All Chapters of 王子様系御曹司の独占欲に火をつけてしまったようです: Chapter 81 - Chapter 90

94 Chapters

81

 湊さんは書類を、テーブルの上に置いた。 佐藤が提示したであろう、金銭と法律で職人たちを縛り上げるための、分厚い契約書の束とはまるで思想が違う。 たった数枚の、上質な紙に印刷された提案書だった。「これは、今回のプロジェクトだけの話ではありません。インペリアル・クラウン・ホテルズは、皆さんと『未来への契約』を結びたい」 彼は職人一人ひとりの顔を見つめて、言葉を続けた。「グラン・レジスが提示したのは、金銭でしょう。ですが我々がご提案するのは、皆さんの技術とその未来そのものです」 提案書には、『専属アーティザン契約のご提案』と書かれていた。「この契約を結んでくださった工房を、インペリアル・クラウン・ホテルズは『インペリアル・マイスター』として認定します。今後、我々が国内外で手掛ける全ての新規プロジェクトにおいて、皆さんの工房を最優先で起用することをお約束します」「なんだって」 驚く親方たちに、湊さんは落ち着いた声で続ける。「もちろん報酬は、今回のプロジェクトと同等、あるいはそれ以上をお約束します。ですがそれだけではない。皆さんが後継者を育成するための費用も、我々が全面的にバックアップします。皆さんの持つ日本の宝とも言えるその技術を、我々が責任を持って、百年先、二百年先の未来まで、繋いでいきたいのです」 佐藤が提示した目先の金銭ではない。 彼らの技術と伝統をインペリアル・クラウン・ホテルグループが守り育てていくという、約束である。 職人としての彼らの誇りを深く理解した上でなければ出てこない、誠実な提案だった。◇ 高村さんが親方衆の顔を見回す。3人は頷いて、グラン・レジスの契約書を破り捨てた。 ビリビリ……と、紙が破ける音が部屋に響く。「面白い。あんたたちの、その心意気に乗った」 高村さんはにやりと笑った。 その一言を合図として、張り詰めていた工房の空気が一気に熱を帯びる。「やれやれ、面倒な話に巻き込みやがって」
last updateLast Updated : 2025-11-01
Read more

82

「やりましたね、湊さん!」「ええ。夏帆さんの心が彼らに通じたのですよ」 こうしてプロジェクトは再開された。 湊さんと共に戦い、危機を乗り越えたことで、私の心には新たな感情が芽生えた。 彼との間に「共犯者」のような、これまで以上に強い絆を感じていた。 でも同時に。 佐藤の悪意は、いよいよプロジェクトそのものを物理的に破壊しようとしている。以前のような嫌がらせでは済まない。身の危険すら感じ始めていた。 彼の次の手は、もっと直接的で危険なものになるかもしれない。 そんな予感が私の心に忍び寄っていた。 ◇  工房は、安堵と新しい決意の熱気に包まれていた。 湊さんが合図をすると、控えていた彼の部下のスーツ姿の男性が工房に入ってくる。あらかじめ準備していた「専属アーティザン契約書」を、職人一人ひとりの前に差し出した。「黒瀬副社長は、準備のいいことだ」 そんな憎まれ口を叩きながら、職人たちは契約書に誇らしげな顔で署名していく。 これは単なるビジネス契約ではない。未来への約束だった。誰もがそれを理解している。 最初に署名を終えた高村さんが、湊さんに一揃いの書類のコピーを手渡した。「奴が――グラン・レジスの佐藤が、俺たちにどんな非道な条件を突きつけてきたかの証拠だ。好きに使うといい」 そこには法外な違約金や、職人を一方的に縛り付ける悪質な条項がびっしりと記されていた。 法律の素人である私が軽く見ただけでも、思わず眉をしかめるような内容だ。「ありがとうございます。必ず役立てます」 湊さんは頷いた。◇ 東京へと戻るプライベートジェットの中で。 湊さんは、高村さんから渡された書類……グラン・レジスが提示した契約書の写しに、静かに目を通していた。「なるほど」 彼は低く呟くと、その書類を私にも見えるようにテーブルに置いた。
last updateLast Updated : 2025-11-02
Read more

83

「ええ。つまり、一度でも納期に遅れれば、職人たちは、一年分の報酬の倍額を、借金として背負わされる。病気になろうが、材料の入荷が遅れようが、関係なくね」「そんな。ひどすぎる」 さらに別の条項が目に飛び込んできた。『本契約期間中、および契約終了後3年間、乙は、甲の競合相手と見なされる、いかなる企業とも、新規契約を締結してはならない』「これは……」「事実上の奴隷契約ですよ」 湊さんの声は温度を失っていた。「一度この契約を結べば、彼らは3年後、たとえ契約が更新されなくても、我々インペリアル・クラウンを含む、他のどのホテルとも、3年間は仕事ができない。その間に、彼らの工房は干上がってしまうでしょう」「……」 職人たちの未来を約束するように見せかけながら、その実、彼らを完全に支配下に置くための巧妙な罠だった。 支配した後も、何の保証もない。縛り付けるだけで、職人たちの誇りも生活も何も考えられていないのだ。 人の心を介さない冷たい計算に、私は言葉を失った。 契約書の確認を終えると、湊さんは数本の電話をかけ始めた。 最初の相手はとある業界団体の理事を務める、初老の男性だった。「お疲れ様です。黒瀬です。……いえ、こちらこそ、急なご連絡、申し訳ありません。実は我々の業界全体の信用に関わる、少々憂慮すべき事態が発覚しまして。ぜひともご報告をと思った次第です」 彼の口調はあくまで第三者を装った、冷静なものだった。「グラン・レジス東京の佐藤専務が、今回の我々のプロジェクトに関わってくださっている職人の皆さん……ええ、高村さんや鈴木さんです。彼らに対して、極めて不誠実なアプローチを行ったようなのです」 湊さんは高村さんから受け取った証拠を元に、契約書の悪質な条項を一つひとつ、淡々と説明していく。 電話先の相手が絶句している様子が伝わってきた。「法外な違約金。それだけではなく、彼らの将来を縛り付け
last updateLast Updated : 2025-11-02
Read more

84

 電話を切ると、彼は間髪入れずに次の番号をタップした。 相手は懇意にしている経済ジャーナリストということだ。「佐々木さん、黒瀬です。少し面白い情報があるのですが。もちろん、まだオフレコでお願いしますよ」 先ほどとは少し違う、共犯者に語りかけるような親密な響き。「伝統工芸を支える、高齢の職人たちを食い物にする、外資系ホテルの非道なやり口。そんな見出しの記事に、ご興味はありませんか?」 電話をする湊さんの横顔は、いつもと同じ穏やかなものだった。 艶のある髪がさらりと揺れて、私と目が合う。微笑む目元は涼しげで、とても優しい。 でも、同じ彼の口から出た言葉が、見えない武器となって佐藤という人間を社会的に追い詰めていく。 その手際の良さを目の当たりにして、私は隣に座るこの人に少しばかりの怖さを感じていた。◇ グラン・レジス東京、佐藤の執務室。 彼のスマートフォンが耳障りな音を立てて震えた。画面に表示されたのは、海外本社からの国際電話を示す番号だ。(本社から……? 何事だ) 胸騒ぎを覚えながら、彼は通話ボタンを押した。『――サトウ専務。君は、我々のブランドにどれほどの泥を塗れば気が済むのかね? 職人たちとの不当な契約の話、聞いたよ』 スピーカーから聞こえてきたのは、本社の副社長の冷たい声だった。 佐藤は冷や汗を流しながら反論する。「い、いえ、あれは誤解です! 私は、彼らの技術を正当に評価し、より良い条件を提示しただけで……」『言い訳は聞きたくない。君が日本の職人たちに対して、いかに不誠実な引き抜き工作を行ったか。その詳細な報告書が、今、私の手元にある』「なっ……!」『インペリアル・クラウン側から、業界団体へ直接リークがあったそうだ。君が提示したという、あの奴隷契約書面のコピーと共にね。おかげで我々は日本の伝統文化を金で買い漁る野蛮な外資だと、陰で笑われている。君個人の失態
last updateLast Updated : 2025-11-03
Read more

85

 記事のコメント欄には、匿名ながらも業界関係者と思われる辛辣な書き込みがあふれていた。『外資のやり方はこれだから……』『佐藤専務、前々から黒い噂があったよな』『インペリアル・クラウン・ホテルズの黒瀬副社長の方が、よほど職人へのリスペクトがある』 称賛されるべきは自分で、貶められるべきはあの二人だったはずだ。 湊への憎しみ。その原因となった、相沢夏帆という女。(次の手は、もう生半可なものではだめだ) あの女をデザイナーとして社会人として、再起不能なまでに、完全に潰す。 そうすれば湊の、あの常に余裕のある顔を、絶望に歪ませることができるだろう。 佐藤は、デスクの椅子に深く座り直した。 その瞳から、先ほどまでの激情の色は消えていた。代わりに、氷のように冷たい光が宿っていた。◇ それから数日後。事務所には活気が戻っていた。 プロジェクトは以前にも増して、スムーズに進行している。 昼休みになると、同僚の一人が業界専門誌の電子版を、興奮した様子で私に見せてきた。「相沢さん、これを見てくれ!」 彼が差し出したタブレットには、『グラン・レジス東京、職人への不当契約疑惑で業界団体が調査へ』という大きな見出しが躍っていた。 記事の中では佐藤の名前こそ伏せられているものの、誰が主導したのかは誰の目にも明らかだった。「佐藤専務、本社から厳重注意を受けたらしいわよ」「これで、グラン・レジスの評判もガタ落ちね」「前々から黒い噂があったからな、あそこ。いい気味だよ」 所長や同僚たちの会話から、佐藤が社会的にも経済的にも、大きな打撃を受けたことが伝わってくる。(やったわ、湊さん!) 私の心に満足感が広がった。◇ その夜、自分の部屋でデザインの最終チェックをしながら、私は考えていた。 湊さんと共に戦い、勝利した。 そのことで私
last updateLast Updated : 2025-11-03
Read more

86:2人だけの休日

 職人たちのストライキ事件が解決してから、しばらくの時が過ぎた。 スイートルームのプロジェクトは再び軌道に乗ったものの、私の心身にはずっしりとした疲労がたまっている。 無理もないと思う。このプロジェクトはただでさえエネルギーが要る仕事なのに、トラブルが立て続けに起きたから。 自分では隠しているつもりでも、隈は日に日に濃くなった。仕事中にふと集中力が途切れることが増えている。 それに最近、体調が安定しない。微熱っぽかったり、吐き気があって食欲がなかったり。 疲労やストレスからくる風邪だと思うが、なかなか治らず苦労していた。 その日の定例会議の終わり、湊さんが私のデスクに立ち寄った。 彼は私の顔をじっと見つめる。私が疲れ切っている様子なのを見て取ったのだろう、こんなことを言い出した。「所長。相沢さんですが、明日から3日間、休暇を取らせてください」 私と所長が驚いて何か言おうとする前に、彼は続ける。「最高のパフォーマンスのためには、休息もまた、重要な仕事です。これはプロジェクトの最高責任者としての、副社長命令です。もちろん休暇中の彼女のタスクは、私が責任をもって代行します」 仕事を持ち出すのは、湊さんのいつもの手口だ。 強く言われてしまえば、反論の余地はどこにもなかった。◇ 休暇初日の朝。 今日はどこへ行くのか知らされていない。私は言われた通り、最低限の着替えだけを小さなボストンバッグに詰めた。 それ一つだけを持って、マンションのエントランスで彼を待っていた。 時間きっかりに、一台のクーペが滑るように目の前に停車する。 運転席から降りてきたのは、いつもより少しラフだが上質なジャケットを羽織った湊さんだった。「おはようございます、相沢さん。よく眠れましたか?」「……はい。おかげさまで」 彼は私の返事を聞くと、満足そうに頷いた。 私が持っていたボストンバッグを、ごく自然な仕草でさっと受け取る。きれいな髪がさらりと
last updateLast Updated : 2025-11-04
Read more

87

 彼のことだから、インペリアル・クラウン系列の最高級リゾートホテルか何かだろうか。 そんな場所に今の私が、どんな顔をしていけばいいのだろう。 根が庶民なので、あまり豪華過ぎる場所は落ち着かないのだ。「あの、湊さん」 沈黙に耐えきれず、私は尋ねる。「私たちは、どこへ向かっているんですか?」 彼は前を向いたまま、少しだけ楽しそうに口元を緩めた。「そうですね……海と空と、それから静かな時間がある場所、とだけ言っておきましょうか」 謎めいた答えに、私はそれ以上何も聞けなかった。 やがて車は高速道路を降りて、海岸線に沿って続く景色の良い道へと入る。 窓を開けると、潮の香りを乗せた心地よい風が髪を撫でた。 どこまでも続く青い空と、穏やかな海が視界いっぱいに広がる。 その景色を前に、私の心の中に溜まっていた澱(おり)のようなものが、少しずつ洗い流されていくような気がした。 車は海沿いの道から、木々に囲まれた私道へと入っていく。 数分ほど走ると視界が開けた。そこにその建物は、静かに佇んでいた。 壁一面がガラス張りになった、モダンで開放的な平屋の建物。 周囲の自然と調和した、美しい別荘だった。「ここは……?」 私が驚きに目を見開いていると、湊さんは微笑んだ。「僕の個人的な隠れ家です。ここなら、誰にも邪魔されませんから」 別荘脇のスペースに駐車して、車のエンジンを切る。 ドアを開けると、さざ波の音と潮の香りを乗せた風がふわりと私を包んだ。 私たちは砂利が敷き詰められたアプローチを、ゆっくりと歩いていく。「どうぞ」 湊さんが重厚な木製のドアを開けて、私を中に促した。 別荘の中に足を踏み入れた瞬間、私は思わず息をのんだ。 彼のデザイン哲学が反映された空間が、そこにはあった。 無駄な装飾は何一つない。けれど使われている素材の一つひとつが、極上の質
last updateLast Updated : 2025-11-04
Read more

88

 部屋の中は、全てが完璧なバランスで配置されていた。 そこにいるだけで、心がほどけていくような。最高に心地よい空間だった。「ここでは、仕事のことは一切忘れてください。あなたはただ、何もしないでいいんです。ゆっくりと休むことだけを考えて」 彼の声は、いつも以上に優しかった。「こちらを、あなたの部屋として使ってください」 湊さんはリビングの奥にあるもう一つのドアへと私を導いた。ドアを開けるとそこは、私がこれまで見たどんな寝室よりもシンプルで――贅沢な空間だった。 部屋の主役は中央に置かれた、低いローベッドだ。 ヘッドボードもない、ごく簡素な木のフレーム。でもその上にかけられたリネンのシーツは、触れなくても分かるほど、柔らかく肌触りが良さそうだった。 リビングと同じように、壁の一面が足元から天井までの大きなガラス窓になっている。その向こうには、きらきらと光る穏やかな海が、広がっている。 家具はそのベッドと、窓際に置かれた一脚のアームチェアだけ。 余計なものは何一つない。 けれどだからこそ、部屋に差し込む春の光や窓の外の海の青さ……時折聞こえてくる波の音が、何よりの装飾になっていた。(すごい……) 眠るためだけの空間。 でもその一つの目的のために、光も風も音も、すべてが計算され尽くしている。 これこそが本当のラグジュアリーなのだと、私はデザイナーとして痛感させられた。「ありがとうございます。本当に、素敵な部屋ですね」「気に入っていただけて、嬉しいです」 私がそう言うと、彼は微笑んだ。◇ 事前の言葉通り、湊さんは私に何一つ強制しなかった。 昼過ぎになると、彼は別荘のキッチンに立って、私のために食事の準備を始めた。 サンドイッチの時よりは少しだけ手際が良くなっているけれど、やはりどこかぎこちない。 その姿を見ていたら、気づけば私も自然に彼の隣に立って、野菜を洗い始めていた
last updateLast Updated : 2025-11-05
Read more

89

「さあ、食べましょう」 私が言うと、彼は「いただきます」と、少し改まった口調で言った。 湊さんはフォークでくるくると器用にパスタを巻き取る。上品な所作で口に運んだ。 しばらくの間、何も言わずにもぐもぐと咀嚼(そしゃく)していた。 その沈黙がなんだか少し、気まずい。「あの……お口に、合いませんでしたか?」 一緒に作ったけれど、味付けなどは私がやった。 おそるおそる尋ねると、彼は顔を上げた。その表情は、驚きと感動に満ちていた。「いえ……そうではなくて。ただ、驚いているんです」「何にですか?」「大切な誰かと一緒に作ったものを、こうして2人で食べる。それがこんなにも、心が温かくなるものだとは、知らなかったものですから」 素直な言葉に、今度は私が言葉を失う番だった。 私たちはそれからしばらく、無言でパスタを食べ進めた。 聞こえるのは、フォークと皿が触れ合うかすかな音と、遠い波の音だけ。 でもその沈黙は、今はもう少しも気まずくはなかった。◇「少し散歩をしてみましょうか」 食事が終わると、私たちは別荘の裏手にあるプライベートビーチへと、歩き出した。 春の午後の柔らかな日差しが、暖かく私たちを包み込んでいる。 私はパンプスを脱いで、素足になった。 キュッ、キュッと音を立てるきめ細やかな砂の感触が、足の裏に心地よい。思わず笑顔になった。 寄せては返す穏やかな波が、私の足元を優しく洗っていった。 湊さんも私にならって靴を脱ぎ、スラックスの裾を無作法にまくり上げている。 その姿がなんだか新鮮で、私はまた少し笑ってしまった。湊さんも笑顔を返してくれる。 私たちは言葉もなく、どこまでも続く海岸線を並んで歩いた。 太陽はまだ高くて、私たちの影は足元に短く寄り添っている。 彼が波打ち際で一つ、きれいな桜貝を拾い上げた。「どうぞ」
last updateLast Updated : 2025-11-05
Read more

90

「料理はまだまだですけれど、コーヒーは昔から自分で淹れていましたから」 私が褒めると、彼はちょっと照れたように笑う。 その後は散歩をしたり、音楽を聞いたりして過ごした。 私はやはり疲れていたようで、気がつけばウトウトと眠ってしまうことが多かった。 目覚めるといつも湊さんが近くにいる。冷えないようにひざ掛けをかけてくれたり、座っていたはずなのにいつの間にか横たえられていたりする。「すみません。お手数をかけてしまって」 私が恥ずかしくなって言うと、彼は微笑むのだ。「いいえ、ちっとも。あなたのお世話をするのは、とても楽しい時間ですから。何か音楽でもかけましょうか?」「ええと……そうですね。では、モーツァルトのクラリネット協奏曲を。好きなんです」 私が言うと、彼は嬉しそうに笑う。「夏帆さんの好きなものを知るのは、僕の喜びです。では、この曲を」 ヴァイオリンの軽快なメロディに続いて、クラリネットの優しい旋律が部屋を満たしていく。 お気に入りの曲が心を撫でていく感触は、とても心地よい。 私はまた微睡んでしまった。◇ 優しい時間は流れていって、とうとう最後の夜になる。 リビングの暖炉の炎が、ぱちぱちと静かに爆ぜている。 その炎を眺めながら、私たちはワインを片手にソファで並んでいた。 隣の湊さんをちらりと見上げれば、整った横顔が目に入る。美しい鼻筋に、形の良い唇。涼し気な目元は、今はワイングラスを見つめている。 いつもは上げている前髪が今は一部が下ろされていて、少しだけラフな色気があった。 ――覚えている。 あの夜も、彼は髪を乱していた。私を組み敷いて愛をささやいて、貪欲に求めてくれた。 私もまた彼を受け入れた。失った半身を取り戻すような、初めて感じる満たされた時間だった……。 穏やかな空気の中で、ふと。湊さんが私の髪にそっと触れた。 私はもう、その手を拒むこ
last updateLast Updated : 2025-11-06
Read more
PREV
1
...
5678910
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status