All Chapters of 王子様系御曹司の独占欲に火をつけてしまったようです: Chapter 131 - Chapter 140

180 Chapters

131

 看護師は優しく微笑んだまま答える。「ご心配には及びません。黒瀬様が、関係各所には全て、よしなに計らってくださっております。相沢様は、何もご心配なさる必要はないのですよ」 その瞬間、私は悟った。この穏やかな笑みの下に、決して乗り越えることのできない分厚い壁が存在すると。 そして彼女の背後には、湊さんがいる。◇ 看護師が退出した後、部屋には再び静寂が戻った。私は痛む頭をこらえながら、ゆっくりとベッドから身を起こす。包帯で固定された左足に体重をかけないよう、右足だけで床に降り立った。足首に激痛が走り、思わず壁に手をついてしまった。 壁を伝い、窓際に置かれた椅子を支えにしながら、一歩ずつ窓へと向かう。たった数メートルの距離が、果てしなく遠い。 ようやくたどり着いて、窓を開く。ここは三階だった。地面まではそれなりに距離がある高さだ。 その窓の外に広がっていたのは、見渡す限りの緑の海だった。どこまでも続く深い森。遠くには、夕暮れの光を浴びて紫色に霞む山々の稜線が見える。(そんな。ここは……) 私は必死に、人の営みの痕跡を探した。一本の電線もアスファルトの道も、隣家の屋根も、何も見えない。聞こえるのは、風が木々を揺らす音だけ。 視線を足元に戻すと、そこにはよく手入れされた美しい庭が広がっていた。だがその庭の境界線に沿って、あるものを見つけてしまう。木々の合間に見え隠れする、高さ三メートルはあろうかという滑らかな石造りの塀。塀は窓から見える限り、隙間なく張り巡らされていた。 それは侵入者を拒むためのだけのものではない。中にいる者を、決して外に出さないための壁だ。 優しい看護師と、外界から隔絶されたこの場所。動かない体に、取り上げられた携帯電話。そして高い壁。 ばらばらだった事実が、一つの恐ろしい答えを結ぶ。 私はここから出られない。 この美しい部屋は金色の鳥かごなのだと、悟った。◇ 窓の前で状況を悟った後、どうやってベッドに戻ったのか、あまり覚
last updateLast Updated : 2025-11-27
Read more

132

 時間は夢うつつのままに過ぎていく。 窓の外の光が金色から茜色へ、深い藍色へと変わっていくのを、私はただぼんやりと眺めていた。 いつの間にか部屋には音楽が流れている。いつの日か私が好きだと彼に伝えた、モーツァルトのクラリネット協奏曲。軽やかなヴァイオリンの音色と、柔らかなクラリネットのメロディは、いつもなら私の気持ちを落ち着けてくれる。でも今は、ただ意識の上辺を撫でるだけだった。(これから、どうなるんだろう) 体の自由はきかず、ここがどこなのかも分からない。不安と絶望で押しつぶされそうだ。 頭はぼんやりとして考えがまとまらない。私はただベッドに横たわって、高い天井を見上げていた。 窓の外が暗くなる頃、いつの間にか部屋の明かりが灯されていた。その柔らかな光の中で、寝室のドアが開く。 食事のトレイを手にした湊さんが立っていた。「夏帆さん、目が覚めたのですね。よかった……」 彼の声は心からの安堵と、深い愛情に満ちていた。「湊さん……ここは、どこなの?」 湊さんはとても優しい笑みを浮かべた。いつもの王子様を思わせる、優しくて美しい微笑み。 でも、何かが違う。 うまく言えない。 何と言えばいいのか……例えば、この美しい部屋に似たもの。 心配とか、優しさとか、愛情とか。そういうきれいなものに何かを隠している。 彼はトレイをベッド脇のボードに置いた。私の手を取り、自分の頬に寄せる。「もう大丈夫ですよ。ここは、世界で一番安全な場所です」 湊さんの声は陶然としていた。 彼は頬を寄せた私の手に、唇を這わせた。甘いはずの感触に、背筋が凍る。 あの海辺の別荘でキスしそうになった時も、彼は私の意志を確かめてくれていたのに。今は何のためらいもない。 これまでは相応の節度をもって接してくれていたのに、タガが外れている。 彼は私の指に一本ずつ口づけを落とした。うっとりと幸せそうな様子で、いかにも大事な宝
last updateLast Updated : 2025-11-28
Read more

133:完璧な庇護

【湊視点】 静かな朝だった。 僕はカップに注がれたコーヒーを口に運ぶ。窓の外には朝霧に包まれた森が広がり、世界は僕と、目の前のベッドで眠る彼女のためだけにあるように、静寂に満ちていた。 僕が整えたベッドで眠る夏帆さんは、穏やかな寝息を立てている。そっと頬に指で触れれば、彼女の体温が伝わってきた。 こうして触れるたびに、僕は深く安堵する。幸福な気持ちが満ちてくる。(これでいい。全てが正しい場所にある) そんな万能感にも似た感情が胸を満たした。 世間は、僕の昨夜の行動を「誘拐」とでも呼ぶのだろうか。だが彼らは何も分かっていない。あれは犯罪などではない。危険な外界からの、ただ一つの「救出」と「保護」だったのだ。 あの病院は、確かに最高の医療を提供してくれた。だが所詮は「世界」の一部だ。扉一枚隔てた向こうには、佐藤のような悪意も、不慮の事故も、夏帆さんを傷つける全てのものが存在している。 僕は過去、一度彼女を失った。最高の夜を過ごした後に、逃がしてしまったからだ。 あの時は探して探して……運命の再会を果たせた。 だが今回は、守ってあげることができなかった。 もしも彼女を失ったらと思うと、今でも背筋が凍る。胃の腑がひっくり返るような吐き気を覚える。 彼女がいなくなってしまったら、僕は生きる意味を全て失う。仕事もプライベートも何もかも。 彼女が助かったのは、奇跡だ。そして恐らく次はない。奇跡はめったに起こらないから、奇跡というのだから。 一度ならず二度までも彼女を失いかけた僕にとって、「世界」そのものが、もはや許容できない脅威になっていた。 ましてや彼女のお腹の中には、僕たちの子供がいる。僕が守るべきものが二つになった。 ならば僕が為すべきことは一つしかない。僕自身が彼女たちにとっての、完璧で安全な「世界」になることだ。 僕の命が続く限り、安全な「世界」を守り抜く。 この決断は最善だ。他に取るべき手などありはしない。 それだけが、夏帆さんを失わない唯一の道だ
last updateLast Updated : 2025-11-28
Read more

134

「シェフ。食事は、胎児の成長段階に合わせた、完全オーガニックのメニューを。塩分は0.1グラム単位で管理し、全ての食材の産地証明を提出すること」「かしこまりました」 シェフが頭を下げる。「それから、看護師と使用人。彼女を刺激するような外部の情報は、一切遮断するように。テレビも新聞も、インターネットも。彼女の質問には、当たり障りなく答えるだけでいい。ただし彼女の表情や言葉の変化は、些細なことでも全て記録し、僕に報告してくれ」「はい、黒瀬様」 ここにいる人間は、全員が昔から黒瀬家に仕えてくれている者ばかりだ。 僕に対して忠実で、忠誠を尽くしてくれる。信頼できる者たちだった。 彼らが指示を守り、僕自身が夏帆さんに付き添うことで、安全は確保されるだろう。 二度と彼女と子を危険な目にあわせない。 この山荘で、僕の手の中で大事に大事に守り抜く。 それこそが僕にできる最大の愛情表現だ。 指示が終わったので、僕は夏帆さんの寝室に戻った。 眠る彼女の顔は青ざめていて、まるで人形のよう。体温も呼吸も正常と分かっていても、僕は心配になった。「夏帆さん……」 そっと額にキスを落とした。 本当は唇に口付けたいけれど、眠っている彼女にそこまでするほど、僕は非常識な人間ではない。それは彼女が目を覚まして、きちんと受け入れてもらってからだ。 一夜の関係から始まった愛だからこそ、次こそはきちんと進みたい。 真面目な夏帆さんのことだから、そうした方が受け入れてくれるはずだ。 頬にかかった髪のひとすじを払う。 こうして眠っていても、夏帆さんは美しかった。美しい人形のようだった。 ふと思う。こうして眠り続けていれば、彼女が無茶をすることもない。どこかへ逃げてしまうこともない。人形のままでいるのも悪くないのではないか。 毎日お世話をして、話しかけて。 彼女の好む服を着せて、お茶を飲ませる。髪を梳いてやる。お風呂にだって入れてあげよう。 そうすれば、文
last updateLast Updated : 2025-11-29
Read more

135

 その日の午後、僕は離れの書斎で、どうしても外せない海外の役員とのビデオ会議に臨んでいた。画面の向こうで交わされる無機質な数字のやり取りに意識を集中させながらも、僕の神経の半分は、夏帆さんが眠る母屋の寝室へと向いていた。 その時。手元の端末が着信を告げた。看護師長からの短いメッセージ。『相沢様、お目覚めです』。(良かった……!) その文字列を見た瞬間、僕の心臓が大きく跳ねた。安堵と喜びが一気に胸に広がる。 目の前のくだらない会議を放り出して駆けつけたかったが、思い直す。彼女は責任感の強い人だ。僕が仕事を放置したと知れば、軽蔑されてしまうかもしれない。最低限の責任は果たさなければ。  僕は目の前の会議を可能な限り早く、しかし完璧に終わらせることに全神経を注いだ。 会議を終えるや否や、僕は書斎を飛び出して、母屋へと向かう渡り廊下を早足で歩いた。歩きながら、インカムでシェフに夕食の準備を、使用人に夏帆さんが最も好きだと言っていたモーツァルトのクラリネット協奏曲を部屋に流すよう、矢継ぎ早に指示を出す。  食事はすぐに出来上がって、僕は廊下でトレイを受け取った。 彼女の部屋の前にたどり着いた頃には、窓の外は夕闇に染まっていた。僕は一度、呼吸を整える。これから会うのは、僕が愛するただ一人の女性だ。完璧な環境で、彼女を迎えたかった。 部屋に入ると、夏帆さんはベッドの上で体を起こし、怯えた目で僕を見ていた。「夏帆さん、目が覚めたのですね。よかった……」 僕はこれ以上ないほど優しい声で語りかける。「湊さん……ここは、どこなの?」 僕は彼女の細い手を取って、頬を寄せた。「もう大丈夫ですよ。ここは、世界で一番安全な場所です」 夏帆さんの手は滑らかで、温かかった。思わずうっとりとしてしまう。  この手にもっと触れていたい。思わず口付ければ、彼女はびくりと身を固くした。  無理もない。あんなに怖い目にあったばかりなのだ。怪我も痛むだろうし、もっと安心してもらわないと。 夏帆さんが口を開きかける。  僕は手を
last updateLast Updated : 2025-11-30
Read more

136

「さあ、食事を済ませてしまいましょう。食べられるだけで大丈夫ですよ。少しずつ食べて、体に力をつけないと」 お腹の子のためでもあるしね。  子供のことは、どうも彼女は気づいていないようだ。であれば、伝えるのはもう少し落ち着いてからにしよう。 僕は食事のトレイをベッドのサイドボードに置いて、おかゆのお椀とスプーンを持ち上げた。「はい、あーんして?」「え、あの。自分で食べられます」 夏帆さんが戸惑っている。「あなたは重傷ですから。起きているのも辛いでしょう? 今は甘えて、怪我を良くすることだけを考えてください」 スプーンを近づけてやると、彼女は諦めたように口を開けた。  一口、一口と食べさせてやる。素直に食べる彼女はとても可愛らしくて、小鳥か小動物のようだ。僕の心に庇護欲がむくむくと湧き上がってくる。「もう、結構です」 ほんの何口か食べただけで、夏帆さんは顔を背けた。  もう少し食べてほしかったが、目覚めたばかりであれば仕方ないか。「家に、帰りたい……」 彼女がかすれた声で懇願する。もちろん、事故後の精神的な混乱によるものだろう。僕は彼女のベッドサイドに膝をつき、その手を優しく握った。「ここが、あなたの家ですよ。もう何も心配いらない。仕事も人間関係も、危険な事故も、ここには何もない。僕が、あなたに必要なもの全てを用意します」 夏帆さんの瞳には恐怖が浮かんでいる。事故がよほど恐ろしかったのだろう。  もっと甘やかして、怖かった記憶を拭い去ってほしいということかな?  そう思えば、怯えた表情がどうしようもなく愛おしい。僕は、彼女の額に優しく口づけた。 ◇  その夜。僕は再び一人、暖炉の炎を見つめながら、グラスのワインを傾けていた。 ようやく彼女が目覚めてくれた。これからは少しずつ、回復してくれることだろう。 今日一日の出来事を振り返って、僕の計画が順調に進んでいることに満足する。  夏帆さんが少し怯えていたの
last updateLast Updated : 2025-12-01
Read more

137:優しい牢獄

 朝七時。窓のカーテンが、設定されたプログラムに従って、音もなく自動で開いていく。容赦なく差し込む朝日が、新しい一日の始まりを告げる。私にはもう、今日が何日で何曜日なのかも分からなかった。 完璧な牢獄での日常は、時計の針のように正確に繰り返される。 まず、あの看護師が部屋に入ってくる。にこやかな感情の読めない笑みを浮かべて。私の腕に血圧計を巻き、耳で体温を測り、手元のカルテに数字を書き込んでいく。その間、私たちは一言も口を利かない。 次に若い使用人の女性が、腕に数着の服を抱えて部屋に入ってくる。「今日はどのお洋服になさいますか? どれも黒瀬様が選んだ、夏帆様にお似合いのものばかりですよ」 ハンガーにかけられた服は、私が普段仕事で着るような、機能的でモダンなデザインとはかけ離れていた。 一枚はクリーム色のカシミアニットと、滑らかなシルクのスカートが一体になったロングワンピース。首元には、小さな真珠のボタンが控えめに並んでいる。触れなくても分かる、極上の柔らかさと優雅さ。 もう一枚は、淡いブルーのシルクブラウス。襟元と袖口には繊細なレースがあしらわれ、胸元で結ぶ大きなリボンがついている。それに合わせるのは、上質なツイード素材のふわりと広がるフレアスカート。 どれもガラスケースの中に飾られている、美しい人形のためのドレスのようだった。上質で儚げで、そしてこの建物から一歩も動くことなど想定していない、非力なデザイン。私はその中から、一番シンプルなワンピースを無言で指差した。「かしこまりました」  彼女は手際よく私を着替えさせる。 そして朝食。銀色のトレイに乗せられて運ばれてくるのは、栄養バランスだけが完璧に計算された、味気のない食事だ。 リビングのテーブルで、湊さんが私の向かいに座る。彼は穏やかに、だが一方的に語り続けた。「夏帆さん、窓の外を見てください。今、枝にとまっているのはキビタキです。喉の黄色が鮮やかでしょう。さえずりがとても美しい鳥なんですよ」 私の視線は、皿の上の、形だけは美しいスクランブルエッグに落ちたまま動かない。彼は、私の反応がな
last updateLast Updated : 2025-12-01
Read more

138

 その日の昼食も、湊さんが私のそばに座っていた。シェフが作ったという、見た目だけは美しい野菜のポタージュ。彼が、銀のスプーンでそれをすくい、私の口元へと運んでくる。「夏帆さん、さあ、一口」 私は反射的に顔を背けた。「自分で、食べられますから」 かろうじて、それだけを言う。 その瞬間、彼の顔から微笑みが消えた。眉がわずかに寄せられて、瞳が捨てられた子犬のように悲しげに揺れる。「どうして? 僕が食べさせてあげるのは、嫌ですか? 夏帆さんのために、一番栄養のあるものを、とシェフに作らせたのに」(そんなに悲しそうな顔をしないで) 今の湊さんは正気を失っている。理由はたぶん……あのエレベーターの事故だ。 私が死にかけて、彼は衝撃を受けたのだろう。それこそ、理性をなくしてしまうほどに。 彼がそこまで私に執着しているとは、思っていなかった。愛されているとは思っていたけれど、これほどとは。 それとも他に、何かあるのだろうか。……分からない。 私の存在がそこまで彼に負担をかけてしまったのなら、少なくない責任を感じる。 では、受け入れるべきなのだろうか。この自由のひとかけらもない、牢獄めいた生活を? 一体いつまで? 私は彼の方へ向き直った。諦めて、小さく口を開ける。スプーンがそっと差し込まれた。ポタージュは、きっと美味しいのだろう。だが、私には何の味もしなかった。 一口飲み込むと、湊さんの顔に満足そうな笑みが戻った。「ええ、それでいいんです。いい子ですね」 彼は幼い子供を褒めるように、そう言った。 何度目かのスプーンで、私はスープを飲みきれずに口の端から少しこぼしてしまった。「あ」 慌てて拭おうとするが、ずきりと肩が痛んだ。大きな怪我は頭と足だったが、他の場所も軽い打撲や捻挫だらけになっている。 動作が遅れていると、湊さんはスプーンを置いて、指で拭ってしまった。「すみません、汚くて――」 言
last updateLast Updated : 2025-12-02
Read more

139

 時折、私は見えない壁の厚さを試すことがあった。 その日、私は庭に面したサンルームの椅子に座っていた。近くでは中年の使用人の女性が、丁寧な手つきでバラの手入れをしている。私は自然体を装って、彼女に話しかけた。「いいお天気ですね。……ところで、今日は、何月何日だったかしら」 使用人は、にこやかに顔を上げた。「はい、奥様。空気が澄んでいて、遠くの山までよく見えますね」 彼女は私の質問の後半部分だけを、器用に切り落として答えた。私はもう一度、今度ははっきりと尋ねる。「ええ、本当に。それで、日付を教えていただけますか」「まあ、奥様、ご覧ください。あちらのアーチのバラが、新しいつぼみをつけております。きっと、もうすぐ咲きますわ」 この屋敷の人々は、私を「奥様」と呼ぶ。何度訂正しても直らないので、もう諦めてしまった。 今もまた、彼女は私の問いかけを無視している。声に苛立ちがにじむのを、自分でも感じた。「バラの話は結構です。私は、日付を聞いているんです」 すると彼女はそれまでの明るい笑顔から一転し、心から心配しているかのような、憂いを帯びた表情を浮かべた。「奥様、少しお疲れのようですね。お部屋にお戻りになって、温かいハーブティーでもいかがですか? 精神を落ち着ける効果がございますのよ」 その言葉に、私は全ての気力を失った。これ以上問い詰めても、私は精神的に不安定な患者として扱われるだけだ。 質問は初めから存在しなかったように、彼女の優しい気遣いの中に、完全に塗り潰されてしまった。 丁寧で優しく――正気を失ったこの場所で、私の精神は少しずつすり減っていった。 抵抗する気力も失せて、感情を失った人形のように、ただ言われるがままに日々を過ごすようになっていく。 そんな私を、湊さんはどこか嬉しそうに眺めているのだ。◇ 異変が起きたのは、そんな単調な日常が一週間ほど続いた朝のことだった。 いつもと同じ時間にカーテンが開き、部屋に光が差
last updateLast Updated : 2025-12-02
Read more

140

 ようやく波が引いた後、私は壁に背を預けて荒い息を繰り返した。全身から力が抜け、汗が首筋を伝う。(何、今の?) 最初に浮かんだのは、事故の後遺症という可能性だった。頭を打った影響や、処方されている薬の副作用かもしれない。 あるいはこの息が詰まるような生活が、ついに私の体にまで影響を及ぼし始めたのか。 もしくは、飲まされている薬が私の気力を奪うため、何かしらの作用をしているのかも。そう思うのが、その時の私には一番自然なことだった。「奥様。どうされましたか?」 看護師が入ってくる。バスルームの床に座り込んだ私を見て、すぐ状況を察したようだ。「お辛かったでしょう。ベッドに戻りましょうね」 支えられてベッドに戻った後は、ビニール袋を張った容器を用意してくれた。「吐いてしまいそうでしたら、ここへどうぞ」 看護師が持ってきてくれた水で口をすすいでいると、湊さんがやって来る。「夏帆さん、大丈夫ですか!? 今日は絶対安静にしましょう」 彼は心から心配そうな表情で、私の髪と頬を何度も撫でた。「食べられそうなものはありませんか? 何でも用意しますよ」 そう言われても、今は食べ物を目の前にするだけで吐いてしまいそうだ。私は黙って首を振った。 さすがに今日は動けそうにない。私はぐったりと目を閉じて、うつらうつらと眠り始めた。◇ 最初は事故の後遺症だと思っていたのに、吐き気と眠気はひどくなるばかりだった。 同時にお腹と胸が張る感じがする。(そういえば微熱っぽさと吐き気は、しばらく前からあったっけ) どうせ風邪だと思ってあまり気にしていなかったが、症状が悪化した今となっては、前から続いていたと感じる。 そしてもう一つ。私は自分の体調に気づいてしまった。 ――生理がもう、二月以上来ていない。 生理は元々不順気味で、一月くらいなら来ないことも珍しくなかった。だが、二月は初めてだ。(まさか…&hel
last updateLast Updated : 2025-12-03
Read more
PREV
1
...
1213141516
...
18
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status