All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話

正修は苦笑した。「俺はそこまで俗世離れしてないよ」もちろん──一番大事なのは、奈穂と一緒にいることだ。たとえ昔は好まなかった場所でも、彼女と一緒なら、それだけで楽しい。「本当に?」奈穂は彼の方へ顔を向けた。「そうは見えませんけど」でも、よく考えれば、自分だって名家の令嬢だ。自分が行ける場所に、正修が行けないはずがない。正修は微笑した。「これから、水戸さんは何回でもデートで試していい。俺が嘘をついてるかどうか」彼は、彼女と数え切れないほどデートがしたい。この世界のどこにでもいる恋人たちのように。夜の道を曲がり、車が最後のカーブを抜けたとき──奈穂はふいに窓を下ろした。夜風がアオギリの匂いを含んで車内に流れ込む。彼女は安全ベルトの金具を指先で弄びながら、くすっと笑った。「じゃあ、次のデートはね、九条社長にクレーンゲーム付き合ってもらいます」「いいよ」正修は即答した。「もし取れなかったら、怒りますからね」奈穂の声は少しわがままに響いた。正修は小さくため息をついた。「じゃあ、なるべく水戸さんに怒られないようにしないとな」そう言っている間に、車はすでに水戸家の前に止まっていた。正修は彼女を見て尋ねた。「もし水戸さんが怒ったら、罰を与えるのか?」「与えますよ」奈穂は言った。「九条社長のスーツを全部、キャラクター柄に変えて、会社にもそのまま着て行ってもらいます」「なんて残酷な罰なんだ」正修の瞳がびくりと揺れた。奈穂は、彼がこんな反応を見せたのは初めてで、笑いをこらえられない。「だからね、またゴシップ記事にならないためにも、九条社長は頑張って」そう言った瞬間、ふと前にふたりでゴシップに載ったことを思い出した。あの時はまさか彼が、自分の婚約相手だなんて、思いもしなかった。「うん。水戸さんが欲しがる景品、ちゃんと取ってみせるよ」「楽しみにしています」二人は見つめ合い、ふっと笑った。短い沈黙のあと、奈穂が口を開いた。「じゃあ……私はもう失礼しますね」「待って」正修は後部座席から精巧なギフトボックスを取り出した。ネイビーのベルベット地に、金の蔓模様が浮かぶ美しい箱。彼はそれを彼女へ差し出した。「ちょっとした気持ち。水戸さんに気に入ってもらえたら嬉しい」奈穂は受け取り、開けた。その瞬間──宝石のブ
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第112話

その後には住所が書かれていた。そこは、北斗が京市に所有している不動産のひとつだ。――だが、北斗は自分に、二人が泊まるのは別の場所だと言っていたはずだ。ふっ……先に自分を落ち着かせておいて、それから奈穂に会いに行くつもりなのだろうか?水紀の指先は微かに震え、画面の冷たい光が彼女の顔色をさらに青ざめさせた。「お兄さん、そんなに待ちきれなかったの?」彼女は携帯を北斗へ放り投げ、冷ややかに笑った。北斗は眉を寄せた。「京市に来た以上、奈穂に会わないわけにはいかないだろ。それから彼女を連れて帰る」奈穂は彼の女だ。ずっと彼のそばにいないなんて、あり得ない。それに、あの政野という画家が、奈穂のそばにいる可能性があると思うだけで、胸の奥が不愉快にざわつく。「連れ戻して、それで?」水紀の声は嘲るようだ。「私たち三人家族のお披露目でもするつもり?」「水紀、君が妊娠していることは、奈穂に知られてはいけない」突然、水紀はお腹を押さえ、目に涙を浮かべた。「お兄さんは……もし彼女が知ったら、もう二度とあなたのそばに戻ってこないのが怖いんでしょ?」泣き声に震える言葉。だが、その瞳の奥には確かに冷たい計算が光った。「でもね、このお腹の子はあなたの子よ。これは変えられない事実。私はあえて伝えるわ。あなたの心には私しかいない、あなたは彼女なんて全然愛してないって、思い知らせてやる」――北斗は滑稽だ。今になってもなお、奈穂に隠せると思っているなんて。彼は知らない。水紀がすでに奈穂へ、自分の妊娠を知らせるメッセージを送ったことを。ただ残念なことに、そのメッセージには、いくら待っても返事が来ない。奈穂は見ていないのだろうか?……違う。きっと見ている。もしかしたら、どこかの隅でひっそり涙を流しているのかもしれない。「水紀、少しは大人しくできないのか?」北斗は彼女の手首を掴み、声を荒げた。「俺はもう十分面倒を抱えてるんだ。こんな時まで機嫌を損ねないでくれ。君も、そして彼女も、どうして俺を困らせずにいられない?」奈穂は心の中で冷たく笑った。――欲張りな男が、よくそんなことが言えたものだ。「もういい、この話は終わりだ」北斗はトーンを落とし、彼女の頭を優しく撫でた。「君は妊娠している。怒ったり泣いたりするべきじゃない。まずは落ち着け。住むと
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第113話

男の声は無力感を帯びていた。「水紀、そのこと、そんな簡単にいくわけないだろ?前からずっと水戸奈穂がどこにいるのか探らせてたけど、全然見つからなかった。まるで誰かに意図的に情報を封じられてるみたいでな。後になって君が彼女が京市にいるって教えてくれたから、人を向かわせたが……あそこは京市だぞ?そう簡単に手を出せる場所じゃない」彼の部下は奈穂の姿すら拝めていない。「本当役立たずだわ!」水紀が怒鳴った。「俺が無能なんじゃない。水紀、水戸奈穂の身分、絶対普通じゃない」男の声は低く沈んだ。「ただの一般人なら、ここまで調べるのに苦労するはずがない」水紀の心臓が、ドクンと縮こまった。あの恐ろしい推測が、再び頭をよぎった。――水戸奈穂、水戸家の令嬢。……ありえない!「言い訳ばっかりしてんじゃないわ!」水紀は怒りで叫び、まるで声量で自分の動揺を押し潰そうとしているようだ。「難しいって言うなら、いいわ。あと半月だけ時間をあげる。それでも出来ないなら……私に二度と連絡してこないで!」言い終わると、男が返事する前に電話を乱暴に切った。身分がどうとか、そんな問題じゃない。ただの役立たずなだけ。――あの時、この男なんかと関わるんじゃなかった。その時、寝室の扉がいきなりノックされた。「水紀、どうした?大丈夫か?」北斗の声がドアの向こうから聞こえ、わずかに疑念を含んでいる。「さっき、何か叫んでなかったか?」防音が良すぎたため、水紀の叫び声も彼にはぼんやりとしか聞こえなかった。「わ、私……なんでもない」水紀はビクッとして、手が震え、携帯を床に落としてしまった。「なんでドアに鍵なんかかけてたんだ?」水紀は慌てて扉を開けた。北斗が部屋に入ると、床に落ちた携帯に気づき、眉を寄せて言った。「携帯が落ちてるぞ。どこか具合でも悪いのか?」そう言いながら、彼は携帯を拾い上げた。床には厚いカーペットが敷かれているため、携帯は無傷だ。「い、いえ……ちょっと頭がクラクラしただけ」水紀は内心ヒヤヒヤしながら、通話履歴を見られることを恐れた。幸い北斗はそんな事に興味もなく、携帯を横のキャビネットにポンと置くと、彼女を連れてベッドの端に腰を下ろした。「友達が俺が京市に来てるって知ってな。今夜集まりがあるから来いって」北斗は彼女の腰に手を回し
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第114話

「水紀、君は今妊娠しているんだ」北斗は根気よく宥めた。「こういう私的な集まりは、新井社長の誕生日宴会とは違う」還暦祝いとなれば、当然きちんとした場だ。タバコすら勝手には吸えない。だが、こうした御曹司たちの私的なパーティーでは、タバコも酒も当たり前で、ふざけ騒ぐことも多い。妊婦を連れて行くような場所ではない。「そうね」水紀も、お腹の子どもに少しでも不測の事態が起きるのは避けたいと思っていた。彼女は彼の首に腕を絡め、甘えるように柔らかな声で言った。「じゃあ……早く帰ってきて。夜、ひとりじゃ眠れない」「分かってる」北斗は彼女の唇に軽くキスを落とし、さらに数言甘い言葉を囁いてから席を立った。友人が送ってきた住所は、とある別荘だ。周囲は静かで環境も良く、別荘には娯楽施設が一通り揃っている。言うまでもなく、こうした御曹司たちが遊び集うためだけに存在する場所だ。執事も使用人も年中無休。もちろん、その見返りの給料も破格で、固定給のほかに、御曹司たちが気まぐれで渡すチップだけでも――運が良ければ、市内のマンションが買えるほどだ。車を別荘前に停めると、中から友人が出迎えに現れた。「やっと来たな、北斗」友人の名前は段谷祐真(だんたに ゆうま)。典型的な御曹司で、昔、海市で学生だった頃に北斗と知り合い、近年も時おり連絡を取り合っている。「悪い、家のことでちょっと手間取った」「ちっ、彼女を機嫌取ってたんだろ?」祐真は「分かってるぜ」という顔をした。「なんで今夜は連れて来なかった?」彼の言う「彼女」とは――奈穂のことだ。北斗は内心理解していたが、曖昧に誤魔化し、車の鍵を駐車係に放ったあと、祐真と共に別荘へ入った。一階には数人が談笑しており、その傍らでは美しい女性の使用人がワインを注いでいた。北斗が入ってくると、数人が立ち上がり、次々と挨拶した。「伊集院社長、お噂はかねがね」伊集院家は京市の勢力ではないが、海市では名のある家柄だ。無礼にできる者はいない。挨拶を終えると、祐真は北斗の耳元でそっと言った。「今日は運がいいぞ。珍しい客が来てる」「ん?」北斗は気のない返事をした。「珍しい客って?」「会えば分かるさ」祐真は妙に意味深だ。「普段はこんな場所にほとんど来ないんだがな。最近機嫌がいいみたいで、仲のいい奴らに呼ばれたら
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第115話

「彼は九条家の跡取り息子だぞ!」祐真は声を押し殺して続けた。「九条家は、京市四大財閥の筆頭。……その意味、まさか知らないとは言わないよな?」金があるだけか?――それだけじゃ足りない。そういうことは、北斗自身が一番よく分かっている。ただ、意地になって口にしているだけだ。「挨拶しに行くか?」祐真が聞いた。北斗は答えず、ただその場に立ち、冷ややかな目で正修を見ていた。その時、近くでひとりの御曹司が酒に酔い、女性の使用人をからかっていた。女性使用人は二十歳そこそこ、明らかに嫌がっていて、今にも泣きそうだ。だが返ってくるのは周囲の男たちの下品な笑い声だけ。その瞬間、正修が視線をそちらへ、淡々と流すように向けた。「飲みすぎたなら寝ろ。スタッフを困らせて……それが面白いか?」声には抑揚すらない。なのに、疑いようもなく圧がある。さっきまで笑っていた御曹司たちは、喉を掴まれたようにピタリと黙った。酔っていた男も、まだ女の肩に腕を回したまま、言葉を聞いた途端ビクリと体を震わせ、酔いが半分覚めた様子で腕を引っ込めた。執事は空気を読む達人だ。すぐに一歩前に出て言った。「皆さま、もしまだ飲み足りないようでしたら、シアタールームで歌でもいかがでしょう。こちらの使用人はまだ業務がございますので」男たちの顔は青くなったり白くなったりしながら、「す、すみません九条社長……」とぼそり謝り、肩をすぼめて逃げるように去っていった。女性使用人は目を赤くしながら正修にお礼を言ったが、正修は一瞥することもなく無視した。女性使用人はそれ以上邪魔することもできず、小走りでその場を離れた。北斗はただ立ち尽くし、その一部始終を見ていた。社交の場での笑顔の駆け引きも、海市の御曹司たちの横柄さも、見慣れている。だが――ここまで言葉ひとつで空気を変える人間は、滅多にいない。正修は汚い言葉を一つも使わない。なのに、あれほど傲慢な連中を子犬のように怯ませることができる。その威圧感は金では買えない。それは生まれついての上位者オーラだ。「見たか?」祐真が耳元で舌打ちした。「九条社長は適当にひと言言えば、あの連中はたちまちびびるんだ。今の数人だって家柄は立派なのに、あの態度。ホント笑えるよな」北斗は突然、祐真の声が耳障りで仕方なくなった。「……
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第116話

「あれは宋原家の御曹司、宋原雲翔(そうはら うんしょう)」祐真が、北斗の耳元で小声で紹介した。「九条社長とは仲がいい。今日も、あいつが九条社長を呼び出したんだ」「誰にチェック入れられてんだ?」雲翔は正修を見ながら眉を上げ、親しい者にしか使わない調子で茶化した。「どこの誰が、九条社長をパーティー中に魂抜けた顔にさせるんだよ?」周りの御曹司たちは一斉に耳をそば立て、露骨に興味津々な表情になる。北斗ですら、無意識に半歩前に出ており、心臓はうるさく暴れ始めていた。正修はウイスキーを手に取り、一口含んだ。明らかに雲翔は質問に答えるつもりも、周りの連中の好奇心を満たすつもりもない。雲翔はその態度にも全く動じない。むしろ面白がるように笑い、肩をすくめた。「はいはい、言わなくても分かってるよ。……水戸家のあの方だろ?」「水戸」。その二文字が落ちた瞬間――北斗の眉が、反射的に鋭く寄った。すぐ横から、別の男が声を潜めて言った。「ってことはさ……九条家と水戸家の政略結婚の噂、本当なんだ?」「コホッ、……コホン!」別の男がわざとらしく咳き込み、探りを入れるなと牽制した。噂を口にした男は、肩をすぼめ、すぐ黙った。北斗のこわばった眉は、わずかに緩んだ。あの人が言った、九条家と水戸家が政略結婚すると言うのは、間違いなく京市の水戸家のことだ。雲翔の言った「水戸家のあの方」も、ほとんど確実に水戸家の令嬢だ。もし正修が水戸家の令嬢と結婚するなら、奈穂と正修の間に何か関係があるはずがない。それに奈穂も正修を好きになるはずがない。彼女の心はずっと、自分、北斗のものだ。そしてその時、正修の視線が突然こちらに向けられ、北斗の方に落ちた。視線が合う。北斗は、一瞬どう反応すべきか分からず立ちすくんだ。だが、正修はほんの一秒見ただけで視線を外した。まるで、そこにいるのが取るに足らない通行人であるかのように。この徹底的な無視は、鈍いナイフのように北斗の心を何度も切り刻む。――今や自分も伊集院グループを管理する立場にあるのに、正修の目には、正面から見てもらう資格すらないのか。「なあ北斗、ほんと顔色悪いぞ……」祐真が不安げに囁いた。「上の部屋で少し休むか?」「必要ない」その一言を落とすと、北斗は使用人のトレイから酒を一杯取り、
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第117話

「どうやら九条社長は、俺の『家のこと』にずいぶん興味があるようですね」北斗はわざと「家のこと」を強調し、正修が余計な口を出していると皮肉った。しかし正修の表情は変わらない。「家のこと?そうとは限らないよ」「ちぇっ、何この空気」重すぎる雰囲気に、雲翔が慌てて場を和ませようとした。雲翔は正修と北斗を見比べ、にこりと笑った。「今日は遊びに来たんだろ?家のことだのなんだの、話す内容がつまらなすぎ」正修が北斗を嫌っていることに気づいたのか、雲翔は北斗には何も言わず、肘で軽く正修を突いた。「ビリヤード、やる?」「やらない」正修はそれだけ言い捨てると、スマホに視線を戻し、メッセージの返信を続けた。もう北斗に構う気は微塵もないようだ。周囲は再び騒がしくなったが、楽しんでいるふりをしつつ、誰もが密かに北斗を観察している。さっきまで北斗と話して距離を縮めようとしていた者たちも、今ではすっかりその気をなくしている。正修を敵に回してまで北斗に近づく?――そんなリスク、誰だって負わない。北斗は孤立したまま立っていた。シャンデリアの光が北斗の肩に細かい影を落とし、それはまるで無数の目が北斗を値踏みしているようだ。祐真の胸に不安が走った。今日ここに北斗を呼んだのは自分だ。このまま放置するのは、さすがに人としてどうかと思う。意を決し、祐真は北斗のもとへ歩み寄り、そっと端へ連れ出した。「……北斗。まさか九条家の跡取りと因縁あるなんて聞いてないよ」複雑な目で北斗を見た。「いったいどうやって彼を怒らせたんだ?」「俺は何もしてない」北斗の声は冷たい。「向こうが勝手に因縁つけてるだけだ」――正修に蹴られたことだって、まだ自分が根に持っていなかったのに。なのに、どうしてまたあんな態度をされなきゃならないのか。理解できない。祐真は黙り込んだ。正修と北斗の間に何があったかなど、祐真には分からない。だが――たとえ本当に正修の方が悪かったとしても、九条家跡取りの悪口を口にする勇気などない。祐真のビクビクした様子を見て、北斗は心の中で冷笑した。北斗は手を伸ばして祐真の肩を叩いた。「もういい。そんな『火の粉かぶりたくない』みたいな顔をすんな。俺のせいでお前が巻き込まれるようなことにはならない」その力加減は強く、祐真は思わず身をすくめた
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第118話

君江は今日、水戸家で夕食をご馳走になっていた。そして目の前で、奈穂が食事前にスマホを抱えて誰かと少しやり取りし、食後も部屋に戻ってまたスマホを抱えたまま何やら楽しそうにしているのを見ていた。目尻も唇の端も、どう見ても笑っている。考えれば――答えはひとつしかない。「……付き合ってるの?」突然の質問に、奈穂は呆気に取られた表情を浮かべた。付き合ってる?――正修とは、そんな話をはっきりしたことはない。けれど、この数日の二人の雰囲気は……確かに恋人っぽいところがある。「言わなくていい、もう分かった」君江は両手で頬を包み、にんまり笑った。「今まさに『いい感じ期間』ね。あと一歩で関係確定ってやつ。この時期が一番キラキラしてるのよ」奈穂の頬がほんのり赤くなった。だが、親友の前で隠す必要はなかった。「……うん、私、多分彼に惹かれてる」奈穂は正直に言った。「でも今のところ、その気持ちはちゃんと自分の範囲でコントロールできてるわ」「これは普通よ」君江は奈穂の手を軽く握りしめた。「だって奈穂ちゃん……前に散々なことあったじゃん。……いや、ごめん、不愉快な話するつもりじゃなかった」五年にも及ぶほとんど失敗に終わった恋愛を経験した今の奈穂にとって、もしすぐ新しい恋愛に心ごと溺れてしまうとしたら、それこそが本当に不思議なことだ。「でも私は、彼に対しては真剣なの」奈穂は小さく笑った。「彼と……ちゃんと向き合っていきたい」「はいはい、分かったわ」君江は奈穂をからかうように言った。「その甘ったるい顔、見てる私の方が恋したくなってくるわ」だがその数秒後。「……いや、無理。私が恋愛してる姿とか想像できない」と言って、鳥肌が立ったのか肩をブルッと震わせた。奈穂はくすりと笑い、何か言おうとしたその時、スマホが震えた。正修からのメッセージだ。【今、家の前にいるよ】奈穂は無意識に窓のほうを見たが、すぐに自分の寝室の窓からでは水戸家の正門は見えないことを思い出した。奈穂は携帯を手に立ち上がり、「ちょっと出てくる」と言った。君江は「どこに行くの?」と聞こうとしたが、何かに気づいたように微笑み、何も聞かずに下を向いてスナック菓子を開けた。奈穂が正門を出ると、正修は車の横に静かに立っていた。月光が彼を照らし、影は長く伸び、彼女の影と地面
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第119話

奈穂が「必要ない」と言ったのなら、正修は自然とその意思を尊重した。奈穂は正修を見つめ、ふいに口を開いた。「……私ね、北斗にはもう何の感情もないの」あるとすれば――嫌悪だけ。正修は自分と北斗のことについて何も言わなかったけど、今の自分と正修の関係性を考えれば、話しておくべきだと思った。相手が他の誰かなら別に気にもしなかった。だが北斗は――五年付き合った元恋人なのだから。どんな形であれ、けじめは必要だ。正修は一瞬だけ目を見開き、それから口元を僅かに緩めた。「分かってる」奈穂も、つられて笑った。静かな風がそっと吹き抜ける。正修は彼女を見つめ、もう一度口を開いた。「……奈穂」奈穂の心臓が、瞬間ぎゅっと跳ねた。これまで彼はずっと「水戸さん」と呼んでいた。最初は礼儀正しく、そのうち柔らかく、親しみを込めた響きになっていった。だが――「奈穂」と呼ばれたのは、初めてだ。今まで、そんなふうに自分を呼ぶ人は他にもたくさんいた。なのに今、彼の口からこぼれたその二文字は、何よりも温かく、優しかった。「君の過去なんて全く気にしていない、なんて言えば嘘になる」正修は柔らかく続けた。「でも俺が気にしているのは、あの頃の俺が、君のそばにいられなかったことだ」彼女が普通に恋をし、普通に別れたのなら良かった。けれど、そうではなかった。彼女は傷つき、苦しみ、ひとりで全部抱えてきた。気にしないはずがない。奈穂の呼吸がふっと止まった。夜風が耳をかすめ、月光が正修の瞳に細かく揺れて映った。「そして何より大事なのは、俺たちの今と、これからだ」奈穂の指先は無意識に、弁当箱の竹模様を撫でていた。心臓のリズムはすでに崩れていた。正修の喉仏が小さく動き、視線は月より柔らかい。「だから奈穂は何も気にしなくていい」奈穂の視界がじわりと滲む。彼女は小さく頷き、かすれた声で答えた。「……ええ、分かっています」正修は手を上げ、指先のひんやりとした温もりで、そよ風に乱れた髪をそっと彼女の耳の後ろにかけた。その動作が一瞬止まり、彼は身をかがめ、彼女の額に極めて軽く、そして柔らかなキスを落とした。そのキスは羽毛がそっと触れるように短く、しかし大切に扱われる思いが込められていた。やがて正修は体を起こした。「帰ろう」彼の声には微
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第120話

新井社長の還暦祝いは、あるホテルのダイヤモンド宴会ホールで開かれていた。念入りに着飾った水紀は北斗の腕に手を添え、会場へと歩み入った。還暦祝いである以上、当然ながら綿密に準備され、多くの客が招かれていた。二人が到着したときには、すでに多くの賓客が来ている。北斗に気づいた者が挨拶をしようと歩み寄りかけたが、すぐ隣にいた者に腕を引かれ、耳元で何か囁かれたようだ。その人物の顔色が一瞬で変わり、北斗を一瞥するとすぐに視線を逸らし、挨拶する気は失せたようだ。北斗の指先がわずかに強張った。しかしその表情は依然として冷静だ。「さっきの人……どういうつもり?」水紀も気づき、不満げに眉を寄せた。どういうことも何も――要するに、北斗と正修の仲が良くないという噂を聞いたのだろう。先日のパーティーの場には名家の御曹司が多かったから、この件が広まってもおかしくはない。北斗の視線が賓客の間をさまよい、ふと祐真の姿を隅に見つけた。見られた以上、祐真も無視し続けるわけにはいかず、仕方なく硬い表情で近づいてきて、小声で挨拶した。「北斗、来てたのか。あ、こちら……妹さん?」祐真は水紀を見て驚きの色を浮かべた。「彼女さんは連れてこなかったのか?」北斗の手がピクリと固まった。水紀は彼が口を開く前に、柔らかい笑みを作って言った。「段谷さん、私が来てはいけないの?」彼女の指先が北斗の腕をグッとつねった。痛みに北斗は眉をひそめたが、依然として何も言わない。「そんなことないよ」祐真は気まずそうに頭を掻いた。「ただの世間話というやつさ」そして北斗を見ると、一瞬ためらってから口を開いた。「今日は九条社長も来るそうだ」「どうした?俺が彼から逃げ回らなきゃならないとでも?」北斗は冷ややかに返した。「新井社長は父の旧友だ。俺は直々に招待されているんだぞ」「そうよ、お兄さんはこの誕生日宴会の貴賓と言っても過言じゃないの」水紀も同意するように言った。「そ、そうだね」祐真は慌てて頷き、話題を変えるように言った。「そういえば、水戸家の令嬢も来ると聞いたよ。これでやっと真の姿を拝めるね」水紀の心臓がドクンと跳ねた。――水戸家の令嬢も来る?なら水戸家の他の人間も?実のところ、水紀は今回水戸家の誰かと鉢合わせする可能性を薄々予想していた。だが
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