桜庭睦美(さくらば むつみ)が一条時彦(いちじょう ときひこ)を囲って三年目のとき――桜庭家はあっけなく破産した。父・正夫(まさお)は窮地を挽回しようと、娘に政略結婚を迫る。その夜、睦美は荷物をまとめ、時彦と駆け落ちする覚悟を決めていた。だが彼の勤め先だと信じていたクラブを訪ねた瞬間、目に映ったのは別人のような彼だった。グラスを掲げ、余裕の笑みを浮かべ、客たちを手慣れた仕草であしらう男。そこにいたのは、貧しい青年の顔をする時彦ではなかった。「時彦さん、桜庭家はもう終わりだって。娘を売ってでも金にしようとしてるらしいぜ。助けてやんねぇの?」「ふん、あの女は時彦さんにとってただの暇つぶしだ、何で助けなきゃいけないの?それに、時彦さんの本命はもうすぐ帰国する。あの馬鹿女ときっちり別れて、そのまま本命に乗り換えられるってわけだ」「まあ、睦美ちゃんは顔もスタイルもいいし、タダで抱けて金までくれるんだ。そりゃ得だろうけどな。ただ、『北都市一の御曹司』と呼ばれる時彦さんがヒモ男扱いされてもじっと耐えられるなんて、大したもんだぜ」「そうそう!それにしても笑えるよな。三年も経つのに、睦美はまだ時彦さんをクラブのバイトだと思ってる。実際はオーナーなのにな、ははは!」笑い声が渦巻く中、時彦はゆっくりスマホを取り出し、三十分前に届いた睦美からのメッセージに目を落とした。――【時彦、駆け落ちしよう】彼は短く返信する。一方その頃、睦美のスマホが鳴った。画面に表示された返事は、たった一言。――【いいよ】それはまるで嘲りのように見えた。「駆け落ちだって?笑わせる。どこに逃げるつもりだ?あいつはもう家の金づるだ。一歩外に出たところで、親父に引き戻されてまた売られるだけさ」時彦はタバコを押しつぶし、隣の女の首にかかっていた安物のネックレスを乱暴に引きちぎった。「それも睦美にやるのか?」と誰かが笑う。「前は通販の千円台のリング、その前はプラスチックの花。お嬢様がそんなもんで満足するなんて、物好きだな」「でも彼女、本当に喜ぶんだよ。あの安っぽい指輪も、ずっと外さずにつけてるしさ」――その言葉に、睦美は思わず自分の指を撫でた。そこには彼からもらった銀色のリング。贈られたとき、胸が熱くなっていた。プロポーズの予兆だと思ったからだ。
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