SIDE向坂橙子アブラゼミが賑やかなキャンパス。夏季休暇の最中、私は美術工芸大学に退職願を出した。「向坂くん.......これは」教授は眼鏡を上下させ白い封筒を二度見した。「来月をもって退職を......お願いします」「しかしまた、突然だね」「一身上の都合で......母親が体調を崩しまして」「そうですか......」母親のことなど言い訳にすぎない......私は自分の弱さを重々承知し、次に右京が訪ねて来たとき、それを撥ねつける強さを持ち合わせていなかった。心の寂しさ、身体の貪欲さに負け、右京とまただらしのない関係に陥ることだけは避けたかった。私の自尊心がそれを許さなかった。「もしもしお母さん......心配かけてごめんね......明日、金沢を発つわ」私は大学講師やゼミナールの学生、ロータリークラブの先生方にも行き先を告げず、二十年暮らした金沢市を離れた。特急列車青いサンダーバードの車窓には石川県独特の黒光りする瓦屋根が何処までも続き、犀川を越え、加賀平野を見渡し、それはやがて日本海へと注いだ。「もう福井県......この景色も見納めね」深緑の峠を越える長く暗いトンネル。避難経路の白い明かりが前方から後ろへと流れる。黒い窓ガラスに映る私の顔はやつれていたがその目に迷いは無かった。トンネルを抜ける、視界が白く開け、光に包まれた。SIDE雨宮右京やがて鰤起こしの雷が鳴り、重苦しい鉛色の雲が冬空を覆った。俺は日々仕事もせず酒を浴びる様に呑んでいた。「......橙子さん」離婚し、何もかもを失った俺の心の拠り所は石畳の小径、ドウダンツツジの垣根のあの家だった。「もう来ないで」橙子さんの最後の振り絞った声が耳にこだまする。「橙子さん......橙子さん」俺は我慢の限界を超え、橙子さんに会いに行った。ところが錆びついた赤いポストに向坂橙子の名前はなく、雑草が腰丈まで伸びていた。酔いに任せた俺は玄関のガラス戸を外し、家の中に入った。懐かしい白檀の香りが漂う......けれど違和感を感じた。「何もない......」電化製品も見慣れたちゃぶ台もあの籐の椅子もなく、座敷の仏壇にあった忌々しい向坂厳夫の位牌もなかった。「凪子さん......凪子先生.....
Last Updated : 2025-11-19 Read more