王子様系御曹司の独占欲に火をつけてしまったようです のすべてのチャプター: チャプター 111 - チャプター 120

181 チャプター

111

 速達の差出人の欄には、千代田区の区章と共に『建築指導課』という文字が印字されていた。 所長が訝しげな表情でそれを受け取り、封を切る。中の書類の束に目を通す彼女の顔から、みるみるうちに血の気が失われていった。「……どうしたんですか?」 私が尋ねても、所長は答えない。ただ紙を持つ彼女の手が、かすかに震えているのが見えた。 やがて彼女はそこに書かれた文章を、硬い声で読み上げた。「……建築基準法違反の、疑い……インペリアル・クラウン・ホテル新スイートルームに対する、一時的な、業務停止命令……ですって」 事務所の空気が凍り付いた。先ほどまでの騒がしさが嘘のように、キーボードを叩く音ひとつしない。 私は所長の手から奪うように書類を受け取って、自分の目で文面を追った。竣工を目前にした、あまりにも異例な「特別査察」の文字。 佐藤の顔が脳裏をよぎる。 これまでの妨害とは、その質がまったく違っていた。公権力という個人の悪意とは比べ物にならない圧力に、息が詰まった。◇ インペリアル・クラウン・ホテルズ、湊の副社長室。夜の部屋は、静まり返っていた。 湊さんはすでに秘書からの報告で、事態を把握していた。私が差し出した命令書の写しに一度視線を落としただけで、すぐに顔を上げる。「またしても、あなたにご迷惑を……」 私の声は、自分でも分かるほど弱々しかった。罪悪感で、彼の顔をまっすぐに見ることができない。「あなたが謝ることではありません」 湊さんの声は静かだった。その表情も、いつもと変わらない穏やかなものに見える。 だが、違った。 彼の表情はいつもと変わらない穏やかなものに見えた。だが違った。その瞳からいつもの柔らかな光が消えて、温度のない硬質な何かに変わっている。「随分と、古風な手口を使ってくれたものですね」 まるで他人事のように、彼は呟い
last update最終更新日 : 2025-11-16
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112:法の番人

 今日は予告された行政の監査の日である。 昨日までの熱気は、嘘のように消え失せていた。 業務停止命令が下された新スイートルームの現場は、不気味なほど静まり返っている。 職人たちの姿は既にない。使いかけの工具や材料が、作業途中の場所にそのまま残されていた。 壁に立てかけられたままのサンドペーパー。床に置かれた、中身が半分ほどの塗料缶。その光景の一つひとつが、理不尽にも突然断ち切られた工程を物語っていた。 私と湊さんは、その静寂の中心に立っていた。 完成間近だった空間が、今はただの巨大な抜け殻のように感じられる。職人たちが丹精込めて作り上げてきたものが、悪意の含まれた一枚の紙によって、その呼吸を止められてしまった。(もう少しで完成だったのに。悔しい。負けたくない) 私はぐっと奥歯を噛みしめた。 約束の時刻きっかりに、現場のエレベーターの扉が開いた。現れたのは、寸分の隙もなくスーツを着こなした男が2人。 先頭に立つ50代半ばの男は、痩身で神経質そうな印象を与えた。糊が効きすぎたワイシャツの襟が、細い首を締め付けているように見える。光を反射しない眼鏡の奥の目は、感情を読み取らせない。 彼が、千代田区の建築指導課から派遣された特別検査官、戸樫と名乗る男だった。 戸樫はこのプロジェクトの最高責任者である湊さんに一瞥もくれず、まっすぐに私の前に立った。「あなたが、設計担当の相沢夏帆さんですね。早速ですが、始めさせていただきます」 その声は事務的で冷たくて、人の体温というものが一切感じられなかった。◇ 戸樫の査察は、デザインの美しさや機能性には一切触れず、法律の条文だけを武器に進められた。彼は分厚いファイルを片手に、部屋の隅々まで値踏みするように視線を走らせる。 内壁の一点を、指先でこつこつと叩く。「この内壁材の耐火性能証明書ですが、国の基準は満たしている。ですが、東京都の建築安全条例施行規則、附則第11条3項が求める『多湿環境下における経年劣化耐性試験』の追加データが見当たりませんね。提出し
last update最終更新日 : 2025-11-17
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113

 次に彼は、私が『光の心臓』と名付けた照明を見上げた。「この吊り下げ照明の支持構造。建物の固有振動周期を考慮した上での、最大許容変異量の計算書は? 直下型地震だけでなく、長周期地震動を想定したシミュレーションデータを、明日中に拝見したい」 通常の査察であれば、ここまで短い納期の設定はあり得ない。はっきりとした悪意を感じる。 私は努めて冷静に、彼に向き直った。まず壁材を指し示す。「ご指摘の条例の附則ですが、そもそもこの壁材が取得している国土交通大臣認定の不燃材料証明は、ホルムアルデヒド放散等級区分で最高位のFフォースターを含む、あらゆる揮発性有機化合物試験をクリアした上でのものです。多湿環境下での性能維持についても、この認定の過程で検証済みです」 次に、天井の照明に視線を移す。「照明の支持構造に関しましても、建築基準法で定められた安全係数1.0に対し、我々は係数3.0で設計しております。3倍の強度です。これには当然、長周期地震動も想定に含んでおります」 毅然とした声を出せたはずだ。だが戸樫は私の説明を最後まで聞かずに、無表情に首を横に振った。「ですから、その証明書を出してください、と言っているのです。今日中に」 富樫は「今日中に」を強調した。 いくら具体的な数値や公的認証を挙げて説明しても、戸樫は聞く耳を持たない。完全に私の言い分を無視して、書類だけを要求してくる。陰湿なやり方だった。「規則は規則です。あなたの『解釈』を聞きに来たのではありません」 その間、湊さんは一切口を挟まなかった。 ただ戸樫のやり取りの一部始終を、何かを観察するような目で見つめているだけだった。◇ 監査が終わってすぐ、ホテル内に急遽用意された小さな会議室には、たくさんの紙が積まれていた。 テーブルの上にも床にも、分厚いファイルや図面、条例集が山のように積まれている。(言われた通り、今日中に提出しなければ) 私はその山に埋もれるようにして、一人、パソコンの画面と向き合っていた。 これは
last update最終更新日 : 2025-11-17
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114

 静かなノックの音と共に、湊さんが部屋に入ってきた。手には温かいコーヒーと、私が手をつけていなかった夕食が載ったトレイを持っている。 彼は書類の山を一瞥すると、責めるでも同情するのでもなく、ただ静かな口調で言った。「戸樫は、あなたが答えを見つけることを期待しているわけではない。この紙の量で、あなたの心を折りに来ているだけです」 私が顔を上げると、湊さんは続けた。「ですから、完璧な答えを用意する必要はありません。今は耐えてください。僕も、僕の戦い方を始めますから」 彼の言葉は具体的ではなかったが、水面下で巨大な反撃の準備が進められていることを示していた。(湊さんなら、必ずこの事態を切り抜けてくれる)「分かりました。信じます」 私が言うと、彼は少し嬉しそうに微笑んだ。「さあ、あまり根を詰めすぎないで。一度休憩にして、夕食を食べましょう」「ええ、そうします」 湊さんがいれば、きっと大丈夫。そう思うと少し気が楽になって、私はコーヒーカップを受け取った。 カップの温かさが、冷えていた指先と心に染み入るようだった。 ◇  臨時作業室としてあてがわれたホテルの小さな会議室は、3日目にして紙の要塞と化していた。 テーブルにも床にも、分厚いファイルや図面、条例集が山を築いている。飲み干したコーヒーの紙コップが傍らに積み上がり、部屋の空気はインクと紙の匂いで満ちていた。 私は、目の下に濃いくまを浮かべたまま、パソコンのモニターを睨みつけていた。思考がうまくまとまらない。 数時間前に読んだはずの条文が、ただの意味のない文字の羅列にしか見えなかった。ただでさえ条文や法律用語はややこしい。この疲れ切った頭は、そろそろ限界を迎えようとしている。 その時、受信トレイに新しいメールが滑り込む。差出人は、千代田区建築指導課、戸樫。『昨晩ご提出いただいた資料ですが、書式が都の指定様式と異なります。本日17時までに、全て再提出してください』 もうだ
last update最終更新日 : 2025-11-18
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115:王子様の軍勢

 午後になると、湊さんの秘書から内線があった。「相沢様。副社長が、至急、30階の特別会議室までお越しいただきたい、と」 特別会議室。役員会議が開かれる場所とはまた違う、選ばれた賓客だけが通される部屋だ。 なぜ私が、そんな場所に? 不安を抱えながらエレベーターを降りると、秘書が待っていた。彼に導かれて重厚なマホガニーの扉の前に立つ。中から漏れてくるのは、複数の人間の低い話し声だった。「失礼します。相沢様がお越しになりました」 秘書が言って、ドアを開けてくれた。 部屋に足を踏み入れた瞬間、私はその場の空気に気圧された。 広々とした、無駄なものが一切ない空間。 大きな窓の外には、東京の都心のパノラマが広がっている。 その景色を背に長大なテーブルを囲んで座っていたのは、湊さんと、剃刀のような鋭い知性を感じさせる、5人の男女だった。 中心に座る男が、私を一瞥する。年は40代半ばだろうか。完璧な仕立てのスーツに、縁のない眼鏡。その奥の瞳は、私の内面の隅々まで見透かすように、冷たく光っていた。「紹介します。建築紛争を専門とされている、桐咲先生です」 湊さんの言葉に、私は慌てて頭を下げる。 桐咲。その名はこの業界で一度でも法的な問題に関わった者なら、誰もが知っている。精密で容赦のない手法から「法廷の外科医」の異名を持つ、不敗の弁護士だった。「桐咲です」 彼は短く応えると、すぐに手元の資料に視線を戻した。「この戸樫という男、過去にも同様の手口で、複数の小規模な設計事務所を廃業に追い込んでいる。グラン・レジスの佐藤専務とは、長年にわたる癒着関係と見て間違いないでしょう」 桐咲先生は、スクリーンに映し出された戸樫の経歴を指しながら、淡々と分析を述べる。「これは査察ではない。手続きを悪用した、法的な消耗戦です。守っていては勝てない。我々が仕掛ける」 湊さんが、私に向き直った。「相沢さん。僕たちは、戸樫検査官個人と、その監督責任を怠った千代田区に対し、本日付で損害賠償請求訴訟
last update最終更新日 : 2025-11-18
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116

 会議が終わると、湊さんは私を副社長室へと連れて行った。「法的な反撃は、桐咲先生に一任します。ですが、我々の武器はそれだけではない」 彼はパソコンを操作し、ビデオ通話の画面を立ち上げた。 画面の向こうに映し出されたのは、白髪を後ろに撫でつけた、品の良い初老の紳士。パリ在住の世界的な建築家、ジャン=ピエール・ルソー先生だ。私が学生時代から、その作品と思想を敬愛してやまない人物。『やあ、ミナト。君から連絡があるとは、珍しい』 流麗なフランス語での挨拶に、湊さんも同じ言語で返す。「夏帆さんはフランス語が分からなければ、翻訳アプリで聞いていてください」 私に小声で言ってから、彼はルソー先生に向き直った。 法律の話は一切せず、彼はこう切り出した。『先生。今、東京で、一人の才能ある若きデザイナーが、旧態依然とした官僚主義によって、その創造性の翼を折られようとしています』 湊さんは私のデザインコンセプトと、戸樫による不当な査察の現状を、芸術家のプライドに訴えかける言葉で語っていく。 湊さんは、まずルソー先生の功績に深い敬意を表した上で、私のデザインについて語り始めた。彼のフランス語は、まるで音楽のように滑らかだった。『今、東京で、先生の哲学を継ぐかのような試みが行われています。相沢夏帆というデザイナーが、「記憶に残る空間」をテーマに、人の営みに寄り添う時間そのものをデザインしようとしているのです』 彼は私のコンセプトを、私以上に深くて詩的な言葉で説明していく。さらに続けた。『しかし、その試みが今、法律の条文しか読めない役人によって、価値を否定されようとしています。「耐火性能の証明書が足りない」「安全係数の計算式が違う」と。彼らは、彼女がデザインに込めた温もりや物語を、一切理解しようとしない』 私は息を詰めて彼らのやり取りを見守っていた。湊さんは最後に、静かな口調の中に熱を込めて言った。『先生。このままでは、新しい才能の芽が、無理解によって摘み取られてしまう。どうか、あなたの言葉で、彼女のデザインが持つ真の価値を、彼らに教えてはいた
last update最終更新日 : 2025-11-19
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117

 その夜、疲れ果てて臨時作業室に戻った私の机に、湊さんが音もなく、一枚の薄いファイルを置いた。「パリから、最初の草稿が届きました」 私は、ほとんど無意識にそのファイルを開いた。 そこには尊敬するルソー先生が、流麗なフランス語で私のデザイン哲学を絶賛する文章が綴られていた。『このデザインは、単なる空間設計ではない。現代に生きる我々が失いかけた、時間への敬意を取り戻すための、詩的な試みである――』 その一文から目を離すことができない。ひどい消耗戦の果てに差し込んだ、力強くて美しい光。 私が顔を上げると、湊さんは頷いた。「あなたの戦う場所は、こんな紙の山の上ではない。もう少しの辛抱です」 ファイルを持つ指先にぎゅっと力がこもる。湊さんが取り付けてきてくれた、一枚の紙の確かな重み。 ここ数日、私を縛り付けていた疲労がふっと軽くなる感覚があった。顔を上げると、あれほど私を追い詰めていた書類の山が、ただの背景のように遠ざかっていた。 ◇  千代田区役所の特別会議室は、無機質な空間だった。 張り詰めた空気の中、長テーブルを挟んで私たちは向かい合っていた。こちら側には私と湊さん、そして弁護士の桐咲先生たち。向こう側には検査官の戸樫と、その上司である建築指導課の課長が座っている。 審議が始まると、戸樫は自信に満ちた態度で立ち上がり、これまでの査察結果を報告し始めた。「これだけの是正勧告にもかかわらず、設計者側からは、条例の完全な遵守を証明する、十分な資料が提出されなかった」 彼が指し示したのは、私がこの数日間、睡眠時間を削って作り上げた書類の山だった。その厚みには目もくれず、彼は淡々と報告を続ける。「結論として、本プロジェクトには、看過できない重大な欠陥が存在する。よって、業務停止命令の継続が妥当であると判断します」 勝ち誇ったようにそう宣告した。◇ 湊さんは微動だにしない。ただ、隣の桐咲先生に目配せをした。
last update最終更新日 : 2025-11-19
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118:決着

「戸樫検査官が根拠とした条例附則第11条3項ですが、これは『新規に開発された化学建材』を対象とするものであり、大臣認定を受けた実績のある本件の建材には適用されない。あなたの拡大解釈、もしくは意図的な誤読です」 桐咲先生の追及は止まらない。「長周期地震動のシミュレーションデータの要求。これも、建築基準法第20条が定める構造計算の要求範囲を逸脱した、検査官個人の権限乱用に他ならない」 戸樫の上司である課長の顔色が悪くなっていく。「いや、それは、予防的措置として……」 戸樫はうろたえながら反論しようとするが、、桐咲先生の完璧な理論武装の前には無意味だった。◇ 会議室の空気が完全に逆転した時、湊さんが初めて口を開いた。「課長。法的な解釈とは別に、もう一つご覧いただきたい資料があります」 彼の秘書が、美しく製本された数冊のファイルを、課長と戸樫の前に置く。表紙には『インペリアル・クラウン・ホテル新スイートルームのデザインに関する専門家意見書』と記されていた。 湊さんは執筆者の名前を一人ひとり、静かに読み上げる。「パリ、ジャン=ピエール・ルソー先生。建築家、片桐先生……」 誰もが業界で名声の高い有名人ばかりだ。 名前が読み上げられるたびに、課長の顔がこわばっていく。湊さんは、ルソー先生の意見書の一節を読み上げた。「『このデザインは、法基準を満たすという次元の話ではない。建築が人の心に何をもたらすかという、根源的な問いへの、一つの優れた回答である』」 法の専門家による論理と、建築界の最高権威による肯定。 その2つの前に戸樫は顔を青ざめさせて、完全に沈黙した。◇「そして、これが最後の資料です。戸樫検査官」 桐咲先生が、最後のファイルを取り出した。中の一枚の紙には、金の流れを示す簡潔な図が描かれている。 佐藤のダミー会社から、複数の口座を経由して、戸樫の親族名義の口座へと多額の
last update最終更新日 : 2025-11-20
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119

【三人称視点】  その頃、グラン・レジス東京の地下3階。 倉庫脇の窓のない狭い部屋で、佐藤は壁のシミを睨みつけながら、冷めきったコーヒーをすすっていた。(なぜ、俺がこんなみじめな思いをしなければならん。だが、それも今だけのことだ。見ていろ、黒瀬、相沢。目にもの見せてくれる) 戸樫からの「勝利報告」だけが、彼の最後の希望だった。黒瀬湊が失脚して自分が返り咲く様を想像し、顔には不気味な笑みが浮かんでいる。 内線電話が鳴る。スイスの本社CEOからだった。(来た!) 佐藤は、手柄が認められる時が来たと身を乗り出す。「サトウ。君は、まだ我々に恥をかかせるつもりか?」 電話口のCEOの声は、氷のように冷たかった。インペリアル・クラウン・ホテルズ側から、贈収賄の証拠を含む全てが、本社のコンプライアンス部門に直接送られてきたという。「君は解雇だ。会社の名で、君に対する損害賠償請求も行う」「そ、そんな。お待ちください、これは何かの間違い……」 電話が切れる。最終通告だった。 佐藤の顔から表情が抜け落ちて、受話器が手から滑り落ちる。最後の希望が、音を立てて砕け散った。(馬鹿な……。どうしてこうなった!) 呆然とする彼の部屋のドアが、ノックもなしに開かれる。入ってきたのは本社の内部監査担当者と、屈強な警備員たちだった。「佐藤氏、ご同行願います。あなたの私物はこの箱に」 彼は薄暗い地下の廊下を、社員たちの好奇の目に晒されながら、犯罪者のように連行されていった。◇ 【夏帆視点】 私と湊さんが区役所の外へ出ると、午後の明るい日差しが眩しかった。 鮮やかな逆転劇を目の当たりにして、私はまだ言葉が見つからない。感謝も驚きも安堵も、どんな言葉も陳腐に思えた。 湊さんは、いつもの穏やかな表情で私に微笑んだ。「帰りましょう、相
last update最終更新日 : 2025-11-20
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120:王子様の弱点

 査察問題が解決してから数日、アトリエ・ブルームの事務所には日常が戻っていた。 プロジェクトは竣工に向けて最終段階に入り、誰もがその成功を信じて、目の前の仕事に集中している。 私もまた、その一人だった。この空間が完成すれば私の役目は終わる。その事実だけを胸に、私はただ黙々と手を動かしていた。 最近の体調不良はなかなか治らなかったが、そんなことは言っていられない。 最高の仕事と成果を。その思いが私を突き動かしていた。 午後のある時、私のスマートフォンが短く振動した。ディスプレイに表示されたのは、見知らぬ番号。会社の代表番号でも、これまでに登録した担当者の誰のものでもない。(誰かしら? この時期に新規の取引先?) このスマホは仕事用なので、たまに飛び込みの営業などが入ってくる。 通話ボタンを押すと、聞こえてきたのは聞き慣れた湊さんの秘書の声だった。 だがいつも冷静沈着な彼の声が、明らかに動揺している。「相沢様、突然申し訳ありません。副社長には固く口止めされているのですが、どうしても……」 秘書は続ける。「実は、副社長が高熱を出してしまいまして。今日は仕事を休んで、自宅で療養しています」「えっ。お医者様にはかかったのですか?」 私は驚いた。「はい。かかりつけの医師の医師の往診を受けました。ただ、それ以降は家政婦を下がらせて、一人でいるのです。私にも部屋には入るなと指示していまして」「そうですか……」「大変僭越とは存じますが」 と前置きし、秘書は続けた。「副社長が最も信頼を寄せているのは、私の知る限り相沢様です。仕事上のお付き合いの方に、このようなお願いをするのは筋違いだと承知の上で……少しだけでも様子を見ていただけないでしょうか」 秘書の口調は、上司を気遣って心配している様子が聞き取れた。同時に少しだけ含みも感じる。 おそらく彼は、夏帆と湊の関係性に気づいている。
last update最終更新日 : 2025-11-21
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