All Chapters of 王子様系御曹司の独占欲に火をつけてしまったようです: Chapter 161 - Chapter 170

180 Chapters

161:裁きの日

 湊さんのペントハウスに戻った私を、彼は一つの部屋に案内してくれた。 そこは彼の仕事場である書斎からも一番遠い、角部屋の静かなゲストルームだった。 部屋は白と柔らかなベージュを基調とした、落ち着いたインテリアで整えられている。大きな窓からは公園の緑が見下ろせた。 ドアの内側には、ごく普通の鍵がついていた。いつでも私自身の意思で、この部屋を施錠できる。 その一つひとつの選択に、今の彼の私に対する最大限の配慮と尊重の意志を感じた。 クローゼットを開ける。中に入っているのは、監禁中に着せられていた人形のようなドレスではない。私が元のアパートに置いてきた見慣れた仕事用のジャケットや、着心地の良い普段着がきちんと並べられている。 デスクの上には、私のスケッチブックと愛用しているメーカーの製図用ペン。本棚には彼の美術書の隣に私の専門書が数冊。 ベッドサイドのテーブルには、私が一番好きだと話したフリージアの花が、小さな一輪挿しに生けられていた。 かつて湊さんのペントハウスは、モデルルームのように無機質だった。でも今は、私の「暮らし」が少しずつ、根を下ろし始めている。◇ その日の午後、私はリビングのソファに座り、新しいデザインのアイデアをスケッチブックに描いていた。湊さんは、少し離れたデスクで静かにノートパソコンに向かっている。 お互いの存在を心地よく感じながらも、それぞれの時間に干渉しない。そんな穏やかな空気が、私たちの間に流れていた。 湊さんが仕事の手を止めて、尋ねる。「夏帆さん、何か飲むかい? ハーブティーでも淹れようか」「ありがとう。じゃあ、お願いしようかな」 何かをする前に必ず私の意志を確認する。それが私たちの新しい日常になっていた。 彼がキッチンに立っている間、私は意を決して、中断していたプロジェクトについて切り出した。「あのね、湊さん。来週から、私も現場に復帰したいと思ってるの。もちろん、体に無理のない範囲で。最終的な仕上げは、やっぱり自分の目で確かめたいから」 ハーブティーを差
last updateLast Updated : 2025-12-13
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 湊さんが淹れてくれたハーブティーを飲んでいる時のこと。彼のスマートフォンが着信を告げる。 ディスプレイを見た表情が、真剣なものに変わった。「弁護士の桐咲先生からだ」 湊さんはスピーカーフォンに切り替えると、「君にも聞いておいてほしい」と言って、通話ボタンを押した。『黒瀬様。ご報告いたします』 スピーカーから聞こえてきたのは、桐咲弁護士の冷静で感情の読めない声だった。『たった今、東京地検特捜部が、佐藤元専務の身柄を逮捕しました。容疑は、贈収賄および特別背任罪です』 スピーカーから、桐咲弁護士の淡々とした声が続く。『我々が提出した金の流れに関する証拠。あれが決定打となりました。グラン・レジス本社は、佐藤元専務を切り捨てることで、ブランドイメージの損失を最小限に抑えることを選んだようです。彼らが提供した内部監査資料が、全てを裏付けました』 桐咲先生はさらに付け加えた。『また、今回の特捜部の動きを見て、これまで彼の要求に泣き寝入りしていた複数の下請け業者が、次々と証言に名乗りを上げた、とのことです。結果として、彼が長年にわたって築き上げてきた不正の全てが、明るみに出ました』 私はその報告を黙って聞いていた。 勝ったのだ。長く暗い戦いが、ようやく終わった。 けれど胸に広がったのは、勝利の高揚感や激しい復讐心ではなかった。ましてや「ざまあみろ」という気にはなれなかった。 一人の人間の人生が今、完全に終わった。それがどれだけ正当な罰であったとしても、人の転落を目の当たりにすることに、喜びなどない。 全てが終わったのだ。ずっと張り詰めていた肩の力が、ふっと抜けていくのを感じる。 けれどどこか物悲しく、ひどく疲れたような感覚も同時にある。そんな安堵の気持ちだった。◇ 夜の経済ニュースに、緊迫したBGMが鳴り響いた。『緊急ニュースです。大手外資系ホテル、グラン・レジス東京の元専務、佐藤容疑者が、本日、特別背任などの容疑で東京地検特捜部に逮捕されました』 アナウ
last updateLast Updated : 2025-12-14
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 無数のフラッシュが焚かれた。怒号のような質問が飛び交う中、彼はうつむいて手で顔を覆おうとする。私や湊さんを嘲笑った傲慢なエリートの面影は、どこにもなかった。 画面には、かつての彼のエリート然とした顔写真の横に、「逮捕」という赤いテロップが冷たく表示されている。 画面はスタジオに戻った。アナウンサーが、明朗な声で佐藤の罪状を一つひとつ読み上げていく。『佐藤容疑者は、競合ホテルのプロジェクトを妨害する目的で、元公務員に賄賂を渡したほか、工事関係者を唆し、エレベーターを故意に落下させた、傷害未遂の教唆などの疑いが持たれています』 私の身に起きた悪夢のような出来事が、たった数行の他人事のような文章に要約されていく。 画面の端には、『佐藤容疑者の主な容疑』というテロップと共に、箇条書きで『贈収賄』『傷害未遂教唆』『特別背任』といった用語が並んでいた。『また特捜部では、ベイエリアの開発計画に絡むインサイダー取引や、長年にわたる不正なリベートの受け取りについても、捜査を進める方針です』 アナウンサーの読み上げに、コメンテーターが頷いた。『まったくひどい話ですね。グラン・レジスはスイス系の歴史あるホテルですが、ブランドイメージに大打撃を受けるでしょう』『今後、佐藤容疑者はどうなるのでしょうか?』『当然、解雇。これだけの罪があれば実刑判決は間違いないです。刑事訴訟だけでなく、民事訴訟も起こされるでしょうね。特にブランドを傷つけられたグラン・レジスは、徹底的に追求すると思いますよ』 私が直接知らなかった罪まで、次々と暴かれていく。 佐藤の社会的生命が、日本中のテレビの前で一つずつ抹消されていく瞬間だった。 隣に座る湊さんは、その光景を黙って見つめていた。 彼の横顔には、何の感情も浮かんでいない。喜びも怒りも、憐憫さえも。ただ全てが終わった後の、完全な静けさだけがそこにあった。 私はその冷たい眼差しに、一瞬だけあの山荘での狂気を思い出した。背筋が冷たくなる。 だが、すぐに気づいた。これは違うのだと。 あの時の彼の瞳に宿っていたのは、
last updateLast Updated : 2025-12-14
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164:私たちのスイートルーム

 佐藤が逮捕されてから、一週間が過ぎた。 エレベーターの事故以来、初めて現場に復帰する日。ホテルのエントランスへと向かう車の中で、私の胸には期待と不安が入り混じっている。 長らく現場を離れてしまったことへの、申し訳なさ。私のせいでプロジェクトに大きな遅れが生じた。心配もかけてしまった。 現場の皆は今、私のことをどう思っているだろうか。以前のように一人のデザイナーとして仲間として、受け入れてくれるだろうか。 そんな私の緊張を察したのか、隣に座る湊さんが私の手をそっと握った。「大丈夫だよ。みんな、夏帆さんを待っている。君が、どんな想いでこの仕事に取り組んできたか、一番分かっているのは、現場の彼らだからね」 その言葉に、私は顔を上げた。「そうだった。私は私の仕事をするために、あの場所に帰るのだわ」 車を降りる。私は松葉杖を手に、自分の足でしっかりと前を向いて歩き出した。心は驚くほど晴れやかだった。デザイナーとしての私の戦場に、ようやく戻ってこられたのだ。 スイートルームの現場には、最終仕上げのための職人たちが集まっていた。私の姿を認めると、現場監督が、ガラス職人の高村さんたちが、駆け寄ってくる。 アトリエ・ブルームの所長や同僚たちもいて、口々に私を出迎えてくれた。「相沢さん、待ってたよ!」「お体、もう大丈夫なんですか」「あのエレベーターの事故。グラン・レジスの佐藤がやったんだって? ひどいことしやがる」「黒瀬副社長から、療養中だと聞いていましたよ」「ええ、もう大丈夫です。心配をかけてしまってごめんなさい」 私が微笑むと、現場監督が頭を下げる。「相沢さん、すまねえ。俺の名を騙って呼び出されたんだって? 部下があんなことをやって、どう詫びればいいのか」「監督が謝ることではないですよ。私ももっと確認すればよかったんです」 彼らの言葉と眼差しは、私の復帰を心から歓迎する温かいものだった。湊さんはそんな私たちを一歩下がった場所から、微笑みながら見守っている。 私を信じて待ち続け
last updateLast Updated : 2025-12-15
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「照明の角度が、ほんの少しだけ違う」 私の呟きに、湊さんが隣にやってくる。「どういうことだい?」 私は違和感を感じた場所を指さした。「この絵画は、左上からの柔らかな光で照らされた時に、背景の深い青が、最も美しく見えるように計算されているの。でも、今の角度だと、光が強すぎて、その繊細な色が飛んでしまっている」「ふむ……」 以前の湊さんなら権力で業者を呼びつけて、即座に修正を命じたかもしれない。だが今の彼は違った。 湊さんは私の分析に静かに耳を傾けた後、こう尋ねた。「どうすれば、君の理想の光になるかな?」「そうね……。照明の角度を0.5度だけ調整して、その手前にスクリーンを追加すれば。スクリーンは一番薄いタイプの紗(しゃ)を、一枚だけ」「それはずいぶんと、繊細なアイディアだ」 湊さんは目を丸くした後、すぐに頷いてくれた。「分かった。すぐに、君が指示した通りのスクリーンを特注しよう」 彼は私の創造性を実現するために、最高のサポーターとして動いてくれた。二人の間の極めてシームレスな協力関係。それが何より誇らしい。「なんだ、なんだ。お二人さん、ずいぶんと息ぴったりじゃないか」 ガラス職人の高村さんが、からかうような口調で言う。 私は悪戯っぽく笑って答えた。「ええ。私たち、最高のパートナーなんです」◇ 全ての調整が終わった。職人やアトリエ・ブルームの同僚たちは、挨拶をして去っていく。 最後の職人さんが、深々と一礼して部屋を出ていった。重厚なドアが閉まると、スイートルームは満ち足りた静寂に包まれた。 もう工具の音も、人の話し声も聞こえない。空気は磨かれた木材と、新しい布地の匂いで満たされている。 私たちは部屋の中央に、二人きりで佇んでいた。 折しも夕暮れの西日が、壁一面の大きな窓から蜂蜜色の光となって、部屋の奥まで差し込んでくる。その光は、私が選び抜いた
last updateLast Updated : 2025-12-15
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 暮れなずむ空と部屋の光は一体となって、どこまでも心を広く解放させてくれる。 灯り始めた都心の明かりが、一番星のように地上にきらめいていた。 この空間に満ちる穏やかな光を見つめていると、これまでの全ての出来事が頭をよぎっていく。 夫に裏切られて全てを失ったと思った、あの絶望の夜。 罪悪感と後悔から始まった、湊さんとの一度きりの過ち。 それでもこの仕事だけが、私が私でいられる唯一の支えだった。数えきれないほどの悪意に心を折られそうになったし、愛が狂気に変わるほどの絶望も味わった。 だがその全てを乗り越えて、私たちは今ここに立っている。 この部屋の壁も床も、の温かい光も。まるで私たちが歩んできた道のりの全てを吸い込んで、輝いているかのようだった。 長い沈黙を破ったのは、湊さんだった。彼は、部屋の中央で柔らかく光る『光の心臓』を、愛おしそうに見上げている。「……すごいな」 ぽつりと感嘆の声が漏れる。「僕が昔、夢に見ていた空間がここにある。いや、それ以上だ。君に頼んで、本当によかった。ありがとう、夏帆さん」 その声はクライアントからデザイナーへ送られるような、単なる賛辞ではない。同じ夢を見た者からの、心からの尊敬が込められていた。 私はその言葉を胸に、そっと自分のお腹に手を当てる。 この部屋は、私のデザイナーとしての仕事の集大成。それは間違いない。けれど今は、それだけではないと思えた。「ねえ、湊さん」 だから私は語りかける。隣りに立つ彼に。「この温かい光。この優しい色……。私は、この場所が見知らぬ誰かの「記憶に残る空間」になるよう願ってデザインしたの。でも、見知らぬ誰かだけじゃなく、生まれてくるこの子が目にする世界になるのかもしれないわね」 私は彼の手を取った。「この部屋は私の仕事の終着点。でも、それだけじゃない。湊さんとこの子と、未来を築いていくための最初の礎になるのだわ」「……夏帆さん」
last updateLast Updated : 2025-12-16
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167:黒瀬家の食卓

 スイートルームが完成してから、数週間が過ぎた。 私たちの作り上げたあの空間は、業界内外で予想を遥かに超える反響を呼んでいた。 目の前のローテーブルには、発売されたばかりのデザイン誌『モダン・デザイン』が、特集ページを開かれたまま置かれている。 見出しは、『光と記憶の聖域(サンクチュアリ)』。 見開きいっぱいを使って、夕暮れの光に満ちたスイートルームの写真が掲載されている。その片隅には、「デザイナー・相沢夏帆」の名前が存在感をもって記されていた。 私はその記事の一節を、指でなぞる。『特筆すべきは、デザイナー相沢夏帆氏の光と影に対する詩的な洞察力だ。彼女が「心臓」と名付けた照明は、単に空間を照らすのではない。滞在者の心に直接語りかけるような、物語性のある光を生み出す。豪華な素材を誇示するだけの従来のラグジュアリーとは一線を画し、この空間は、利用者がそこで過ごす「時間」そのものを、最も価値のある体験としてデザインしている。これは、現代ホスピタリティの一つの到達点と言って、過言ではないだろう……』 私の名前と私のデザイン哲学が、私が最も尊敬する雑誌に、最高の賛辞と共に刻まれている。 誇らしさで胸がいっぱいになった。 湊さんは私の隣で、山のように積まれた雑誌を一冊ずつ楽しそうにめくっていた。「ほら、見てごらん。この記事も、君のデザインを絶賛してる。こっちの建築専門誌では、君の「光の心臓」の技術的な解説まで載ってるよ」 彼が指さすページには、私が描いた照明の構造図が専門的な解説と共に掲載されている。湊さんはまるで自分のことのように、誇らしげに微笑んでいた。「すごいな、夏帆さんは。もう、僕だけのデザイナーじゃなくなってしまったみたいだ」 少しだけ拗ねたような冗談めかした口調に、私は思わず笑ってしまった。「もう、からかわないでよ。……でも、ありがとう。湊さんが、最後まで私のデザインを信じて、守ってくれたから。だから私も、最後まで走りきれたの」 私がそう言うと、彼は雑誌をローテーブルに置いた。私の髪を
last updateLast Updated : 2025-12-16
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 湊さんは少しだけ億劫そうに手を伸ばし、画面をタップする。 途端に湊さんの表情から、先ほどまでの柔らかな笑みが消えた。眉根がわずかに寄せられる。その目は優しい恋人ではなく、インペリアル・クラウンの副社長のそれに変わる。「父からだ。見て」 そう言って、タブレットの画面を私に向けた。そこにはただ一文「週末、相沢さんと二人で本邸に来なさい」という、簡潔で有無を言わせぬ命令が記されていた。 その文字列を見た瞬間。さっきまで感じていた幸福な温もりが、急速に引いていくのを感じた。 背筋が冷たくなる。 脳裏に、あの日の光景がよぎる。長いダイニングテーブル。私を値踏みする、黒瀬社長の冷たい視線。微笑んでいるのに全く笑っていない、黒瀬夫人の瞳。あの家全体を支配していた、息の詰まるような空気が目の前に蘇った。◇ 湊さんは、私の顔から表情が消えたのにすぐに気づいた。彼はタブレットの電源を落とすと、ローテーブルの上に画面を伏せて置いた。まるで、そのメッセージが存在しなかったかのように。 私の隣に腰を下ろす。固く握りしめられていた私の手を、その両手で包み込んだ。「夏帆さん」 呼ばれて顔を上げる。彼の瞳が、まっすぐに私を見つめていた。「大丈夫だよ。今回は、前回とは違う。僕が君の隣にいる。決して、君を一人にはさせないから」 湊さんは私の手を握る指に、ぐっと力を込めた。私ははっとして彼の顔を見上げる。 彼の瞳は先ほどまでの優しい色とは全く違う、硬質な光を宿していた。私をまっすぐに射抜くような、強い眼差し。「いいかい、夏帆さん。よく聞いて」 彼の声は低く静かだった。だが静けさとは裏腹に、力強い響きがあった。「もし今度の食事の席で、父や母が、君の尊厳を少しでも傷つけるような言葉を口にしたら。その瞬間に、僕は君を連れて、あの家を出る。二度と敷居は跨がない」 ただの慰めではない。湊さんは本気だ。「僕が選んだのは、黒瀬の跡継ぎという立場じゃない。夏帆さん、君なんだ。たとえ勘当されることになったとして
last updateLast Updated : 2025-12-17
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「勘当なんてことにならないよう、できるかぎり手を尽くしましょう。ご両親が私を認めてくださらないなら、認められるよう頑張るわ。私だって、あなたの味方なの。だからご両親と仲違いするような真似は、可能な限りしてほしくない」「……夏帆さん」 彼はふと笑った。以前の完璧な王子様の微笑みではなく、心底嬉しそうな顔で。「ありがとう。そうだね、最初から対立するだけではなく、話し合えるよう頑張ろう。ああ、やっぱり夏帆さんにはかなわないなぁ」 そう言って、私の手を頬に当てている。(この人と一緒なら、きっと大丈夫) 私も自然にそう思えるようになっていた。◇ 週末の夜、湊さんの運転する車が、重厚な門を通りる。私たちは黒瀬家の本邸の前に着いた。 立派な瓦屋根と白漆喰の壁が印象的な、荘厳な日本家屋。玄関では、初老の執事が深々と頭を下げて、私たちを待っている。 車を降りた瞬間、ひやりとした夜気が私の肌を撫でた。無意識に息を詰める。この場所に、良い記憶はない。 長い廊下を歩いて、ダイニングルームの扉が開かれる。以前と同じ長いテーブルと、高い天井が目に入った。息が詰まるような、完璧で冷たい空間。 だが今回は違った。私の隣には湊さんがいる。彼は私の腰に手を回した。彼の体温で私の緊張を解かすように、支えてくれていた。「大丈夫だよ」 湊さんは他の誰にも聞こえない声で、私の耳元でささやいた。 その一言だけで私は強くなれた。私はもうたった一人でこの場所に立つ、無力なデザイナーではない。彼の対等なパートナーなのだから。 執事に案内されたダイニングルームで、湊さんのご両親は二人並んで私たちを待っていた。「湊。そして相沢さん。よく来てくれた」 黒瀬社長が、低く重みのある声で言った。その視線には、以前のような私を値踏みするような色はない。「相沢さん、どうぞお楽になさって』 隣に立つお母様も、穏やかな表情で私に告げる。以前のような笑みの下に隠された棘は、もう感
last updateLast Updated : 2025-12-17
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 メインディッシュの皿が下げられる。食後のデザートが運ばれてきた時のこと。 黒瀬社長がカトラリーを置いた。私に向き直る。「相沢さん……いや、夏帆さん」 彼は、あえて私の名前を呼び直した。「今回のスイートルームの件、君の仕事は実に見事だった。『モダン・デザイン』誌の評価も読ませてもらった。黒瀬グループの人間として、誇らしい限りだ」 私は背筋を伸ばして、その言葉を聞いていた。「正直に言おう。私は当初、君を誤解していた。佐藤が仕掛けた数々のトラブルに惑わされ、君をビジネス上の障害だとさえ考えていた。私の不明の致すところだ。君は、逆境の中でこそ真価を発揮する、本物のプロフェッショナルだった」 黒瀬社長はそこで一度言葉を切る。私と隣に座る湊さんの顔を、交互に見た。「息子のパートナーとして、だけではない。一人の優れたデザイナーとして、私は君を心から尊敬する。これまでの、私の数々の非礼を、この場で、詫びさせてほしい」 黒瀬家の当主である彼が椅子から立ち上がり、私に向かって深く頭を下げたのだ。 私はその光景に、息をすることさえ忘れた。隣で湊さんが私の手を強く握ってくれる。その感触だけが、唯一の現実。 黒瀬社長が頭を下げた後、ダイニングルームは再び静寂に包まれた。私はまだ目の前の出来事が信じられずにいる。 沈黙を破ったのは、これまで固い表情でことの成り行きを見守っていた、湊さんのお母様だった。 彼女はナプキンをテーブルに置くと、私の方を向いた。その瞳には以前のような、私を品定めするような棘はない。「夏帆さん。正直に申し上げますと、私は、あなたのことを、快くは思っておりませんでした」 驚くほど率直な言葉だが、私は不思議と嫌な気持ちにはならなかった。「黒瀬の家に嫁ぐ方は、家柄も、育ちも、それにふさわしい方でなければならない。それがこの家を守るため、そして何より、湊のためだと信じておりましたから」 彼女はそこで一度、隣に座る湊さんの顔を見た。慈しむような、どこか痛ましげな目だった。「けれど
last updateLast Updated : 2025-12-18
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