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All Chapters of 君と風のリズム: Chapter 31 - Chapter 40

72 Chapters

6-2

「もしかしたら、デザートのニンジンが足りなくて……拗ねてるのかなぁ……」「ニンジン?」「なーんて、ち、違いますかね……!」 テキトーな理由でごまかそうとしたのに、自分でも呆れるほど能天気なことを口にしてしまった。慌てて見せた笑みも引きつってしまう。だが、ルークさんは頷いて、またくすくす笑い出した。「確かに……! お客さんにニンジンもらってるのは、外乗に出てる子だけだもんね。馬ってのは三才児みたいなもんだから、ヤキモチかなぁ」 そう言うと、彼は立ち上がり「だったら、いい子にしたらいいんだ」と独り言をぼやきながら去っていった。彼が暢気な性格で本当によかった――と、僕はほっと胸を撫で下ろす。それから、水筒に入れた冷たい紅茶をひと口飲んで、再びぼんやりと湖のほとりを眺めながら、昨夜、ボウネスの港まで散歩した夜を今一度、思い出した。 ハーヴィーの背に乗り、風になって湖面を駆ける夢のようなひと時。だが、寂しそうなハーヴィーの言葉と表情が再び浮かんで、ドキドキとうるさい胸の奥が、少しだけ痛む。 今夜、ハーヴィーと話をしてみなくちゃ……。 ハーヴィーが今、なにを思っているのか。どうして彼は昨夜、『恋をしたらいけないのかな?』と訊ねたのか。今は、あれが冗談だったのか、真面目な質問だったのかすら、わからない。けれど、はっきりとしていることもまたあった。僕がハーヴィーを深く信頼していること。そして彼を好いていること。恋かと問われれば、それは違っているのかもしれないが、ハーヴィーに悲しい顔をさせたくはない。僕は今、ハーヴィーがどんな気持ちでいたとしても、彼のすべてを受け入れたいと思っていた。*** 午後の調教はなんとか熟したものの、やはり僕はハーヴィーの異変を感じずにはいられなかった。ハーヴィーは昨日と変わらず従順で、僕の指示通りに動いてくれたし、一度も抵抗せず、実に大人しかった。ただし、生き生きとした瞳の輝きが、今日は少し曇っているように見えたのだ。思い当たる原因は――ひとつしかない。僕と彼は、できるだけ早く、話す必要があった。 その夜、僕は夕食を終えると、急いでハーヴィーの馬房へ走った。「ハーヴィー?」「あぁ……、オリバー……」 僕の姿を見るなり、ハーヴィーは体から光を放
last updateLast Updated : 2025-09-12
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6-3

 僕は悲しげに話すハーヴィーの横顔を見つめながら、すでに熱くなった頬を指先で掻いた。なんと返せばいいのかわからず、目を逸らし、湖面に映る自分とハーヴィーの姿を見つめる。「ずっとこの気持ちがなんなのか、わからなかった。ぼくたちはこんなに仲良くなったのに、それでもぼくは足りなくてさ。いつもオリバーのそばにいたくて、君がいないと寂しくて……。でも、わかったよ。ぼくは君に恋をしちゃったんだ……」 想いを打ち明けられ、僕は密かに胸を高鳴らせていた。とくん、とくん……と波打つ左胸にそっと手を当ててみる。湖のほとりはあまりに静かで、胸の鼓動まで彼に聞こえてしまうのではないか、と心配になったのだ。 一方、その隣で、ハーヴィーは悲しげに目を伏せ、膝を抱えている。彼はもう今にも泣き出してしまいそうだ。だが、その様子を妙に思って、僕は首を傾げた。「ねぇ。なんでそんなに悲しそうなの?」「だって……、ぼくは魔力を失った妖精だよ。あまりにかっこわるいじゃないか……。それに、こうして君を愛していることに気付いたのに、君を幸せにしたいのに、ぼくにはなにもできない。太陽が昇ればただの馬になってしまうし、そのうちどんどん魔力がなくなって、いつか本当にただの馬になって、妖精には戻れなくなってしまうかもしれない。明日、リーさんに引き取られて、肉にされてしまうかもしれない。だから――」 そう言いかけて、ハーヴィーは一度、口を噤む。だが、深く息を吐き、そして続けた。「どんなに君を好きでも、この気持ちは叶わない。もう諦めるしかないんだ……」 そう言って、またため息を吐くと、ハーヴィーは顔を手で覆った。彼のその様子に、僕の胸の奥がズキン、と痛くなる。僕は自然と手を伸ばし、ハーヴィーの髪を優しく梳くようにして撫でた。「オリバー……」「ねぇ、ハーヴィー。僕は君に出会ってから一度も、かっこわるいなんて思ったことはないよ。それに、魔力はまだ本当になくなってしまったわけじゃない。復活することだってあるかもしれないし、世界の扉だって、また開く日が来るかもしれないだろ」「それは、そうだけど……。でも、オリバーは嫌じゃないの?」「なにが?」 そう訊ねると、ハーヴィーは頬をかあっと赤くして、ぼそぼ
last updateLast Updated : 2025-09-13
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7 雨やどりの夜に

 突然の雷雨だった。僕はひとまずハーヴィーを宿舎の部屋へ連れて戻り、濡れた髪をタオルで拭いてあげた。それから、彼の濡れたシャツを脱がせてハンガーにかけ、部屋の中に吊るして干した。雨の中を走ったのはほんの数分だったが、頭のてっぺんから足の先までびしょびしょだ。「これでよしっと」「ありがとう、オリバー」「どういたしま――」 振り返りながらそう返し、慌てて目を逸らす。上半身があらわになったまま、ハーヴィーはそこに立っていた。「ちょ、ちょっと待ってね……!」 筋肉隆々の、たくましい体つきに驚かされる。昼間、サラブレッドである彼の、筋肉質な体を目にしてはいるものの、人の姿に変わっても、服に隠された体がこんなにも男らしいものだったとは、僕は思いもしなかった。「い……、今、服を貸すから!」 僕はすぐに代わりの服を探してタンスを漁ったが、残念ながら、僕の服はどれもハーヴィーには小さすぎた。仕方なく、薄い毛布を彼にかけて、体が冷えないように電気ケトルで湯を沸かす。それから、あたたかい紅茶を淹れる。紅茶はオークリーさんから分けてもらったもので、香りのいいダージリンティーだった。「はい、どうぞ。紅茶だよ」 頻りに窓を叩く雨音は強くなっていくばかり。時折、暗い空が光り、その直後、地響きのような雷鳴が轟いた。しかし、ハーヴィーは窓の外を気にもせず、以前と同じようにベッドに座っている。そうして、まだ少し濡れている髪をタオルで拭きながら、紅茶を注いだマグを受け取り、それに鼻を近づけ、匂いを嗅いで微笑んだ。「ありがとう。いい香りだね」「うん。オークリーさんがくれたんだ。お母さんが茶葉を作ってるんだって。……そうだ、よければ、ジャムを入れる?」「うん」 僕は部屋のバスケットの中からいちごジャムを取り出すと、それをスプーンでひとさじ掬い、ハーヴィーの紅茶の中にぽちゃんと入れた。「いちごの匂いだ」「あたり」 僕は微笑み、ハーヴィーの隣に座る。ハーヴィーは何度かマグに口をつけてから、ふと不思議そうに首を傾げて訊ねた。「オリバーのはないの?」「僕はいいよ。それに、僕の部屋にはマグが一個しかないから……」「じゃあ、一緒に飲もう。はい」 ハーヴィーは僕にマグを
last updateLast Updated : 2025-09-14
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7-2

「えっと……それは――」 言葉に詰まり、唾をごくん、と飲み込む。頬がぽうっと熱くなっていく。ハーヴィーへの気持ちに変化があることを話したら、彼はきっと喜んでくれるだろう。そうすれば僕たちの関係は変わっていくのかもしれない。恋人のように、急激に、距離が近づくのかもしれない。しかし、それにはまだ少しだけ、不安があった。「言いたくない?」「ううん、そうじゃないんだけど……。あのさ――」「うん」 話すべきかどうか迷い、ハーヴィーをじっと見つめる。ドキドキとまた胸が高鳴る。僕は深呼吸をして、かぶりを振る。やはり、まだ言えない。「よかったら、今夜は泊まっていかない?」「え――?」 僕は自分の気持ちを話す代わりに、ハーヴィーを誘った。ハーヴィーは驚いたのか、わずかに頬を染め、目を丸くする。それから、部屋の中を見渡した。「いいの?」「うん。夜明けより早く、ここを出れば誰にも見つからないと思うんだ。いつもより目覚ましをほんの少し早くセットしてさ。――あ、ちょっとベッドは狭いかもしれないけど……」「ううん、大丈夫。ありがとう」 ハーヴィーはふふ、と嬉しそうに笑って、僕の肩にそっと寄り添った。「オリバー、あったかい……」「そうかなぁ。ハーヴィーだってあったかいよ」 そう返しながら、僕は悶々とする。これでいいのだろうか。ハーヴィーに気持ちの変化を伝えないままで。 しばらく、僕はそのままハーヴィーと寄り添ってベッドの端に腰掛けながら、言葉にできないでいる気持ちを吐き出したくて、ため息を漏らす。ハーヴィーに伝えたいのに、どうしても不安が邪魔をするのだ。 僕は……、ハーヴィーとどうなりたいんだろう……。どうしたいんだろう……。 恋は、もう始まっているのかもしれない。けれど、ハーヴィーの気持ちに対して、僕は自分の気持ちにまだ未熟さを感じている。ここで打ち明けたとしても、ハーヴィーをがっかりさせてしまいそうで、不安になる。 僕は……。 ハーヴィーのことは好きだ。いつも彼のそばにいたい。彼とのキスだって嫌じゃなかった。それどころか、途方もなく気持ちのいいあの感覚を、あれから何度も思い出している。柔らかな唇の感触と熱。重なり合ったそれから、ちゅ……と、小さく響く音を。 再び彼とキスをすれば、僕はきっと恍惚としてし
last updateLast Updated : 2025-09-14
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7-3

 そう言い終えると、ハーヴィーは僕の手を握り直して言った。「すごく嬉しいよ」「え、本当?」「当たり前じゃないか。キスが嫌じゃなくたって、それは君が優しいからってだけかもしれないと思ってた。ただ、ぼくのわがままを聞いてくれるだけなんだって……。でも、君はちゃんと言葉をくれた。正直に話してくれた」「がっかりしてない?」「どうして?」「だって、僕はまだその――君の気持ちの全部には、応えられないから……」 そう言うと、ハーヴィーは僕の手を握ったまま、その指先にキスを落とした。それから、柔らかく微笑んで言う。「大丈夫。ぼくは待つから。君がぼくを欲しいって思ってくれるようになるまで、ずっと待つよ」 ハーヴィーにうっとりと見つめられて、髪を撫でられ、僕もまた、彼を見つめる。彼の瞳は相変わらず神秘的で、こうしていると吸い込まれてしまいそうだ。 しばらく互いにそうしていたが、僕はふと夕べのキスを思い出す。たちまち頬が火照って、頭の奥がぼうっとしてくる。そしてもう一度、あの感覚を感じてみたくなる。思わず唇を舐めると、ハーヴィーは顔を近づけ、切なげに僕の唇を指先でそっと撫でた。もう今にもキスされてしまいそうな距離に、僕はごく、と生唾を飲む。「あ、あの……、ハーヴィー……」「ん?」「おやすみのキス、する?」 ドキドキしながら、僕は誘う。だが、ハーヴィーは小さくかぶりを振った。まるで、なにかを懸命に堪えているようだった。「……いい。まだ眠くない」「でも、もう寝なくちゃ」 囁くようにそう言って、電気を消した。それから目覚まし時計をいつもよりほんの少しだけ早くセットして、再びハーヴィーの隣に座る。額額と額をこつん、とつけて、目を伏せ、少しだけ笑みを浮かべる。ハーヴィーは繰り返し、僕の唇を指の腹で撫でていたが、やがて観念したように、僕の唇を塞いだ。「ん……」 ほんの一瞬、ハーヴィーと唇が重なって、すぐに離れる。温かくて、ふわりと柔らかな感触。だが、それはゆうべのキスとは違う。触れるだけの、挨拶のキスだった。しかし、なぜだろう。無性に物足りない気持ちになる。 僕……、どうしちゃったんだろう。昨日まではこんな気持ちにはならなかったはずなのに――。
last updateLast Updated : 2025-09-14
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8 訪問者

 ハーヴィーの愛を知ってから、あっという間にひと月。季節はいよいよ夏の盛りを迎えている。乗馬クラブのアプローチには、ペチュニアやゼラニウムが美しく咲き誇っていた。これは、オーナーであるトーマスさんの趣味だ。彼はなんでも手入れをしたり世話をするのが好きなようで、いつも忙しそうに庭や畑、馬の手入ればかりして回っていた。 今日も、ウィンダミア乗馬クラブはいたっていつも通りの、平和な一日を終え、夜を迎えている。ただし夜――といっても、白夜のせいで太陽はなかなか沈まず、空は夕食を終えた八時になってもまだ昼間のように明るい。今、夜の十時を過ぎて、ようやく夜らしい夜がこの湖のほとりに訪れていた。 夕食は週に一度、ライルさんやルークさんたちと取るのが習慣化している。彼らとの夕食は、僕がこれまで経験した中で、もっとも賑やかな時間だった。トーマスさんが場を取り仕切って、敷地内の庭でバーベキューをするのだ。そこで羊の肉やソーセージ、有機栽培の畑で採れた野菜などを焼いて食べる。もちろん、そこにはジンやビールも欠かせない。おかげで、僕は普段、あまり接点のなかった厩務員たちともずいぶんと打ち解けた。夕食時には馬に関するさまざまな話を聞くことができて、ときには分厚い本を読むよりも、ずっと勉強になることもあった。 中でも、トーマスさんの思い出話を聞くのが、僕は好きだった。ほかの厩務員たちはすでに耳だこのようだったが、僕が聞きたいとせがめば、トーマスさんはいくらでもその話をしてくれた。 昔、馬術部に所属していたころ、総合馬術のアマチュア大会で優勝した話。先日、彼はその話に特に熱が入り、一ヶ月後に催される予定のアマチュアのクロスカントリー大会のチラシを僕に見せた。そうして、いつかこの大会に参加しようじゃないか、と強引なほどに僕を誘った。 このひと月で、僕は徐々に乗馬にも慣れ、近ごろはハーヴィーと外乗外乗へ出られるようにもなっている。そうはいっても、ハーヴィーがほかの厩務員や観光客を乗せられるようになったわけでもないが、彼は僕の言うことは本当によく聞いてくれた。僕が一緒なら、彼はほかの馬たちと連れ立って、外乗へ出ることもできるようになり、僕たちの相性の良さは一目瞭然だと誰もが
last updateLast Updated : 2025-09-15
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8-2

 ところが、その翌日。朝早くかかってきた一本の電話で、穏やかなウィンダミア乗馬クラブにはピリッとした緊張が走った。電話をかけてきたのはデクスター・リー氏。ハーヴィーの馬主だ。ハーヴィーを虐待にも近い状態で飼育した挙句、この乗馬クラブに預けっぱなしにして放っておいた男。彼から報せが入ったとライルさんに聞いたとき、僕はすぐに嫌な予感を覚えた。「オリバー、大変だ。さっき、リーさんから電話があったらしい」「え――」「今日の午後、様子を見にくるって」「え……っ!」 僕はハーヴィーの馬房で、彼のグルーミングをしてやっていたが、思わず声を上げた。ハーヴィーはたちまち目を吊り上げて、耳を後ろに伏せる。それから、鼻息を荒くさせ、頭を上へ下へ、ぶんぶんと振り出す。彼は恐怖したのか、明らかに動揺していた。「ハー……じゃなくて、スノーケルピー! 大丈夫だよ、落ち着いて……! ね、大丈夫だから!」 慌てて声をかけ、首のあたりを何度も撫でてやる。やがてハーヴィーはどうにか落ち着いたが、まだ鼻息を荒くしているところを見る限り、相当、動揺しているようだった。「リーさんって……デクスター・リーさん、ですよね。今日の午後なんて……。どうして急にまた……」 その理由を想像して、眉をしかめる。どうしても、悪い予感ばかりが浮かんでしまうのだ。手に負えない暴れ馬に次の買い手が見つかったとか、この乗馬クラブよりももっと安値で預かってくれる相手ができたとか。その相手が、外国の馬肉業者でないことだけを祈り、僕は唾をごくん、と飲む。「さあ。馬主が様子を見にくるのは本来であれば自然なことだけど、リーさんはなにを考えてるのかわからないからな」「そうですよね……。スケジュールは? いつも通りで構わないんですか?」「大丈夫だよ。トーマスさんもそう言ってる」「了解です……」 自分の馬をずっと預けっぱなしだった男が、突然訪問するなんて、なにか特別な理由があるに違いない。僕は不安で堪らなくなった。だが、ライルさんは僕を元気づけようとしてくれているのか、明るい声で言う。「そう暗くなるなって。これはチャンスかもしれないよ。オリバーと折り合いのついたスノーケルピーを見たら、リーさんは変わるかもしれないだろ? 馬
last updateLast Updated : 2025-09-15
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8-3

「まったく、いつ来てもここは田舎だな」 車を降りて、開口一番、彼が口にした言葉はそれだった。そのひと言で、そこにいた誰もが不快感を持っただろう。爽やかな夏の風も、花の香りも、湖の波音も、全部が台無しにされた気分で、僕はリーさんを見つめた。 彼はいかにも厳格そうな雰囲気の男で、唇は薄く、目と眉は吊り上がり、常に周囲を睨んでいるような、陰険な目つきをしている。ルーツは日系か、中国系か。どちらかはわからないが、少なくともアジア人らしい顔つきだった。「リーさん、ようこそ。ウィンダミアへ」「ええと、君は確か――」「厩務員の、ライル・ロバーツです」「あぁ、どうも。私の馬は少しはまともになってるかな」「もちろん。すぐお見せします」 まずはライルさんが近づいて、手を差し伸べる。僕はやや緊張しながら、そのあとをついていった。「あの馬の世話人は、君ひとりか?」「いえ」 ライルさんは後ろに振り返り、僕に目配せをする。僕はこく、と頷いて、リーさんの前に出た。それから手を差し伸べ、握手を求める。彼はほんの一瞬、眉をしかめたあと、僕の手を取って握った。「はじめまして、リーさん。厩務員のオリバー・トンプソンです」「はじめまして」「リーさん。今はおもに彼が、スノーケルピーの世話を担当しています」 ライルさんがそう説明してくれた。すると、リーさんはもう一度、眉をしかめ、僕をじろじろと見つめる。どう見ても彼の視線は、好意的ではない。「ほう。失礼だが、君は新人か? 前にここへ来たときには見なかった顔だ」「はい。四月に入ったばかりです」「じゃあ、まだせいぜい三ヶ月ってとこか。気の毒なことだな。入って早々、あの馬の世話をやらされるなんて、先輩たちに無理やりつらい仕事をさせられているんじゃないか?」「いえ……、そんなことは……」「訴えるなら早い方がいいぞ。良ければ腕のいい弁護士を紹介するよ」 自分で言ったジョークに、リーさんはゲラゲラ笑っている。しかし、笑っているのは彼ひとりで、ライルさんは真顔のままだった。僕ももちろん、みんなも笑っていない。ここにいるライルさんたち、そして僕や、ハーヴィーをもバカにしたようなジョークに、この場にいる誰もが嫌悪感を持ったことは言う
last updateLast Updated : 2025-09-16
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8-4

 ハーヴィーの声がまた、頭の中で響くように答える。これまで聞いたことがなかったほど、寂しげな声に、僕は胸が締めつけられるような思いがした。だが、万が一、ハーヴィーの言う通りだったとしても、ここで逃げるわけにはいかない。本当に誰の手にも負えないということが明らかになれば、ハーヴィーの身は余計に危うくなるからだ。恐らく、ハーヴィーもそれはわかっている。それでも、あの男には会いたくないのだろう。 「スノーケルピー、大丈夫。君をどこにもやらないよ。約束する。僕らはずっと一緒だ」 ――ずっと、一緒……?「うん、ずっと一緒。前にも、そう約束したじゃないか」 僕の言葉に、やっとハーヴィーは振り返ってくれた。僕はひとまず安堵して、ハーヴィーに頭絡を付け、ハミを咥えさせ、鞍を装着する。腹帯をしっかり締めて、馬場に出る準備は万端だ。僕が「準備オーケーです」と言うと、そばで見守っていたライルさんが頷いた。 「さぁ、行こうか」 馬場に出ると、リーさんは柵の外側に立ち、腕を組み、僕とハーヴィーを待っていた。もう散々待ちくたびれた、と言わんばかりのうんざり顔だ。その隣にはトーマスさんがいる。ライルさんは、トーマスさんの隣に立ち、僕とハーヴィーを見つめ、「頑張れ」と言わんばかりに頷いた。「ハーヴィー、大丈夫。大丈夫だからね」 こっそり声をかけると、ハーヴィーは興奮気味に首を上下に振ったが、すぐに大人しくなった。やはり、緊張するのだろう。かつて、虐待に近い仕打ちを受けていたなら当然のことだ。僕は乗り場までハーヴィーを引くと、そこから軽々と彼の背に乗って見せた。そうして、まずはいつものように馬場の中を常歩でゆっくり、ラウンドして歩いた。「……ふうん、驚いたな」 「そうだろう? 彼は新人だが、スノーケルピーとすごく相性がいいんだよ」 リーさんとトーマスさんの会話が聞こえてくる。さすがにスノーケルピーがまともに馬場に出て、人を乗せるようになったことには驚いているようだ。「新人くん。君、指示も出せるのか」 リーさんが訊ねる。自己紹介をしたのにもかかわらず、新人くん、と呼ぶ彼には少々苛立ったが、今はそれどころでもない。僕はすぐに頷いて見せ、ハーヴィーに指示を出した。ただし、
last updateLast Updated : 2025-09-17
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8-5

 人をバカにするようなリーさんの笑い声と、トーマスさんのがっかりするような声が対照的に聞こえてくる。本来であれば、仕方ない。馬主が自分の持ち馬の運命を決めるのは自然なことだ。自分の馬の預け先を変えるのも、手放すのも自由。しかし、ハーヴィーは本当は馬ではない。妖精界に棲む、ケルピーの王子なのだ。それに、僕は彼と約束した。ハーヴィーのそばにいること。リーさんから、ハーヴィーを守ること。なにもかも、彼の真実を知る僕にしかできないことだ。 なにか……、なにか考えなくちゃ……。いい案は……。 必死で考える。ハーヴィーがこの乗馬クラブにまだ留まらなくてはいけない確固たる理由。それが思いつかなければ、ハーヴィーは近く、見知らぬ誰かのもとへ売り飛ばされてしまう。もしかすると、もう二度と会えなくなってしまうかもしれない。 なにか……! 口から出まかせだっていい。なにかないだろうか――と考えていた時。僕はある催し物を思い出した。以前、トーマスさんが見せて熱弁してくれた、アマチュア向けの、クロスカントリー大会である。 あれだ……!「リーさん! ちょっと待ってください!」 思いつきのまま、僕はそう声を上げて、ハーヴィーの背から降りた。そうして、彼をリーさんの前まで引いた。「なんだね?」「彼を売るのは待っていただけませんか。僕と彼は、一ヶ月後に大会を控(ひか)えているんです」「大会だと?」 自分でも、ひどい嘘を吐くものだ、と呆れた。こんなことは調べればすぐにわかってしまう。けれど、それでもよかった。一分一秒でも、ハーヴィーと一緒にいられるための口実なら、僕はどんな嘘を吐いたってへっちゃらだった。「ええ。一ヶ月後、クロスカントリーの大会が開催されるのをご存知ですか」「クロスカントリー?」「開催されるんです。ええと、場所は――……」 チラシの文面を必死に思い出してみるが、細部まではとても覚えていない。開催地も、詳しい日程もわからない。助けを求めてライルさんとトーマスさんに目をやると、ふたりは口を揃えて言った。「トラウトベック!」「トラウトベックだ!」「そ、そうだった……! トラウトベック!」 僕がさも思い出したかのように言うと、リーさんは眉をしかめてじろじろと僕を睨む
last updateLast Updated : 2025-09-18
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