All Chapters of 王子様系御曹司の独占欲に火をつけてしまったようです: Chapter 141 - Chapter 150

180 Chapters

141

 エレベーターの事故で、私は病院に運び込まれた。怪我の処置をする際に、一通りの検査をしたはずだ。 私は湊さんの常軌を逸した過保護さを思い出す。 彼は死にかけた私を心配するあまり、少しおかしくなってしまったのだと思っていた。 でも、それだけではないとしたら? 彼は私の妊娠を知っていて、子供ごと囲い込もうとしている……? 私はおそるおそる、自分のお腹に手を当てた。少し張ったお腹はわずかに膨らんでいる、ような気がする。 胎動とか、そういった実感はまだ感じられない。(私に新しい命が宿っている……) 本当なら喜ぶべきなのに。 この鳥かごの中で、正気を失ってしまった彼の子を産む。その想像は、私を絶望に突き落とした。◇ 絶望の中で、私は無意識に自分のお腹に手を当てていた。よく確かめなければ分からない程度の、かすかな膨らみ。そこに自分以外の命が宿っているという事実は、私の中で確信となっている。 最初に私を襲ったのは新たな恐怖だった。 この鳥かごの中で、狂気に囚われた男の腕の中で、子供を産み育てる? そんな未来をこの子に強いるというのか。(冗談じゃない) その思いが、心の奥底で小さな火種のように生まれた。それは瞬く間に燃え広がり、私の中の諦めに似た絶望を焼き尽くしてくれた。 これはもう、私一人のための脱出ではない。この子の未来を守るための戦いだ。そして――愛するがゆえに壊れてしまった湊さんを、正気に戻すための戦いでもある。 そう悟った瞬間、霧がかっていた視界がはっきりと開けた。(この子を、こんな場所で産むわけにはいかない) 私はお腹に当てていた手に、そっと力を込める。気力を失っていた体に、一本の硬い芯が通るような感覚があった。 デザイナーとして責任をもって仕事に取り組んでいた頃の気持ち。それが鋭い光となって目の奥に灯るのが、自分でも分かった。 まずは、湊さんと話し合わなければならない。
last updateLast Updated : 2025-12-03
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「もちろんです、夏帆さん。あなたの望みなら、いつでも」 彼は優しく私の手を引いて、立ち上がらせる。肩を支えながらリビングへと導いた。「暖かい場所で、ゆっくり話しましょう」 湊さんは私を暖炉のそばのソファに座らせると、手際よく薪をくべて火を入れた。パチパチと炎が静かに燃え始める。 これが最後の対話の機会になるかもしれない。私は緊張する声を抑えて、揺れる炎を見つめた。それからできる限り冷静に、真剣に語りかけた。「湊さん。あなたが私と……この子のことを、心から大切に思ってくれているのは、もう分かっています」 彼は私の言葉に、嬉しそうに頷いた。「夏帆さんも気づいたのですね。ええ、あなたのお腹には僕たちの子がいる。大事に大事にしなければなりません」 彼の表情は愛情に満ちている。 私は違和感を押し殺しながら続けた。「でもこの環境は、子供にとって本当に良いものでしょうか? 社会から隔離されて限られた人間しか知らずに育つことが、この子の幸せに繋がるとは、私には思えません。それに私は母親である前に、一人の人間です。自分の足で立って仕事をする母親の姿を、この子に見せたいんです」 湊さんは、私の話を優しく最後まで聞いてくれた。その表情は、私の訴えを真剣に受け止めているように見えた。 だが彼の口から返ってきたのは、私の期待とはかけ離れたもの。何も変わらない「狂気」の答えだった。「心配いりませんよ、夏帆さん。教育なら、世界中から最高の家庭教師をここに呼びます。友達が必要なら、僕たちが厳選した心根の優しい子供たちとだけ交流させればいい。仕事? そんなもの、もう必要ありません。僕が、あなたたちの全てになりますから」「そういうことじゃない! こんな場所に閉じ込めて、私もこの子も、健やかでいられるものですか! どうして分かってくれないの!?」 分かってもらえない悲しさから、思わず声を荒げた。 湊さんは微笑みを崩さない。「夏帆さんは、少し気持ちが不安定なようですね。あんなにひどい事故があったばかりですし、妊娠中と
last updateLast Updated : 2025-12-04
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 この人とはもう、言葉では分かり合えないのだ。 その思いが、私の心の奥底にすとんと落ちた。 説得は失敗してしまった。でも、このままここに居続けるのはできない。 ではどうするべきか。 答えは一つしかない。「脱出」だ。 この狭い世界を抜け出して、私自身とこの子の未来を掴む。唯一の道。(どうしてこうなってしまったんだろう) 私はもう一度、湊さんの顔を見た。彼は心から愛おしそうに私を眺めている。(プロジェクトの終わりを待たず、もっと早く彼の前から去るべきだった。理性を失うほど心労をかけるなんて、そんなつもりはなかったの。だからこの計画は私とこの子のためであり、彼のためでもある) 私が近くにいる限り、湊さんは目を覚まさないだろう。だから立ち去るのだ。 離れてしまえばいつか正気に返って、悪い夢だったと気づくに違いない。 それは悲しい考えだけど。 他にもう、道はないから。 私は、覚悟を決める。◇ その日以降、私の行動は変わった。本当の自分を完璧な演技の下に隠した。 湊さんの前では彼の庇護を心から受け入れる、か弱く従順な女性を演じ切る。 食事の時、彼は決まって私の向かいではなく、隣に座った。その日のメニューは、胎児の発育に良いとされる栄養素で構成されたポタージュだった。「夏帆さん、今日のスープは葉酸が豊富なんですよ。さあ、一口どうぞ」 湊さんが、繊細な装飾の施された銀のスプーンを私の口元へ運んでくる。私は少しだけ恥じらうようにうつむいて、それから素直に口を開けた。彼が満足そうに微笑むのが、視界の端に映る。「美味しいです」 私はそう言って微笑み返した。だがその時、私の頭の中はまったく別の計算をしていた。(このダイニングから玄関ホールまでは、約8メートル。ホールを抜けて正面玄関までは、さらに12メートル。その間、視界を遮るものはほとんどない。今、この部屋に見える使用人は二人。一人は配膳担当、もう一人は壁際に控えている。玄関の鍵の種類は&h
last updateLast Updated : 2025-12-04
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 心にもない言葉だった。彼の腕に身を寄せながら、私の目は庭の先にある高い石塀へと注がれる。(高さは、約3.5メートル。表面は滑らかで手掛かりはない。でも物置にあった梯子を使えば、ギリギリ届きそう。問題は外に降りる時だけど、物置にはロープもあったわ。それからもう一つ) 私は湊さんの肩越しに、小さなドーム型の監視カメラを見つける。母屋の屋根の軒下に隠されるように配置されているものだ。(あのカメラの死角は、西側の樫の木の裏手。巡回の警備員が交代する、午後3時15分からの5分間。そこが唯一のチャンス) 幸か不幸か、監視カメラについての知識はある。インテリアの一部でもあるからだ。 いくつも設置されている監視カメラの死角を探しながら、私は脱出計画を練り続けた。◇ その夜も、私たちは暖炉の前で話していた。薪が爆ぜる音を聞きながら、私は彼の肩にそっと頭を乗せた。意を決して、彼の夢物語の中心に自ら踏み込んでいく。「ねえ、湊さん。この子が生まれたら、どんな名前にしましょうか」 私は自分のお腹に、手を当てながら尋ねた。 その瞬間、湊さんの体がわずかに硬直したのが分かった。彼は信じられないものを見るような目で、私を見つめる。やがて子供のように目を輝かせた。「男の子なら『夏向(かなた)』はどうだろう。太陽が輝く夏、君のような明るさ向かって、まっすぐに育ってほしいという願いを込めて。女の子なら『帆波(ほなみ)』。君の帆が美しい波に乗って、どこまでも幸せな未来へ進んでいけるように」(どちらも私の名前の字を入れたのね) 心がずきりと痛んだ。 彼はうっとりとした表情で、私の手を握りしめる。 私は感傷を振り払った。ここで脱出の決意を鈍らせてはいけない。 湊さんの無防備な横顔を見つめながら、私の視線は彼の肩越しにある、重厚なベルベットのカーテンへと注がれていた。 このリビングも私の寝室も、三階に位置している。何か伝い降りるものがなければ、庭まで行けない。(あのカーテンの生地は、十分な厚みと強度がある。何本か裂い
last updateLast Updated : 2025-12-05
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145:脱出計画

 あの日、この山荘を抜け出すと決めて以降、私はか弱く従順な人形を演じ続けた。 湊さんやその他の人々が油断するように。脱出の機会を伺うために。 この環境をすっかり受け入れているかのような、湊さんの望むような態度を取り続けた。 その日の午前、湊さんが雇った壮年の医師が私の部屋を訪れた。「相沢様、ギプスを外しますよ」 医師はそう言うと、小さな機械を取り出した。私の足首を固めていたギプスに切れ込みを入れていく。ギプスが割れる音と機械音が、静かな部屋に響いた。 やがて分厚いギプスが二つに割れて外される。数週間ぶりに外気に触れた足首は、頼りなくやけに白かった。 医師は私の足首を慎重に動かしながら、レントゲン写真と見比べている。「骨の付きは良好です。今日から、こちらの軽いサポーターに替えましょう。ですが、決して無理はしないように」 彼は私の足に伸縮性のあるサポーターを巻きながら、続けた。「リハビリとして1日30分、庭を少しだけ歩くことを許可します。ただし必ず黒瀬様か、我々スタッフが付き添うこと。よろしいですね?」 私はおとなしく頷いた。「はい、先生。ありがとうございます」 そんな言葉とは裏腹に、私の心臓は高鳴っている。 1日30分、庭を歩く許可。たとえ監視付きであっても、計画のための大きな一歩になる。「湊さん、少しだけ外の空気を吸いたいです」「さっそくリハビリですか? 夏帆さんはいつも頑張り屋さんですね」 私がおずおずと頼むと、彼は心から嬉しそうに微笑んで腕を差し出した。 私は差し出された彼の腕に、自分の手を重ねる。そして一歩踏み出したところで、わざとバランスを崩してみせた。「夏帆さん!」 案の定、彼は即座に私の体を支えてくれた。その支えに心から頼り切っているように、私はゆっくりと体重を預けた。「あなたのおかげで、少しずつ歩けるようになってきました。お腹の子のためにも、強くならないと」 健気な言葉を口にする。同時に頭の中では、冷静に計算を進めた。
last updateLast Updated : 2025-12-05
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 怪我は徐々に回復して、計画決行の日が近づいてくる。 決行の前々日の夜、私たちはリビングの暖炉の前にいた。 大きなソファに隣り合って座る。私は湊さんの肩に頭を預けていた。彼の体温と、落ち着いた呼吸が伝わってくる。温かさに心が安らぐ一方で、この人を騙しているという罪悪感が胸に刺さった。 湊さんは静かな声で、古い詩集を読んでくれていた。そんな穏やかな時間に、私は最後の偵察を仕掛ける。「湊さん、ごめんなさい。少し、窓から冷たい風が入ってくるような気がして」 本を読んでいた彼の声を、私はささやくようにさえぎった。「それはいけませんね。体が冷えてしまう」 彼はそう言うと、本を置いて立ち上がる。リビングの分厚いベルベットのカーテンを、隙間なくきっちりと締めてくれた。(カーテンの留め具は、なかなか頑丈そう) 彼の背中越しに、カーテンレールを固定している真鍮の留め具の形状を、しっかりと見る。 湊さんがソファに戻る。今度は私が痛む足を引きずるふりをしながら、立ち上がった。「私も、何かお手伝いさせてください。火が少し、弱くなってきたみたいですから」「僕がやりますよ。夏帆さんは座っていて」「いえ。私もやってみたいんです」 暖炉のそばまでやって来た。ツールスタンドに立てかけられた鉄製の火かき棒を、ごく自然な動きで手に取る。ずっしりと腕に伝わる、鉄の重さ。先端は鉤爪のように曲がっている。 私は、燃える薪の位置を直すふりをした。頭の中では、火かき棒の先端の鉤爪の角度と、カーテンレールの留め具の位置を、重ね合わせていた。(これなら、テコの原理で、留め具を壁から引き剥がせる!) 私は何食わぬ顔で火かき棒を元に戻した。再び彼の隣に座る。それから、彼の腕に安心しきったように身を寄せた。「火の加減は、あんな感じかしら?」「ありがとう。でも、無理はしないでくださいね」 湊さんはそんな私の髪を優しく撫でる。 ふと、指先が頬に触れた。 至近距離で見上げる先に、彼の揺れる瞳がある
last updateLast Updated : 2025-12-06
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 私はそっと目を閉じる。 唇に柔らかいものが触れて、何度か優しくついばまれた。やがて口づけが深まって、唇が割り開かれる。 絡まる舌はあの夜と同じ熱でもって、私の中に入ってくる。 あの時はお互いの孤独を埋めるように求め合った。私は満たされて、彼も慰めを得たのだろう。 今はただ……彼の心を利用している。 私がここにいる限り、彼の狂気は解けないだろう。 どうしてここまで思い込んでしまったのか、私には分からない。 始まりは確かに、過ちの一夜だった。 けれど彼は、私を対等なパートナーとして扱っていてくれたはずだった。助けられてばかりだったけど、私は私にできる精一杯のことをしたつもりだった。 その姿を、彼は好きになってくれたのだと思っていた。 でも、この山荘に来てからの彼は、私を無力な人形扱いしている。 毎日お気に入りの服を着せて、手ずから食事を食べさせて。 そこに私の意志はない。 そして、彼本来の心すら失ってしまっている。「はぁ……。夏帆さん。愛しています」 キスの合間に、彼がささやく。でも私は、応える言葉を言えない。(間違っている。こんなの、間違っているよ。湊さん) 唇に、舌に彼を感じながら、私は別れの気持ちを強めていた。◇ 決行前夜。 部屋は暗い。窓から差し込む月明かりだけが、床を静かに照らしていた。 私はベッドの上で、眠れずに目を覚ましている。 頭の中で、明日実行する計画の全工程を、何度も何度もシミュレーションした。 明日の午後3時15分、警備員の交代。その5分が勝負だ。お茶の時間の後、看護師が部屋を出た隙にリビングへと行く。リビングのカーテンを外して切り裂き、ロープのようにして庭に降り立つ。 監視カメラの死角、樫の木の下を通って物置へ。梯子を確保し、塀を越える。 塀を乗り越えたら、闇雲に森には入らない。正面ゲートから続く道を、森の木々に身
last updateLast Updated : 2025-12-06
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148:その先に

 午後3時14分。壁にかけられた時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。 アフタヌーンティーのトレイを片付けながら、看護師が私ににこやかに話しかけてきた。「奥様、本日のハーブティーはいかがでしたか?」「ええ、とても。おかげで、気持ちが落ち着きました」 私はできるだけ儚げな笑みを浮かべて答えた。心臓が肋骨を内側から激しく叩いている。看護師は満足そうに頷くと、「では、ごゆっくり」と言って、部屋を出て行った。 ドアが閉まる。カチリ、と。ごく小さな錠の音が響いた。 その音を合図に、私は従順な人形の仮面を脱ぎ捨てた。ぎゅっと目に力を入れる。今の私にできる最大限の素早さで立ち上がった。 タイムリミットはたったの5分。戦いは、すでに始まっていた。 私はまず、リビングへと走った。まっすぐに暖炉へと向かう。ツールスタンドから、冷たく重い鉄製の火かき棒を抜き取る。 次に近くにあったスツールを踏み台にして、壁際のカーテンへ向き直った。 真鍮製の頑丈そうな留め具。その隙間に火かき棒の先端を差し込んで、テコの支点を作る。私は息を止め、全体重をかけた。 ギシリ、と上部の木材が軋むだけで、留め具は動かない。(……っ!) 焦りが心臓を鷲掴みにする。もう一度角度を変えて、今度は腹の底からありったけの力を込めた。 バキッ! という破壊音が響き渡る。ネジごと壁から引き剥がされた留め具が、床にガシャンと落ちた。 私はスツールから飛び降りると、ソファの陰に身を潜めた。心臓が喉から飛び出しそうだった。自分の荒い呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえる。 一秒が一分にも感じられる時間。今にも使用人の足音が近づいてくるような気がする。警報は鳴らないのか? だが屋敷は静寂を保ったままだった。破壊音は厚い壁と絨毯に吸い込まれたらしい。 私はすぐに、残りの留め具も同じように引き剥がした。 分厚いベルベットのカーテンをレールから引きずり下ろす。次にリビングの飾り棚にあった裁縫箱から、大きな裁ちばさみを取り出した。厚い生地
last updateLast Updated : 2025-12-07
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 私はテラスの柵を乗り越え、固く結んだカーテンロープに全体重を預けた。 ごわごわとしたベルベットの生地が、手のひらを焼き切るように擦れて、熱い痛みが走る。眼下には、吸い込まれそうな高い地面。私は必死に腕と足の力だけで体を支えて、一歩ずつ壁を蹴りながら降下していく。 サポーターで固めた足首が、壁を蹴るたびに悲鳴を上げた。だが、ここで止まるわけにはいかない。私は歯を食いしばり、痛みを無視して降り続けた。 お腹に子供がいなければ、少しの距離を飛び降りたと思う。でも今は、体に衝撃を与えるのはできない。 こんな無茶な計画を立てたけれど、可能な限り安全は確保しなければ。 ようやく地面に降り立った私は、計画通り、監視カメラの死角である樫の木の陰へと身を隠すことができた。息を殺して母屋を見上げるが、動きはない。第一段階は成功した。 私は物置へ向かって、立てかけてあった梯子とロープを引きずり出した。金属製の梯子は想像以上に重く、足を引きずる私の体力を容赦なく奪っていく。 息も絶え絶えになりながら、外周の高い石塀に梯子をかける。最後の壁をよじ登った。◇ 高い塀からロープを垂らして降りた。その先は手入れされた庭とは別世界の、鬱蒼とした森が広がっている。ついに「外の世界」に足を踏み出したのだ。一瞬、自由への歓喜が胸をよぎる。 私は計画通り、正面ゲートへと続く砂利道を見つけ出した。いくら他に人里の痕跡がなくとも、屋敷で必要とされる物資は運び込まれている。道がないはずがない。 私は道沿いの木々の間に身を隠しながら、山を下り始めた。 しかし正面ゲートから続く砂利道は、私の想像以上に過酷だった。急な下り坂が延々と続き、浮いた砂利が体重をかけた方の足を滑らせようとする。私は木の幹に掴まりながら、一歩ずつ慎重に進まざるを得なかった。 酷使した足首が悲鳴を上げていた。妊娠中の体は重く、すぐに息が切れる。 太陽が西に傾くにつれて、森の景色は急速に色を失っていった。木々の影が黒いインクのように伸びて、足元の凹凸を隠していく。気温が急に下がり、汗をかいた肌に冷たい風が突き刺さった。
last updateLast Updated : 2025-12-07
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【湊視点】 午後4時。僕は彼女の部屋へ向かっていた。手には夏帆さんのためにシェフが特別に用意した、お茶菓子がある。 一昨日はとうとうキスを許してもらえた。 あの一夜以来、数カ月ぶりに触れ合った彼女の唇は甘くて、いつまでも口づけていたかった。 彼女の震えるまつ毛を間近に見た時、僕の心はどれだけ喜びに満たされたことか。 本当はそのまま押し倒したい衝動に駆られたけれど、それはできない。妊娠初期の性交は体の負担になったはずだ。 もっと状態が落ち着いてからか、いっそ出産が済んで体が回復してからでも遅くはない。 この山荘にいる限り、彼女は絶対に安全だ。焦る必要はない。 でも、キスは毎日したいな。彼女を深く感じられて、この上なく幸せな気持ちになる。 今日も許してくれるだろうか。許してくれるのであれば、抱きしめながら……。 彼女の穏やかな微笑みを思い浮かべ、僕の心は幸福に満たされていた。 寝室の扉をノックする。「夏帆さん。おやつにしましょう。レモンゼリーを用意しました。今日は食べられそうですか……?」 だが返事はなかった。部屋はもぬけの殻で、整えられたベッドの上に彼女の姿はない。「夏帆さん?」 バスルームも覗いたが、誰もいなかった。 嫌な予感が走る。僕はインカムのスイッチを入れた。「看護師長を、すぐに僕の部屋へ」 声が自分でも驚くほど低く、冷たくなっているのが分かった。 すぐに駆けつけた看護師長は、僕の表情を見て息をのんだ。「夏帆さんはどこです?」「寝室でお休みのはずですが……」「部屋は空だ。最後に彼女の姿を確認したのは、いつかと聞いている」 僕の詰問に、彼女の顔から血の気が引いた。壁の時計と僕の顔を交互に見ながら、震える声で答える。「さ、3時過ぎに、アフタヌーンティーをお下げしてからは……その、お休みになる
last updateLast Updated : 2025-12-08
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