All Chapters of 王子様系御曹司の独占欲に火をつけてしまったようです: Chapter 101 - Chapter 110

181 Chapters

101

 さらに湊さんは、少し語調を変えて続けた。今までの淡々とした口調から、今度は明るさの感じられる声になる。「しかし我々は、この出来事を、ただの不幸な事件で終わらせるつもりはありません。今回の件を教訓とし、インペリアル・クラウン・ホテルズは本日、これまでの基準を遥かに上回る、世界で最も厳格な新しい品質管理体制を導入することを、ここに宣言いたします」 彼はスクリーンに新しい品質管理システムの、具体的なフローチャートを映し出す。「我々を陥れようとした悪意は、皮肉にも我々をより強く、より誠実な企業へと、進化させてくれました。今後も我々は、お客様に最高の安心と、最高の品質をお届けすることをお約束します」 記者たちから感嘆の声が上がる。 完璧な逆転劇だった。湊さんはこの危機を好機に変えてしまったのだ。 私は隣に立つ彼の横顔を、ただ呆然と見上げていた。◇ 会見が質疑応答に移ると、案の定、最前列にいた腕利きの男性ジャーナリストが、鋭く手を挙げた。「黒瀬副社長にお伺いします。今回、御社を『被害者』にした、その悪意の主についてです。状況証拠から考えて、競合相手であるグラン・レジス東京の、佐藤専務が関与している疑いが濃厚だと思われますが、その点についてはいかがお考えでしょうか」 会場の空気が一瞬で張り詰める。全ての視線が湊さんに注がれた。 しかし彼は、その直球の質問にも一切表情を変えない。「ご質問、ありがとうございます。ですがその点に関しましては、『現在、調査中です』とだけ、お答えさせていただきます」 湊さんはきっぱりと言った。「もちろん我々も、今回の偽装工作の背後関係については、徹底的に調査を進めております。しかしこの公の場で、憶測に基づいて特定の企業や個人の名前を挙げることは、いたずらに混乱を招くだけです。それは、我々の本意ではありません」 彼は一度、会場全体を見渡した。「今我々が為すべきは、犯人探しに興じることではありません。失われた信頼を取り戻し、お客様に最高の空間をお届けすること。ただそれだけです」
last updateLast Updated : 2025-11-11
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102:転落

【三人称視点】 記者会見が終わってから、1時間も経たない時のこと。 スイス、ジュネーブにある「グラン・レジス」グループ本社の最高コンプライアンス責任者のメールボックスに、一通の暗号化されたメールが届いた。 差出人は不明。発信源は追跡不可能な、使い捨てのサーバーを経由している。 添付されていたのは、1つのPDFファイルだった。 タイトルは『インペリアル・クラウン・ホテルズ新スイートルームにおける、妨害工作に関する調査報告書』。 コンプライアンス責任者はウィルススキャンをして、問題ないことを確認する。それから慎重にファイルを開くと、そこには日本での一連の出来事が、動かぬ証拠と共に、全て事実として記されていた。 日本のデザイナー、相沢夏帆の選定した正規の納入業者の名称と、取り扱っていた素材。 その業者の株を、数ヶ月前から秘密裏に買い占めていた、海外のダミー会社。 そして、そのダミー会社の役員に名を連ねる、グラン・レジス東京の専務サトウの血縁者の名前。 最後には佐藤が日本の職人たちに突きつけた、奴隷契約とも言える契約書のスキャンデータが添付されていた。 公の裁判の場では、弱い証拠かもしれない。 だが内部告発の資料としては十分だった。「これは……何ということだ」 責任者は小さく呟く。ごくりと唾を飲み込んだ。 内容を確認後、すぐに彼は、さらに上役へと電話をかけてこの件を報告した。 その報告書は黒瀬湊という男が、佐藤という人間を社会的に完全に終わらせるために用意した弾丸だった。 グラン・レジス側はそれを知らないが、発信者が誰であれこの問題を放置はできない。 グラン・レジスの上層部はにわかに慌ただしい動きに包まれた。◇ 数日後。 グラン・レジス東京、佐藤の執務室のドアがノックもなしに開かれた。 入ってきたのは見慣れない顔の、2人組の白人男性だった。 彼らが放つ冷たく鋭い空気は、ただの社員のものではない。
last updateLast Updated : 2025-11-12
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103

 もう一人の男が、佐藤のデスクのPCの電源を無言で落とした。「それからこちらが、明日からあなたに使っていただく、新しいオフィスです」 ピーターソンが差し出した1枚の紙には、地下3階にある倉庫横の小さな部屋の番号が書かれていた。窓もない、ただの物置のような部屋だ。「この件に関するいかなる外部への連絡も、禁じます。もちろん、インペリアル・クラウン・ホテルズへの接触も。ご理解、いただけますね?」 完全に「飼い殺し」の宣告だった。 佐藤は何も言い返せないまま、わなわなと唇を震わせるだけ。 一度は巨大外資グループの日本支部専務にまで登りつめたのに、足元から全てが崩れ落ちていく。(なぜだ……どうしてこんなことになった。私は上手くやっていたはず……。まさか黒瀬と相沢が、何かやったのか!?) 絶望の始まりを、彼はただ呆然と見つめることしかできなかった。◇【夏帆視点】 会見が終わり、控室には私と湊さんの2人だけが残った。 静かな空気の中にいると、慌ただしく張り詰めていた数日がやっと終わったのだと実感できる。「……ありがとうございました。今回もまた、助けられてばかりでした」 湊さんは静かに首を振る。「僕がしたかったのは、真実を明らかにすることだけです。僕が信じた人が、誰にも傷つけられないようにすること。ただ、それだけですよ」 私は彼の顔を、ただじっと見つめていた。 どこまでも誠実な響きが、心を打つ。(ああ、やっぱり……) この人を好きになってしまったのだと、改めて認めざるを得なかった。 でもその想いと同時に、別の冷たい感情が私の心に広がっていく。 今日の出来事ではっきりと理解してしまった。 私が彼の隣にいる限り、彼は私のために戦い続けるだろう。 その戦いが、どれだけ彼の負担になることか。 湊さんは
last updateLast Updated : 2025-11-12
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104:故郷の夕暮れ

 素材疑惑事件が解決してから、数日が過ぎた。 潔白は証明されたけれど、度重なるトラブルは確実に私の心をむしばんでいた。 仕事上の問題ばかりではない。 日を追うごとに湊さんに惹かれていく心と、このままではいけないという意志がせめぎ合って、精神的に消耗している。(いっそ彼の腕に飛び込んで、何もかも任せてしまったら楽になるかな) そんなことをふと考えて、私は慌てて頭を振った。そんな情けないことをしたら、湊さんに嫌われるに決まっている。 この恋は諦めると決めたのに、嫌われると思うとぎりぎりと胸が締め付けられた。 こんな考えが出てくるとは、かなり心が弱っている。 仕事に没頭しようとしても、ふとした瞬間にぼんやりしてしまうことが増えていた。 その日の夕方、湊さんが、何の予告もなく事務所に現れた。 彼は一点の曇りもない笑顔で、残業中のスタッフ全員に最高級ホテルのスイーツを差し入れる。「わあ! これ、美味しいですよね!」 同僚の女性社員が喜んでいる。 和やかな空気が流れる中、湊さんは私のデスクに近づくと、私のPCの電源を有無を言わせず落とした。「――今日の仕事は、終わりです」 私や所長が何か言う前に、彼は続ける。「週末、お時間をいただきます。これも、あなたの心身の健康を管理するための、業務の一環です」 湊さんは私に反論の隙を与えない。いつもの微笑みを浮かべているように見えて、目が笑っていないのに気づいた。ちょっと怖い。「明日の朝、マンションに迎えに行きます。一泊分の、着替えだけ用意しておいてください」 とだけ言って、去って言ってしまった。◇ 翌朝、私は言われるがままに、小さな旅行鞄一つで湊さんの車に乗り込んだ。 行き先は、今回も告げられていない。 またあの海辺の別荘へ行くのだろうか。私は、ぼんやりと考えていた。 しかし車が向かったのは、海とは逆の内陸方向だった。 高速道路を数時間走って、車窓の景色は
last updateLast Updated : 2025-11-13
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 実家の庭先では、エプロン姿の母がホースで花に水をやっていた。 そこへ湊さんの運転する、高級フランス車のクーペが停車した。 母は聞き慣れないエンジン音に、不思議そうに顔を上げる。 ここらでは見たこともない、黒く輝く美しい車を捉えた瞬間、動きがぴたりと止まった。 ホースを持つ手がだらりと下がり、水が足元の土を濡らしているのも、気づいていないようだった。 母の視線は、車と運転席から降りてきた湊さんに、釘付けになっている。 その口がぽかんと半開きになっていた。 私はなんだかものすごく恥ずかしくなって、慌てて車のドアを開けた。「お、お母さん! ただいま! えっと、こちらは……」「はじめまして、お母様。いつも、夏帆さんには大変お世話になっております。黒瀬湊と申します」 湊さんは完璧な笑顔で、私の母に深々と頭を下げた。「どうした? お客さんか?」 家の奥から物音を聞きつけた父も出てくる。娘の隣に立つ異次元の存在のような美しい青年に、父も母もただうろたえるばかりだった。◇「まあまあ、こんな散らかったところでお恥ずかしい」 母はお客様に出すにはありふれた湯呑みで、必死にお茶を淹れてくれる。「いやー、今日はいい天気ですな」 父は緊張のあまり、当たり障りのない天気の話しかできない。 私がひたすら気まずい思いをしていると、台所の母が手招きした。「ちょっと夏帆! 誰よあの、俳優さんみたいなイケメン」「仕事の取引先の偉い人で、名前は黒瀬湊さん……」「なんでそんな偉い人が、うちに来るわけ?」「分かんないよ!」 理由は私も聞きたい。 母は声をひそめて続けた。「あんたはついこの間、あの不倫男に振り回されたばかりでしょ。騙されているんじゃないの?」 不倫男とは、元夫の圭介のことだ。離婚騒ぎでは実家の父と母に心配をかけてしまった。
last updateLast Updated : 2025-11-13
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「おお、夏帆。今、黒瀬さんからお前の話を聞いていたところだ。お前、東京でずいぶん頑張っているらしいじゃないか。褒めてくださったぞ」「事実を言ったまでですよ」 湊さんはいつもの王子様スマイルを浮かべている。「夏帆さんがいなければ、我が社のプロジェクトは成り立たなかった。いくつかトラブルもありましたが、結果的にいい方向に向かっています。夏帆さんは僕の幸運の女神なんです」「いやー、今の若い人はさらっとかっこいいことを言うねえ!」 父は笑っているが、私は顔が真っ赤になってしまった。 母がお茶と湊さんの手土産のスイーツを持ってきたので、みんなでいただく。「まあ、美味しい……!」 インペリアル・クラウン・ホテルの特製スイーツを食べた母が、目を丸くしている。「当社のカフェ部門、自慢のスイーツですよ。お気に召したのでしたら、また持ってきます」「いえいえ、そんな! とんでもない!」 母は慌てて手を振ったが、スイーツの皿はしっかりと抱え込んでいた。 スイーツの美味しさで場が和む。それからは気まずさは減って、私たちは雑談をした。 湊さんの目が、ふと棚の上に立て掛けてある絵にとまった。シンプルで少し古びた額に入った絵だった。「あの絵は……」「あれは夏帆が、中学生の時に描いた絵です。小さなコンクールで入賞したんですよ」 父が自慢そうに言う。私は軽く睨んだ。「お父さん、あんな古いものをまだ飾っていたの?」「俺はあれをけっこう気に入っているんだよ」「少し見せていただいても?」 湊さんが言うので、母はその絵を持ってきた。 私が中学の時に美術の授業で描いて、先生の勧めでコンクールに応募した水彩画だ。 描かれているのは、何の変哲もない、この家のリビングそのもの。 少しへたった、花柄のソファ。 その上で気持ちよさそうに丸くなって眠る、昔飼っていた三毛猫。 テーブルの上に置かれた
last updateLast Updated : 2025-11-14
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「子供のころの拙い絵です。そんな、まじまじと見ないでください」 私が顔を赤らめながら言うと、湊さんは絵から目を離さずに首を振った。「いいえ。違います」 彼の声は真剣だった。「あなたは、この頃からもう、デザインの本質を理解していたんですね」「え?」 彼は私の方に向き直った。その瞳は、深い感動の色を宿している。「空間をデザインするというのは、ただ形を作ることじゃない。そこに流れる『光』や『時間』、そして『人の営み』そのものを描くことだ。あなたの『光の心臓』の原点は、ここにあったんですね」 彼は私のデザイナーとしての魂の最も深い場所を、寸分の狂いもなく見抜いていた。 その理解に、私はただ言葉を失っていた。「夏帆さんは子供の頃から、素晴らしい才能の持ち主だったのですね。どんな子だったのでしょうか?」 湊さんの言葉に、母は得意そうな顔になった。いくつになっても娘を褒められると嬉しいらしい。「写真をご覧になりますか? 赤ちゃんの頃から最近のまで、色々ありますよ!」「え、ちょっと、やめてよ!」 私は止めようとしたが、母は素早く立ち上がって2階へ行ってしまった。追いかけようとするが、湊さんに止められる。「夏帆さんの小さい頃は、きっと可愛らしかったのでしょうね。見てみたいです」「ほんと、やめてください……」 いたたまれない気持ちでいると、母が分厚いアルバムの束を抱えて戻ってきた。 私が顔を赤らめるのを尻目に、湊さんは心から嬉そうにそのアルバムを受け取る。 1枚目のページを開く。そこにいたのは2歳くらいの、おむつ姿の私だった。「この子ったら、この時公園で転んで、大泣きしたのよ」 母が懐かしそうに目を細める。 写真の中の私は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。なんでこんなところを写真に撮ったのだか。 あまりの恥ずかしさに、私は手で顔を覆いたくなる。 けれど湊さんは、その写真をとても優しい目で見つめて
last updateLast Updated : 2025-11-14
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「デザイナーとしての夏帆さんが、どんな環境で育ってきたのか、見てみたかったんです。あなたの、あの素晴らしいセンスの源泉を、知りたくて」 そしていたずらっぽく付け加える。「もちろん、個人的に、あなたの過去を知りたいという気持ちも、嘘ではありませんが」 その言葉に、私は何も言えなくなる。 母が嬉しそうに次のページをめくる。 今度は小学校の写生大会で、賞状を持ってはにかんでいる私の写真だった。隣には少し不格好な、でも一生懸命に描いたであろう風景画が立てかけられている。「この子は昔から、絵を描くのが好きでして」「ええ、分かります」 湊さんは深く頷いた。「この頃からもう、光の捉え方が他の子とは違っていたんでしょうね。……あなたのデザインの原点は、ここにあったんですね」 彼は私のデザイナーとしてのルーツを、宝物を発見したように愛おしそうに見つめていた。 次から次へと、私の恥ずかしい過去が暴かれていく。 泥だらけになって猫と遊んでいる写真。 兄の服を着て、木に登っている写真。 アルバムを見ながら、両親は思い出話を語っている。 それら全てを湊さんは心から楽しそうに、どこか眩しそうに眺めていた。 彼は私の過去を、両親を通して知ろうとしている。 そして会話の端々で、現在の私がいかに素晴らしい仕事をしているかを語り、両親を喜ばせた。(これは、外堀を埋められている? そんなまさか……そこまでやる?) 湊さんのことだから、しっかり計算しているのだろう。でもそれだけじゃない、心からの愛情も感じた。 まさか彼は本気なのだろうか。こうして私の実家に来てまで、本気で私を手に入れようとしている? 私の心はどうしようもなく締め付けられた。◇ 夕食の時間になると、母が腕によりをかけて作った、肉じゃがとほうれん草のおひたしが、テーブルに並んだ。 父は湊さんの人柄がすっかり気に入ってしま
last updateLast Updated : 2025-11-15
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「ご心配には及びません。こういうこともあろうかと、帰りの運転手は、もう手配してありますから。ぜひ、お付き合いさせてください、お父さん」 スマートな対応と、いつの間にか父を「お父さん」と呼んでいることに、私は驚いて彼の顔を見つめてしまった。 父と母は彼の用意周到さと、人懐っこさにすっかり感心している。「それはいい。ぜひ飲もうじゃないか」「じゃあ、おつまみを用意しなきゃね」 母がパタパタと台所に走っていく。 湊さんは、父と楽しそうに酒を酌み交わし始めた。「湊さんは、うちの娘の、どんなところが良いと思ってくださってるんですか」 そうしてしばし。すっかり酔いの回った父が、一番聞きたかったであろう質問をついに口にした。「全て、です」 湊さんは少しも迷わずに答えた。「ですが、一番は心の在り方です。自分の力で立ち、決して人のせいにしない。その誇り高さは、誰よりも美しい」 あまりにもまっすぐ言葉に、私はうつむくしかなかった。◇ 時間が過ぎていく。夜が遅くなってきた頃、湊さんは立ち上がった。「居心地が良くて、すっかり長居してしまいました。そろそろおいとまします」「せっかくだから、うちに泊まっていってはどうですか?」 母が言うが、湊さんは首を振った。「いいえ、近くに宿を取っておりますので」 彼の礼儀正しい態度に、両親はさらに感心していた。 見送りに出た玄関先で、2人きりになる。「今日は、本当にありがとうございました。あなたのことを、たくさん知ることができて、嬉しかった」 彼は穏やかな声で言った。 彼の真摯な言葉が、嬉しかった。 その優しさが私の心に、じんわりと染み込んでくる。 でもだからこそ、苦しかった。 あの夜のこと。私は圭介と同じ過ちを犯したと、彼は気づいているのだろうか? いくら離婚が成立したとはいえ、離婚届を出したその日の出来事だ。浮気や不倫と
last updateLast Updated : 2025-11-15
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110:偽りの命令書

 インペリアル・クラウン・ホテルのスイートルームでは、プロジェクトの最終段階として工事が進められていた。 工事用の仮設照明が取り払われた空間に、午後の西日が大きな窓から柔らかく差し込んでいる。 磨き上げられた無垢材の床が、その光を蜂蜜のような色合いで反射していた。 養生のビニールシートがすべて剥がされたスイートルームは、完成を間近に控えて、新しい生命が吹き込まれたばかりのように静かだった。現場を飛び交う喧騒は既になく、聞こえるのは仕上げのワックスをかける布の乾いた摩擦音と、職人たちの穏やかな話し声だけだ。「相沢さん、ここの収まり、確認お願いします」 現場監督の声に私は頷いて、壁際に歩み寄った。 設え付けの飾り棚と壁紙の境界線を、指先で撫でる。コンマ数ミリのずれもない、完璧な仕事だった。「問題ありません。ありがとうございます」 私が言うと、初老の監督はヘルメットの下でにやりと笑う。「あんたのデザインだからな。こっちも気が抜けねえよ」 ぶっきらぼうな口調には、信頼が感じられる。この数ヶ月で築き上げた絆がそこにはあった。 監督が他の職人の元へ向かった後、私は一人、部屋の中央に佇んだ。 私の頭の中にしかなかった線と色が、今、確かな形となって目の前にある。人がその中で時を過ごし、記憶を重ねていくための舞台。その完成を見届けることは、デザイナーにとって何物にも代えがたい喜びだ。 この空間が完成すれば、私の役目は終わる。 彼が与えてくれたこの仕事も、彼と過ごす時間も、全て。 窓の外に広がる都心の街並みを見つめながら、私は胸の奥で静かに込み上げる感情を、ゆっくりと息と共に吐き出した。◇「お疲れ様です! 現場、素晴らしい仕上がりでした」 事務所に戻り報告すると、同僚たちから「おお!」という歓声が上がった。 プロジェクトの成功を目前にして、アトリエ・ブルームの空気はここ最近、とても明るい。「打ち上げ、どこにする? やっぱりお寿司かな」「いいですね。回
last updateLast Updated : 2025-11-16
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