奈穂は、音凛の表情の裏を探る気にもなれず、軽く会釈だけすると、そのまま立ち去ろうとした。「水戸さん」だがその時、音凛が突然奈穂を呼び止めた。奈穂は足を止め、振り返って丁寧に尋ねる。「秦さん、何かご用ですか?」「水戸さん、どうしてお一人なんですか?」音凛はにこやかに微笑んでいたが、よく見れば、その笑みにはどこか皮肉めいた色が混じっていた。「九条社長はご一緒じゃないんですか?」奈穂はこれ以上付き合うのも面倒だったし、正修を持ち出して音凛を刺激するつもりもなかった。だから「ええ、今日は別です」とだけ返し、そのまま背を向けて去っていった。だが、そのそっけない態度が、かえって音凛の胸を強く刺した。音凛は奈穂の後ろ姿を見つめながら、手をわずかに握り締める。いっそ奈穂も、自分のように嫌味の応酬をしてくれた方がよかった。目の前で正修の名前を何度も出し、これ見よがしに愛情を見せつけてくれた方が、まだましだった。それなのに、奈穂はあまりにも淡々としている。まるで、自分の前でわざわざ見せつける価値すらないと言わんばかりに。そして音凛自身、本当はよく分かっていた。正修と奈穂の関係が、今とても順調だということを。――ふん…………音凛はあらかじめ予約していた個室に入った。このあと会う予定の取引先はまだ到着しておらず、秘書とアシスタントは外で待機しているため、室内には彼女一人だけだった。音凛はスマホを取り出し、ある番号に電話をかける。「水戸奈穂が今、川岸市にいるの。動く気はある?」電話の向こうから聞こえてきたのは、若菜の声だった。「水戸奈穂が川岸市に?」「ええ」「でも、たとえ京市を離れてても、彼女に手を出すのは簡単じゃないでしょ?京市を出てからもずっとボディガードが付いてるって聞きましたし、それに九条社長も一緒なんじゃ……」その瞬間、音凛の表情が険しく沈む。「そんな無駄話はいいわ。聞いてるのは一つだけ。やる気があるのかってこと」若菜は口ごもった。「そ、そりゃもちろんありますけど……最近ちょっと忙しくて。すごく大事な用事があるの……」「そう」音凛は冷ややかに笑った。「じゃあ好きに忙しくしてれば?水戸奈穂に宋原雲翔のそばから追い出されるその日までね」そう言い残すと、音凛は一方的に電話を切った。
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