All Chapters of 海の瞳を持つ花嫁の、契約結婚から始まる恋: Chapter 11 - Chapter 20

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11.あなたは誰?

 今日もマリッサは竪琴を携え、部屋を出た。 季節は冬になっているが、このグリージアの陽射しはずいぶんとあたたかい。 マリッサの生まれ故郷であるシーブルームは、夏の気温が高く、冬の気温は低いのが常だった。 対してグリージアは一年を通じてさほど気温の変動がないのだとあらかじめ学んではいたものの、「本当のことなのかしら」と半ば疑いの気持ちを持っていた。 実際に過ごしてみると、この国は確かに冬でもシーブルームのように凍えることはない。 今も庭園の中を歩いていると、風に乗ってあちこちから花の甘い香りが届く。 シーブルームでも寒さに耐えながら咲く花はあるけれど、このグリージアの庭園のように多くの花が咲き競うさまは春まで待たないと見られない。あるいは温室の中へ行くか、そのどちらかになるのだった。 こうした積み重ねが、マリッサの心に少しずつ、遠くの国へ来た実感を与えている。 鳥の声を聞きながら白い石畳を行き、いつもの東屋で腰を下ろしたマリッサは竪琴に指を滑らせる。 けれど、今日の旋律はいつものように澄み渡らない。調べは途切れ途切れになるし、爪弾く音も頼りなさげだ。 ――心の迷いが音色にも表れている。 マリッサは肩を落とし、ため息をひとつ吐いた。 指先を竪琴から離して青く澄んだ池へと目を向ける。きらきらとした水面を見つめているとつい、一人の男性を思い浮かべてしまう。 数日前に出会った貴公子、灰色の瞳を明るく輝かせていた、あの彼だ。(誰だったのかしら……) 彼はハロルドに似ていた。だからかもしれない。あの微笑みが心から離れない。(……どうかしてるわ) 小さく首を振ったマリッサは、気持ちを振り払うように立ち上がる。だがその瞬間、自分の目を疑うことになった。 まさにその青年が、こちらへ向かってくるのだ。 しかも今日は他の誰とも一緒にいない。彼だけだ。 マリッサは声を出すことも忘れて立ち尽くした。 気づくと青年はすぐ近くまで来ていた。穏やかな微笑みを浮かべ、ゆるやかに頭を下げる。「良いお天気ですね、王太子妃殿下」「……ええ。そうね。ごきげんよう」 先日会ったとはいえ、マリッサが彼が誰なのかは分からない。ハロルドたちと一緒にいたのだから身分高い男性だろう。そう考えて儀礼的に挨拶を返すと、彼はわずかに目を丸くした。「……不躾に失礼します。もしか
last updateLast Updated : 2025-09-11
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12.従兄のディーン

 挨拶を終えると、ディーンは目を細めてマリッサを見つめる。マリッサもまたディーンを見ていたが、それは彼を見ていたのかもしれないし、彼を通じてハロルドを見ようとしていたのかもしれない。だって。(ディーンはハロルドの二つ年上だったかしら。本当に似ているわ。……ハロルドの、お兄様よりも) グリージアの王位継承権を持つ男性は現在、王太子ハロルドと、このディーンだ。 以前はもう一人、ハロルドの兄ロジャーも王位継承権を持っていたが、今は放棄しているとマリッサは聞いていた。 ロジャーとハロルドは八歳違いの兄弟だ。 兄がいるというのになぜ弟のハロルドが王太子の位についたのか、それはロジャーの母が身分の低い女性だからという理由によるものらしい。 つまりロジャーはハロルドの異母兄なのだ。 もともとロジャーの持つ王位継承権は低かった。よって彼は結婚を機に継承権を放棄して公爵家を興し、今は領地で静かに暮らしているらしい。 だからだろうか、マリッサがグリージアに来てから数か月が経つというのに、ロジャーの姿を見たのは結婚式の日だけ。ロジャーの妻である公爵夫人にいたっては、一度も姿を見ていなかった。 結婚式でも兄弟の会話は冷え冷えとしていたし、二人はあまり仲がよくないのかもしれない。 ならばこの従兄が近くにいるのは、ハロルドにとってきっといいことだ。 マリッサがそんなことを考えていると、ディーンがふと頬を染めてうつむいた。「美しい女性に見つめられると、恥ずかしいものですね」「ごめんなさい。無遠慮に」 いいえ、と首を横に振るディーンはまるで少年のように初々しく見えて、マリッサの鼓動がドキリと跳ねた。「妃殿下。よろしければ少し、お話をしてもよろしいでしょうか?」「ええ、もちろん」「ありがとうございます」 彼は東屋の手前で膝をつく。これでは自分だけが座っていることになる。申し訳ない気もして立ち上がろうとしたマリッサだったが、それはディーンがおしとどめた。「ここならば、誰か他の者が見たときに誤解されることもありませんから」 確かに若い男女が二人で並んでいれば、妙な勘繰りを入れるものだっているだろう。迷ってマリッサは、ディーンの心遣いに感謝しながらうなずいた。 そのときふと、ディーンの目がマリッサの横に向けられる。「妃殿下は竪琴をお弾きになるのですか?」「え
last updateLast Updated : 2025-09-12
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13.帳簿の閲覧

 グリージアでの日々が過ぎていく中、ディーンという人物の存在を得られたのはマリッサにとって大いに心の慰めとなった。 シーブルームの話をグリージアでできるようになった、という事実はもちろんのこと。 ほかに「もしかしたらいつか誰かが、シーブルームのことを学んでくれるかもしれない」と思えるようになったからだ。 シーブルームのことを知った人々が、マリッサや侍女たちに優しい言葉をかけてくれる。そう考えるだけでマリッサは心が浮き立つような気がした。 だけどそれは他者に期待をすること、他者を変えようとすることだ。それはさすがに難しい。(だからまず、私が動いてみなくてはね) マリッサ自身が受け入れてもらえたら、グリージアの人もシーブルームについてもっと学んでくれるのではないか。そんなふうに思っているのだった。 実を言えばマリッサには以前から、やってみたいことがあった。 先日、怪我をした侍女を医師の元へ連れて行くときに聞いて分かった。 このグリージア王国では治療院や孤児院といった、いわゆる慈善事業が周辺国に比べて遅れをとっているようだ。 マリッサの故国シーブルームでは慈善事業が国営化されていると聞くと、あの侍女はたいそう驚いていた。 それで今日はグリージアの慈善事業がどうなっているか調べるため、財務をつかさどる役人を呼んでみることにしたのだ。 マリッサが自分の侍女たちにそう言うと、「こんな国のために殿下が何かなさること必要はないと思います!」「私もそう思います!」 皆は憤慨し、一斉に不機嫌になった。 彼女たちを前にしてマリッサは改めて「お願い」と口を開く。「あなたたちの気持ちが分からないわけではないわ。でもね、私はこの国の王太子妃なの。いずれ王妃として歩むのだから、国の現状を知らずにいるわけにはいかないでしょう? どうか協力して、役人を呼んでちょうだい」 そう言われては断ることができなかったのだろう。侍女はしぶしぶのように財務役人を呼んできた。 やってきたのは中年の男性役人だ。初めて王太子妃の部屋に入った彼の目は「何があったのだろう」と少し怯えているように見えた。マリッサが安心させるように微笑むと、ようやく役人は少し肩の力を抜いた。「何かございましたか、王太子妃殿下?」「慈善事業の状況を確認したいの」 役人は少し驚いた顔をしたが、王太子妃
last updateLast Updated : 2025-09-13
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14.謎の商人と、公爵夫人クレアについて

 帳簿に目を走らせるうち、マリッサには気づいたことがあった。 ある一人の男性の名で多額の寄付がおさめられている。それも毎月だ。 その名は孤児院や治療院のほか、暮らしに困った民が頼る救済院なども含め、あらゆる場所に書かれていた。「この方はどなた? ずいぶん裕福なようだけれど」 マリッサが問いかけると、役人は帳簿を覗き込み、首をひねる。「存じません」「有名な方ではないの?」「はい。少なくともこのような名の貴族はいらっしゃいません。もしかすると富裕な商人ではないでしょうか。羽振りが良くなったので寄付を始めたのでしょう」「そういうもの?」 半信半疑でマリッサが言うと、役人はどこか「やれやれ」と言いたげな態度になる。「もちろんですとも。寄付は徳に繋がり、名声を上げることに繋がるのですから。殿下のお生まれになった国でもそうだったのではありませんか?」 役人は諭すように答えた。その言いかたには“異国から来た王太子妃”の“見識のなさ”にウンザリしている様子が感じられる。文化の違いなどは考慮に無いようだ。 仕方なくマリッサは、役人に問うのを諦めることにした。(でも……徳を積むためだけに、ここまで多額の寄付をするものかしら。しかも毎月なんて……) 訝しむマリッサだったが、この人物が誰かという答えはいくら帳簿をめくっても得ることができなかった。 もし本当にこの人物の出自を調べたければ戸籍を見るしかないだろうが、それはただの詮索好きな気持ちから生じるものであって、慈善事業の状態調査からは外れる。今のところこの“商人かもしれない人物”に関してこれ以上は調べるべきではないだろう。 そう思いながら年単位で帳簿をさかのぼっているうち、マリッサはもう一つ気になる名前を見つけた。(クレア?) 例の男性ほどではないにせよ彼女の寄付も毎月かなりの額になっていた。ただし八年ほど前から寄付は止まっているようだ。 どうしたのだろうと思いながらマリッサは帳簿を役人に差し出す。「この方のことは知っている?」 マリッサが指先でその名をなぞると、役人は面倒くさそうに帳簿を覗き込む。次の瞬間、驚いたように目を見開いた彼の態度は一変した。「もちろんですとも。その方は――クレア様は現在、公爵夫人でいらっしゃいますよ」 どこか誇らしげなその声を聞いて、マリッサは息を呑む。 ――
last updateLast Updated : 2025-09-14
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15.垣間見る優しさが

 シーブルームの王と王妃、つまりマリッサの両親は仲が良かったのだが、グリージアでは王と王妃が共にいることは少ない。顔を合わせても笑顔はあまり見られないので、二人の仲は良くないのだと思われる。 茶会などで漏れ聞く噂話を繋ぎ合わせても、どうやら二人は昔からこの状態のようだ。息子のハロルドも含め、グリージア王家の人々が家族で過ごす時間というものはほとんどなかったらしい。(ハロルドの兄君ロジャー様は王妃様の実子ではないし、もしかするとそのあたりにも事情があるのかもしれないけど……) 王と王妃の仲が冷えているせいか、公務の場でも二人が並んで姿を見せることは滅多になかった。よほど大きな行事でない限り、別々に現れるのが常だ。 その慣例は王太子夫妻にも及んでおり、ハロルドとマリッサも普段は一緒に行動することはほとんどなかったが、今日は違った。 グリージアにとっての大きな行事である“国への功労者を表彰する式典”が行われたのだ。王と王妃が並び立ち、王太子ハロルドと王太子妃マリッサもそろって出席した。 といっても、式典で四人が言葉を交わすことはない。壇上で並んで座り、定められた場面で立ち上がり、必要な言葉を述べる。ただそれだけ。 四人は人々の拍手と視線を浴びながら、王家の人間としての役目を果たしたに過ぎなかった。 珍しく一緒にいる時間が出来たというのに、マリッサはハロルドと親交を深められたわけではない。ハロルドもマリッサと話をするでもなく、やはりマリッサの方を見ることもない。 昼も過ぎ、式典が終わったあとに交流会の会場である庭園へ出ても、行動は別々だ。 今もハロルドは人の輪から少し離れた場所にいる。 誰も声をかけないのは、彼の醸しだす空気が他者を拒んでいるように感じるためだとは思う。(だけど、せっかくの機会だもの。少しでいいから話をしてみたいわ) 拒まれるのを覚悟の上でマリッサが足を踏み出そうとしたちょうどそのとき、ふと地面を落としたハロルドが木立の中へ入っていく。(どうしたのかしら) 気になったマリッサがそっと後を追うと、彼は道の脇にある草むらを見おろしていた。 やがて顔を上げたハロルドは辺りの木を見まわす。何かを探しているようだが、顔つきは険しい。ただ、その表情は怒りや恐怖などではなく、焦りや心配のようだ。 しばらくしてハロルドは大きな木に歩み寄る
last updateLast Updated : 2025-09-15
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16.またその名を 1

 一昨日や昨日は雨が降ったが、明けて今日は良い天気になった。 バスケットを持ったマリッサは風に吹かれながら庭園へ向かう。午後からは用があるため、午前のうちに少しゆっくりしておこうと思ったのだ。 いつものように東屋へ行き、バスケットを開けて一枚の布を取り出したところで、後ろから明るい声がした。「おはようございます、王太子妃殿下」 貴公子が軽い足音を立てながら近寄ってくるのを目にして、マリッサは微笑んだ。「おはよう、ディーン」 このところマリッサは、たまに庭園でディーンと会っている。 といっても別に約束をしているわけではない。マリッサが東屋へ出かけると、ディーンが現れることがあるというだけだ。 だが、マリッサがディーンと少しずつ親交を深めているのは間違いのないこと。本音を言ってしまうと、このグリージアの宮廷においてディーンと話す時間はマリッサにとって、今や密かな楽しみになっている。彼の明るさに救われているのだ。それはどれだけ否定したくても、否定のしようがない事実だった。「今日は刺繍をなさっていらっしゃるんですね。ご自身のですか?」「いいえ。ハロルドのよ」 言いながらマリッサは針を動かす。(喜んでくれるかしら?) ハロルドとの関係はあまり変わらないし、彼がマリッサを見てくれることも相変わらず、ない。 けれど贈り物をしたときにはきちんと礼を持って接してくれる。返してくれる手紙の文字が少しずつ増えてきているのも嬉しいのだ。「楽しそうですね、王太子妃殿下。もしや妃殿下は、ハロルド殿下ともっと仲良くなりたいとお考えですか?」 率直な言葉にマリッサはハッと顔を上げる。ディーンの表情はいつもと変わらないけれど、灰色の瞳は何かを見透かすかのような光を帯びていた。「当たりですね?」 マリッサとハロルドの関係は「契約上の夫婦」だ。しかしそれはあくまで二人のあいだだけの話、表向きはきちんとした「王太子夫妻」として振舞わなくてはいけない。 それでマリッサは何気ないふうを装って答える。「もちろんよ。親しい人ともっと親しくなりたいと考えるのは、おかしいことではないでしょう?」「ええ、おっしゃる通りです。……ただ」 陽だまりのような笑み少し陰らせ、ディーンは続ける。「少し、気になる噂を聞いたものですから。王太子殿下は妃殿下と一緒におられても、あまり笑顔
last updateLast Updated : 2025-09-16
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17.またその名を 2

 東屋でハロルドが言っていた『会合』というのは、一日かけて行われる「若い貴族や貴族後継者たちの勉強会であり、親睦会」だとマリッサは聞いていた。 早い時間には年配の貴族が主導する真面目な議題はあるようだが、遅くなるにつれて雑談が多くなっていき、夜が更けるにつれて酒宴とほぼ変わらない状態になっていくらしい。 夜になってマリッサがその会合の広間近くを通りかかったのはまったくの偶然だった。 貴公子たちの会合が開かれているその時、マリッサも王妃に呼ばれていたのだ。 それというのも数日前に王妃から、「遠方に嫁いだ妹が王宮に来るので紹介したい」 と連絡が来ていたからだった。 王妃は久しぶりに妹と話して楽しかったのだろう。王妃と、王妃の妹と、王妃の親しい貴族の婦人方とが集まって昼過ぎから開かれた茶会は夕食を挟んでも続き、気がつくと、とうに星が瞬いている時間になっていた。「そろそろお開きにしましょうか」 ようやく王妃がそう告げたとき、マリッサは心からホッとした。 グリージアに来てから数か月、多くの人と会ってきたけれど、ここまで長い時間を同じ人たちと過ごすのは今までにないことで、さすがに疲れたのだ。 そのせいだろうか。自室へ戻る途中、マリッサはレースの手袋がないことに気がついた。今しがた王妃から贈られたばかりの品だ。「王妃様の部屋を出るときには持っていたのに……どこかで落としたのかしら」「すぐに探してまいります」 そう言ったのは侍女のジュリアだ。マリッサは首を振る。「私も行くわ」「いいえ、妃殿下はここでお待ちになっていてください。私だけなら、もし王妃様に見つかっても上手く言い逃れできますもの」 ジュリアはそう言うと、軽やかに来た道を引き返していった。 マリッサは一人、廊下で立ち尽くす。この辺りには明かりも多く配置されているので、恐怖はまったく感じない。 ただし困ったことに、向こうから貴婦人たちの声が近づいてきた。 マリッサはぎくりと背を強張らせる。あれは噂話に余念がない面々だ。彼女たちがマリッサを見かけたら「こんなところで何をしているのか」としつこく問い質してくるだろう。 どうしよう、と思いながらマリッサは辺りを見回す。ちょうどこの廊下を少し進んだところに細い脇道があったので、慌てて駆け込んだ。 胸を撫でおろしたのも束の間、不幸なことに貴婦
last updateLast Updated : 2025-09-17
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18.王太子妃と、王妃の会話

 翌々日になってマリッサは、自身が刺繍したハンカチを持って王妃の部屋を訪ねた。 これは先日、王妃の開催した茶会の場で贈られた手袋の礼でもあった。 王妃の部屋には噂好きの貴婦人たちが集っていることが多いのだが、今日は珍しく訪問者はいないようだ。 室内にいるのは王妃とマリッサの二人だけ。よって今日は大きな机ではなく、小さな机で向かい合って座っている。「わざわざ縫ってくれたのね、ありがとう」 ハンカチを受け取り、王妃は柔らかく微笑む。「この糸の色はいいわね。深みと煌めきがあって、とても素敵な青だわ。どの店で求めたの?」「それは故郷から持ってきた糸なんです」「そう。ではシーブルームの青なのね。海の色なのかしら」 彼女の口調にはなんの棘も無かった。素直に色の美しさに感動し、褒めている。 普段の茶会や儀式の席では凛とした無表情を崩さぬ王妃だが、こうして誰もいないときには、どこか張り詰めた糸がほどけたように見える。珍しく口数も多い。「こんなに細かい部分まで刺せるなんて、あなたはとても器用なのね」「いいえ、私など、まだまだで……」 けれどマリッサの心はまだ、一昨日の夜に耳にしたハロルドとロジャーの言い争いに引きずられていた。 兄弟の荒い声が胸に残り、無意識のうちに思い返しては息を詰めてしまう。「どうしたの、マリッサ。顔色が優れないように見えるけれど、具合でも悪いの?」 気づけば目の前にはお茶が置かれており、芳しい湯気をあげている。 王妃の前でぼんやりするなど、なんという失礼なことをしてしまったのか。「申し訳ありません」 慌てて詫びの言葉を述べたマリッサだが、王妃はそれ以上追及をしなかった。 遠い目をして独り言のように言葉をもらす。「遠いシーブルームから来てからずっと、多くの視線に晒されているのだものね。疲れるのも当然だと思うわ。……グリージアは、物見高い人が多いし……」 その声音に気遣う響きが含まれているのがマリッサには意外な気がした。 なぜ、と思い、マリッサは王妃の来歴を思い出す。 王妃自身はグリージア国内の名門貴族の出身だが、王妃の母は隣国から嫁いできた貴婦人だったと聞いている。 もしかすると王妃の母も、グリージアの宮廷に馴染めず苦労したのだろうか。 王妃は母のその苦労を近くで見ていて、何か思うことがあったのだろうか。「な
last updateLast Updated : 2025-09-19
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19.侍女たちの会話 1

 マリッサの部屋に尋ねて来る人物の多くは、誰かからの伝言を携えた召使いたちだ。王からの公的な連絡や王妃からの茶会などの誘い、貴婦人たちから“御機嫌伺い”という名の数々の噂話、そしてたまにハロルドからの贈り物など。 今日も一人の侍女がやってきた。だけど彼女は誰かの使い走りで来たわけではない。彼女自身がマリッサに用があったのだ。「故郷の村の名産品なんです。両親がたくさん送ってくれたので、王太子妃殿下にも召し上がっていただこうと思ってお持ちしました」 そう言ってツヤツヤした赤い果実の入ったカゴを差し出すのは、王妃の侍女だ。 彼女はマリッサがグリージアへ来た翌日、王妃の部屋で怪我をした。貴婦人たちの集う茶会で茶器を落としたのだ。この侍女を医師のところへ連れて行ったのは、マリッサだった。 あの数日後、侍女はマリッサの元へ訪ねてきて深く頭を下げた。「医師から『すぐに手当てができたから傷跡は残らなくてすむだろう』と言われました。王太子妃殿下がすぐに連れて行ってくださったおかげです」 以降、彼女はマリッサが王妃の元へ行くたびに笑顔をみせてくれるようになった。数か月たった今ではマリッサの侍女とも仲良くなってきている。 今も同様で、果物を渡し終わってもすぐに帰らず、マリッサの侍女たちと話しこんでいる。彼女のおかげでマリッサの侍女たちもグリージアの王宮事情を知ることができているので、これはとてもありがたいことだった。(そうでなくても、仲良くしてくれる人が増えるのは嬉しいものね) 微笑みながらマリッサは果物を手に取る。既に熟しているのだろう、甘い香りが食欲をそそる。「ありがとう。とても美味しそう。せっかくだから、皆でいただきましょうか。――構わない?」「大歓迎です」 王妃の侍女がにっこり笑ってうなずくと、マリッサの侍女たちがわっと歓声を上げる。 大喜びで奥へカゴを持って行くジュリアを見送っていると、王妃の侍女が嬉しそうに続けた。「そういえばクレア様も仰っておられました、――『分け合う果実は、ひときわ甘いものになる』って」 途端に、マリッサの笑みは強張った。(……クレア) ロジャーの妻であり、そしてハロルドとも何かしらの関わりがあると囁かれる女性の名。 マリッサの胸の奥がずんと重くなる一方で、侍女たちはその名に何の特別さも感じていないようだ。屈託なく王
last updateLast Updated : 2025-09-20
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20.侍女たちの会話 2

 この日の午後、マリッサは自室にグリージア人の教師を呼び、歴史の講義を受けていた。 嫁ぐ前に一通りの知識は身につけてきたものの、やはり実際にこの国に来てみて初めて分かること、そしてもっと深く知っておくべきことは数多くある。 王位継承や国境を巡る小競り合いの歴史、古くから伝わる民の慣習など。 講義はどれも興味深く、マリッサも夢中で耳を傾けていた。「今日はここまでにしましょう」「ありがとうございました。次もまたお願いしてよろしいでしょうか」「ええ、もちろんです。王太子妃殿下のように熱心に聞いていただける方ですと、私もお教えする甲斐があってとても嬉しゅうございますよ」 初老の女性教師は微笑んでうなずいた。 彼女を見送ったマリッサは、喉の渇きを覚えた。時計を見ると思いのほか時間がたっている。 侍女にお茶を頼もうとして控室へ足を向けると、扉の奥から楽しげな笑い声が聞こえてきた。きっと束の間の休憩を楽しんでいるのだろう。(日中にだって、気を緩める時間があってもいいわよね) 彼女たちはシーブルームを離れ、この遠いグリージアにまで一緒に来てくれたのだ。少しくらい羽を伸ばしたって構わない。お茶はもう少しあとにしようかと考え、マリッサは踵を返そうとした。 けれど次の会話が耳へ届き、マリッサの体は凍り付いたように動きを止める。「ロジャー様のところには三人目のお子様がご誕生、か。……ねえ。マリッサ様はお子様に恵まれると思う?」 言い出したのは侍女のジュリアだ。 ほかの侍女が訝しそうに返す。「どういうこと?」「王太子がマリッサ様の寝室へ、本当に来ているのかどうかって話よ」 和やかな空気が一変し、中が静まり返る。 しばらくして鋭い声がいさめた。「ちょっと。敬称くらいつけなさいよ。王太子“殿下”って言わなきゃ」「だって私、あの人のこと嫌いだもん。マリッサ様にいつも冷たい態度をとるし。それに……」 ジュリアは言い淀み、視線を伏せてから、ぽつりと口にした。「マリッサ様はいつも王太子に対して『政務が忙しいから夜遅くに来て、朝早くに帰るの』って仰るでしょう? でも……ええと……寝室の様子とか、あとは失礼かもしれないけど……マリッサ様のお姿も、お一人で休まれている時とあまり変わらないように見えるわ」 部屋がさらにしんとした。まるで、垂れ込めた重い布が声だけ
last updateLast Updated : 2025-09-21
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