All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 471 - Chapter 480

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第471話

だが、恒一は想像もしなかった。自分が奈穂のために用意させた牛乳に、まさか薬を仕込もうとする者がいるとは。怒りが頂点に達し、彼は再びウェイターを激しく蹴りつける。「誰に命じられた!?言え!今すぐ吐け!」「本当に……何も知りません……」ウェイターは痛みに脂汗を流しながらも、なお強がろうとした。そのとき――低い冷笑が一つ、響いた。背筋に氷水を流し込まれたような寒気が走る。ウェイターは恐る恐る顔を上げ、冷たい深潭のような瞳と視線がぶつかった瞬間――喉を締め上げられたかのように息が詰まる。「言わないのか?」正修の声は氷のように冷たい。「連れて行け。手段は問わない。口を割らせろ」「かしこまりました」命を受けたボディガードがすぐにウェイターを引きずろうとする。だがその時点で、ウェイターはすでに恐怖に耐えられなくなっていた。腕を掴まれた瞬間、絶叫する。「やめてくれ!殴らないでくれ!話す!全部話す!」そして、堰を切ったように言葉を吐き出した。「はげあたまの男だ!あいつが僕に金を渡して、小瓶も渡してきたんだ!今夜の宴会で、水戸家の令嬢の飲食に混ぜろって!」恒一が奈穂のために特別に牛乳を用意したことが、結果的にウェイターにとって格好の機会となった。厨房は慌ただしく、誰もウェイターに注意を払わなかった。だが――ウェイターも、その背後の人物も予想していなかった。奈穂が外出先にいる時でも、水戸家のボディガードは彼女の飲食に特別な注意を払う。ましてや宴会のように人が多く混乱しやすい場では、警戒は普段以上に厳しくなっていた。そのため――牛乳に何かを入れた瞬間、ウェイターは即座に取り押さえられたのだ。「はげあたま」という言葉を聞いた瞬間。奈穂と正修は、同時に視線を交わした。二人の脳裏に浮かんだのは、かつて北斗のために動いていた、あのはげあたまの男だった。だが彼らはすでに北斗の交友関係を洗い直し、その男の写真も入手し、大規模に捜索を続けている。もし本当に京市に現れているなら、両家の情報網が気づかないはずがない。「厳重に見張って。逃がさないで」奈穂が指示する。「かしこまりました」厨房を出ても、恒一はまだ落ち着かなかった。服はすでに汗でびっしょりだった。それでも構わず、奈穂に向かって必死
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第472話

実のところ、あの時の口論は大した出来事ではなかった。言い争いのあとも、二人は険悪になることなく、普通に笑い合うこともあった。だが今となっては、奈穂が水戸家の令嬢だと知った以上、恒一の妻が不安になるのも無理はない。卒業後、ほとんど交流もなかったのだから。奈穂は、自分があの程度の出来事を気にするほど狭量ではないと分かっている。だが他人にそれを断言できるはずもない。「もうずっと前のことよ。覚えてもいないわよ」奈穂が言うと、恒一は慌てて愛想笑いを浮かべた。「そ、そうなんですね……」その時、正修が口を開く。「今回の晩餐会、随分急だったな」恒一はすぐ説明した。「実は最初から開く予定ではなかったんです。昨日、僕がSNSに妻との写真を投稿して、今日が結婚一周年だと書いたら、友人が突然メッセージを送ってきて……『一周年は盛大に祝うべきだ、以前占い師に見てもらったら、一周年に大きな宴を開くと夫婦仲が安定するって言われた』と。それで慌てて準備したんです」奈穂は小声で正修に言った。「三浦家って、そういうのを信じる家らしいわ」恒一の様子を見る限り、本当に無関係そうだ。今にも泣き出しそうな顔をしている。恒一が主催した宴でこんな事件が起きたのだ。水戸家や九条家が責任を問えば、三浦家は終わりかねない。もっとも――奈穂も正修も、理不尽に八つ当たりするつもりはない。責任は責任のある者に。三浦家が無関係なら、彼らを巻き込むことはしない。「その友人の名前は?」正修が尋ねる。恒一は急いで名前を告げ、スマホを取り出して連絡先を見せた。正修はボディガードに命じ、名前と連絡先を控えさせる。これ以上宴会に留まる気にはなれなかった。去り際、正修は恒一に静かに釘を刺す。今回の件は外に漏らすな。何も知らなかったことにしろ、と。ウェイターはすでにボディガードによって密かに連行されている。ウェイター自身は重要ではない。だがウェイターの背後にいる人物の所在を突き止める手がかりになる。もし今夜の指示役が、かつてのあのはげあたまの男なら――交通事故の件に、新たな重要証人が加わることになる。もちろん、現時点でも証拠は十分ある。はげあたまの男がいようといまいと、流れは変わらない。だが――北斗のために動いていた人間だ。見逃すわけにはい
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第473話

「怒らなくていい」正修は柔らかい声で言った。「伊集院北斗は、もう自分で穴を掘っている」「え?」奈穂は首をかしげる。「また何かしたの?」「九条家の貨物が、明日の夜に海外へ出る予定だ。さっき報告があってな、荷役作業員数人が、こっそり積み荷に何かを混ぜていたらしい」もちろん、彼らも慎重だった。だが――九条家の監視体制の方が、さらに慎重だった。発見した後、すぐに動いたわけではない。まずは水面下で徹底的に監視し、同時に正修へ連絡が入った。つまり今夜は、奈穂だけでなく、正修も狙われている。そして――二人を同時に狙う黒幕は、北斗である可能性が極めて高い。そこまでして自ら墓穴を掘りたいのなら――正修は、喜んで手伝ってやるつもりだった。奈穂は眉を寄せる。「もし今夜の件が全部北斗の仕業だとして……少し不思議なの。どうやってこんな短期間で、こんな厄介な物を京市に持ち込めたの?」北斗のナワバリは海市だ。しかも最近ようやく伊集院の新製品問題から抜け出したばかりで、武也の助力がなければ京市にすら来られなかった。奈穂の牛乳に入れようとしたものが、無害なはずがない。九条グループの貨物に混ぜた物など、なおさらだ。自分の推測では、禁制品である可能性が高い。北斗一人で、これほど短期間に京市へ運び込めるはずがない。「奴の背後に、まだ誰かいる」正修が言う。奈穂は静かに頷いた。――武也?いや、それはあり得ない。もし自分だけを狙ったのなら、まだ可能性はあった。だが正修は、武也の孫だ。九条家は原田家の姻族でもある。どれほど北斗に肩入れしても、九条家を害する側には回らないはずだ。「心配しなくていい」正修は彼女の頭を軽く撫でる。「帰ったらゆっくり休め。後のことは全部俺がやる」奈穂は笑い、彼の肩に寄りかかった。「全部任せるわけがないでしょ。そんなの、あなたが倒れちゃう」「奈穂、俺の能力を疑ってるのか?」正修がわずかに眉を上げる。「まさか」奈穂は彼の腕を軽くつねった。「心配してるの」その一言に、正修の表情が和らぐ。何か言いかけたその時、再び電話が鳴った。部下からの報告だった。恒一に宴会開催を勧めた「友人」――すでに身元は割れている。一年前、北斗から小さな恩を受けていた人物だ。これで確定だ。奈穂に
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第474話

正修の側近、二郎だった。「社長、あの三人の作業員ですが、もう動きは止まりました」二郎は報告する。「どうやら仕込むものはすでに入れ終えたようです。でもご安心ください。ずっとこちらの監視下にありますから、逃げることはできません」続けて二郎は手にしていたタブレットを車窓越しに差し出した。「工場内の監視カメラは今日故障していました。調べたところ、やはり人為的な破壊です。ですがご指示どおり、我々の側で彼らの行動はすべて密かに撮っています」画面には、その証拠映像が映っていた。正修は軽く一瞥しただけで、興味なさそうにタブレットを返す。「証拠は揃っている。人も押さえてある」口元に冷たい笑みが浮かぶ。「なら、次の段階に移れ」「承知いたしました」……夜はすっかり更けていた。それでも北斗には眠気がなかった。自分で酒を注ぎ、ぐいと一気に飲み干す。だが胸の奥の苛立ちは、少しも収まらない。今夜は二つの策を同時に動かしている。果たして成功するのか――いまだ何の報告もない。せめてどちらか一つでも成功すればいい。もし一つしか成功できないなら――九条グループの方が成功してほしい。正修に一撃与えられると想像するだけで、胸がすくようだった。「伊集院社長!伊集院社長!」突然、ドアを激しく叩く音が響く。幻想に浸っていた北斗は驚き、苛立ちを露わにする。グラスを置き、乱暴に扉を開けた。立っていたのは、大ひげの男だ。顔色は悪く、声も震えている。「い、伊集院社長……大変です!」北斗の胸が一気に冷える。さっきまでの昂揚は消え失せ、不安が押し寄せた。北斗は相手の襟元を乱暴につかみ、そのまま室内へ引きずり込み、振り返りざまにドアを強く閉めた。声には抑えきれない焦りが滲んでいる。「慌てるな!何があった、はっきり言え!九条グループの件が露見したのか、それとも奈穂の方が失敗したのか!」大ひげは唾を飲み込み、視線を逸らしたまま答える。「九条グループ工場の方です……潜り込ませた三人の作業員が、さっき交代の隙に逃げようとして……門を出る前に取り押さえられました。それに、近くで見張っていた連中が、警察のサイレンの音も聞いたと……」「役立たずどもが!全員まとめて無能だ!」北斗は激昂し、テーブルの酒瓶とグラスを一気に床へ叩き落とした。
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第475話

今の状況で生き残る道は一つしかない。すぐに京市を離れ、海外へ逃げることだ。悔しさはある。だがこの状態で九条グループに罪を押しつけるなど、もはや不可能だ。――命あっての物種だ。いずれ必ず、もう一度やり直す機会は来る。「伊集院社長、決断を急いでください!これ以上遅れたら本当に間に合いません!」北斗は歯を食いしばり、すぐに部屋を出ると、高代の部屋のドアを叩いた。高代はすでに眠っていたが、眠そうな目で扉を開ける。事情を聞いた瞬間、顔色が一気に変わった。涙を浮かべ、彼の胸を二度叩く。「正気なの!?どうしてあんなものに手を出したの!?死にたいの!?」「俺は手を出してない!ただ、あれを利用して正修を倒すつもりだっただけだ!」北斗のこめかみに血管が浮かぶ。「母さん、今さら責めても意味はない。俺を死なせたくないなら、今すぐ原田さんに頼んでくれ。すぐに京市を出られるよう手配させて、海外へ逃がしてくれ!」「そ、そうね……彼に頼らないと……」高代は震えながら部屋へ戻り、スマホを掴んで武也に電話をかけた。ほどなくして、彼らが滞在している小さな別荘の前に車が止まる。乗り込む前、北斗は大ひげの男に言った。「君の存在は、まだ連中に知られていないはずだ。京市に残って動きを見てろ。何かあればすぐ連絡しろ。それと……あのウェイターから連絡は?」「まだです」北斗は顔を曇らせる。「……そっちも失敗したか」「ご安心を」大ひげは言う。「奴と会ったときは今の姿じゃありません。仮に会っても、俺だとは分からないでしょう」「ならいい。それから……小林昌治とかいう男、早めに始末しておけ」北斗は大ひげの肩を叩き、高代に急かされながら車に乗り込んだ。京市を離れる道中、高代は気が気ではなかった。途中で突然止められるのではないかと、ずっと怯えていた。だがその不安は杞憂だった。彼らは無事に京市を抜け、地方都市からE国行きの飛行機にも問題なく搭乗できた。機体が離陸した瞬間、高代はようやく胸をなで下ろした。「北斗……原田武也が言ってたわ。E国に着いたら、また資金を送ってくれるって。母さんとあなたが一生困らずに暮らせるくらいの額だそうよ」小声で続ける。「これからは向こうで静かに暮らしましょう。もう無理はしないで」北斗の目は血走っていた。無
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第476話

「連中は、もう飛行機に乗りました」部下の報告を聞くと、武也は手にしていたティーカップをそっと置き、眉をきつく寄せた。「何か気になることでもございますか?」部下は不思議そうに尋ねる。北斗たちを海外へ送り出すよう命じたのは、ほかならぬ武也本人だ。すでに無事、海外行きの便に乗ったというのに、なぜこんな表情をしているのか。「……順調すぎる気がしてな」武也は低い声で言った。「悪いことじゃないが、どこか引っかかる」北斗がやったことを、すでに正修が知っている以上、犯人が北斗だと気づかないはずがない。一晩もあれば、調べはつく。だとすれば――なぜ正修は、ああも簡単に北斗を京市から出し、海外行きの飛行機に乗せたのか。少なくとも、一度は止めに来るはずだ。だが今に至るまで……正修は何の動きも見せていない。あまりにも不自然だ。これまでの正修の態度からして、北斗を絶対に見逃さないはずだったのに。どうして今回は、妙に静かなのか。「お父さん、何の話をしてるの?」振り向くと、そこに立っていたのは佳容子だった。いつ入ってきたのか分からない。ただ、今の彼女の表情がひどく険しいことだけははっきりしている。武也は部下を下がらせ、再びティーカップを手に取った。「どうして戻ってきた?」「もちろん、もう一度ちゃんと話をするためよ」佳容子は向かいに腰を下ろし、父を鋭く見据える。「さっき、『飛行機に乗った』とか、『順調すぎる』とか言ってたわよね。今度は何をしたの?」武也は一口茶を飲んでから言った。「君には関係ない」「そう?じゃあ、正修には関係あるの?」佳容子は食い下がった。武也の手が一瞬だけ固まり、すぐに平静を装った。だが答えは返さない。「お父さん――」「もういい」彼は娘の言葉を遮った。「安心しろ。これからは、正修と敵対するつもりはない」北斗はすでに海外へ出た。もう戻ってくることはないだろう。高代のために、これだけ手を貸した。胸の中の罪悪感も、少しは軽くなった。これ以上、正修と争う理由はない。佳容子は冷笑する。「そう。じゃあ私は、今ここで感謝でもすればいいの?」その皮肉ははっきり伝わったが、武也は何も言わなかった。「お父さんはお母さんに申し訳ないことをした。正修にも。本当にすべきなのは、二人に謝ることでしょう。こん
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第477話

「もう着いたの?二、三日はかかるって聞いてたけど」「……」「分かったわ」佳容子は武也を一瞥してから電話を切った。「どうした?」と武也が聞いた。さっきまで少し緊張していた佳容子だったが、父の顔を見るなり、ふっと皮肉めいた笑みを浮かべた。「義理の父が帰ってきたわ」「そうか」武也はうなずく。「じゃあ早く帰りなさい」「帰るわよ。でも、お父さんも一緒に来てもらうから」佳容子は言った。「彼がお父さんに会いたいって。今日中に」その言葉に、武也の顔が一瞬固まる。「……今日、わしに会うというのか?」「もちろんよ。さあ、一緒に行きましょう」武也は言葉を飲み込んだ。本音を言えば、岳男には会いたくない。他の者の前なら、自分は年長者だ。どれほど怒っていようと、相手も多少は顔を立てる。だが岳男の前では話が違う。以前はまだ礼を尽くしてくれていた。何しろ姻族同士だ。だがこのところ、あまりにも多くのことが起きた。岳男が自分に不満を抱いていない保証はない。ついこの前まで、佳容子を脅すのに岳男の名を使っていた。だが当の本人が本当に戻ってきた今――恐れているのは、むしろ自分のほうだった。「お父さん、早く」佳容子が急かす。「義理の父を待たせないで」あまりに急かされ、言い訳もできず、武也は結局、彼女とともに九条家の本家へ向かうことになった。父娘は同じ車に乗ったが、道中、佳容子は一言も口をきかない。武也は仕方なく口を開いた。「今回、九条岳男が戻ってきたのは……九条家と水戸家の縁談のためか?」「当然でしょ。正修は彼がいちばん目をかけてる孫よ。その結婚話を重く見ないわけがないじゃない」何気ない世間話のような口調だったが、武也にはどこか含みがあるように聞こえた。正修は岳男が最も期待を寄せる孫。自ら後継者に指名した人物だ。それなのに自分はこのところ、外祖父の立場を盾にして、正修の敵に加担し、正修と対立してきた。それを知って、岳男が喜ぶはずがない。胸の奥に不安がよぎる。だが武也は無理やりそれを押し込めた。何と言っても姻族同士だ。まさかまったく顔を立てない、ということもないだろう。九条家に到着すると、使用人が丁重に告げた。「岳男様は茶室にいらっしゃいます。……正修様もご一緒です」「分かったわ」佳容子は
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第478話

正修はそれに気づきはしたが、意味までは読み取れず、結局ティーカップを手に取ってお茶をすすった。佳容子は言葉を失った。まったく、よくできた息子だこと。武也は腰を下ろすと、岳男と当たり障りのない世間話をいくつか交わした。話題はどれも取るに足らないものばかりだった。ひと通り挨拶が済むと、岳男がふと正修に尋ねる。「水戸家へ伺う件だが、準備はどうだ?」「すべて整っています」正修は答えた。岳男は頷き、続けて言う。「あとで贈り物の目録を持ってきて、わしにも見せてくれ」孫を疑っているわけではない。ただ重んじているのだ。何しろ、将来孫と縁を結ぶかもしれない相手の家を訪ねることになるのだから。その意図を察し、正修は素直に頷いた。「分かりました」「昨夜の、会社のあの荷の件はどうなった?」その問いを聞いた瞬間、武也の指がぴたりと止まった。「すでに九条家とは無関係です」正修は微笑む。「三人の作業員が故意に陥れようとしていた証拠は十分に揃っていますし、彼らも誰かに指示されていたと認めました」岳男はそれ以上追及しなかった。「お前たちは先に外へ出ていなさい」手の中の数珠を弄びながら、岳男は言った。「少し、原田さんと二人で話したいことがある」その言葉を聞き、ようやく下ろしかけていた武也の心は、また宙に浮いた。だが娘と孫の前で怯えを見せるわけにはいかない。武也はあえて悠然とした様子で茶を口に運ぶ。佳容子と正修も深くは尋ねず、立ち上がって茶室を出た。茶室を出るや否や、正修はスマートフォンを取り出し、メッセージを打ち始めた。「ふふ、奈穂にメッセージ?」佳容子がにやにやしながら尋ねる。完全に「見守る母の顔」だ。「うん」正修はあっさり認めた。「もう一時間近く、彼女と話してないから」「……」――一時間って、そんなに長い?息子が恋愛すると、ここまでべったりになるとは思わなかった。でも、息子と未来の嫁の仲がいいのは何よりだ。少しくらい甘えん坊でちょうどいい。そうでないと、余計な人間に嫁を狙われかねない。その頃、茶室には岳男と武也の二人だけが残っていた。岳男は静かに茶を味わい、すぐには口を開かなかった。その沈黙が、武也の不安をいっそう募らせる。しばらくして、ついに武也は耐えきれず、笑みを浮かべて尋ねた。「九条さ
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第479話

ほんの数言で、武也はすでに冷や汗をびっしょりとかいていた。他の人の前では自分は年長者であり、誰も簡単には手出しできない。だが――岳男が戻ってきた今、ついに自分を抑えられる存在が現れたのだ。岳男がかつて見せた冷酷なまでの決断力と、容赦のない手腕を、武也はこの目で見てきた。今は年を取り、仏道に心を寄せ、多くのことに口を出さなくなっている。だが、本気で怒らせれば――「姻族」という情けなど、決して当てにはできない。岳男はもう話すことがなさそうだった。武也は針のむしろに座らされているように落ち着かず、しばらくしてからようやく用事があると口実を作り、立ち上がった。幸いにも、岳男は引き止めなかった。茶室の外では、佳容子と正修がまだ扉のそばで待っていた。武也が出てくると、母子そろって振り向く。珍しく、武也の顔には落胆の色がにじんでいた。二人は視線を交わす。さきほど茶室で交わされた会話の内容は、おおよそ察しがついていた。「お父さん」佳容子が声をかける。武也は二人を見た。年下の前で弱みを見せるつもりはない。背筋を伸ばし、平然とした顔を作る。「もう帰る」「せっかく義理の父が帰ってきたんだし、一緒に食事してから帰れば?」本気で引き留めているのか建前なのか、武也は気にも留めず、咳払いを二度して、迷いなく断った。九条家を出て車に乗り込むと、ようやく疲れ切った表情を浮かべる。スマートフォンを取り出し、高代の連絡先をすべてブロックした。続けて部下に電話をかける。「今後、伊集院高代から連絡が来ても相手にするな」「承知しました」部下は即答した。岳男の前で、武也ははっきりと恐怖を覚えたのだ。これから先、どんなことがあっても――もう北斗を庇う勇気はない。……君江はようやく多忙の合間を縫って時間を作り、奈穂を温泉へ誘った。郊外の温泉リゾートは、プライバシーが高く、サービスも行き届いている。スイートの貸切露天風呂に奈穂と並んで浸かりながら、君江は気持ちよさそうに息をついた。「最近ほんと死ぬほど忙しくて、やっと人間に戻った気分だわ。あとでスパ行くつもりなんだけど、一緒にどう?」「私はいいかな」奈穂は目を閉じたまま、どこか思い詰めた様子だ。「どうしたの?」君江が尋ねる。奈穂は目を開け、唇を軽く結んだ。「私……ち
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第480話

しばらく温泉に浸かったあと、君江はスパへ向かった。奈穂も温泉から上がり、バスローブの紐を結び終えたところで、背後から足音が聞こえた。振り返ると、女性のスタッフが奈穂のスマートフォンを手に立っている。「お電話が入っております」奈穂は「はい」と軽く応じて受け取ると、スタッフは空気を読んで静かに下がっていった。電話の相手は、今の秘書である小泉紗英(こいずみ さえ)だった。「社長、先ほど情報が入りました。小林昌治が死亡しました」「死んだ?」奈穂はわずかに眉をひそめる。「どういうこと?」昌治の生死など気にもしていない。むしろ、あんな人間は生きる価値すらないと思っている。だが死に方があまりにも唐突だ。何か裏があるに違いない。それに、自分の部下が調べたところでは、つい最近、昌治の口座に出所不明の大金が振り込まれていた。そして先日の水戸家への突然の訪問。明らかに誰かの指示だった。それが今、急に死亡――紗英が続ける。「大量の睡眠薬を服用し、宿泊先のホテルの部屋で死亡していました。自殺の可能性が高いですが、警察は不審点があるとして現在も調査中です」「分かったわ」奈穂は無表情のまま電話を切った。心に波は立たない。ただ、腑に落ちないだけだ。「悪人は長生きする」と言う。昌治のような人間が、何年も恥知らずに生き延びてきたのに、今さら自ら命を絶つとは思えない。その時、再び背後から足音が近づく。スタッフがジュースかデザートでも持ってきたのだろう――そう思い気にも留めなかったが、足音はどんどん近づき、振り向こうとした瞬間、奈穂の体は大きく温かな腕の中へ引き寄せられていた。――馴染みのある匂い。胸に浮かんだ驚きは、すぐに消える。奈穂は目元を緩め、振り返らないまま笑った。「どうして来たの?」背後の男がため息交じりに言う。「誰かさんが俺を置いて遊びに来たからな。仕方なく追いかけてきた」「……置いてなんかないでしょ。君江に付き合って温泉に来ただけよ」「うん、知ってる」君江が今スイートにいないことも分かっている。だから彼はまっすぐここへ来たのだ。奈穂は振り返って彼を見る。「知ってるなら、どうして――」言い終わる前に、唇が塞がれた。言葉はすべて、絡み合う口づけの中へ溶けていく。しばらくして、この体
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