は画面から目を離さずに訊ねる。「あそこのホームレスの女性よ。ゴミ箱あさって食べてるの」母の声には、痛ましいものを見る響きがあった。詩織は何気なく顔を上げ、窓の外へと視線を向けた。歩道の傍らに設置されたゴミ箱に、薄汚れた人影がしがみついている
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