All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 451 - Chapter 460

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第451話

北斗は仕方なく、廃工場の中へ足を踏み入れた。重い鉄扉を押し開けると、かび臭い空気が一気に鼻を突く。彼は眉をしかめる。ふと横を見ると、二人の男が煙草をくゆらせていた。北斗の姿を認めるや、二人は慌てて煙草を揉み消し、にこやかに頭を下げる。「伊集院社長、お待ちしておりました。どうぞこちらへ」そう言って奥へ案内しようとする。北斗は冷ややかに問いかけた。「彼女は本当にここで待っているのか?」「中へお入りいただければ分かります」二人は穏やかに答え、そのまま歩き出す。北斗は後を追うしかなかった。倉庫の中は想像以上に荒れ果て、あちこちに廃材や壊れた部品が散乱している。彼は露骨に顔をしかめた。最奥まで進むと、目立たない小さな扉が一つある。男の一人が壁際を探り、どこかのスイッチを押したらしい。扉が音もなく開いた。そこには、地下へと続く階段が姿を現した。二人はスマートフォンのライトを点け、顎で合図しながら先に降りていく。「足元にお気をつけください」北斗は不機嫌そうに眉を寄せたまま、後に続いた。なぜこんな場所で会わなければならないのか。相手は名家令嬢のはずなのに、こんな場所を嫌がらないのか。だが、階段を下るにつれ、違和感が芽生える。微かに音楽が聞こえる。どこからともなく香水の匂いも漂ってくる。「ここは……一体何だ?」「着けば分かります」同じ答えに、北斗は思わず呆れそうになった。この二人、まるでロボットみたいだ。階段を降りきると、さらに複雑に曲がりくねった通路を進み、やがて一枚の鉄扉の前で止まる。男が指紋認証装置に指を押し当てると、重い音とともに扉が開いた。中を見た瞬間、北斗は目を見張った。廃倉庫の地下とは思えない、豪奢な空間が広がっている。煌びやかな照明。音楽に身を任せ踊る者たち。カードテーブルで山のようなチップを押し出す者。バーカウンターでバーテンダーと戯れる者。まさに、享楽に溺れる世界だった。二人の男は北斗の反応を当然のように受け止め、さらに奥へと促す。北斗は我に返り、歩みを進める。見渡せば、京市で名の通った名家の子弟たちが少なくない。ふと誰かの視線が自分に向いた気がして、北斗はすぐに顔を背けた。今の自分は、まるで追い詰められた野良犬のようだ。陰で嘲笑われているの
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第452話

北斗は眉を上げ、周囲を見回した。ここへ来る途中、いくつもの固く閉ざされた扉を目にしている。その向こうで何が行われているのか――大体想像はつく。だが北斗は、詮索する気などなかった。音凛がここで何をしていようと、自分には関係のないことだ。それに、新製品の件では彼女に助けられた。今さら自分から同盟相手を敵に回すわけにもいかない。「伊集院社長、何か飲む?」音凛はキューを置いた。「結構」北斗は即座に断る。「秦さん、単刀直入に本題へ入ろう」音凛はビリヤード台にもたれ、彼を眺めながら満足げに微笑んだ。「焦っているのね。でも今のあなた、以前よりずっと『男』らしくなったわ」北斗は冷笑する。「九条にここまで追い込まれて、今さら何を気にする必要がある?」「いいわ」音凛は愉快そうにうなずいた。正修を壊したいという衝動を隠さない今の北斗は、実に扱いやすい相手だ。彼女が手を差し出すと、傍らの若い男がすぐにタブレットを渡した。画面を数回操作し、それを北斗へ差し出す。「九条グループが来月、海外へ出荷する貨物があるの」北斗の瞳が沈む。「つまり、それを妨害しろと?」「いいえ」音凛はシャンパンを受け取り、ひと口飲む。「その貨物自体は、九条グループにとってそれほど重要ではない。仮に差し止められても、大した痛手にはならない。私が欲しいのは、その中身に『何か』を紛れ込ませることよ」北斗は即座に意図を理解した。「どう?」音凛は笑みを浮かべ、泡立つシャンパンを揺らす。「『モノ』はもう準備してある。あなたがうまく手配して、九条グループのその貨物に気づかれず混ぜ込めれば……」彼女の目に、冷たい快感が宿る。「今、九条グループは九条正修が率いている。もしその貨物から不正な品が見つかれば、責任は彼に及ぶ。九条家を完全に潰すのは難しいでしょうけど、それでも大きな打撃にはなるわ」彼女は再び北斗へ視線を向け、甘く絡みつくような声で囁いた。「何より……その時になれば、彼の評判は地に落ちるってことよ」その言葉は、北斗の胸に強く響いた。今の自分は、世間から叩かれる存在だ。ネットで自分の名前を検索すれば、罵倒ばかりが並ぶ。一方で正修はどうだ。若き有能な経営者。奈穂とお似合いの理想のカップル。慈善活動にも熱心。製品は高品質で安全――
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第453話

「何だ、それは?」北斗は食い気味に問い返した。「あなたの『最愛の人』に使えるものよ」音凛はどこからか小さな瓶を取り出し、彼に差し出す。北斗は受け取り、怪訝な顔をする。「奈穂に使うのか?これは……」「海外で手に入れた上物よ。無色無臭の薬」音凛は自分の爪を眺めながら、淡々と言う。「数回飲ませれば、少しずつ判断力が鈍っていく。やがて……認知症のようになるわ」「何だって?」北斗の顔色が変わる。「奈穂にこんなものを使えと言うのか?俺が正気じゃないとでも?」瓶を叩き割ろうとする彼に、音凛は冷笑を向けた。「いい加減にして。今さら純情ぶらないで。あなたが欲しいのは、九条正修を引きずり下ろし、あの二人を引き裂くことじゃないの?さっき言った計画が成功すれば、九条正修は自分のことで手一杯。その上、水戸奈穂が『壊れた』ら?九条家と水戸家の縁談が続くと思う?」北斗の指が強く瓶を握り締める。どんな形であれ、二人を引き裂けるなら――それだけで胸がすっとする。「仮に九条正修が無傷でも、水戸奈穂が愚かになれば、九条家がそんな嫁を受け入れるかしら?そのとき、あなたが水戸家に現れて、『どんな彼女でも受け入れる、守る』とでも言えば?もしかしたら感動するかもしれないわね。そうすれば、彼女はあなたの元に戻る」「それにね」音凛はくすくすと笑い声を重ねた。「たとえ愚かになったとしても、あなたがずっと想ってきた人には変わりないでしょう?水戸家の婿にもなれるわ」言葉を重ねるたび、北斗の心は揺らぐ。長い沈黙の末、彼は低く問う。「……他に副作用は?」その問いに、音凛は満足げに微笑んだ。「ないわ。ただ思考が鈍るだけ。食事もできるし、生活も問題ない。子どもだって産める。生まれてくる子にも影響はないわ」北斗は再び黙り込む。音凛は余裕の表情でキューを手に取り、身をかがめる。一撃でボールがポケットに落ちた。「伊集院社長、よく考えて。あなたに残された機会は、そう多くないのよ」……宋原グループとの共同プロジェクトに一部変更が生じたため、この日、昼食後に奈穂は数名の幹部とともに宋原グループを訪れた。雲翔は粗相があってはならないと、自ら会社のエントランスまで迎えに出る。奈穂の車が停まると、すぐに歩み寄り、ドアを開けた。「いらっしゃい」奈穂は微笑み、軽くうな
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第454話

若菜は――今や、雲翔の恋人のはずだった。それなのに、会議ひとつ参加させてもらえない。もし雲翔が最初から最後まで自分を警戒しているのだとしたら、あれほど苦心して彼に近づき、恋人の立場を手に入れた意味は何なのだろうか。しかも――烈生にまで見られてしまった。若菜の胸には、鬱屈とした不満が渦巻いていた。だからこそ、雲翔と奈穂が会議を終え、タブレットを手にプロジェクトの詳細について話し合っている姿を目にした瞬間、若菜の表情はふっと冷え切った。やがて二人が話を終え、顔を上げると、少し離れた場所に立つ若菜が、険しい顔でこちらを見つめているのが目に入った。「若菜、どうした?」雲翔はすぐに若菜のほうへ歩み寄る。「別に」若菜は冷笑した。「ただ、ずいぶん楽しそうに話してるみたいだったから、邪魔しちゃ悪いと思って」奈穂はまだプロジェクトのことで頭がいっぱいだったが、その言葉を聞いてわずかに眉をひそめた。何を言っているのか理解できないという顔だ。今日、自分は宋原グループを訪れ、終始プロジェクトの打ち合わせだけをしていた。さきほどの距離感も、ごく普通のビジネス上の間合いに過ぎない。いったい、どういう意味だというのか。「何を言ってるんだ?」雲翔は眉を寄せ、驚いたように若菜を見る。「俺たちは仕事の話をしていただけだ」「そう?知ってる人が見れば仕事の話って思うでしょうけど、知らない人が見たら、まるで……」「若菜!」雲翔が低く鋭い声で遮った。「ふざけるな」――若菜は、どうかしているのか?雲翔の険しい表情を見て、若菜ははっと我に返った。さすがに言い過ぎたかもしれない。しかも奈穂は正修の婚約者だ。こんな軽率な発言が正修の耳に入れば、大ごとになりかねない。「や、やだな、ちょっとした冗談よ」若菜は慌てて笑顔を作る。「そんなに怒らなくてもいいじゃない」そう言って彼の腕に手を回そうとしたが、雲翔はさっと身をかわした。「ここは会社だ。弁えろ」その声は依然として冷たい。彼は愚かではない。さきほどの彼女の態度が冗談かどうかくらい、見抜けないはずがない。今さら若菜が取り繕っているのは、ただやり過ぎたと気づいたからに過ぎない。雲翔は、若菜が本気でどうかしているのではないかと思った。自分の前で感情をぶつけるのは構わない。だが、
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第455話

雲翔は本当は少しくらい叱ろうと思っていた。だが、若菜の涙を目にした瞬間、気持ちが緩んでしまう。こめかみを揉みながら、先ほどよりは幾分柔らいだ声で言う。だが眉間の皺は消えない。「何を考えてるのか分からないよ、若菜。俺、何か君を不愉快にさせることをしたか?」一瞬、間を置き、さらに続ける。「たとえ不満があったとしても、俺にぶつければいい。どうして水戸社長まで巻き込むんだ?」その言葉と同時に、ふと以前、競馬場で若菜が突然機嫌を損ねた日のことが脳裏をよぎる。あの件については、この二日間、二人とも暗黙の了解で触れなかった。雲翔は心の中で何度も自分に言い聞かせていた――あの日は体調が悪かっただけだ、と。好きな相手といちいち争うべきではない、と。だが今日の彼女の様子を見て、どうしても思い出してしまう。時折、彼女は本当に理解できない。「雲翔、私……」若菜の目にはまだ涙が溜まっている。「ちょっと、悔しかっただけなの」雲翔ははっとして、すぐに問い返した。「俺が何か間違えた?」若菜は涙を拭いながら言う。「私はあなたの秘書で、恋人でもあるのに。今日の会議、どうして参加させてくれなかったの?」声には責める色が濃く滲んでいた。「そんなに私を信用していないなら、どうして付き合ってるの?あなたは本気だって言った。私だって本気よ。これからちゃんと続けて、いずれは結婚するつもりなんでしょう?それなのに、将来の結婚相手すら信用してくれないなんて……悔しくないわけないじゃない」その言葉に、雲翔の目が一瞬、ぱっと明るくなった。――将来は結婚する。自分は彼女の結婚相手。胸の奥が溶けるようだった。彼はすぐに若菜を抱き寄せ、優しく宥めた。「もう泣くな。どうして俺が君を信用していないなんてことがある?本当に誤解だよ」「じゃあ、どうして会議に出さなかったの?」若菜はすかさず問い詰める。雲翔は小さくため息をついた。「若菜、このプロジェクトは宋原グループ単独のものじゃない。水戸グループとの共同案件だ。公私を分けるのは最低限の原則だろう?君は俺の恋人だから信頼している。でも外から見れば、君はまだ入社して間もない秘書に過ぎない。俺が公私混同すれば、提携先に対して無責任だし、俺や会社の信用にも関わる」理屈としては正しい。若菜は反論の言葉を見つけられず、俯いてまた
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第456話

「じゃ、じゃあ私どうすればいいの?雲翔、何か考えて。今から水戸社長のところへ行って、ちゃんと謝ったほうがいいの?」「いや、今は行くな」雲翔は即座に制した。奈穂がまた若菜を見て不快になるのを恐れたのだ。「この件は俺が処理する。君は、これから同じことを繰り返さないと約束すればいい」「うん、分かった……雲翔、ありがとう。もう二度とあなたを疑ったりしない」若菜はぎゅっと彼に抱きついた。腕の中のぬくもりを感じながら、雲翔は小さく息をつく。確かに先ほどの若菜はあまりにも軽率だった。だが今は、どうしても怒る気になれない。頭にあるのは、どうやって奈穂にきちんと詫びるか、そしてもし正修がこの件を知った場合、どうすれば怒りを最小限に抑えられるか――そのことだけだ。一方は長年の親友。もう一方は恋人。実に厄介な立場だ。だが、雲翔の心配は杞憂に終わる。若菜の件を、奈穂はそもそも正修に話していなかった。別に若菜を庇うつもりがあったわけではない。ただ、あれほどの軽率な失言で正修を苛立たせたくなかったし、それが原因で正修と雲翔の長年の友情に亀裂が入るのも望まなかった。それに、宋原グループを出てからは仕事に追われていた。若菜のことなど、あっという間に頭の片隅へ追いやられてしまった。……夕方、仕事を終えて地下駐車場に降りた奈穂は、車にもたれて待っている正修の姿を目にした。彼は彼女に気づくと、すぐに姿勢を正してこちらへ歩み寄る。さっきまで少し疲れを感じていた奈穂だったが、彼の姿を見た瞬間、その疲労は嘘のように消え去った。彼女も足早に駆け寄る。正修が腕を広げた瞬間、彼女は軽く跳ね上がり、そのまま彼に抱きついた。正修はしっかりと彼女を受け止め、そっと唇にキスを落とす。「会いたかった」彼女は彼の首に腕を回し、甘えるように囁いた。正修は笑う。今朝も一緒に朝食を取ったのに――なんてことは言えない。なぜなら、自分もまた同じ気持ちだったからだ。「ねえ……そろそろ下ろして」奈穂が小声で言う。正修は眉を上げる。「記憶が正しければ、さっき飛び込んできたのは奈穂のほうだが?」今さら下ろせ、と?「そ、それはそうだけど……いつ誰か来るか分からないし、見られたらちょっと恥ずかしいから」会えた嬉しさで理性が飛んでいたが、今は少
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第457話

世界限定わずか三本。しかも正式発売はまだ始まっていない。それを、九条家の御曹司があっさりと手に入れてしまったのだ。「……すごく綺麗」奈穂は心から感嘆した。彼女にとって、贈り物の値段は問題ではない。高価なものならいくらでも手に入る。彼女が嬉しいのは――正修の気持ちだった。無言のままブレスレットを彼に差し出し、きらきらとした目で見つめる。正修は当然、その意味を理解している。ブレスレットを受け取り、彼女の白く細い手首に丁寧に着ける。留め終えてもすぐには手を離さず、そっと頭を下げ、彼女の手首にそっと口づけを落とした。奈穂の心臓が、どくん、と大きく跳ねる。唇の温度がまだ残っている気がして、思わず彼を見つめる。顔を上げた彼の目には、やわらかな笑みが浮かんでいた。この瞬間で時間が止まったかのようだ。「やっぱり綺麗だ」正修が言う。「君によく似合う」「うん……」もう片方の手でブレスレットを撫でながら、胸の鼓動がなかなか収まらない。あれほど親密なことまでしているのに――たったこれだけの仕草で、まだこんなに胸が高鳴るなんて。本当に、人を翻弄するのが上手すぎるのだ。しばらくしてようやく落ち着きを取り戻すと、奈穂はバッグから小さな箱を取り出し、彼に差し出した。耳の先がわずかに赤い。「実は……私も、あなたにプレゼントを用意してたの」正修の目に、はっきりとした喜びが走る。すぐに箱を受け取り、開けた。中にはカフリンクス。装飾は派手ではないが、洗練されていて、一目で丁寧に作られたことが分かる。「どう?」奈穂は期待に満ちた目で彼を見る。「とても気に入った」正修は彼女の頭を軽く撫でた。「何より、君が自分でデザインしたものだからな」その一言に、奈穂は目を丸くする。「えっ……まだ言ってないのに、どうして分かったの?」正修は甘やかすように笑った。「前にも言っただろう?俺たちは通じ合っている」初めてこのカフリンクスを見た瞬間、彼女のデザインだと直感した。彼女の表情や視線が、それを裏づけていた。胸の奥が熱く高鳴る。奈穂は微笑み、彼のシャツについていた元のカフリンクスを外す。新しいものを付けながら、つい口が止まらなくなる。「実は、ずっと前からデザインしてたの。完成してからすぐ制作に回したんだけど、素材の一つが
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第458話

奈穂は完全に正修の腕の中に閉じ込められ、逃げ場などどこにもなかった。――もっとも、逃げる気などなかったけれど。避けるつもりも、抗うつもりもない。そのまま、絡み合うような深い口づけに身を委ねる。どれほどの時間が過ぎたのか分からない。やがて、正修の車は地下駐車場を離れ、ゆっくりと走り出した。「今夜も蘭彩堂で夕食?」奈穂は何気なく尋ねる。正修は、何かを思い出したように、意味ありげな笑みを浮かべた。「いや。今夜の蘭彩堂は……少し都合が悪い」「え?どうして?」特に気にしていなかったはずなのに、その笑みが妙に引っかかって、彼女はつい問い返してしまう。「大したことじゃない」正修は軽く言った。「今夜は別のところで、美味しいものを食べよう」彼がそれ以上何も言わなかったので、奈穂もそれ以上問いたださなかった。ただ、手首に輝くクリスタルのブレスレットを見つめる。――彼と一緒なら、それで十分。……その夜、蘭彩堂には烈生の姿があった。向かいに座るのは若い女性。端正な顔立ちで、所作も優雅だ。二人は同じテーブルで食事をしている。到着時に挨拶を交わしたきり、ほとんど会話はない。沈黙が続く、重苦しい夕食だった。傍らに控えるウェイターさえ、内心で首を傾げる。――お見合いじゃなかったのか?挨拶のあと、ひと言も話さないなんて。今どきのお見合いは、こんなものなのだろうか。女性はあまり食べないままナイフとフォークを置き、同じく食が進んでいない烈生を見つめ、柔らかく微笑んだ。「秦社長は、あまりお話しにならない方なんですね」烈生は否定せず、軽く頷いた。「ええ。申し訳ありません」女性の目が、わずかに沈む。少し間を置いて、彼女はもう一度口を開いた。「お話しにならないのは性格ですか?それとも、私と話したくないからでしょうか?」その問いに、烈生は一瞬言葉を失う。どう答えるべきか、逡巡している様子だった。しばらく待っても返事はない。女性の笑みが、ほんの少し冷える。「もし私にご不満があるのなら、これで失礼します。本日の様子は、どうぞそのまま秦会長にお伝えください」そう言って立ち上がる。そのとき、烈生がようやく口を開いた。「……榊原(さかきばら)さん、申し訳ありません。俺が悪かったです」榊原昭乃(さかきばら
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第459話

「誰の許可で秦社長のことを噂している?覚えておきなさい。ここで働く以上、何を見ても、何を聞いても、口外は一切するな。分かったか?」マネージャーの声は低く厳しい。「わ、分かりました」二人のウェイターは慌てて何度も頷く。彼女たちが立ち去ると、マネージャーはすぐに携帯を取り出し、隆徳の秘書へ電話をかけた。先ほど陰で目にした一部始終を、逐一報告する。……夕食のステーキを奈穂はとても気に入った。店を出たあと、機嫌は上々。すぐに車に乗らず、正修の手を引いて、向かいの川沿いをゆっくり歩く。そのとき、一本の電話が入った。寄付に対する感謝の連絡だった。盛大な感謝式典を開きたい、複数のメディアがインタビューを希望している、という。奈穂は穏やかな声で答える。「お気持ちだけで十分です。私はただ、自分にできることをしたかっただけ。大げさにするつもりはありません」相手は理解を示し、何度も感謝の言葉を述べたあと、それ以上は時間を取らせまいと電話を切った。海市から戻った後、奈穂は女性シェルターネットといじめ防止のNGOに、それぞれ四億ずつ寄付している。すべて私人口座から。名声のためではない。あの出来事を目の当たりにして、胸に去来する思いが多すぎただけだ。金銭には困らない。傷ついた人々の助けになるのなら、それで十分だ。そのことを思い出すと、さらに気分が良くなり、彼の手を握ったままぶらぶらと振る。正修は横目で彼女を見て、柔らかく微笑む。――こんなにも善良な人なのに。あんな汚れた出来事が、彼女の身に降りかかるべきではなかった。二人はゆっくり歩きながら他愛ない会話を交わす。互いしか目に入らない。近くに停まった一台の車の中で、男が陰鬱な視線を向けていることなど、気づきもしない。北斗は距離を詰めすぎないようにしていた。車内とはいえ、いつまた屈強なボディガードが現れ、自分を犬のように引きずり出すか分からない。正修の隣で笑う奈穂。――あんなに楽しそうに。奈穂。どうして自分の幸せばかりで、俺を顧みない?愛していると言ったのは君だろう。奈穂が何かを囁き、自分で先に笑い出した。正修はまだ笑っていないのに。そして正修は、そっと彼女の唇の端に触れた。その瞬間、北斗の視界が赤く染まる。震える手で、音凛から渡された小瓶を取り
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第460話

「その気はやめとけよ。あの二人、絶対に只者じゃないだろ。さっき近づこうとした人、ボディガードに止められてたじゃん」「え、あの二人知らないの?九条家の御曹司と水戸家の令嬢だよ!私、ここ数日ずっとこの二人のカップリング追ってるんだけど!」「前にニュースで見かけた気がするけど、ちゃんと読んでなかったな……」「海市の伊集院グループのゴシップも知らないの?それは損してるって」奈穂は、通りすがりの人々のひそひそ話をぼんやりと耳にしたが、特に気にも留めなかった。しばらく散歩をしたあと、正修と一緒に車へ乗り込む。正修は夜に少し酒を飲んでいたため、運転は運転手を呼んで任せていた。二人は後部座席に並んで座り、時おり顔を伏せて、今日互いに贈ったプレゼントを眺める。ふと同時に視線を落とした瞬間、奈穂は思わず笑い出し、彼を振り向いた。「やっぱりあなたの言う通りね。私たち、本当に気が合いすぎ」その瞳は笑みで満ちている。ただ美しいだけでなく、無意識に人を惹きつける艶も帯びていた。正修の眼差しがわずかに暗くなる。彼女を抱き寄せようと手を伸ばしかけた、そのとき――スマートフォンの着信音が唐突に鳴り響いた。眉を深く寄せ、画面を見る。海外支社の幹部からだった。通話を取ると、相手はどこか遠慮がちに切り出す。D国のある金融会社が九条グループとの提携を希望しており、正修に現地へ来る時間があるかと打診してきたという。「俺に時間があるように見えるのか?」正修は思わず苦笑混じりに返す。電話の向こうから、蚊の鳴くような声が返る。「申し訳ありません、軽率でした……」「向こうが提携したいと言ってきておいて、俺がわざわざD国まで出向く?俺がそんな慈善家に見えるのか?」容赦なく言い切り、そのまま通話を切った。電話の向こうの相手が冷や汗をかいている姿が、奈穂にも容易に想像できた。「もう、そんなに怒らないで」彼女は笑いながら彼の手を握り、指を絡める。正修はその手を握り返した。叱るだけ叱ったのだから、いつまでも腹を立てるつもりはない。ただ、奈穂と過ごす時間をあんな電話に邪魔されたことが、どうにも気に食わなかった。だが、ふと視線を落とし、彼女から贈られたカフリンクスを見た瞬間、気分は少し持ち直した。「そういえば……前にあなたが海市へ商談に
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