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誇張される声

Author: 吟色
last update Last Updated: 2025-09-28 06:09:28

朝の支度の時間帯、廊下はもう噂で満ちていた。掲示板の前で、紙を抱えた生徒が顔を寄せる。

「結局さ、マリナってレナータ様を“利用”してるんだろ?」

「ほら、昨日もずっと一緒にいたし。あの位置、普通じゃ無理だよ」

「庶民のくせに手を伸ばしすぎ。調子に乗ってる」

角を曲がった先では、別の声が重なる。

「エリシア様、最近影が薄いって」

「庶民に話題、取られたとかさ。かわいそう」

言い回しが似ている。言った本人は気づかないまま、まるで同じ紙から写したように同じ言葉を口にする。鐘が鳴り、戸が開く音に混じって、噂は次の教室へ流れ込んだ。

* * *

午前の座学。教室に入ると、マリナの席には誰かの道具袋が置かれていた。机の角には小さな水染み。ノートを挟んでいたしおりが抜かれて、床に落ちている。

「これ、あなたの?」

マリナは近くの子に穏やかに尋ねる。

「え、ああ、ごめん。置くとこなくて」

返事は軽い。袋はゆっくりどかされたが、水染みはそのままだ。

「ノート、昨日貸したやつ……」

マリナが別の子に声をかけると、返ってきたのは肩越しの視線だけだった。

「今、回してるとこ。あとで」

授業が始まる。先生の声とページをめくる音に、背中のほうで小さな笑いが混じる。誰かの筆がわざと音を立てて転がり、拾いにいった手が白線の外で止まる。マリナは落ちたしおりを拾い、ノートの間に挟み直した。

休み時間、友人グループの輪が机一つ分ずれている。視線が合えば笑顔が返る。けれど、椅子は引かれない。

「大丈夫。こっちで書くから」

マリナは自分に向けて小さく言い、席に座る。ペンをとる指は静かで、帰り際、机の下で握った拳もまた静かだった。骨の感触だけ確かめ、すぐ開く。

* * *

貴族寮の洗面所で、エリシアは鏡の前に立つ。冷たい水で頬を撫で、髪を整え、顔を正面から見た。

「庶民の話題なんて、長くは続かない」

言葉に刺はあるが、崩れてはいない。耳の奥で、昨夜の囁きがまた蘇る。――嫉妬は毒にもなるけれど、磨けば武器になりますよ。

「武器にする」

エリシアはタオルを畳み、口元だけ笑った。

「次は、私が出る番」

吐き出した息が整う。足音は一定。鏡の前を離れても、背筋は落ちず、踵は浮かない。

* * *

昼の食堂は賑やかだ。盆を持って列に並ぶトマスに、庶民の少年たちが次々声をかける。

「トマス、昨日の話もっと聞かせてくれよ」
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