All Chapters of あなたが私を裏切る時: Chapter 31 - Chapter 40

51 Chapters

第30話 女の勘

SIDE雨宮真昼 車のハンドルを握る真昼の心はざわめいていた。スマートフォンの画面に映る、右京の秘密のやり取り......同棲期間から数年、彼が誰かと通話する姿など見たことがなかった。友人といえば、PlayStationの仮想世界で深夜にチャットする勇者たちだけ。真昼が笑い声で目を覚ますと、右京はヘッドセットをつけ、レアアイテムの話を熱く語り合っていた。「あれって何かの合図だよね......」と、心の中で呟いた。二回発信音を鳴らして切る、そしてすぐに折り返す着信音......朝早くのこの時間に、のんびり電話するような普通のサラリーマンではないことは確かだった。セミダブルベッドの冷たい距離感、毛玉だらけのスウェット姿の右京、結婚前の輝きは消え、代わりに白檀の香りと磨かれた革靴が不穏な影を落としていた。駐車場の冷たいアスファルトにパンプスの音が響き、エンジンをかける手が震えた。彼女は右京の「二回コール」の意味を、心の奥で確信しつつあった。(あんな笑顔、見たことがない......)同棲を経て夫婦という形に収まったものの、最近ではスキンシップは全くない。まともな会話すら成り立たず、右京は現世から切り離された、大人になれない子供のようだった。執拗に誘わなければ外出せず、彼の定位置はリビングに鎮座する大画面テレビの前。毛玉だらけのスウェット、穴の開いた靴下、ボサボサの髪......披露宴でピンクの薔薇のヘッドドレスを輝かせたあの時の右京の面影は消えていた。「何のための結婚......右京くんはどう思っているんだろう」真昼は日々悩んだ。セミダブルベッドを隔てるナイトテーブル、金曜夜の白檀の香り、ストライプのシャツの不審な匂い、すべてが結婚の空虚さを突きつけた。真昼だけがこの問いに苛まれている気がした。「子供でもいたらまた違うのかな......」と、ふと思う。義両親の「孫はまだか」という圧力は重く、セックスレスの夫婦に赤ん坊が授かるはずもない。とうとう義母に不妊症を疑われ、右京の腕を引っ張り、半ば強制的にマタニティクリニックへ連れて行った。検査室の冷たい蛍光灯の下、右京は気のない顔で書類を埋め、真昼の心は孤独に締め付けられた。
last updateLast Updated : 2025-10-30
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第31話 女の勘②

竹村事務機器株式会社のオフィスで、私は事務職員として働いている。週休二日、賞与あり、福利厚生も充実......ただ、金曜の残業だけは眉間にシワが寄る。「おはようございます!」「おっ、五分遅刻」「叔父さん、ごめーん!」「馬鹿野郎! ここじゃ社長と呼べ!」と、父の弟である社長・竹村政宗に軽く叱られる。気楽な職場だが、遠慮ない不粋さも同居する。スチールデスクに腕をつき、腰をカクカク動かしてニヤける叔父に、「おう、真昼。昨夜はやったのか、ん?」「してません!」「なんだ、右京は相変わらずゲーム三昧か」「そうみたいです」と返す。「いい加減、子作りに励めよ......子育て後々大変だぞ?」「わかってます! 禿げるのは社長の頭だけにしてください!」と悪態をつきながら、胸の奥で疼く不安を押し隠した。私にだって性欲はある。子供も欲しい。だが、毛玉だらけのスウェットでPlayStationに没頭する右京くんでは、どちらも満たされない。セミダブルベッドの冷たい距離、白檀の香りが染みついたシャツ、朝、七時四十五分の「二回コール」......不穏な兆しが心をざわつかせる。「右京に精力のつくもん作ってやれよ」「精力ぅ?」「ニラとか…牡蠣とか…アボガドも良いらしいぞ」「ふーん、詳しいわね」「俺は56歳で現役バリバリだからな!」「うっわ…生々しいから止めてよ」と笑いながら、今夜の献立を考えた。「ニラと牡蠣の水炊き…大根おろしもね」。スーパーマーケットで大根とニラを選ぶ手は、ずっしりとした重さに震えた。「右京くんが不倫なんて有り得ない」と何度も心で打ち消し、祈るように呟いた。鮮魚コーナーで、右京くんの楽しげな笑顔を思い浮かべようとしたが、記憶は曖昧だった。殻付きの牡蠣を吟味する手が、鋭い突起に引っかかり、指にうっすら血が滲む。「…痛っ」と呟き、これまでの記憶を振り返る。だが、彼の無邪気な笑顔は思い出せない。代わりに、「ねぇ、右京くん」と声をかけると、遠くを見据え、心ここに在らずの右京くんがいた。反応は薄く、私の存在に気づくまで時間がかかった。「あの時、何を考えていたの?」と問うても、彼の視線はどこか別の場所......白檀の香りが漂う誰
last updateLast Updated : 2025-10-31
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第32話 女の勘③

私の足はその場に凍りついた。「…まさか右京くんがアダルト系のゲームに手を出してるなんて」と呟くが、声は震えた。「…あんなに…淡白なのに」。私に指一本触れない右京が、性欲を別の形で発散しているなんて。リビングのドアの隙間から覗き見ると、薄暗い部屋にテレビの白い光が揺れ、右京の後ろ姿が浮かんでいた。彼の右手は股間で忙しなく上下し、自慰行為に耽っているのは明らかだった。まだ性欲旺盛な三十三歳......私とのセックスレスの夜を、どこかで処理しているとは思っていたが、その生々しい姿を目の当たりにするとは思いも寄らなかった。毛玉だらけのスウェット、散乱したカップラーメンの容器、義母の「孫はまだか」という圧力が、虚しく頭をよぎる。「…んっ、んっ」と右京の喘ぎ声が響き、足がすくんだ。声をかけようとしたが、喉が詰まり、ただ息を呑むしかなかった。その時、Google Meetの画面から漏れる淫靡な囁きが耳を刺した。「う…右京」。その声は、ゲームアプリの架空の人物ではない......生身の女性だった。白檀の香りが染みついたシャツ、午前七時四十五分の「二回コール」、磨かれた革靴、これまでの不審な兆しが一瞬で繋がり、胸に冷たい刃が突き刺さった。「橙子さん、とう…こ」「右京、右京......」Google Meetの画面から響く名前と、欲望を掻き立てる卑猥な囁きに、私の頭は真っ白になった。「…オンライン不倫」。いつからこの関係が続いていたのかわからないが、右京くんは私を裏切り続けていた。リビングの薄暗い光の中で、彼の右手が忙しなく動き、テレビのスピーカーから漏れる橙子という女性の声が、胸を鋭く抉った。音を立てないよう、ショルダーバッグをそっと足元に置き、玄関へと後ずさった。右京の生々しい喘ぎ声と橙子さんの淫靡な囁きが耳にこびりつき、居た堪れなくなった私は、ゴム製のクロックスを履き、静かにドアを閉めた。 用水沿いの石畳に、ポツポツと灯るオレンジの街灯が冷たく揺れる。「…うっ」と嗚咽が漏れ、頬に生温かい涙が伝い、顎からブラウスに落ちて点々とシミを作った。通り過ぎるサラリーマン
last updateLast Updated : 2025-11-01
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第33話 女の勘④

土鍋の水炊きは、涙で塩気が強く、ガスコンロの炎の下で怒りと悲しみが煮えたぎっていた。ニラと牡蠣......誰のための精力増進かと思うと恨めしかった。「真昼、なんかこれ塩っぽくないか?」と右京が無愛想に箸を動かす。「そうかな」と返す私の声は、感情を押し殺していた。目の前の夫には、幾つの顔が隠されているのか。Google Meetの「橙子さん、とう…こ」、白檀の香りが染みついたシャツ、「二回コール」の秘密......裏切りの断片が胸に重い石を沈めた。これまでの結婚生活がすべてが嘘に塗れた。「なんだよその顔、辛気臭いな」「そうかな」「…うん」と、右京の言葉が空虚に響く。毎朝早起きしてオンラインゲームに没頭するふりをして、橙子さんと愛を語り合っていたのか......考えるだけで虫唾が走った。右京が私の表情の変化を察したのか、「牡蠣、美味いね」とぎこちない笑顔を向けた。「右京くんが美味しいとか…珍しいね」「そうかな」「うん」と返すが、心はざわついた。ふと気づく、早起きはいつからだったか。「右京くん、お義父さんの代わりにロータリークラブに行ったのっていつからだっけ?」と尋ねると、彼はニラを箸で避け、牡蠣を摘む手に一瞬の硬直。「…なんで」「頑張ってるなぁって思って」「えーと」と、指を折る嬉しそうな仕草が、橙子さんとの逢瀬の回数と重なり、無性に腹が立った。「三ヶ月前かな」「三ヶ月も頑張ってるんだ」と、言葉に棘が刺さる。「なに、なに怒ってんの?」「そうかな…怒ってる?」「うん」。そこで気づいた。ロータリークラブの会合は金曜開催だ。「毎週、金曜日だっけ」「二週間に一度だよ」「ふーん」と返すが、金曜は私が残業で遅くなる日。橙子さんとの二週間ごとの逢瀬、会えない日はGoogle Meetでのオンラインセックス......その確信が、惨めさとなって胸を刺した。土鍋の湯気が夫婦の断絶を冷たく包む。ガタッと音を立て、右京が箸を置き、気まずさを隠すように無言で立ち上がった。「ちょっと! 右京くんご飯もう食べないの!?」「…いらね」「ごちそうさまくらい言いなさいよ!」「…ごち」。今朝、ドアの隙間から見た溌剌とした右京、スマホを握る朗ら
last updateLast Updated : 2025-11-02
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第35話 女の勘⑤

ベッドに寝転がっていると、ふと違和感が胸を刺した。「先週の金曜日は…ロータリークラブの日よね…」。土鍋の水炊きの塩気が舌に残る中、クローゼットの隙間から何かが手招きするように感じた。取っ手に指をかけ、スライドさせると、鼻先をくすぐる甘く重い香りが立ち上った。「白檀だ…」ハンガーに並ぶ右京の服を一着ずつ嗅いだ。「これは違う…これは芳香剤…これは消臭ミストの匂い」。だが、一番端に隠されるように掛かった焦茶のスーツジャケットから、濃厚な白檀の香りが漂った。「やだ…これ、あの時の」それは右京が私と結納を交わした日に着ていた、仕立ての良い思い出のスーツだった。妻との契りを誓ったその服で、彼は愛人との逢瀬を繰り返していたのだ。胸の奥底に、怒りの炎がメラメラと点った。リビングのテレビから漏れた橙子さんの声、「二回コール」の秘密、ストライプのシャツの不審な匂い......すべてがこのスーツに繋がった。裏切りが現実となり、心を焼き尽くした。ゴジラのフィギュアを叩きつけた夜の怒り、Google Meetの淫靡な囁きが蘇り、指が震えた。クローゼットの暗闇が真昼の燃える怒りを冷たく見つめた。スーツを握り潰す手の中で、結納の日の右京の笑顔が、嘘に塗れて崩れ落ちた。白檀の香りが染みついた焦茶のスーツジャケットが掛かるハンガーを、クローゼットのポールから引きむしった。怒りが沸騰し、廊下を踏みつけるように足音を立てて階段へ向かう。一歩一歩が燃えるような激情となり、沸点に達した瞬間、思い切り振りかぶり、力の限りでハンガーを階段下に投げ落とした。バキッと割れんばかりの音が響き、右京が驚いて駆け寄った。「ま、真昼!? 何やってんだよ!」彼の足元には、皺くちゃのスーツと割れたハンガーの欠片が散乱していた。「ど、どうした」「臭かったから! 捨てようかと思って!」「な、なに言ってるんだよ、一番高いスーツだぞ」「それがどうしたの!」「どうしたはお前だよ!」震える脚で階段を一歩ずつ降り、右京の襟元をぐいっと掴んだ。彼は息苦しさに顔を歪ませ、「あぁ、分かったよ!」と咽せながらスーツを拾い上げ、パソコン
last updateLast Updated : 2025-11-03
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第34話 残酷なプロポーズ

SIDE向坂橙子私は分かっていた。右京との関係に未来はない。彼はかつて2018号室で囁いた。「僕はあなたと結婚するはずだった」。過去形......それは色褪せた愛の告白だった。あの暑い夏、右京が選んだのは母親の「跡取りが必要」という冷たい言葉だった。子宮を持たない私に、母親は「後継が産めない」と婚約破棄を突きつけ、右京は抗わず受け入れた。「私は右京に見捨てられた…」と、胸が締め付けられる。それでも彼のウッディな檜の香り、獣のような眼差しから離れられない。「橙子さん、僕たち恋人に戻りましょう」「婚約を解消したから?」「…はい」「それ、愛人の間違いじゃないの?」と自嘲しながら、愚かな自分は右京の言葉に縋り、ニューグランドホテルの2018号室で切なく喘ぐ。「あっ…ん…ふうっ」と、右京の臀部に爪を立て、熱い吐息が絡み合う。次の瞬間、白濁した生温かい体液が内股を伝い、ガラス張りの窓に沈む夕陽がポタポタと落ちる。セックスが激しければ激しいほど、心の虚しさは募る。石畳の坂道でドラキュラ伯爵と笑い合った夏、披露宴での禁断の口付け、慰謝料の封筒の重さ......すべてがこの刹那を無意味に変えた。ベッドに横たわり、荒い息を吐く私の薬指で、エンゲージリングが鈍く光る。真昼さんのピンクの薔薇の笑顔が遠くで嘲笑うようだった。右京の不倫の熱は、私を愛人として縛り、未来のない部屋に閉じ込めた。「橙子さん」と右京に呼ばれ、私はシーツにくるまったまま、作り笑顔で振り返った。彼の薄い唇がゆっくり動く。「橙子さん…結婚しましょう」「何? 夢みたいなことを…」「結婚しましょう」「真昼さんはどうするの?」「離婚します」「あなたにそんなことできるはずないわ」。ニューグランドホテルの2018号室、白檀の香りが漂うベッドで、右京の言葉は甘く残酷に響いた。「裁判になると思います。慰謝料を払って別れます」「お金なんてないわよ」「貯金があります。そのために貯めました」。沈黙が落ちる。「結婚してください」。右京の目は真剣だったが、かつて母親の「跡取りが必要」に抗わなかった彼を思い出し、胸が冷えた。「無理だわ」「そうでしょうか?」右京は私の薬指の華奢なエンゲージリングに口づけ
last updateLast Updated : 2025-11-04
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第35話 不貞の証拠①

SIDE真昼 「はぁーっ」と深いため息がオフィスに響く。 竹村事務機器の事務所は低気圧の渦の中。外線電話が鳴ってもスチールデスクに突っ伏したまま、隣の美香ちゃんが大忙しだ。「真昼さーん、やる気出して下さいよぉ」「......無理」「えーい、やる気スイーッチ!」と脇腹を押されても、「ううむ」と唸るだけ。 右京との冷戦状態で口もきかず、家事は一切放棄。右京はカップラーメンを啜り、洗濯物は洗濯機横に山積み。(この状態で夫婦って笑う......笑える......笑えないけど)。白檀の香りが染みついたスーツ、Google Meetの「橙子さん」、階段に投げた結納のスーツ......裏切りが胸を締め付ける。背中を見兼ねた政宗が孫の手で「ちょっと来い」と呼ぶ。面倒臭そうに立ち、達磨やコケシ、書類が乱雑な社長机の横に立つ。 「なんですか」「なんですかじゃねぇ......給料泥棒か?」「もう......解雇でも良いです」と投げやりに返す。「どうした、明るいだけが取り柄のお前らしくない」「社長、私そんなに魅力ないですか」「なにが」「女性として魅力ないですか」「あぁん?」。政宗は営業の山本くんを呼び、「こいつどうだ」「真昼さんすか?」「山本くん......私って女に見える?」と問うと、山本は頭上で大きな丸を作り「年上でも大丈夫っす!」。 
last updateLast Updated : 2025-11-05
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第36話 金曜日の朝

嘘が真に変わった。翌朝、ベッドから起き上がろうとすると、身体が鉛のように重く、億劫で動けない。頬に触れると熱を持ち、「…やだ、本当に風邪?」と呟く。ナイトテーブルの引き出しから体温計を取り出し、脇に挟む。冷ややかな感触に背中に悪寒が走った。計測時間がやけに長く感じる。今日は金曜日……右京と橙子さんがニューグランドホテルで落ち合い、ベッドで愛を語る日。白檀の香りが染みついた結納のスーツ、Google Meetの「橙子さん」の喘ぎ声、録画した不貞の証拠……すべてが胸を締め付ける。「もしかしたら…私の勘違い」と願う希望と、事実をハッキリさせたい絶望が交錯する。「37.9℃」。体温計の数字が、暗号のような「NGH(ニューグランドホテル)」とともに、熱を帯びた身体に鞭を打つ。私は叔父に有給の電話をかけ直す覚悟を固める。       パジャマのまま階段を降りると、右京がキッチンでコーヒーを淹れていた。「おはよう」と背後から声をかけると、「うおっ!」と彼は幽霊でも見たように飛び上がった。普段なら私が会社に出勤している時間……いるはずのない妻の存在に、右京はコーヒーメーカーに左手の人差し指をつき、「熱っち!」「大丈夫!?」と心配する私に、冷たく吐き捨てた。「何でいるんだよ」「風邪ひいたみたい……後で病院に行く」と答えると、彼は気遣うどころか掠れた声で、「真昼が朝、家にいると調子が狂うんだよな」「……」「……何」「何でもない」。水道の蛇口に火傷した指を冷やす右京の姿に、胸が締め付けられた。  
last updateLast Updated : 2025-11-06
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第37話 不貞の証拠②

ニューグランドホテルのエントランスフロアは、天井が高く、螺旋を描くクリスタルのシャンデリアが黒と白のチェスボードの床を照らしていた。手首のピンクゴールドの腕時計は13時15分……右京と橙子さんの待ち合わせまで時間がある。予定通り、フルーツパーラーで様子を見ることにした。(…あ、熱、下がらないなぁ)。「いらっしゃいませ」「ええと、アイスティーをお願いします」「レモンをお付けしますか」「お願いします」。観葉植物が茂るテラス席の陰に潜み、エントランスフロアを一望する。そよぐ風と頬を撫でる冷房が心地良い。「お待たせしました」「ありがとうございます」「ごゆっくりお寛ぎください」。レモンをギュッと絞ると、酸味が一滴、また一滴と紅茶の色を変えた。「こんな風にいつの間にか変わっていったのね」……日常に潜む橙子さんの影に気づかなかった。裏切りが胸を締め付ける。黒い鞄から一眼レフカメラを取り出し、バッテリーを挿入。ボタンを押すと機械的な起動音が響き、動作に問題はない。(あーあ)。ガラスのテーブルに映る惨めな顔をペーパーナフキンで拭き、脇を締めてカメラを構える。自動フォーカスに切り替え、右京がどこに現れてもその姿を切り取る準備が整った。観葉植物から漏れた陽光が真昼の静かな怒りを冷たく照らした。 ラタンのソファにもたれ、時計を見る。13:35。フルーツパーラーの店内に視線を遣ると、窓際に白いワンピースの女性がいた。長い黒髪を掻き上げ、肘をついてスマートフォンを操作する姿に既視感。(あ、あれ)。「嘘! 私のワンピースと丸かぶりじゃない!」……白地に青い小花柄の私の服と同じブランド、デザイン。プリントは黒とグレーで印象は違うが、気分は急降下。(……最悪)。レモンティーをストローで飲み干すと、氷がカランと鳴り、グラスの底に輪が滲んだ。一眼レフカメラで一枚撮影し、液晶モニターを眺めると、女性の面立ちに違和感が走る。「あれ……
last updateLast Updated : 2025-11-07
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第38話 冷ややかな朝

熱が本格的に上がり、氷枕と冷却シートで額を冷やし、ナイトテーブルにスポーツ飲料を置いた。「……さ、寒い」。壁の時計は18:00。「ただいまー!」と、右京がニューグランドホテルのフルーツパーラーの紙袋を手に意気揚々と帰宅した。階下から機嫌の良い声が響く。「真昼ー! 土産ー!」。体温計は38.2℃……喜んで起き上がれる体調ではない。「真昼ー! ちょっとー!」と繰り返され、無視を決め込むも、肩にカーディガンを羽織り渋々階段を降りた。白檀の香りが匂い立ち、橙子さんとの事後を物語る。 「なに、なに考えているのよ」と、涙が滲む。ダイニングテーブルの椅子に腰掛け、足元から悪寒が這う。白い皿にはイチゴと生クリームが層をなすミルフィーユ。「はい、お土産!」「どうしたの、これ」「ニューグランドホテルで会合があったんだ、そのお土産」「……会合」「そう、このケーキ好きだろう?」。……有りもしない会合、脂っこいケーキ……不倫の後ろめたさを隠す保身の貢物だ。「あ、これ邪魔だよね」と饒舌な指がビニールを取り外す。その指は数時間前、橙子さんの中で動いていた。想像するだけで悍ましさが背筋を這う。「食べないの?」「……熱があるから」「あ、そう」。熱を尋ねない冷酷さに、怒りが層を重ねる。「……あの証拠は使わせてもらうわ」「じゃ、寝るね」「そ、ケーキ、冷蔵庫に入れておく」「うん」。右京はケーキを横に倒し、ラップもせず冷蔵庫を閉めた。  月曜日、私は仕事を休んだ。朝、右京はリビングのソファで口をアングリ開け、涎を垂らして寝ていた。テレビではオンライン
last updateLast Updated : 2025-11-08
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