All Chapters of 偽りの婚姻から脱出、御曹司は私に惚れ: Chapter 521 - Chapter 530

620 Chapters

第521話

雲翔は相変わらずその場に座っていた。だがよく見れば、両手がわずかに震え、目も次第に赤くなっているのが分かる。「ショートケーキを焼いてきたの」若菜は目を伏せ、手に提げた小さな箱を見つめた。「前に約束してたでしょ」そう言って、彼女はさらに数歩歩み寄り、雲翔のデスクの前まで来ると、箱をそっとデスクの上に置いた。雲翔は何も言わず、ただじっと彼女を見つめている。若菜の胸は不安でいっぱいだった。雲翔の心にまだ自分が残っているのではないか、と彼女は思っていた。けれど、今の彼の様子を見ると、まったく確信が持てない。手を引こうとしたその瞬間。突然、雲翔が彼女の手首をつかんだ。「どうしてだ?」ようやく口を開いたが、彼の声はひどくかすれていた。若菜は本当は泣くつもりなんてなかった。だが彼の「どうして」という一言を聞いた途端、涙がいきなりこぼれ落ちた。「だって……ケーキを焼くって、約束したから」彼女は嗚咽混じりに言う。「もう私のことはいらないって言われたけど……それでも、最後にもう一度だけ、あなたに食べてもらいたかったの」雲翔の指が、ふっと強く締まった。「俺は、君をいらないなんて言ってない」「でも、別れようって言ったじゃない……」若菜の涙はますますあふれていく。一滴の涙が、ぽたりと雲翔の手の甲に落ちた。熱い。まるでその熱が胸の奥まで焼きつくようだった。次の瞬間、雲翔は突然立ち上がり、若菜の前へ歩み寄ると、そのまま彼女を引き寄せて、強く抱きしめた。その瞬間――若菜の胸を、何かがさっとかすめた。それが何なのか、彼女自身にも分からない。ほとんど反射的に、彼女も雲翔を抱き返し、嗚咽しながら言った。「別れないで……いい?あの夜は私が悪かったの。あんなことするべきじゃなかった……」彼女はしゃくりあげながら、しばらく泣き続けた。だが雲翔は、その間ずっと何も言わなかった。若菜の胸に、再び不安が広がる。思わず彼の名前を呼んだ。「雲翔……?」ようやく、彼の低い声が耳元で響いた。「君、本当は俺のこと愛してないだろ。……それなのに、どうしてだ?」若菜の心臓が、どくんと大きく跳ねた。彼女は慌てて顔を上げ、雲翔を見つめる。「違う!愛してないなんてことない!」慌てた声で言う。「雲翔……たしかに、今すぐ命を懸け
Read more

第522話

そのときの雲翔は、以前とまったく同じだった。まるでこの二日間の出来事など、最初から存在しなかったかのように。若菜はまだ少し呆然としていた。雲翔は笑みを浮かべ、軽く彼女の背中を叩く。「どうした、まだぼーっとしてるのか?腹減ってない?」彼女は我に返り、目の前のその笑顔を見つめる。すると、胸の中の緊張がゆっくりほどけていった。やっぱり、彼はあの雲翔だ。自分を愛してくれて、優しくしてくれる雲翔。「私……」彼女が彼の服をぎゅっとつかむと、雲翔はすぐにその手を握り、やさしくなだめた。「もういい。全部終わったことだ。これからは、ちゃんとやり直そう」その言葉で、若菜はようやく完全に安堵した。ぱっと笑顔を浮かべる。「じゃあ、先にメイクを直してくるね。待ってて」「分かった」若菜は振り向き、休憩室へ入っていった。休憩室には洗面所も付いている。洗面台の前に立ってメイクを直しながら、彼女はつい、さっきの雲翔の様子と言葉を思い出してしまった。――あれは、どういう意味だったんだろう?……やめよう、考えるのは。どう考えたって、今の自分には雲翔と別れるという選択肢はない。それに、こうして彼を引き留めることにも成功した。これで十分だ。メイクを直し終えるころには、彼女の気持ちはすっかり落ち着いていた。雲翔に別れを切り出されてからというもの、若菜はずっと考えていた。どうすればいいのか。どうすれば彼を取り戻せるのか。そして今、ようやく彼を引き留めることができた――そのとき、ふとある疑問が頭に浮かんだ。雲翔は、どうして突然別れようと言い出したのだろう?もちろん、あの夜の自分の反応が彼を傷つけたことは分かっている。だが、このところの彼の様子からすれば、それだけの理由で別れを切り出すようには思えない。しかも、あの夜の彼はあまりにも決然としていた。――あの夜、私が帰ったあとで何かあったの?それとも、誰かが何か吹き込んだ?若菜の胸に、そんな疑念が浮かんだ。雲翔と一緒に食事をしているあいだも、彼女の頭の中はそのことでいっぱいだった。だが、直接聞く勇気はない。もし彼の嫌な記憶をまた呼び起こしてしまったらと思うと、怖かった。食事を終えると、雲翔は彼女を家まで送った。彼自身は運転せず、運転手を呼んでいた。前で静かにハンドル
Read more

第523話

運転手は乾いた笑いを漏らし、慎重な口調で言った。「それは……社長に直接お聞きになったほうがよろしいかと」若菜も笑ったが、その笑みは少し冷たかった。「私が本人に聞くつもりなら、わざわざあなたに電話なんてしないでしょう?」「それは……」二人の間に何があったのか運転手は知らない。軽々しく口にするのも怖かった。「私は雲翔の彼女よ。彼の行き先を知りたいと思うのは、別におかしなことじゃないでしょう?」若菜は淡々と言う。「仮に後で彼が知ったとしても、あなたを責めたりしないわ。でも、今ここで教えてくれないなら……私、ちょっと不機嫌になるかも」それを聞いた運転手は、どっと冷や汗をかいた。今日の夜、若菜を家まで送ったときの雲翔の様子が頭に浮かぶ。あれほど優しく気遣っていたのだ。――この女、将来の社長夫人になるんじゃないか……?先のことは分からない。だが少なくとも今、雲翔が若菜をとても気に入っているのは間違いない。もし今ここで彼女の機嫌を損ねてしまえば、彼女が雲翔に一言言っただけで、この高給の仕事はあっさり失ってしまうのではないか。「……分かりました、お話しします」運転手はついに折れた。「あの日の夜、社長からバーに迎えに来るよう言われました。迎えに行ったあと、社長を賀島さんのご自宅のほうまでお送りして、それからまた社長をご自宅まで送りました。……それだけです」「バー?」若菜はすぐにその言葉に食いついた。「どこのバー?」「確か……『マロウ』という名前です。最近、社長は何度かそこへ行っておられます」若菜はわずかに眉をひそめた。そういえば、少し前に雲翔がそのバーのことを話していた気がする。ただ、そのときは特に気に留めなかった。「つまり、その夜バーで彼を迎えたあと、彼はそのまま私のところへ来ると言ったの?」「はい、そうです」「……分かった」若菜の表情が冷えた。「私があなたに聞いたことは、雲翔には言わないで」そう言い残すと、彼女は電話を切った。――あの夜、雲翔はバーに行ったあとで、私の家に来て別れを切り出した。ということは。バーで、誰かに何か言われたのだろうか?「マロウ、ね……」若菜は冷ややかに笑った。「覚えておくわ」……別荘では、正修が時間を確認してため息をついた。もうすぐ十一時だ。奈穂は、まだ帰
Read more

第524話

「分かった、正直に言うね。晩ご飯を食べたあと、父と将棋をしてたの。気づいたら時間を忘れちゃってて……」健司がもうやめようと言っても、奈穂は無理やりもう一局付き合わせた。彼女は子猫のように頭を彼の胸にこすりつける。「十時までに帰るって約束したのは分かってる。でも今日は本当に予想外のことだったの。だから今回は許して?ね?」実際は将棋に夢中で時間を忘れていただけなのに、「予想外のこと」などと言っている。だがそんな彼女の様子を見ていると、叱る言葉など出てこなかった。そもそも本気で怒っていたわけでもない。しかも相手は自分の将来の義父だ。こんなことで怒ったりしたら、さすがに大人げない。口を開こうとしたそのとき――奈穂は彼の機嫌を取ろうと、キスをしたり甘い言葉をささやいたりし始めた。……悪くない気分だ。もう少し焦らしてやろうと思ったのだが、本人も気づかないうちに、奈穂に軽く二度キスされて、甘い言葉をいくつか囁かれただけで、すっかり機嫌を直してしまっていた。しかも、それを奈穂に見抜かれてしまう。「えへへ、もう怒ってないでしょ?」彼女は彼の首に腕を回し、少し得意げな表情を浮かべる。「そんなことない」正修はわざと顔をしかめた。「あるよ、あるの」奈穂は手を上げ、指先で彼の口元を軽くつついた。「もう顔に出ちゃってるもの。自分でバラしてるよ」正修の目がすっと細くなる。奈穂はすぐに、危険な気配を察知した。彼が顔を寄せてキスしようとした瞬間、慌てて手で彼の口をふさいだ。「私がわざわざ持ってきたお菓子、まだ食べてないでしょ」彼女は少し責めるような目で言う。「せめて一口くらい食べてよ。食べてくれなかったら、私の気持ちが無駄になっちゃうじゃない」正修は少し考え、確かにそうだと思った。奈穂は彼の表情から、自分の言葉に納得していると分かると、やっと手を離した。そして嬉しそうに彼の手を引いてテーブルのそばに座らせる。「ほら、早く食べてみて」正修が菓子を一つ食べたあと、彼女は期待に満ちた目で尋ねる。「どう?」「うまい」本心からそう思った。なにしろ、彼女がわざわざ自分のために持ってきたものなのだから。奈穂はぱっと顔を輝かせた。「じゃあ、もっと食べて」「分かった」正修は断らず、上品な所作で菓子を食べ続けた。
Read more

第525話

正修は、奈穂が投げてきた枕を軽々と受け止めた。「朝っぱらから、こんな扱いか?」彼は目を上げて彼女を見た。口元には笑みが浮かんでいる。奈穂は唇を尖らせ、スマホを手に取って時間を確認する。――もうすぐ四時。午後四時だ。彼女はスマホを掲げ、じっとりとした声で言った。「九条社長。午後四時のことを『朝っぱら』って言うんですか?」「うん……確かに、正確じゃないな」奈穂は思わず飛びかかって噛みついてやりたくなった。だが布団をめくった瞬間、自分が何も身につけていないことに気づき、慌てて布団を引き寄せた。正修はおかしそうに笑う。「今さら隠す必要あるか?」昨夜はずっとお互い裸のまま抱き合って寝ていたのだから。「わ、私は……とにかく!」奈穂は耳まで赤くなりながら言う。「服持ってきて。着るから」正修は甘やかすように笑い、彼女の言う通りにナイトドレスを取りに行った。持ってきたのは、黒いレースの、細い肩紐のネグリジェだった。奈穂がそれを着て顔を上げた、その瞬間――目の前の男がじっと自分を見つめているのに気づく。その瞳には、自分を不安にさせるような危うい欲望が宿っていた。奈穂は少し慌てる。「な、何する気?」後ずさろうとしたが、正修が長い腕を伸ばして、あっという間に彼女を自分の胸に引き寄せた。二人の顔はすぐ目の前。鼻先が触れ合うほど近い。「君、俺を誘惑してる」彼の声は少しかすれていた。黒いネグリジェが、彼女の雪のように白い肌と強烈なコントラストを作っている。しかも胸元の谷間がかすかに覗いていて――まるで彼の理性を試しているかのようだった。「わ、私が?」奈穂は本気で無実だと思っている。「よくそんなこと言えるね?このネグリジェ、あなたが選んだんじゃない」正修は笑った。「うん、そうだったかもな」「『かも』じゃない!そうなの!」奈穂はむくれて彼を睨む。だが――その結果、彼女はキスをされて、息もできなくなるほどだった。奈穂がようやく我に返ったときには、ネグリジェの肩紐はすでに肩から滑り落ちていた。彼女は正修の腕の中にもたれ、目尻をほんのり赤くしながら、少し拗ねた声で言う。「もうダメ……今起きたばっかりなんだから。これ以上したら、家に帰るからね」正修は彼女の細い腰に回した手をわずかに強めた。
Read more

第526話

奈穂がふと顔を上げると、正修の背中が目に入った。そこには、無数の引っかき傷が残っている。――全部、自分の仕業だ。昨夜の出来事が一気に脳裏によみがえり、奈穂は急に体が熱くなるのを感じた。慌てて視線をそらし、それ以上見ないようにする。正修が服を着終えるのを待ってから、彼女はようやくもう一度顔を上げた。そして両腕を広げて甘える。「抱っこ」正修は彼女を抱き上げる。彼女は彼の腕の中でぶつぶつ文句を言いながら、この二晩ずっと彼に散々振り回されたことを訴えている。彼はそれを聞きながら、片手でスマホを操作し、執事の雅子にメッセージを送って夕食の準備をさせた。「ねえ、私の話ちゃんと聞いてる?」奈穂は顔を上げて彼を見つめる。「今夜はもうダメだからね。一回もダメ。私はちゃんと一晩休むの。明日は会社に行くんだから」正修は彼女に軽くキスをして、あっさりと答えた。「分かった」あまりにも簡単に承諾したので、逆に奈穂は疑いの目を向ける。というのも、この男が一度味を覚えてからどれだけ節度がないか、自分が一番よく知っているからだ。「本当に?」彼女は手を上げ、小指を差し出す。「約束ね。破っちゃダメ。指切り」「もう大人なのに、またそんな子どもみたいなことをするのか」そう言いながらも、正修は笑って小指を差し出し、彼女と指切りをした。「ふふ、指切りしたからね。もう反故にはできないよ」奈穂は彼の顔を両手で挟み、ちゅっとキスをした。正修は彼女を見つめ、甘やかな笑みを浮かべる。ただし――「破っちゃダメ」?そんな約束は、彼は一言もしていない。しばらくして、雅子がドアをノックし、夕食の準備が整ったと告げた。奈穂は歩くのが面倒で、正修に抱っこしたまま下へ連れて行ってもらう。一階にいた使用人たちは、正修が奈穂を抱いて降りてくるのを見て、一瞬固まった。慌てて視線をそらし、むやみに見ないようにする。とはいえ、少し大胆な者はこっそりと視線を送らずにはいられなかった。社長は背が高く逞しい。その腕の中にいる水戸さんは、華奢で可憐。二人が一緒にいる姿は、圧倒的な魅力に満ちていた。まさに、絵になるカップルだ。雅子も階下に降りてきて、軽く咳払いをし、使用人たちに合図して先に下がらせた。社長と水戸さんの食事の邪魔にならないように、
Read more

第527話

「前に聞いたけど、社長のご家族が社長に水戸さんとの政略結婚を勧めたとき、最初は断ってたんだって。でも水戸さんに会った瞬間、一目惚れしたらしいよ!」「え、違うんじゃない?私が聞いた話だと、社長は最初から結婚には賛成してたって」「でも、社長っていかにも政略結婚なんて受け入れそうな人じゃないよね。もしかして、前から水戸さんのこと好きだったんじゃない?」「わあ、そう言われるとあり得るかも!何年も片想いしてて、水戸さんがクズ男に傷つけられたときに颯爽と現れて、全力の愛で彼女の心の闇を全部吹き飛ばしたとか……」「尊い……推せる……」そのとき、背後からひやりとした声が響いた。「他にはどんな推理があるの?聞かせて」盛り上がっていた使用人たちは、最初は違和感に気づかなかった。だが振り向いた瞬間――後ろに立っていた雅子の険しい顔を見て、全員がびくっと震え、慌てて背筋を伸ばした。「仕事もせず、ここで勝手に物語を作ってるの?」雅子が叱りつける。一人の使用人がぼそっと言う。「でも……完全な作り話とも限らないかも……」「ん?」雅子がすぐその子を見ると、彼女はさらに背筋を伸ばした。「社長のことをまた勝手に噂したら、ボーナス全部差し引くからね」その一言で、悲鳴のような声が上がった。「本当に申し訳ありません!もう二度としませんから、ボーナスだけは!」ここで働くと給料は高く、よほどの失敗をしなければボーナスも多い。ボーナスを引かれるなんて、痛すぎる。「だったら大人しく仕事して」「はい、分かりました!」使用人たちは一斉にうなずいた。雅子の表情が少し和らいだのを見て、一人の使用人がにこにこしながら近づく。「でも私たち悪気はないんですよ。社長と水戸さんが本当にお似合いだから、つい話したくなっちゃって」「まったくあなたたちは……」雅子がまた叱ろうとしたそのとき、別の使用人が突然聞いた。「じゃあ桐谷さんは、あの二人お似合いだと思います?」「……お似合いだね」「尊いと思います?」「『尊い』って何?」雅子は普段ネットを見ないので、そんな言葉は知らない。使用人たちが口々に説明した。話を聞いた雅子は、うなずいた。「なるほど……それなら確かに、尊いね」「ですよね!桐谷さん、あの二人っていつ結婚するんですか?」「それ
Read more

第528話

「わあ、行ってみたい!」「どこに?」と正修が尋ねた。「これ見て」奈穂はスマホを彼に差し出した。正修が目を通すと、それはあるバーを紹介する投稿だった。場所は京市にある。【このバー、絶対おすすめ!広告じゃないよ、ただの常連客だけど本当にこの『マロウ』ってバー大好きなの。雰囲気いいし、音楽もいいし、しかもオーナーがすごく美人!へへ、さすがに盗撮するのはよくないから、店内の雰囲気だけ載せておくね。一番大事なのは、オーナーが作るお酒とジュースがどっちもめちゃくちゃ美味しいってこと!】投稿にはバーの内装の写真や、オーナーが作ったカクテルやジュースの写真が添えられていた。正修が顔を上げると、奈穂が目をきらきらさせて彼を見ていた。「なんかすごく良さそうじゃない?あとで行ってみない?」「いいよ」正修はすぐに答えた。「ただし、君は酒を飲むな」「大丈夫だよ。分かってる、ジュースだけにする」奈穂は嬉しそうに笑い、テーブルの下で足をぶらぶらさせる。まるで子どもみたいだ。正修の口元に、甘やかな笑みが浮かんだ。彼はさりげなく食事のペースを速め、あっという間に食べ終えると、奈穂の手を取って二階へ向かう。「着替えよう」「やったー!」奈穂は大喜びでクローゼットに駆け込み、自分の服を選んで着替えた。それだけでなく、正修の分のカジュアルな服も選んだ。「バーに行くんだから、そんな堅苦しい格好はダメ」「分かった」彼は彼女の言う通り、その服に着替えた。奈穂は満足そうに彼を見て、手を握る。「うん、いい感じ」そして嬉しそうに彼の首に腕を回した。「私の婚約者、かっこいい」そう言って、彼の頬にキスをする。その親密さに正修の胸がわずかに揺れた。だが彼女が楽しそうにバーへ行きたがっているのを思い出し、ぐっとこらえる。軽くキスを返し、彼女の手を引いて外へ向かった。外ではすでに車が待っている。白い手袋をした運転手が脇に立ち、二人が乗り込むのを待っていた。二人が乗ると、運転手も運転席に座り、エンジンをかける。「マロウバーまでお願いします」と奈穂。「かしこまりました」しばらくして、車はバーの前に停まった。奈穂と正修は車を降り、そのまま店の中へ入る。まだ時間が早いせいか、店内の客はそれほど多くない。奈穂はす
Read more

第529話

それを聞くと、女性の表情は明らかにやわらいだ。「ご安心ください。胃に負担になるものは入っていません」女性は言う。「それに、氷も入れていませんから」「ありがとうございます」奈穂は笑ってグラスを持ち、一口飲んだ。飲んだ瞬間、奈穂の目がぱっと輝く。果物の香りが豊かで、甘酸っぱさのバランスも絶妙。さっぱりしていて、くどさがまったくない。あの投稿者がなぜこのバーを必死におすすめしていた理由が分かった気がした。「すごくおいしいです」奈穂は心から褒めた。「お世辞じゃないんです。本当に今のままで完璧だと思います」「気に入ってくれてよかった」女性は奈穂を見つめ、やわらかな目を向けた。「その一杯はサービスです」奈穂はこのバーのオーナーと、まるで一目で意気投合したようだった。二人はそれまでまったく面識がなかったのに、話し始めるとまるで長年の友人のように打ち解けていく。しばらく話したあと、奈穂はこの女性の名前が黒沢紗綾(くろさわ さや)だと知った。しかも同い年で、昔同じ高校の同級生だったという。ただ、クラスが違ったため当時はお互いを知らなかったらしい。「これも何かの縁ですね」紗綾は微笑んだ。紗綾は先ほど正修にも一杯カクテルを作っていた。正修はその酒を味わいながら、奈穂と紗綾が楽しそうに話している様子を見て、わずかに眉をひそめる。酒は確かにうまい。だが――どうしてだろう。自分の奈穂が、誰かに連れて行かれそうな気がしてならない。とはいえ、奈穂がこんなに楽しそうにしているのを見ると、口を挟む気にもなれない。二人は顔を寄せ合ってひそひそ話している。奈穂が何か言うと、紗綾が正修のほうをちらりと見てから何か返し、二人は顔を見合わせて笑い出した。正修は言葉を失った。なぜか背中が少し寒い。しばらくすると、バーの客もだんだん増えてきた。紗綾が作る酒やジュースを目当てに来る客も多い。奈穂は紗綾の仕事の邪魔をしたくないと思い、正修と一緒に席を立った。「もう少しゆっくりしていってもいいのに」紗綾は引き止める。「ううん、もう遅いですし。そろそろ帰ります」奈穂は笑った。「また時間があったら来ますね」さっき二人はすでに連絡先を交換していた。「分かりました」紗綾は自ら二人を店の外まで見送った。もちろん、主に
Read more

第530話

その態度があまりにも奇妙だったため、店員は気まずそうに紗綾を見た。「オーナー……」だが紗綾は少しも動じない。ただ淡く微笑み、手際よく一杯の酒を作り、若菜の前に置いた。若菜は冷たい目で紗綾を見つめる。――まさか、このバーのオーナーがこんなに若くて綺麗だなんて。最初は、この店で誰かが雲翔に何か吹き込んだのかどうか確信が持てなかった。だが店に入って、このカウンターの向こうにいる若く美しい女を見た瞬間、胸の奥に強い危機感が芽生えた。だから雲翔は、最近このバーに何度も来ていたのだろうか。――まさか、この女のせい?雲翔が自分を愛していることは疑っていない。だが、どれだけ愛されていても、美人に誘惑されたらどうなるか分からない。しかも、あの日――雲翔はこのバーを出たあと、自分のところへ来て別れ話を切り出した。もしかして、それもこの女の仕業ではないのか?そう思うほど、怒りが膨らんでいく。若菜はグラスを手に取り、一口飲んだ。そして――「これがあなたの一番得意なカクテル?」わざと声を大きくして言った。「大したことないじゃない」周囲の客たちが一斉にこちらを振り向いた。だが若菜は周囲の視線など気にも留めない。紗綾をじっと睨みつけ、冷笑する。「こんな普通の味なのに、どうしてこんなに客がいるのかしら?最近ネットでもこの店をおすすめしてる投稿が多いけど……どうせお金払って宣伝させてるんでしょ。大げさに持ち上げてるだけで、実際は大したことないわね」店員はもう我慢できなかった。「ちょっと、お客様――」「いいの」紗綾が店員を制した。そして若菜に向かって、礼儀正しく微笑む。「申し訳ありません。お口に合わなかったようですね。その一杯はサービスにしますので、もしよろしければ別のものもお試しになりますか?」態度はとても丁寧だった。周囲の客も、ここで話は終わるだろうと思った。だが――若菜はさらに怒り出し、突然立ち上がり、声を荒げる。「どういう意味よ!私がタダで飲もうとしてるとでも思ったの?たかが一杯の酒の代金くらい、私が払えないとでも!?」「お客様――!」店員はさらに腹を立てた。紗綾もわずかに眉をひそめた。とはいえバーをやっていれば、こういう客にも慣れている。紗綾はすぐに表情を整え、落ち着いた声で言う。
Read more
PREV
1
...
5152535455
...
62
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status