All Chapters of あなたが私を裏切る時: Chapter 21 - Chapter 30

51 Chapters

第20話 白い封筒

 私の足取りは重かった。それはこの急勾配の石畳の坂のせいでもなく、夏の終わりの疲れでもなかった。いつだったか、右京がドラキュラ伯爵に扮してこの坂を一緒に歩いたあの夜、街灯に照らされた石畳がきらめき、月が輝き、まるで夢の中を漂うように心は軽かった。「この坂がずっと続けばいい」とさえ思ったあの時の甘く切ない記憶が、今は胸を締め付け、足を鉛のように重くしていた。右京の笑顔、冗談交じりの低い声、肩に触れる指先の温もりが、坂の冷たい石畳と対照的に脳裏に蘇った。     坂を上り切った右手には、緑の木々に囲まれた石川県立美術館が静かに佇む。新進気鋭の若手作家や奇抜なモダニズムの展示品ではなく、石川県の伝統工芸品がガラスケースに収められた、静寂に満ちた空間。九谷焼の繊細な色合いや加賀友禅の流れるような模様が、時の流れを閉じ込めたように並ぶ。カツカツとヒールの音を響かせるのも憚られ、今日はノーヒールの黒いサンダルを選んだ。足音は石畳に吸い込まれ、まるで私の存在を消すかのようだった。     待ち合わせの場所は、美術館を金沢店とする、地元出身のパティシエが手掛けるパティスリーカフェ。白い壁と木の温もりが調和し、ショーケースには色とりどりのケーキが並ぶ。そこは、静かな空気の中で相手の言葉に耳を傾け、心を鎮めるのに最適な場所かもしれない。坂の向こうに広がる金沢の街並みが、秋の柔らかな陽光に照らされ、過去と現在の交錯をそっと見守っているようだった。 
last updateLast Updated : 2025-10-20
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第21話 百万円の恋

右京の母親が「一日でも早く結婚式を挙げなさい」と言い始めたのは、私がもうすぐ四十歳を迎える高齢出産のリスクを慮ってのことだった。健康な後継を産むためには時間がなく、彼女の目には焦りと決意が宿っていた。あの夕食の席で、右京が何気なく漏らした「橙子さんには子供が出来ないからね」という言葉は、食卓の空気を一瞬で凍らせた。私は子宮全摘出の既往症を右京に打ち明けていたが、それが彼の両親に伝わり、事態を一変させたのだ。   右京の母親は、息子を説き伏せ、百万円の慰謝料が入った白い封筒を私に差し出した。石川県立美術館のパティスリーカフェで、彼女と向かい合ったとき、ブラックコーヒーの香りが重い沈黙を包んでいた。窓の外では、秋の木々がシジュウカラの囀りに揺れ、金沢の街が柔らかな陽光に浴していたが、私の心は冷たく締め付けられていた。「跡取りが必要なんです」と彼女は繰り返し、その言葉は私の胸に鋭く刺さった。   右京がシイノキの下で広げた「凪の海」の美しさ。彼に「好きです」と告白された時の、ときめきとあたたかな胸の騒めき……あの幸福な記憶が、封筒の重さと共に色褪せていくようだった。   
last updateLast Updated : 2025-10-21
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第22話 見合い

 右京との婚約は静かに立ち消え、ホテルからは式場キャンセルの確認連絡が淡々と届いた。それでも私は、「いつかは恋人関係に戻れる」と信じていた。たとえ結婚が叶わなくても、右京とパートナーとして人生を歩めると、僅かな希望に縋っていた。       かつて2018号室で交わした熱い吐息、エンゲージリングの輝き……あの記憶が心を支えていた。だが、その一縷の望みに冷や水をかける出来事が起きた。右京が母親の強い勧めに従い、見合いの席に着いたのだ。「今度、お見合いをするんです」と、右京の電話越しの声はどこか呑気で、まるで他人事のように軽かった。       その言葉は、私の足元から何かが音を立てて崩れ落ちるような衝撃だった。茶の間の窓から見える泰山木の葉が秋風に揺れ、鋳物の風鈴がちりんと寂しく鳴る中、胸に重い石が沈んだ。右京の母親の「跡取りが必要」という言葉、慰謝料の封筒の重さが再び蘇り、希望を無残に砕いた。「…そう」とだけ呟いた私の声は震え、右京の顔を思い浮かべることさえできなかった。彼は結局、母親の意志に逆らえず、私との未来を捨てたのだ。窓の外では、金沢の秋空がどこまでも澄んでいたが、その美しさは私の心に届かず、ただ冷たく突き放すようだった。
last updateLast Updated : 2025-10-22
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第23話 塗り替えられる思い出

 俺と竹村真昼の見合い話は、母親の熱意もあってとんとん拍子に進み、結婚前に同棲生活を始めることになった。それは、真昼の叔父が、俺と橙子さんの破局を耳にし、正式な結婚前に二人が本当に別れたか様子を見ようと画策したらしい。母親に加え、また一人、俺の行動を監視する目が増えた。新しいアパートのキッチンでは、真昼が笑顔で夕食の準備をし、鍋から漂うシチューの香りが部屋を温かく満たしていた。彼女の黒髪のショートボブと落ち着いた仕草は、かつての橙子さんを彷彿とさせ、胸に鈍い痛みを呼び起こした。       窓の外では、金沢の秋空に茜色の夕暮れが広がり、石畳の坂道でドラキュラ伯爵の仮装で笑い合った夜、手を繋いだ温もりの記憶が、今も心の奥でざわめいた。だが、真昼の叔父の監視と母親の「跡取りが必要」という圧力が、俺を縛り、橙子さんへの連絡をためらわせた。彼女の震える声、「不倫みたいね」と言った痛々しい笑いが耳に残るのに、危険を冒して電話をかけるのは煩わしく、次第に連絡も途絶えがちだった。真昼が「夕飯できたよ」と笑顔で振り返るたび、俺の心は橙子さんへの未練と現実の間で揺れ、夕暮れの静寂がその葛藤を冷たく見つめていた。       橙子さんとの破局は過去の傷として心に残り、恋人に戻るには時間がかかる。ならば、竹村
last updateLast Updated : 2025-10-23
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第24話 鳥籠の私

 SIDE向坂橙子   冷たいコンクリートの建物、その二階に染色デザイン科の教室があった。私は学生たちに実技前の説明を終え、彼らが染料や布を準備するざわめきの中、気怠く椅子に腰掛け、窓の外を眺めた。かつて色鮮やかに燃えていた紅葉は色褪せ、路肩の水溜りに落ち、惨めな姿を晒していた。暑い夏は遠い記憶となり、間もなく鰤起こしの雷が轟き、金沢の寒い冬が訪れるだろう。窓ガラスに映る私の顔は、どこか生気を欠き、かつての熱い日々を嘲るようだった。       あの2018号室での右京との夜、エンゲージリングの輝き、慰謝料の封筒の重さ――すべてが心の奥で疼いていた。「…先生、橙子先生! 先生!」学生の呼び声で我に返ると、実技の準備はとうに整っていた。染料の匂いが教室に漂い、学生たちの手元では布が静かに揺れていた。「あ…ごめんなさい。次はお湯を沸かして、温度は九十度…気をつけてね」と、掠れた声で指示を出す。右京への想いは、あの日のパティスリーカフェで、ブラックコーヒーの黒い表面に映った母親の冷たい言葉とともに置き去りにしたはずだった。なのに、彼の声、笑顔、指輪を嵌めた夜の温もりが、色褪せた紅葉のように私の心に沈殿していた。窓の外では、冷たい風が木々を揺らし、遠くで雷の予兆のような雲が空を覆い始めていた。   
last updateLast Updated : 2025-10-24
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第25話 結婚式の踏み絵

 自宅のポストに一通の白い封書が届いた。清らかな手漉きの和紙には、紅葉の透かしが繊細に浮かび、触れるとずっしりと重かった。封筒には「雨宮陽一、竹村誠」と両家の名前が堂々と並び、金の扇のシールが厳かに封をしていた。それは右京と竹村真昼の結婚披露宴への招待状だった。       「もう個人的な付き合いはないだろうな?」......その封筒は、まるで私に対する踏み絵のように冷たく突きつけられた。       とうとう右京が結婚し、他人の夫になる。心臓が掴まれるような痛みが胸を走り、息が詰まった。右京との思い出が、和紙の重さに押し潰されそうだった。縁側に腰掛け、夏みかんの木がたわわに実る庭を眺めた。初夏の風が泰山木の葉を揺らし、鋳物の風鈴がちりんと寂しく鳴る中、私は薬指のエンゲージリングを指先でそっと撫でた。「…本当に私たち…結婚できるの?」と呟いたが、声は虚しく空に溶けた。あの暑い夏、右京の家のリビングで夢を語った時間、慰謝料の封筒を返した瞬間、電話越しの真昼さんの明るい声......すべてが遠い幻に霞む。右京はもう私のものではなく、真昼さんの夫として新たな道を歩むのだ。四十三歳、未開封の招待状が私の孤独を冷たく包んだ。 
last updateLast Updated : 2025-10-25
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第26話 断罪の結婚披露宴

 SIDE雨宮右京       披露宴会場で、俺は薄水色の色留袖を目で追い続けた。橙子さんはロータリークラブや親類縁者の円卓を回り、丁寧に会釈をし、優しく微笑んでいる。その姿は水仙の花のように気高く、一際美しく輝いていた。三年ぶりに見る彼女の左手の薬指に、エンゲージリングがまだ光っているのを見て、胸が締め付けられた。       三年前、母親の「跡取りが必要」という圧力と慰謝料の封筒に屈し、距離を置こうと決意したものの、その意志はあっけなく崩れた。俺と橙子さんはLINEメッセージで密かに繋がり続け、「二回コール」の約束や、夜の短い通話で心を通わせていた。2018号室の熱い夜が、今も鮮やかに蘇る。高砂席の隣を見遣ると、真昼が幸せそうに笑顔で頬を染めていた。ピンクの薔薇のヘッドドレスが彼女の黒髪に映え、橙子さんに似たその姿は無垢で愛らしかった。だが、気の毒に思う一方で、今後二度とセックスはしないと心に決めていた。結婚しても子供が授からない真昼に見切りをつけ、母親を説き伏せて離婚する……その計画を着々と進め、ほとぼりが冷めた頃に橙子さんとヨリを戻すつもりだった。金屏風の前でグラスを手に微笑む二人を、会場のにぎやかな拍手が祝福する中、俺の心は冷たく打算に支配されていた
last updateLast Updated : 2025-10-26
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第28話 セックスレス

 SIDE雨宮真昼       結婚して右京くんの様子が一変した。朝は母親に声をかけられないと起きられず、当然、朝早く仕事に向かう私との「行ってらっしゃい」「気をつけて」の挨拶も、ハグやキスもない。披露宴でピンクの薔薇のヘッドドレスを輝かせたあの笑顔は、まるで別人のように消えていた。私は結婚に淡い期待を抱いていたのかもしれない。   だが、度を越したこの変化に、胸は冷たく締め付けられた。食卓での会話は「メシ作れよ」「不味い」「味が濃い」と、文句ばかり。それでもまだマシで、無言でご飯を掻き込み、オンラインゲームを楽しむためにテレビの前に座る日々。歯を磨かず、顔も洗わず、髪はボサボサ、服は仕事着か分からない毛玉だらけのスウェットスーツに、穴の空いた靴下……同棲していた頃のこざっぱりして優しかった右京くんの面影は、跡形もなく消えていた。   暇さえあればPlayStationで仮想世界の剣士たちと街の平和を守り、深夜まで没頭する。隣のセミダブルベッドに潜り込むのは、いつも朝の三時頃。ナイトテーブルを隔てた距離感が、私たちの心の隙間を象徴していた。お義母さんの「孫はまだか」という圧力も、セックスレスのこの状況では空虚に響くばかり。金曜日の夜の白檀の香り、磨かれた革靴&helli
last updateLast Updated : 2025-10-28
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第29話 右京の変化

右京は腰痛を患った父親の代理でロータリークラブ昼食会の席に着いた。場所はいつものホテル、フランス料理のル・グランシャリオだった。A4のコピー用紙が数枚綴じられた資料を配布し、来賓に会釈し、エレベーターホールでボタンを押すだけの簡単な仕事だ。ロータリークラブには染色作家の向坂橙子も所属していた。この日もこの会合の後、2018号室で甘い時を過ごす。「......駄目よ」料理が運ばれるテーブルの下で、右京の指先は橙子のワンピースの裾を捲っていた。「濡れてますよ」ストッキングの中はもうしっとりと潤んでいた。橙子は右京の指先に弄ばれ、フォークとナイフを握る手が震えた。作り笑いが精一杯で、周囲の声は耳を素通りした。「......後にして」「分かりました」食事会は和やかにお開きとなり、ホテルの車寄せには黒塗りのタクシーが次々に着けられた。ドアマンに手招きされ来賓客がその後部座席に吸い込まれてゆく。橙子と右京は恭しくお辞儀をしてその背中を見送った。夜会巻の黒髪、ノースリーブの膝下までのタイトな黒いワンピース、黒いハイヒールに上品なパールのネックレスを身に纏った橙子は、早くそれを剥ぎ取ってくれとばかりに熱い視線で右京を見上げた。「なんですか?」「なんでもないわ」彼女はフッと笑顔を作り、踵を返して一人でエレベーターに乗り込んだ。右京の革靴の踵は上下に忙しなく動いた。エレベーターは二十一階で停まった。右京の指がボタンを押す。その箱はスルスルと降りてきた。白檀の香りがエレベーターホールからいつもの部屋へと手招きをする。「......んふっ......う」2018号室は降り注ぐ初夏の日差しで満たされていた。白いリネンのシーツの波間に橙子の黒髪が広がる。背後から浅く、深くゆっくりと突き上げられる快感に翻弄されながら、遠くで鳴り響く教会の鐘の音に耳を澄ました。「と、橙子さ......ん!」「ああっ......!」傾き始めた陽光に全裸の肢体を惜しげもなく投げ出す橙子と右京、部屋は熱い吐息で満たされていた。右京は、橙子の華奢な背中を力の限
last updateLast Updated : 2025-10-29
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