All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 371 - Chapter 380

444 Chapters

第371話

少し考えてから、烈生は名刺を一枚取り出し、君江に差し出した。「これ、俺の名刺です。もし今後、今日の件で伊集院に何か困らされることがあったら、いつでも連絡してください。俺が対処します」君江は慌てて名刺を受け取り、笑顔で言った。「ありがとうございます、秦社長。でも、私は全然あの人なんて怖くないですし、それに……」それに、北斗はもうすぐ自分のことで手一杯になるはずだ。私を困らせている余裕なんて、あるわけがない。けれど、そのことは烈生には言わなかった。さっき助けてもらったことには感謝している。でも、だからといって何もかも話すわけにはいかない。言葉を濁した彼女に、烈生もそれ以上は追及せず、ただ軽く頷いただけだった。そして、少し迷うようにしてから、再び口を開く。「水戸社長も海市に来ているんですよね?彼女は……」「あ、奈穂ちゃんは私と一緒には泊まってません」君江は彼が何を聞きたいのかすぐ察して答えた。「その……婚約者さんと一緒にいます」そう言いながら、君江は烈生にほんの少し同情した。どうやら彼は、本気で奈穂のことが好きらしい。でも、奈穂はもう正修と仲直りしている。烈生がどれだけ想っても、どうにもならない。変に希望を持たせるより、最初から本当のことを伝えたほうがいい。そのほうが、早く諦められるだろうし、奈穂の恋愛に余計な波風も立てずに済む。もちろん、烈生はそんなことをする人には見えなかったけれど。それでも、はっきりさせておくに越したことはない。「……そうですか」烈生は静かに頷いた。彼の表情に特別な変化は見えなかった。君江は心の中で思う。もしかしたら、さっきの北斗の言葉に自分が勝手に影響されただけかもしれない。烈生は、別に奈穂のことを好きなわけじゃないのかもしれない、と。それ以上何も言わず、烈生は腕時計をちらりと確認すると、君江に別れを告げ、その場を後にした。振り向いたときの表情は最後まで普段通りだった。けれど彼が背を向けた瞬間――その瞳の光が、すっと暗く沈んだことに、君江は気づかなかった。烈生が去ったあと、君江はしばらくその場に立っていた。さっき思いきり北斗を二発も平手打ちしたことを思い出し、胸がすっとする。この爽快感を、今すぐ奈穂に話したい。簡単にメッセージを二通送って事情を伝えた
Read more

第372話

奈穂の頬が、ほんのりと熱を帯びる。今日の午後はたしかに……今までのどの時よりも、自分から積極的だった。正修ったら。あんなに真剣で心配そうな顔をしていなかったら、からかわれているのかと勘違いするところだった。「抱いていく」と言われ、奈穂も遠慮しない。彼の首に腕を回し、まるで女王様のように得意げな顔をして、足をぶらぶらと楽しげに揺らす。正修は彼女を抱いたまま浴室を出て、ベッドのそばへ戻り、そっと座らせた。「腰、だるくないか?」彼が聞いた。「平気だよ」「うつ伏せになって。もう少し揉んでやる」その「うつ伏せ」が本当に健全な意味なのか少し怪しかったが、それでも素直にベッドに伏せる。けれど――彼は本当に余計なことは何もしなかった。ただ黙々と腰を揉んでくれるだけ。力加減はちょうどよく、掌は温かい。奈穂は心地よさに包まれ、意識がとろりと溶けていく。「奈穂」正修の声に呼ばれ、ぼんやりと目を開けた。「まだ寝るな」片手で彼女の腰を揉みながら、もう片方の手でスマホを操作している。「シェフを手配した。家まで来てもらって料理してもらう。腹いっぱい食べてから寝よう」途中で栄養ドリンクも飲ませていたが、もう外はすっかり暗い。さすがに腹も減っているはずだ。そう言われて、たしかに空腹を自覚した。「牡蠣のスープが飲みたい」「いいよ」「カニ鍋も」「いい」「それとバターチキン」「いい」何を頼んでも、彼は全部「いい」と優しく受け止める。「あとで全部シェフに作らせるから」奈穂はくすっと笑い、もう腰揉みはいいとばかりに彼の胸に潜り込んだ。抱きしめてもらいながら、小さく言う。「正修って、ほんと優しいね」正修は低く笑った。これくらい当然だ。自分にとっては、婚約者として当たり前のことをしているだけ。……けれど。彼女にそう言ってもらえるのは、やっぱり嬉しい。それに彼女が言いたいのは、ただ食事のことだけじゃないと分かっている。気づけば、抱きしめる腕に自然と力がこもっていた。奈穂は彼の胸に寄り添いながらスマホを手に取り、仕事のメッセージをいくつか返信する。そして、昼間に君江から届いていたメッセージに気づいた。【奈穂ちゃん!今日ホテルで誰に会ったと思う?北斗のやつ!思いっきりビンタ二発かましてやっ
Read more

第373話

もちろん、正修は信じている。奈穂と烈生の間に、何かあるはずがないことくらい。……でもあの時、烈生が奈穂を見つめていた目を思い出すと――どうにも胸の奥がざわりと騒いだ。「どうしたの?さっきから全然しゃべらないけど」奈穂は体を起こし、首をかしげながら彼をのぞき込む。正修は小さく鼻を鳴らした。「ちょっと思い出しただけだ。誰かさんが俺と冷戦中だったくせに、秦烈生とはレストランで楽しそうに話してたなって」声が、ひどく拗ねている。そのあからさまなヤキモチに、奈穂は思わず吹き出した。手を伸ばして、彼の頬を軽くつまむ。「どこが楽しそうなのよ。ほんの少し話しただけでしょ。もう、また勝手にヤキモチ焼いて」「なんであいつとは話して、俺とは話さないんだ」「あなたが言う?私は話したかったのに、チャンスくれなかったのはそっちでしょ。全部あなたのせい」まったく見事な責任転嫁だ。正修は呆れたように笑い、そのまま彼女の唇を塞いだ。おしゃべりなその口を黙らせるみたいに。息が上がるほど深く口づけられ、奈穂は彼の胸を何度も叩いて、ようやく解放された。目尻がほんのり赤くなったまま、彼の胸にもたれかかり、仕返しとばかりに太ももをぎゅっとつねった。けれど正修はまったく気にしない。代わりに、彼女の頬にそっと口づけた。仕草は優しいのに、声は有無を言わせない。「これから、あいつとは話すな」奈穂は思わず笑った。前は「話しすぎるな」だったのに、今回は「話すな」まで格上げしている。「なにそれ、そんなに独占欲強かったっけ?」彼女は思わず彼を噛みたくなった。「そうだとしてもいい」彼は真顔で言う。「とにかく、もう話すな」烈生が彼女を見る目。思い出すだけで、どうしても落ち着かない。「私とあの人、本当に何もないんだよ?」奈穂は無実そのものの顔。正修は彼女を抱きしめ、ため息をついた。「分かってる」彼女は胸を張って言える。でも――烈生のほうは、そうとは限らない。そのため息に、どこか拗ねたような響きを感じて、奈穂の目に笑みが浮かぶ。彼の髪をくしゃっと乱しながら言った。「はいはい。じゃあもう話さない。もともとほとんど接点ないし」せいぜい顔を合わせたら挨拶するくらい。あとは、以前逸斗を助けた件で感謝されていただけ。それも何度もお礼を言われて
Read more

第374話

正修は、別に何も言っていない。なのに、自分から「ダメダメ」なんて必死に否定してしまった。――それじゃまるで、自分の頭の中がそういうことでいっぱいみたいじゃない。どんどん深くなっていく正修の笑みを見て、奈穂の頬がじわりと熱くなる。恥ずかしさと悔しさが一気にこみ上げてきて、思わず手で彼の口をふさいだ。「もう笑わないで!」正修は彼女の手を外そうともしない。声も出さない。ただじっと彼女を見つめている。……なのに、目元の笑いだけは隠しきれていない。「あなた……!」奈穂はぷいっと背中を向けた。「もう知らない」正修は唇をきゅっと結び、なんとか笑いをこらえてから、慌てて彼女のほうへ寄っていく。「笑ってない。もう笑わないから、怒るなって」奈穂は黙ったまま。正修がまた言った。「ほんとだ。疑うなら振り向いて見てみて」振り向くつもりなんてなかった。なのに――彼の声が妙に甘くて、どこか誘惑するみたいで。気づけば、体が勝手に振り向いていた。次の瞬間、唇がふさがれる。不意打ちのキス。短すぎて、目を閉じる暇すらなかった。目をぱちぱちさせたまま、正修に盗みキスされたのをはっきり見てしまう。「……それ、反則」彼女は小さく文句を言う。正修は彼女の垂れた髪を耳にかけてやり、優しく笑った。「奈穂がそんなに俺のこと好きなら、たまには反則も許してくれ」奈穂は「ふん」と鼻を鳴らした。そのとき、スマホの着信音が鳴った。正修の携帯だ。画面を見ると――雲翔。こいつ、こんな時に電話してくるなんて?奈穂も着信表示を見て、正修の嫌そうな顔を見て言った。「出なよ。もしかしたら大事な用事かも」仕方なく、正修は通話ボタンを押した。まだ何も言っていないのに、向こうから大声が飛んでくる。「正修!いいニュースがあるんだ、俺、彼女できた!」スピーカーにしていないのに、声が大きすぎて奈穂にも丸聞こえだった。二人は顔を見合わせた。彼女?「……賀島さん?」正修が聞く。「へへ、そう!彼女しかいないだろ。告白してOKもらった!今もう俺の彼女!」声から隠しきれない興奮と喜びが伝わってくる。今夜、雲翔は若菜と二人きりで食事をしていたらしい。個室、男女二人、しかも少しお酒も入って。雰囲気に押されて、雲翔は思わず若菜に告白してしまった
Read more

第375話

しかも、その恋は長く続かなかった。しばらく付き合ったあと、雲翔は多額の手切れ金を渡し、それきり完全に連絡を絶った。けれど――今回は明らかに違う。今までの恋とは、まったく別物だった。雲翔は、若菜に本気だ。だが、ちょうど若菜という人間が…………一方その頃。若菜が個室に戻ると、雲翔がちょうど電話を切ったところだった。「誰と話してたの?」彼女が聞いた。「正修」雲翔は嬉しそうに笑う。「俺たちが付き合ったこと、報告してた」「く……九条社長?」若菜はぎこちなく笑った。正直、正修のことは少し怖いと感じていた。……いや、少しどころじゃない。かなり怖い。「どうした?」雲翔はその不自然さに気づいた。彼女が答える前に、彼は察した。「分かった、もしかして前に正修に会ったとき、あいつの雰囲気にビビった?大丈夫だって。彼を怖がる必要はないよ。彼はそういう人間なんだ。見た目は怖いけど、実はすごくいい人。それに俺と彼は、何年も前から親友なんだから」「……うん、分かった」若菜は小さく頷く。実は、正修のオーラが威圧的であるのは一つの理由だが、もう一つは、正修の視線がまるで自分の秘密を全て見透かしているようで。……きっと、考えすぎだ。雲翔でさえ自分を疑っていないのに。ましてや、数回しか会ったことのない正修が何か気づくはずない。「若菜」雲翔に呼ばれ、若菜は慌てて顔を上げて彼を見て、柔らかく微笑んだ。「どうしたの?」「俺……」雲翔は言葉に詰まった。別に用事があるわけじゃない。ただ、呼びたかっただけ。今、彼はあまりにも嬉しかった。人生で初めて、こんなにも好きになった女の子。そして今、その子が自分の彼女になった。若菜はそんな彼を見つめ、ゆっくり近づいて手を取った。「嬉しいんでしょ?私もだよ」彼の手をぎゅっと握る。「雲翔……そう呼んでもいい?」「もちろん!」雲翔は即答する。「彼女なんだから、好きに呼んで」若菜は微笑んだ。「最近、ずっと優しくしてくれてたよね。全部覚えてる。雲翔が本気だって分かるし、私も本気。結婚前提だって言ってくれたとき……ちょっと泣きそうになった。雲翔、もう決めたの。せっかく付き合ったんだから、これからずっと仲良くしようね?」雲翔の目が赤くなる。強く彼女の手を握り返し、何度も頷
Read more

第376話

深夜。高代がようやく水紀を見つけたとき、水紀はバーの隅で、完全に酔い潰れていた。店内は音楽が耳をつんざくほど大音量で、高代が何を言っても水紀にはまったく聞こえなかった。水紀の腕をつかみ、ほとんど引きずるようにして外へ連れ出した。外に出た瞬間――水紀は入口脇の木にしがみつき、そのまま激しく吐いた。高代は怒りを必死に押し殺しながら待つ。水紀がようやく吐き終えて、ふらふらと立ち上がったその瞬間。パシッ。容赦ない平手打ちが飛んだ。「自分の姿、見てみなさいよ。いったい何のつもりよ?」水紀はようやく焦点の合った目で高代を見て、へらへら笑いながら酔っ払ったまま高代に飛びついた。「お母さんぁ……えへへ……会いたかったぁ……」高代は嫌悪を隠さず、突き放した。その荒んだ様子を見て、怒りがさらに込み上げる。「私に黙って海市に戻ってきて、やってることがこれ?こんな所で泥酔?よく『お母さん』なんて呼べたわね。私はこんな娘育てた覚えない!」「なんでそんな怒るの……」水紀はしゃくり上げる。「だって……海市に戻ってお兄さんに会えば、少しは情けかけてくれると思ったのに……なのに冷たくて……離婚協議書にサインさせられたの……」「声を下げなさい!」高代が鋭く叱る。高代はすでに北斗から、水紀と結婚している事実を知っていた。その事実を知った時、高代は気を失いそうになった。高代は二人の関係をずっと反対していた。奈穂に内緒でこっそり付き合っているだけだと思っていたのに、まさか結婚しているなんて!幸い、離婚協議書は既に署名済みだった。それなのに――水紀が外で騒ぎ立てるなんて、彼女が血の繋がらない兄の恋路に割り込んだことを皆に知らしめたいのか!「なんで小声にしなきゃいけないの?言ってやる!みんなに言ってやる!北斗は薄情者だって!」通行人が何人も振り向く。高代の顔色が変わる。慌てて水紀の口を押さえ、人気のない路地へ引きずっていった。「頭おかしいんじゃないの!?息子の名誉を全部潰す気!?」高代は歯を食いしばった。水紀はまた泣き出した。「私、実の娘じゃないけど……でも育ててくれたでしょ……なのに私の気持ちは考えてくれないの?北斗が裏切ったのに……!」高代は冷笑した。「裏切った?あの子は最初から奈穂と付き合ってたのよ。それなのにあんたが
Read more

第377話

水紀はしばらく高代をじっと睨みつけていた。そしてふっと鼻で笑った。「ほんと、あなたって……息子そっくり。自分勝手よね」結局のところ――奈穂が「水戸家の令嬢」だからでしょ?昔は奈穂の出自を見下して、表向きだけ優しくして、都合のいい道具みたいに扱ってただけなのに。奈穂が北斗と別れた直後なんて、高代は裏で知り合いに「新しい女性を紹介できないか」ってお願いまでしてたのに。それが今は?水戸家の令嬢だと分かった途端、慌てて「絶対取り戻せ」だなんて。水戸家の令嬢を嫁として迎えるためなら、何年も育てた娘さえ切り捨てる。高代は眉をひそめた。「あなたに言う資格ある?自分は違うとでも?」水紀の真っ赤に腫れた目を見て、高代は胸騒ぎを覚えた。このままでは衝動的に取り返しのつかないことをしかねない。まずは落ち着かせようと説得する。「……いい?北斗の態度はもう決まってる。あの子はあなたとはヨリを戻らない。私が何を言っても無駄よ。だったら、あの子に執着するのはやめなさい。他で頑張りなさい。あなた、オーロラ舞踊団に入ったんでしょ?あそこは入りたくても入れない人が山ほどいるのよ。そこで成功すれば、将来なんていくらでも開ける」その言葉に、ぐちゃぐちゃだった水紀の頭が、ほんの少しだけ冴えた。……そうだ。まだ、オーロラ舞踊団がある。突然、水紀はスマホを取り出し、勢いよく打ち始めた。「何してるの?」高代が眉をひそめて尋ねた。「ステージを用意させてやる。一番大きなステージを!」水紀はふらつきながら立っていたが、指は画面を乱暴に叩いていた。だが――それは未来のためじゃない。ただ一人に見せつけるため。奈穂に。ダンスに関しては、何があっても奈穂が自分に追いつくことなんて絶対にない!高代はほっと息をついた。水紀の心の内はどうであれ、これ以上厄介なことをしなければいいのだ。メッセージを送り終えると、水紀は壁にもたれ、荒く息をついた。そして、ふいに顔を上げて高代を睨みつけた。「まだ何か言いたいの?」高代が警戒する。「伊集院グループの新製品発表会、行く」「ダメ!」高代は即座に拒否した。「絶対行かせない」「ただ見るだけだよ……」水紀は弱々しい声を出す。「もうすぐ京市に行くし……その前に、もう一回だけお兄さんに会いたいの。
Read more

第378話

「お母さん、安心して」水紀は腕にしがみつき、昔みたいに寄り添った。まるで本当に、仲のいい母娘に戻ったかのように。「今回はちゃんと言うこと聞くから」高代は小さくため息をつく。「……今夜のことは、全部酔っぱらいの戯言だと思って忘れるわ。これからもあなたは私の娘よ。京市に行ったら、ちゃんと自分のことを大事にしなさい。時間ができたら会いに行くから……もう海市には戻ってこないで」結局、最後のそれが本音だった。水紀は酔っていても、頭は妙に冴えている。口元に冷たい笑みが浮かぶ。けれど表面上は素直に頷く。「分かったよ、お母さん」……伊集院グループの新製品発表会当日。会場には、朝早くからメディアと招待客が続々と集まっていた。まだ発表会は始まっていないため、北斗は舞台に上がらず、裏から静かに様子を見ていた。彼は奈穂が来るのを心待ちにしていた。しかし、いくら待っても彼女の姿は見えない。その時、スマホが鳴る。入口警備からの連絡だ。「社長……秦グループの秦社長が来ています」警備員の声は低く抑えられていた。北斗の表情が険しくなる。まさか烈生が本当に来るなんて。この間ホテルで揉めたばかりだ。念のため、入口の警備には「秦社長は入れるな」と指示してあった。もし発表会を邪魔しに来たら厄介だからだ。「彼を中に入れるなと指示したはずだ」北斗は冷たい声で言った。「それが……外に記者が大勢いて、秦社長を見つけてもう撮影を始めています」警備員は困った様子で言った。「ここで止めたら、逆に騒ぎになりそうで……」北斗は奥歯を噛む。確かに、烈生は招かれざる客だが、もし自社の警備員が烈生を止めようとして記者に撮影され、それが暴露されれば、様々な憶測を呼ぶに違いない。そうなれば、自社の新製品に影響が出るかもしれない。「……分かった。入れろ」……その頃。奈穂と正修は、発表会場の向かいにあるカフェに座っていた。二人は窓際の席に座り、会場の入り口の賑わいを眺めていた。時折車が停まり、車から各メディアの記者や招待客が降りてくる。「本当に賑やかだね」奈穂は微笑み、目の前のミルクティーを口に運んだ。本来はコーヒーを飲もうとした。けれど正修が「胃が弱いんだからダメだ」と言って、どうしても飲ませてくれなかった。結局、ミルクティーを注
Read more

第379話

だから一目で烈生を見つけたって、別に不思議なことじゃない。……とはいえ。そんなこと、正修の前で言えるわけがない。もし「秦烈生は目立つから」なんて褒めでもしたら――この特大のヤキモチ焼きが、本気で爆発する。ぷくっと頬を膨らませている奈穂を見て、正修は思わず吹き出した。手を伸ばして、奈穂の頬を軽くつまんだ。「冗談だって」彼女はツンデレ気味に「ふん」と鼻を鳴らした。「いつ入るつもり?」正修が聞く。「まだいい」奈穂は少し眉を寄せた。「もう少しここにいる。北斗の顔なんて、できるだけ見たくないし。少しでも少なくて済むなら、そのほうがいい」どこか子どもみたいな言い方だった。正修はそれが可愛くて、優しく目を細めた。まだ笑みが残っているうちに、武也からの着信が表示された。正修の表情は一瞬で曇り、画面に映る【外祖父】の文字に鋭い眼差しを向けた。……ついに来たか。やっぱり外祖父は黙っていられなかったんだな。数秒見つめたあと、通話を取る。「おじい様」その呼び方を聞いた瞬間。奈穂の手が、カップを持ったまま固まった。視線が自然と正修に向く。電話の向こうで、武也が軽く笑う。「正修、もう電話出てくれないかと思ってたよ」「まさか」正修の声は淡々としている。「おじい様のご指導は、きちんと伺わないと」武也は正修が今、機嫌が悪いことを承知していたが、それでも続けた。「お前が今海市にいるのは知ってる」正修は「ええ」とだけ答えた。武也はしばらく沈黙した後、再び口を開いた。「伊集院グループの新製品発表会には行くな」「おじい様、これは伊集院北斗のために俺を戒めているのですか?」正修は笑った。しかしその笑みには微塵の温もりもなかった。「戒めているのではない」武也はため息をついた。「お願いしているのだ……この発表会には行かず、何の手も打たないでほしい」正修の指がゆっくりと握りしめられた。外祖父が北斗のために、ここまでするなんて。「お願い」という言葉さえ、自分に口にできるとは。「おじい様、理解できません」正修が何を理解できないかは言わなかった。だが武也は知っていた。正修は理解していないのだ。なぜ自分が、若い頃に囲っていた愛人だった女の息子に、ここまで尽くすのかを。「正修、説明しづらい事情がある」武
Read more

第380話

とはいえ、考えてみれば無理もない話だ。自分は正修の外祖父だ。それなのに、今は何度も何度も他人の肩を持っている。しかも、その「他人」というのが――正修の恋敵なのだから。後ろめたさがないわけがない。あるに決まっている。とりわけ、昔、佳容子と正修がどれほど自分に孝行してくれていたかを思い出すたびに、胸の奥が重く痛んだ。だが、あの頃の出来事を思えば――このまま重い枷を背負ったまま、将来あの世に旅立つのは、どうしても嫌だった。「わしとお前は永遠に家族だ。それは変えられない事実だ」武也は重い声で言った。「だからこそ……理解してほしい」「ええ、俺たちは永遠に家族です。おじい様はいつまでも俺の外祖父です」正修は静かに答える。「でも、おじい様を理解する代わりに、愛する人と離れなきゃいけないとか、目の前で彼女が傷つくのを黙って見ていなきゃいけないなんて……すみません、おじい様。それはできません」少し間を置き、さらに続けた。「それに……それじゃ、外祖母にも顔向けできない気がします」武也の喉がきゅっと詰まった。亡くなる前、妻が自分の手を握り、「あなたに出会えて幸せだった」と微笑んだ。その光景が脳裏によみがえる。頭皮がじんとしびれ、手は震え、スマホを持つのもやっとだった。「他に用事がなければ、もう切ります」正修が言う。「京市に戻ったら、時間を作って、奈穂を連れておじい様に会いに行きます」そう言ったものの、正修はすぐには電話を切らなかった。向こうが先に通話を終えるのを待ってから、ようやくスマホを下ろした。顔色の優れない正修を見つめ、奈穂は心の中でそっとため息をつく。こんな状況で平気でいられる人なんていない。どんな慰めの言葉も、きっと空々しくなるだけだ。彼女は手を伸ばし、そっと彼の頭を撫でた。正修は彼女の手を握り、微笑む。「俺は大丈夫」「今度おじい様に会ったら、ちゃんと話し合おう」奈穂は真剣な口調で言った。正修は彼女を見つめる。その目には、悔しさと罪悪感が滲んでいた。「奈穂……つらい思いをさせてごめん」「何言ってるの、ばか」奈穂は軽くたしなめる。「私、別に何もつらくなんてないよ」彼の態度を見れば分かる。彼はずっと、迷わず自分の味方でいてくれている。それに――武也が本気で自分を敵視しているわけではないことも、奈
Read more
PREV
1
...
3637383940
...
45
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status