All Chapters of 海の瞳を持つ花嫁の、契約結婚から始まる恋: Chapter 21 - Chapter 30

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21.小さな決意

 そんなことがあったから、マリッサはこれまで自分たちの契約結婚を隠さなければならない相手は“身近に仕える侍女”たちだと思っていた。 彼女たちの目をごまかしつつ、心配や疑念を抱かせないようにすること、それが何より大切なのだと。 だが現実は違った。 侍女よりも先に“王宮に集う人々”の好奇の目をどう躱すか、それこそが新たな課題となっていたのだ。 それを思い知ったのは晩餐会のときのこと。 王宮の広間では楽師が竪琴を奏で、その澄んだ旋律に人々が酔いしれていた。拍手が鳴りやまぬ中、一人の貴婦人がわざとらしい笑みを浮かべて言葉を投げかける。「そういえば王太子妃殿下が竪琴を持って歩く姿を拝見したものがおりますのよ」 確かにマリッサは竪琴を持って庭園の東屋へ出かけていた。人々に知られるのも時間の問題だろうと覚悟はしていた。「ぜひお聞きしたいですわ。王太子妃殿下のお手による竪琴なら、楽団のものよりずっと素晴らしいのではないかと思いますもの」「ご期待に沿えれば光栄なのですけれど」 話し相手は一人の貴婦人だが、周囲の人々が興味深そうに耳を傾けているのをマリッサは気づいている。「私の奏でる音色はあくまで素人の手によるもの。楽師の方々が奏でる麗しい調べに混ぜてしまうにはまだ稚拙にすぎるのです。今宵はどうか、妙なる調べに身をゆだねていただければと存じます」「まあ! 王太子妃殿下ともあろう方が、ずいぶんなご謙遜をなさるのね!」 貴婦人は扇で口元を隠しながら、くすりと笑う。「殿下がお生まれになったのは我がグリージアではなく、遥かな大陸にある国シーブルームですもの。私どもがまだ知らぬ美しさを秘めた曲があるのではないかしら、と期待しておりますのに」「確かに」 言葉に重なるように、別の貴族が軽く杯を掲げる。「楽師の腕は見事ですが、妃殿下の竪琴を耳にする機会など、そう滅多にあるものではありますまい。ここにいるものたちにとっては、何よりの贅沢となりましょう」 期待に満ちた視線がマリッサに注がれる。場の熱は柔らかな微笑に包まれながらも、断りきれぬ圧力となって彼女の肩にのしかかってくる。「光栄なお言葉を頂戴し、身に余る思いでございます。けれど私はまず、真に聞いていただきたい方が耳を傾けてくださるまで、竪琴を人前で奏でることはありません」 大勢の人がいるというのに大広間は不
last updateLast Updated : 2025-09-22
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22.王太子の部屋で

 ハロルドがいつマリッサの寝室を訪れるのか、それはマリッサにも分からない。 だからマリッサはこの夜、思い切って自分から彼の部屋を訪ねることにしたのだ。もちろん夜着のままではなく、昼の延長のようにドレスをまとった姿のままで。どうせ彼は自分を抱くことなどないと分かっていたから、装いに意味はなかった。 廊下を歩く間、胸はどんどん高鳴っていく。 こんな行動を取るのは初めてだ。今まではただ受け身で待ち続けてきた。けれど、待つばかりでは契約は守れない。夫婦である以上、外に見せるべき形というものがある――そう自分に言い聞かせながら、彼の扉の前に立った。 取次を頼み、しばらくして許可を得る。中に入るとハロルドは意外そうな表情をして立ち尽くしていた。きっと彼は、マリッサが来ることなど夢にも思わなかったのだろう。 だが、彼の視線はやはり床に落ちたままで、マリッサの方へ向けられることはなかった。「君が私の部屋へ訪ねて来るなんて珍しいな。どうしたんだ?」 問われた後に少し間を置き、マリッサは意を決して切り出した。「あのね。最初に私たちが交わした『契約』を覚えてる?」 ハロルドの喉がわずかに動き、息を飲む気配が伝わってきた。「……もちろんだ」「実は、それが破綻の危機にあるような気がして」「破綻?」「ご婦人方が、あれこれと尋ねてくるのよ。あなたはどう? 誰かに何か言われていない?」 ハロルドの肩はぴくりと揺れたが、言葉は返ってこなかった。この無言が何よりの答えだろう。「……このままでは、いけないと思うの」 マリッサは静かに、けれど確かな声音で言った。「人々の噂はすぐに広がるわ。晩餐会でも、王妃殿下との茶会でも、ご婦人方はさりげなく私を値踏みしている。もし“仲睦まじい夫婦”の姿を見せられなければ、いずれは国全体に波紋が広がってしまいそうな気がするわ」 彼の灰色の瞳はなおも伏せられていたが、沈黙の裏で言葉を探している気配があった。「……何かしら、行動を起こさなくてはいけないと思うのだけれど、どう思う?」 ハロルドが唇を結ぶ。 マリッサは冷たい手を固く握り合わせながら、彼の答えを待った。 これは賭けだ。 マリッサはハロルドの本心が分からない。心を知りたいのに、正面きって尋ねる勇気を持たない。 だからこうして、からめ手を使って気持ちをはかろうとしている
last updateLast Updated : 2025-09-23
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23.初めての笑顔

 今日はなんだか竪琴を弾いてみたい気分だった。 いつものように庭園に行き、池のほとりでひっそり爪弾こうとしたところで、向こうからディーンが来るのが見えた。 マリッサはとっさに竪琴を長椅子の脇に置く。 いつもはディーンが来ると喜びで胸がさわぐけれど、今日は自分の時間を邪魔されて残念な気持ちの方が強い。それはなんだか自分勝手な気がして、申し訳ない気がした。「おはよう、ディーン」 微笑んでマリッサが挨拶をすると、ディーンは「おや?」と言いたげに片眉を上げる。「おはようございます、王太子妃殿下。今日は何か雰囲気が違いますね」 見透かされてどきりとするが、平静を装ってマリッサは答える。「いつもと同じよ?」「そうでしょうか。なんというか……」 ディーンは言いかけて口をつぐみ、ふと目元を和ませる。「……良いことがあったように思えます」「どうして?」「笑顔がいつもより晴れやかでいらっしゃいますからね」「そう……?」 マリッサは思わず頬を押さえた。確かにいつもより緩んでいるかもしれない。(だって……今日の夜は、ハロルドが泊まってくれるんだもの!) その事実はマリッサにとって一大事だ。 しかし他の者たちにとっては、さして珍しくもない、夫婦として当然のことのはず。 浮き立つ気持ちを悟られてはならない。けれど、胸の奥からこぼれ出る喜びは、どうしても隠しきれなかった。 ディーンは何かを言いかけて、しかしそれ以上追及はせず、微笑んだまま池のほとりに目を向けた。「王太子妃殿下は、竪琴を弾こうとなさっていたのですか?」「あ……ええ。たまに気分転換に、ね」「なるほど。殿下に聴かせて差し上げたら、きっとお喜びになるでしょうね」「そ、そうかしら……」 ハロルドに聴かせたら、というディーンの言葉は何気ないものだ。今日はそんないつもの発言にさえ、妙にドキドキしてしまう自分がいることにマリッサは気づいている。(今夜のハロルドは、いつもより多く話をしてくれるかしら。一緒にお茶だって飲める?) それからの一日は、信じられないほどの速さで過ぎ去った。 歴史の講義を受け、孤児院へ送る寄付の品の書状に署名し、夕刻には衣装係が新しいドレスの見本を持ってきた。 侍女たちが次々と報告や相談をしてくるために時の流れは途切れることなく押し寄せてきて、気がつけば夕陽が傾い
last updateLast Updated : 2025-09-24
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24.黒い夢

 室内に入ったハロルドが外套を脱ぐ。 その下にあったのはいつも見る昼間の服ではなく、初めて見る夜着だ。 薄い衣を通してみると、彼の鍛えられた体の線が良く見える。マリッサは緊張で鼓動が早くなった。頬が熱い。 緊張を悟られないよう、マリッサは彼に背を向けて机に歩み寄る。「あの……何か、飲む?」「いや、いい。もう休む」 背中越しの言葉に続き、木の軋む音が聞こえた。どうやらハロルドは早々に寝台へ潜り込んでしまったようだ。 笑ってくれたことで少しは互いの心が通じたような気持ちにはなれたけど、簡単に仲良くはなれたりしないのは分かっている。残念だなと思いつつマリッサも寝台に歩み寄ると、ハロルドはもう寝息を立てはじめていた。 その顔が妙にあどけなく、子どものように見えて、マリッサはつい笑みをこぼしてしまう。 確かに今宵は特に何も起きなかった。彼との会話もだって増えたわけではない。(でも、ハロルドの笑顔を初めて見たもの) それだけでなんだか得をしたような気分になる(これから少しずつでも、同じような夜が来たらいいのに) そうしてもっと仲良くなれたら、どんなにいいだろう。 少なくとも明日、目覚めたときにハロルドがいる。初めて共に迎える朝というのはどのような気分なのだろう。(……一緒に食事ができるかしら) 寝台で横になり、眠るハロルドを見つめるだけで嬉しい。微笑みながらマリッサは、いつしか眠りに落ちていた。 ――だが、夜半。 かすかな呻き声のせいでマリッサは目を覚ました。 声はすぐそばから聞こえてくる。ハロルドだ。「大丈夫?」 そっと手をかけてみるが、彼は苦悶の表情のまま目を開けない。 額には脂汗がにじんでいる。「どうしたの、ハロルド! ハロルド!」 ――その声を、ハロルドは暗闇の中で聞いていた。 誰かが自分を呼ぶ。 女性の声だ。誰だろう。「ハロルド殿下」 ああ、とハロルドは笑みを見せた。 彼女だったのだ。 なんて美しい、青い瞳。 ハロルドは彼女に駆け寄る。ほっそりとした白い手を取ろうとした、その、瞬間。 力づよい手が横から彼女を抱きしめる。そのまま遠くへ連れ去っていく。 まだ少年でしかないハロルドの手は彼女に届くことなく空を切る。 呆然とするうちにハロルドは、笑顔の彼女をただ見つめる。 八歳年上の兄と、同い年の花嫁を
last updateLast Updated : 2025-09-25
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25.思いを秘めて夜は更ける

 ハロルドはとっさに顔を背ける。 マリッサの顔を見ることはできなかった。あの青い瞳がどのように自分を見るのか、考えるだけで耐えられない。 荒い息を吐きながら立ち上がった。胸の奥に溜め込んでいた熱が一気にあふれ出すようで、呼吸さえ苦しい。触れられた頬がじんと熱くなっているのに気づき、その感触を消すように自分の手の甲でごしごしとこすった。無意識の行動だったが、その行動で彼女がどう思うのかなどとは頭になかった。とにかく触れられたことそのものを否定したかった。彼女の優しい手に触れられただけで心が乱れるなど、あってはならないことだったから。「大丈夫だ」 絞り出すように言った声が掠れていてぞっとする。自分の声がこんなに弱々しい響きを持っているなど信じられない。 唾を飲み込み、もう一度声を出す。「……マリッサ。私は何か、言っていなかったか」 今度は上手くいった。 夢の中で名を呼んでいた記憶がある。それが現実にまで漏れてしまったのかどうか、曖昧な境界の中では確証が持てない。 マリッサからの返事は、少し時間をおいてからあった。「何も言ってないわ」 その声に嘘はなかった。穏やかで落ち着いていて、まるで全てを包み込もうとするように優しい。だが優しさゆえに真実を隠しているのではないか、そんな疑問がちらりと胸をかすめる。だからもう一度尋ねてしまった。「本当か?」「ええ」 短いが、マリッサの返答はしっかりとしたものだった。 ハロルドは深く息を吐く。乱れた心がうまく収まらない。しかし、これ以上追及すれば余計なことを言ってしまいそうだった。今はただ、彼女の言葉を信じるしかなかった。 大股にハンガーの方へ歩み寄り、ハロルドは素早く外套を肩に羽織った。金具を乱暴に留めたせいで、金属の擦れる嫌な音が響く。「どうしたの、どこへ行くの?」 彼女が寝台に身を起こす気配があった。背中に視線を感じる。彼女はきっとこちらを見つめている。だが、振り返ることはできない。「具合が悪いから自室へ戻る。起こしてしまって悪かった」 平静を装ったつもりだが、声音にはわずかな震えが混じっていた。そのことが腹立たしい。自分の感情を制御できない。マリッサの前ではいつも取り繕っているはずなのに。「待って、ハロルド!」 マリッサが呼ぶ。その声音には切実さがにじんでいる。彼女が手を伸ばす仕草も想
last updateLast Updated : 2025-09-27
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26.前を向くため

 その夜、マリッサはついに眠ることができなかった。 扉の向こうに去っていったハロルドの背を思い返すたびに胸が痛み、まぶたを閉じてもすぐに彼の声が甦る。寝台の上で苦悶するように呼んでいた「クレア」という名が頭から離れない。(……クレア……) ロジャーの妻であり、かつて王宮にも顔を出していたという女性。 誰にでも優しく、みんなから好かれていたという。 けれど、ロジャーとの結婚からほどなくして姿を見せなくなった。 その事実に加えて、兄ロジャーとハロルドが不仲であること。 昨夜、ハロルドが見せたあの苦しげな声と表情。 すべてを繋ぎ合わせると、兄弟のあいだでクレアをめぐって何かが起きたのだと考えずにはいられない。(もし本当にそうなら……) 胸の奥がきりきりと痛んだ。けれど真相を確かめる術はなく、疑念ばかりが頭の中で大きくなっていく。そうして夜を明かし、東の空が白み始めても、マリッサの心は一向に落ち着かなかった。 そのせいでマリッサは扉のノック音さえ聞こえなかった。「王太子妃殿下。お体の具合がお悪いのでしょうか?」 おずおずと声をかけられ、ようやくマリッサは侍女たちが不安そうにこちらをみていることに気がつく。「あ……ああ、寝過ごしてしまったわね、ごめんなさい」 軽く言い繕って寝台から立ち上がる。けれど、侍女たちの目にははっきりと戸惑いが浮かんでいた。 隠したつもりでも、声は強張っているし、笑顔も自然なものにはならない。 分かっているけれど、今はただ平然を装うしかなかった。 マリッサは深く息を吸い込み、乱れた思考を整えるように、ゆっくりと姿見の前に進む。 鏡に映る顔は青ざめ、目の下にはくっきりとした影が落ちていた。昨夜はほとんど眠っていないのだから当然だ。「酷い顔」 思わず漏れてしまったのは自嘲の言葉と笑みだった。「でも、きちんとしなくてはいけないわ」 自分に言い聞かせるように呟き、準備を終えて戻ってきた侍女に支度を任せる。 薄い隈を隠すため侍女は念入りに化粧を重ねてくれた、唇に紅をのせると、鏡の中の自分はようやく「王太子妃」と呼ばれるにふさわしい姿に整えられていった。 ドレスは柔らかな青色を選んだ。今日の空によく似ている。この明るい色をまとい、マリッサの気持ちも表面上はようやく少しだけ気持ちが落ち着く。 けれど、心の奥に澱の
last updateLast Updated : 2025-09-28
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27.翌日の王太子

「……王太子殿下、どうなさったのですか?」 気遣うような声に呼び戻され、ハロルドはハッと顔を上げた。 正面には老執事が立っており、戸惑いを隠せない表情でこちらを見つめている。「……ああ、すまない」 短く答えたものの、胸の奥には重苦しさが沈んでいた。 昨日はマリッサの願いを受け入れ、一夜だけでも共に過ごそうと決めたはずだった。けれど、結局は夜半に自室へと戻ってしまった。 荒れた気持ちのまま自室で夜を過ごし、彼女の気遣いを思い出したのは、夜明けの空を目にしたときだ。 マリッサは優しく声を掛けてくれたというのに、ハロルドは強引に戻ってしまい、一夜を共に過ごすとの約束も完遂できなかった。 彼女は気落ちしているだろうか。 あの不自然なごまかし方を、どう受け止めただろうか。 すぐに使いをやれば良かったのだが、マリッサに「何があったの」と問われたらどうしようという逡巡があった。 それが嫌でひたすら目の前の書類に没頭しているうちに、気づけば昼をとうに過ぎていたのだ。 まるで嫌なことから逃げる子どものようで、その事実がハロルドを更に苛立たせる。 気持ちを落ち着かせようと深く息を吐いた時、執事がそっと横に立つ。「根を詰めるのも良くありませんよ。今日は気分転換にどこかへお出かけになってはいかがですか。散策でも、視察でも」「やらなくてはならないことが山積みなんだ」「おっしゃるほどではありませんよ。殿下はいつも政務に励んでおられます。一日くらいは机から離れてもよろしいでしょう」 そう言って老執事は紙の束を差し出す。 それは手紙だった。差出人の多くは事務的な用件を連想させる名ばかり。だがその中に、紙質の良くない一通が混じっている。(……孤児院からか) ただし宛名は“王太子ハロルド”ではなく、別の名だ。 実を言うとハロルドは、慈善事業に関わる各所へ私費を投じて毎月寄付を続けている。しかしその際には偽名を用い、宛先もこの老執事の家としていた。おかげで手紙が届いた際には、こうして彼が持って来てくれるのだった。 “王太子ハロルド”の名を使わないのは理由がある。 もしこの事実が公になれば、貴族たちが「王太子に倣って自分も」と競い合い、寄付の熱は一時的に膨れ上がるだろうと危惧したからだ。本来なら多くの寄付が集まるのは良いことだろう。だがハロルドは、細くとも長
last updateLast Updated : 2025-09-29
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28.あの中には入れない

 ハロルドは思わず目を見開いた。 数人の侍女を従え、銀の髪を春風に揺らしながら歩いてくる女性は、確かにマリッサだった。 子どもたちが駆け寄っていく姿は、マリッサがいかに慕われているのかを示しているように見える。傍らのシスターも嬉しそうに微笑んでいた。「……あの方はどなたですか。マリッサさま、と呼ばれていたようですが」 無論、彼女が誰だかハロルドは分かっている。 しかしなぜここに来るのかが分からなくて、シスターに問うと、彼女はハロルドに視線を戻して答える。「王太子妃殿下のマリッサ様です。ありがたいことに、このところよくこちらへお見えになるのです」「……ほう。それはやはり、視察で?」「ええ。ほかに、子どもたちと遊んでくださったりもしてくださいます……」 言ってシスターは少し困ったように笑う。「……最初に来られたときはその……少し、変わったお話をされにこられて、私どもも戸惑いましたが、今では誰もが王太子妃がお越しになるのを楽しみにしているんですよ」「変わった話?」「はい。あの……」 シスターは言葉を選ぶように目を伏せる。「あなた様はよく孤児院へお越しくださるので、特別にお話しいたします。……マリッサ様は『毎月の資金を国へ要請してみないか、そうすれば安定した財源が継続して確保できる』と仰せになられたのです」「なんと……」 それは、ハロルドがずっと考えていたことでもあった。まさかマリッサも同じことを考えていたとは思わなっタ。 しかしいま、口に出すわけにはいかない。ここにいるのは偽名を使った人物であり、“王太子ハロルド”ではないのだ。 一区切りし、シスターはぽつぽつと続ける。「あのときは正直、私どももどう受け止めてよいか分かりませんでした。寄付によって成り立っているものを、制度に頼るなど……。ですが何度もお話を聞くうち、私どもの考えも変わりました。もしも本当に制度として支援していただけるのなら、どれほど心強いことでしょう。いつ寄付が途絶えるか分からない、という不安を抱えずに済む……」 そこまで言ってから、シスターはハッとしたように口元を押さえた。ここまでの話をするつもりはなかったと気づいたのだろう。 取り繕うように笑みを浮かべて「それでも皆様方が寄付してくださるおかげで、我々は活動を続けられております」と言葉をつないだ。「そうか……
last updateLast Updated : 2025-09-30
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29.楽譜

 孤児院の子どもたちが「とってもすごいパーティー」と呼んだのは『花見の宴』のことだ。 四季を通じて様々な花が咲くグリージアの中でも、春に王宮の庭園で行われるこの宴は、最も美しくて最も重要な宴だ。 何しろこの宴に招かれるのは国内の有力者や諸外国の要人たちだ。下級の貴族たちですら参加は難しく、当然ながら平民たちは呼ばれるはずもない。 しかし例え行けなくても、王宮を出入りする人々からその宴の華やかさは伝わる。加えて王宮から微かに聞こえる麗しい曲は、中の状況を想像するのに十分なものになるのだった。 その準備に向けて城内が慌ただしくなる中、ハロルドはひっそりと父である国王の部屋に呼ばれた。 中に入ると、人払いをした父は、厳しい眼差しを向けてくる。「王太子妃との仲はどうなっている」 ハロルドの背筋がひやりとした。「それは……」「城内にはお前たちに関しての声が多く聞かれるようだ。どれも楽しげな憶測であふれている」 低く放たれた王の声に、ハロルドは思わず目を伏せた。 心当たりがある。否定はできない。 ハロルドは一度だけマリッサの寝室で眠ったあの日以降、また夜に挨拶だけをして去る日々を送っている。夜を共にしない夫婦は何か問題があるのか、あるいはお気に入りの人物がいるのだろうか、それはきっと……と様々な噂が流れているのは嫌でも耳にする。「まあ、私が言えた立場でないのは理解している。それでもあの王太子妃は、シーブルーム出身の王女だ」 王は冷ややかな視線を逸らさぬまま、さらに言葉を重ねる。「……かすめ取ろうと考えている者や、考えている国もあると聞いた」 ハロルドは胸の奥が重く冷えるのを感じながら、しらずのうちに唇を結んだ。どのような気持ちによるのかは分からなかった。 ふう、と息を吐き、王は一枚の紙をハロルドの方へ向ける。楽譜だ。 受け取った瞬間、ハロルドは目を見開く。(これは……!) 音符が情景を鮮やかに呼び覚ます。 夕暮れの広間に流れるメロディー。無邪気に見上げると、そこには微笑む美しい横顔が――。「前回は立太子の年に奏でたな」 ハッとして顔を上げると、王が射抜くようにハロルドを見ている。「今回はお前が妃を迎えて初の宴だ。ならばこの曲だろう。――見事に弾きこなせ。期待している、グリージアの王太子ハロルドよ」 ハロルドは震える手で楽譜を握
last updateLast Updated : 2025-10-01
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30.いくつかの穏やかな夜のあと

 楽譜を渡してからもハロルドとマリッサとの仲は進展したわけではなかった。 ただ、いつもなら夜にはほんの一言二言の用件だけを交わしてハロルドはマリッサの部屋から去るばかりだったが、最近では曲の進捗を多少なりとも話すようになっている。それが変化といえば変化で、もしかしたら仲が進展したといえるものなのかもしれない。 先日の夜は楽譜を取りだしたマリッサが、細い指で音符をなぞりながらため息をついた。「この、転調する部分が難しくて」 それでハロルドは音楽の教師を手配し、マリッサの部屋に向かわせた。 すると数日後にマリッサは、「とても上手になった、って褒めていただけたの!」 と嬉しそうに語ってくれるようになった。「だからこれは、お礼よ。もしよかったら使って」 そっと差しだしてくれたのは楽譜カバーだった。色とりどりの糸で繊細な模様が刺繍されている。表紙側は木々、裏側は湖だ。開くと中には栞が入っていて、この栞には愛らしい鳥が糸で描き出されている。色は青と灰色。 カバーも栞も、どちらの刺繍も見事だ。そう言ってみると、ハロルドの低い視界の中でマリッサは両手をもじもじと握り合わせる。「ハロルドはもっと素敵な物を持っているかもしれないと思ったけど、どうしても作りたくて」「もしかしてこれはマリッサの手によるものか?」「ええ」 声もはにかんだ様子だったので、ハロルドの心はなんだかくすぐったい気持ちになる。「大事にする。……ありがとう」 言うと本当に嬉しそうな声で「良かった」と返ってくる。 こういった何気ない時間も、ハロルドにとって楽しい時間だったのは否定のできない事実だった。 そうしていよいよ迎えた『花見の宴』当日。 庭園には麗らかな春の日差しが降り注ぐ。 地にも、木にも、多くの花が咲き乱れ、そこかしこを華やかな色に染めていた。 グリージア国内だけではなく、諸外国からも多くの要人が集まる恒例の宴だが、今年はひときわ華やぎに満ちているのは客人の数も例年に比べて多いためだ。 庭園のあちこちには天幕や椅子が用意され、香り高い果実酒と料理が所狭しと並び、多くの召使いが忙しく立ち働いている。 客を迎える中、楽師たちは春を寿ぐ曲を奏で続けており、中央の池付近ではメインとなる舞台の準備も万全だ。 このあとは舞台にグリージアの現王家の人々――国王と王妃、王太子と
last updateLast Updated : 2025-10-02
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