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last update Last Updated: 2025-09-19 06:50:03

 パリでの創作活動が軌道に乗り、数週間が過ぎた。

 アトリエには心地よい緊張感と、創造の喜びに満ちた空気が流れている。だが桜は気づいていた。故郷を離れた職人たちの顔に、少しずつ疲労の色が浮かび始めていることに。

「源さん、皆さん。明日は一日、思い切って休みにしませんか」

 ある日の作業終わり、桜はそう提案した。

「パリに来てから、ずっと仕事詰めでしたから。リフレッシュを兼ねて、皆で街を観光しに行きましょう!」

「観光ですかい。お嬢がそう言うなら……。ですが、仕事は大丈夫ですかね」

 心配する源さんに、桜は笑いかける。

「良い仕事のためには、良い休息も必要ですよ」

 桜は玲遠の受け売りをしてみせた。

「それに、私もまだちゃんとパリを見ていないから」

 茶目っ気を込めた笑顔で言えば、他の職人たちからも「そりゃあいい!」「行ってみたいです!」と賛同の声が上がった。

 翌日。少し着飾った源さんたちと桜は、わきあいあいと話しながらアトリエを出た。軽やかな足取りで石畳の道へ踏み出そうとした、その時。

 一台の黒塗りのセダンが、音もなくアトリエの前に停まる。後部座席から現れたのは、寸分の隙もなく仕立てられたスーツを纏った玲遠だった。

「玲遠さん。おはようございます」

 桜は朗らかに挨拶をする。

「ああ、おはよう。……どこかへ出かけるのか」

 玲遠の青い瞳が、桜とその後ろにいる職人たちを順番に見る。

「はい。今日は皆さんと一緒に、パリの街を観光しようと思いまして」

 桜がそう答えれば、玲遠の完璧な表情がほんのわずかに揺らいだ。いつもは落ち着き払っている彼の声が、心なしか硬質になる。

「そうか。……ならば、私も行こう」

「え?」

 予想外の言葉に、桜は素直に驚きの声を上げた。源さんたちも顔を見合わせている。

「ただの観光ですよ。この前は素敵なところに連れて

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  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   31:エピローグ

     ショーの成功から半年後の、春。 金沢のひがし茶屋街には、うららかな陽光が降り注いでいた。 桜と玲遠は、改修を終えた『西園寺工房』の前に立っている。かつて無情にも貼られいた『立入禁止』のテープは既になく、藍色の真新しいのれんが春風に揺れていた。 桜はきれいにクリーニングされた加賀友禅を身にまとっている。健斗に裏切られた絶望の夜に、雨と泥とに汚してしまった祖母の形見だ。 ショーでの成功で得たお金で、桜はまずこの着物のクリーニングを行った。 時間が経ってしまったせいで落ちない汚れもあったが、桜は大切に着物を使い続けている。 工房の中からは、職人たちの楽しそうな話し声と、道具が木を打つ小気味良い音が聞こえてくる。 春の草花の香りにまじって、馴染んだ漆の匂いがした。 桜は、磨き上げられた古い木の門柱にそっと手を触れる。昔と変わらない温かな感触に、万感の思いが込み上げた。(ただいま、おじいちゃん。私、帰ってきたよ) 心の中で語りかければ、祖父が笑ってくれている気がした。「行こうか、桜」「ええ、玲遠」 二人が工房に足を踏み入れると、そこは以前とは比べ物にならないほどの活気に満ちていた。 源さんたちベテラン職人の隣で、地元の高校を卒業したばかりの若い弟子たちが、緊張した面持ちで筆を動かしている。源さんが、若い弟子の一人の手を取り、筆の持ち方を根気よく教えていた。 その光景は、かつて祖父が幼い桜にしてくれたことと、全く同じだった。 壁には桜がパリで制作したモダンな作品と、源さんたちが作る伝統的な意匠の作品が、互いを引き立て合うように美しく飾られている。 どちらも甲乙つけ難く、若い弟子たちは憧れの目で作品を眺めていた。「お嬢、旦那様。おかえりなさいまし」 二人に気づいた源さんが、顔をほころばせた。自然な「旦那様」という呼び方に、桜の頬が熱くなる。「源さん、邪魔するよ。弟子たちの筋は、どうかな」 玲遠はもはや来客ではなく、家族のような穏やかな口調で応えた。「悪くねえ

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   30

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  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   29

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  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   28

     健斗が連行された後、玲遠は桜をアトリエまで送り届けた。「お嬢、大丈夫だったか? あの男に何もされんかったか?」「大丈夫ですよ。玲遠さんが守ってくれましたから」 源さんたちが心配そうに駆け寄るが、桜は安心させるように微笑んでみせた。 玲遠はアトリエの隅にあるキッチンに立つと、心を落ち着かせる効果のあるカモミールのハーブティーを淹れて、桜の手にそっと握らせた。 源さんたちは気をきかせて、いつの間にか部屋からいなくなっている。 温かいマグカップの感触が、強張っていた桜の指を優しくほぐしていく。柔らかな香りが、ロビーでの醜い記憶を綺麗に洗い流してくれるようだった。 桜と玲遠は向かいった椅子に座って、互いに見つめ合う。「……本当に、もういいのか?」 桜を見守るようにしている玲遠に、彼女は数日ぶりに心からの笑みを浮かべた。「はい。もう大丈夫です。私の過去は、清算できました。玲遠さんのおかげです」 玲遠の唇の端にごくわずかな、偽りのない笑みが浮かんだ。「私は手助けをしただけだ。過去を振り切ったのは、君の力だよ。……パリ・コレクションまであと三日だ。ここからは君の時間になる」「はい。力を尽くします」◇ そしてパリ・コレクション当日。 会場のバックステージは、美の創造のための戦場と化していた。国籍も言語も様々なプロフェッショナルたちが、ぴりぴりとした緊張感をまとって飛び交っている。ヘアスプレーと香水の匂い、シルクが擦れる音、ショーディレクターがフランス語と英語で飛ばす鋭い指示。 その喧騒の中心から少し離れた一角に、桜と職人たちだけの静かな空間があった。 彼らはこれからランウェイに登場するモデルが纏うドレスやアクセサリーに、最後の調整を施している。源さんは、外科医もかくやという精密な手つきで、ドレスにあしらわれた蒔絵のブローチの角度をミリ単位で調整していた。 一人のトップモデルが、自分のカフスに施された蒔絵をうっとり

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   27:みじめな終わり

     コレクションの発表を数日後に控えて、パリのアトリエは緊張の中にも充実感を感じる空気で満たされていた。 桜はショーで使うための小物類に、最後の仕上げを施している。 極限まで集中した筆が、正確な線を引いていく。 原さんたちもそれぞれの仕事に取り掛かっていた。 静かな創作の時間を破ったのは、秘書のイザベルの来訪だった。 彼女はいつもの冷静さを失っていないが、どこか苛立ちを感じさせる口調で言う。「桜様。大変申し上げにくいのですが……東山健斗と名乗る男が、『VALENTIS』本社のセキュリティを突破し、ロビーで面会を強要しております」 東山健斗。その名前に、アトリエの空気が固まった。「あの男! お嬢にまだ何の用があるっていうんだ」 源さんが苦々しく呟いた。(来たか……) 桜は口元を引き結んだ。けれどもう、恐怖はない。 櫛をそっと台に置くと、作業で汚れてしまった手を布で拭って立ち上がった。「大丈夫です、源さん、みんな。これは私自身が片付けなければいけない、最後の仕事ですから。……行ってきますね」◇ 桜はイザベルが運転する車に乗って、『VALENTIS』本社まで赴いた。「イザベルさん、玲遠さんに伝えてください。私が自分で決着をつけるので、見守っていてほしいと」「分かりました。伝えます」 裏手の駐車場からVIP用のエレベーターに乗り、ロビーへと出る。 美しい大理石造りのロビーにふさわしくない姿で、健斗はそこにいた。高級スーツは皺だらけ。両目は落ち窪んで覇気を失っている。 両側を体格のいい警備員に押さえられていて、それがみすぼらしさを増していた。 ロビーを行き交う社員たちが、何事かと遠巻きに見ていた。 桜が近づくと、健斗は目を上げた。手を伸ばして彼女に取りすがろうとする。「桜さん……来てくれたんだね。僕が

  • 捨てられた蒔絵職人は、氷のCEOと世界一のブランドを作ります   26

     健斗と『Higashiyama Holdings』の崩壊は、間近に迫っている。  社長室のデスクに置かれたノートパソコンのモニタが、小さな電子音を上げた。常に表示されている会社の株価が、断崖絶壁のような急落を示していた。  情報に敏感な投資家たちが、会社の未来をないものとして、次々と株を投げ売りしているのだ。「社長……こんなニュースが」 秘書が怯えた様子で、再度タブレットを差し出す。今度は日本のニュースサイトだった。『金沢の伝統文化連盟、不当な圧力をかけたとして『Higashiyama Holdings』を告発。提訴の準備も』 桜の工房に材料を売らないよう、指示した件だった。  健斗が圧力をかけたのは有力な数店だが、いつの間にかこんな話になっている。「まさか、また『VALENTIS』か」 金沢の大規模開発を手掛ける健斗は、地元に強い影響力を持つ。彼の圧力を振り切って告発するなど、協力者がいなければ不可能だ。  彼はしばし呆然と天井を見て、それから我に返った。「いい加減にしろよ、カビ臭いだけが取り柄の老舗のくせに! 俺にはまだ再開発事業がある。あれさえ成功させれば、VALENTISの影響など吹き飛ばせる! そうに決まっているッ」 恐怖に震える心を、無理矢理に強がってみせる。  けれどその強がりを、一本の電話が完全に崩壊させた。 ◇  電話の主は、健斗の再開発事業に融資していたメインバンクの支店長だった。「今後の融資計画について、一度ご相談したく思います。なるべく早くお時間を取ってください」 支店長の声は冷たい。健斗は猛烈に嫌な予感がして、取りすがった。「ニュースになっている件ですか? あの話でしたら問題ありません。すぐに収まります。ですので……」「とにかく、一度ご来店を。今から来てくださって構いませんよ」 電話が切れる。  健斗は重い体を引きずりながら、銀行へ向かわざるを得なかった。 ◇

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