All Chapters of 王子様系御曹司の独占欲に火をつけてしまったようです: Chapter 21 - Chapter 30

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21:職人の工房

 湊さんの問いかけに、私は息をのんだ。  デザイナーとしての私の魂に、まっすぐに届く言葉。  この人は私の心の奥底まで、すべて見透かしている。「私が望むのは、お客様が部屋の扉を開けた瞬間に、ほっと心の強張りが解けるような。一日の終わりに、ただいま、と帰りたくなるような……。そんな、温かい光です」 絞り出すように答えると、彼は深く頷いた。「分かりました」 彼は私の手から、ずっしりと重いカバンをこともなげに受け取る。「行きましょう、相沢さん。その笑顔を、実現するために」「えっ。でも……」「僕もクライアントです。最高のものを求める権利と、それに協力する義務がある」 彼は有無を言わせぬ口調で言うと、車の助手席のドアを開けた。「それに、あなた一人の情熱ですべてを解決しようとするのは、感心しませんね。僕は、あなたのパートナーでしょう?」 パートナー。  その言葉の響きに、胸の奥がきゅっと締め付けられた。 ◇  深夜の高速道路を、湊さんの車は滑るように走っていく。  行き先は羽田空港だ。  彼がすぐに手配してくれた、北海道行きの早朝のプライベートジェットに乗るのだ。「あの。本当に、よかったんでしょうか」 フランス製高級車のシートに落ち着かなく座りながら、私は尋ねる。「何がです?」「湊さんのお時間を、こんな……私のわがままのために使ってしまって」「わがままではありません。最高の仕事をするための、当然の探求心です」 湊さんはきっぱりと言った。「それに夏帆さんの情熱に触れる時間は、僕にとっても何より価値のあるものですから」 横顔に浮かぶ穏やかな笑みは、いつもの王子様のものだった。  でも、もう私には分かっていた。  その仮面の下にある、決して他者には見せない熱い心の存在を。 ◇  搭乗口で案内されたのは、
last updateLast Updated : 2025-09-30
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 でも、彼は違う。  問題が起きればプライベートジェットを飛ばして、その日のうちに原因の元へ飛ぶ。  お金や時間という私を縛り付けていた現実的な制約が、彼にとっては存在しないようだ。  それは彼が持つとても大きなな「力」である。 彼が自分の席でタブレットを開き、仕事の資料に目を通し始めた横顔を見つめる。 タブレットに落とされた目は長いまつ毛に縁取られて、瞳に影を投げかけている。 モニタの明かりが彼の横顔を照らして、形の良い鼻梁を浮かび上がらせている。ただ仕事をしているだけで、こんなにも絵になるのか。  同じ場所で同じ言葉を話しているはずなのに、生きている世界が違う。  彼と私の間には、分厚くて決して越えることのできないガラスの壁が横たわっている気がする。目には見えないけれど、確かに私たちを隔てる壁が。 ◇  新千歳空港に到着すると、手配されていた車で小樽へ向かう。  夜が白み始めて空が藍色から淡い紫色へと変わる頃、車の窓に有名な小樽運河が見えてきた。 しんと静まり返った水面に、朝焼けの淡い光が映り込んでいる。  運河沿いに並ぶのは、重厚な石造りの倉庫群。  夜通し灯っていたであろうレトロな街灯が、最後の光を名残惜しそうに揺らしていた。 窓を開けると、ひんやりとした朝の空気と微かな潮の香りが、車内へと流れ込んでくる。  町全体が百年の時を巻き戻したかのような、ロマンチックでどこか懐かしい風景だった。 高村さんの工房は、その運河沿いの歴史を感じさせる石造りの建物の中にあった。「高村さん。朝早くに、申し訳ありません」 頑固そうな顔つきの老職人は、突然の訪問者にあからさまに眉をひそめた。「アトリエ・ブルームの相沢さんか。試作品なら、もう送ったはずだが」「はい、拝見いたしました。素晴らしい出来栄えです。ただ一点だけ、どうしても修正をお願いしたくて」 私は必死に説明を始める。ガラスシェードのフロスト加工にほんの小さな狂いがあること。そ
last updateLast Updated : 2025-09-30
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「あなたの作られたガラスシェード、拝見しました。息をのむほど美しかった。まさに日本の職人技の粋を集めた、芸術品です」 心からの称賛だった。  お世辞や交渉術ではない本物への深い敬意が、彼の言葉にはこもっていた。  高村さんにも伝わったのだろう、黙って耳を傾けている。「ですが我々が目指すのは、美術館に飾られる芸術品ではありません。お客様の心に寄り添う、温かい灯りなのです。その最後のひとかけらを、この相沢というデザイナーは、諦めることができないでいる。どうか彼女の情熱に、もう一度だけ力を貸していただけないでしょうか」 湊さんが話し終えても、高村さんはしばらく黙っていた。  頑なだった表情が、ほんの少しだけ揺らいだように見えた。  彼の視線が値踏みするように、湊さんと私とを交互に向けられる。(試されている) 私は直感的にそう感じた。  口先だけの情熱ではないのか。最高のものを生み出すためなら、どこまでやる覚悟があるのか。彼の鋭い瞳は、私たちの本質を見抜こうとしている。 高村さんはふいと顔をそむけた。工房の壁にかけられた、使い込まれた道具に目をやる。  自分の仕事、自分の誇り、そのものを見つめているようだった。  ここで簡単に私たちの言葉を受け入れてしまえば、彼が人生をかけて築き上げてきたプライドが崩れてしまうのかもしれない。  表面上を見れば、素人でしかない私が熟練の職人である彼の仕事にケチをつけた形になるのだから。(この人は、協力したくないわけじゃない。協力するための理由が欲しいんだ) 自分のプライドを傷つけずに私たちの情熱に応えるための、何らかの「落としどころ」が。 やがて彼は諦めたように、深く長いため息をついた。  それを聞いた瞬間、私は「受け入れてもらえる」と確信する。「分かったよ。ただし、あんたらのために使う時間は、今日の俺の仕事が始まるまでだ。それでだめなら、諦めてもらう」 彼の不器用なエールだった。  私たちに「覚悟」を試すという課題を与え、自分の「プライド」を
last updateLast Updated : 2025-10-01
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24:信頼と罪悪感

 東の空は完全に白んで、工房の窓から差し込む光が藍色から柔らかな金色へと変わっていく。  やがて明るい太陽が登り、地上に光を投げかけた。  私たちの闘いは、夜明けと共に終わりを迎えようとしていた。「よし。もう一度、灯りをつけてみな」 高村さんのかすれた声が響く。  これが最後のテストだった。  私は祈るような気持ちで、照明のスイッチを入れる。 灯ったのは、温かい光のかたまりだった。空間に淡い陰影を付けて、優しく満たしていく。  それは昨日見た蜂蜜のような光とは、まったくの別物だった。  生まれたての赤子の柔らかな肌を思わせるような、ふっくらとした生命感のある光。  その光に照らされると、強張っていた肩の力がすっと抜けていく。  心の奥底からじんわりと温められるような、不思議な感覚。 これだ。  これこそが私の目指した『光の心臓』だった!「……やった」 誰からともなく安堵のため息が漏れた。  高村さんの頑なだった表情が、ふっと和らいでいる。  やり遂げた者だけが分かち合える満ち足りた沈黙が、工房を支配した。 光の心臓の柔らかな光は、湊さんの王子様のような美貌を照らし出して、私は思わず見とれてしまった。 ふと。隣に立つ湊さんと目が合った。  彼の瞳が、見たこともないほど優しく細められている。 その眼差しはクライアントのものでも、あの夜の男のものでもない。 同じ志を持つパートナーを心からねぎらうような、温かい光を宿している。  私はその瞳から目を逸らすことができなかった。 ◇  小樽からの帰り道。  空港を飛び立ったプライベートジェットの中で、私は窓の下を流れる雲をぼんやりと眺めていた。  成層圏の風景はどこまでも澄んでいて、地平線の向こうまで晴れ渡っている。  あれほど張り詰めていた緊張の糸が切れて、心地よい疲労感が全身を包んでいる。「やはり、あな
last updateLast Updated : 2025-10-01
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25:過去からの足音

 離婚した元夫・圭介と暮らしていたマンションを出て、ビジネスホテルでの仮住まいを始めてから、数週間が過ぎた。  昼休み、私は事務所のデスクで一人、賃貸情報サイトを眺めていた。(そろそろ、ちゃんとした部屋を探さないと。仮住まいも不便だし、飽きてきたわ) 画面には、たくさんの小さな間取り図が並んでいる。  その一つ一つが新しい人生への扉のように思えて、わくわくした。  圭介の影がない私だけの空間で、もう一度ちゃんと自分の人生を始めたい。  そんな前向きな気持ちが少しずつ、私の中で育ち始めていた。「相沢さん。いい部屋、見つかった?」 隣の席の同僚が、楽しそうに私のパソコンを覗き込む。私はにっこりと笑って答える。「今探してるところ。日当たりがいい、角部屋がいいなって思ってて」「わかる! 女性の一人暮らしは、日当たりとセキュリティが命よね!」「そうそう。あとは駅チカか、いっそ会社の近くも通勤に便利でいいね」「間取りはどうするの?」「1DKかな。家賃の予算は……」 未来に向けた何気ない明るい会話が、心を弾ませる。こんなごく普通の時間がひどく尊いものに感じられた。  その穏やかな時間を破るように、私のスマホが短く震えた。  画面に表示された名前に、心臓がひやりと冷たくなる。登録から削除したはずの『相沢圭介』の名前だった。『話がある。一度でいいから会ってくれないか』 私はメッセージを即座に削除し、何事もなかったかのように同僚との会話に戻った。  でも心の泉に投じられた小石は、静かに冷たい波紋を広げていた。 ◇  その日の夜。  仕事を終えて、疲れきった体で事務所のビルを出る。  圭介からのメッセージのせいで、一日中気分は晴れなかった。「夏帆」 不意にビルの出口の物陰から声がした。  見れば圭介が立っている。  最後に会った時よりも少しやつれて、顔色が悪い。着ているシャツも
last updateLast Updated : 2025-10-02
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「待ってくれ!」 圭介の声は追い詰められたように、切羽詰まっていた。「俺が間違ってた! 浮気相手の女はだらしなくて、金遣いも荒くて……。お前がどれだけ素晴らしい妻だったか、いなくなって初めて分かったんだ!」 見苦しい自己弁護だった。  自分の過ちを棚に上げて、一度は「真実の愛を見つけた」とまで言ってのけた新しいパートナーを罵るのか。  心の底から軽蔑が込み上げてくる。「聞いてくれよ。あの女、仕事をしていないくせに、ろくに家事もしないんだ。マンションの部屋は汚れ放題で、この前なんかリビングにゴキブリがいたんだぜ! あり得ないだろ。食事も毎日外食かレトルト。もう嫌になったよ。頼む、戻ってきてくれ。それでもう一度、フレンチトーストを作ってくれよ。あれ、好きなんだ」 フレンチトースト? それはあの結婚記念日の日に、私が作った朝食だ。  あの日、興味なさそうに食べたくせに、今さらよく言う。 何もかも私の知ったことではない。そんなに汚い部屋が嫌なら、自分で掃除すればいいのに。  圭介はいつもそうだ。面倒事は全て私に押し付けようとする。今の私は妻ではなく恋人ですらない、ただの他人なのに。「離して!」「頼む。このとおりだから!」 私が腕を振りほどこうとしても、圭介は力を込めて離さない。  その時だった。 一台のフランス製高級車が、滑るように音もなく私たちの横に停車した。  後部座席のドアが開いて、中から湊さんが降りてくる。「偶然、通りかかったものですから」 彼はいつものようにそう言うけれど、偶然というにはあまりにも完璧すぎるタイミングだった。  湊さんは圭介を一瞥したものの、次の瞬間にはそこに誰もいないかのように、視線を私にだけ注いだ。「相沢さん。お困りですか?」 声こそ穏やかだったが、存在感は他を圧倒するものがあった。「何だよ……またお前かよ」 圭介は怯んだように、私の腕を離す。握られていた腕が少し痛い。  湊さんは私にだけ優し
last updateLast Updated : 2025-10-02
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27:見えない檻

 静かな車内には、上質な革の匂いと彼のまう仄かに甘い香水の香りが満ちていた。  圭介の声がまだ耳に残っていて、自分の心臓がやけに大きく脈打っているのが分かる。「あの……すみません。またご迷惑をかけてしまいました……」 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細かった。「迷惑だなんて、少しも思っていませんよ」 湊さんは前を向いたまま、穏やかな声で私の言葉を遮った。彼の横顔は社内の影が落ちていて、表情がよく見えない。「ただ、あなたが心配なだけです」 その声には私の心を落ち着かせるような、不思議な響きがあった。「仮住まいのビジネスホテルでは、セキュリティが不安でしょう。今夜は、うちのホテルでお休みください」 提案ではない。有無を言わせぬ、決定事項の通達だ。「そんな、これ以上お世話になるわけには」 私が慌てて断ろうとすると、彼はきっぱりと言う。「これは、あなたの安全を確保するための、クライアントとしての業務判断です」 業務判断。  その言葉を出されてしまえば、私に反論する術はなかった。 ◇  案内されたのは、以前一夜を共にした部屋とは違うが、同様に豪華なスイートルームである。  広すぎるリビングルームに、複数のベッドルーム。窓の外には、宝石のような夜景が広がっている。  全て今の私には現実感がなくて、映画のセットの中に迷い込んでしまったようだった。「こんな場所、私にはもったいないです」 部屋の豪華さに気後れして立ち尽くす私に、湊さんは穏やかな声で言った。  その口調はあくまで優しかったが、内容は「ビジネス」という抗いようのない大義名分で、私の逃げ道を完璧に塞いでいた。「今はスイートルームのプロジェクトが進行中ですから。デザイナーである夏帆さんに、ぜひ我が社のこの部屋を『体験』して、改善点などを探って欲しいんですよ。これも仕事の一環です」「仕事」という大義名分。  彼はいつもそうだ。私が断
last updateLast Updated : 2025-10-03
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 湊さんの優しさは心地よい。けれど決して自分の意志では出られない檻に、知らないうちに閉じ込められているような感覚。 気がつけばがんじがらめになって、逃げられないのではないか。そんな怖さがある。 私の葛藤を見透かしたように、彼は言った。いつもの優しい微笑みを浮かべて。「今夜は何も考えず、ゆっくり休むことだけを考えてください」 湊さんはそれだけを言い残して、部屋を出て行った。 彼の完璧すぎる庇護は、私の意思とは関係なく物事をどんどん決めていく。抗いがたい優しさが、逆に私の首を真綿でゆっくりと絞めていくようだった。◇【湊視点】 夏帆さんを通したスイートルームを出て、廊下で一度立ち止まる。 振り向けば、彼女がいる部屋の扉が見えた。 僕の城であるこのホテルに、彼女が泊まる。そう思えば、喜びに心が震えるようだった。 本当は立ち去らず、夏帆さんともっと長く共にいたい。 あの夜を思い出してもらえるように、もっと近くにいたい。 けれど彼女は怯えているように見えた。元夫に詰め寄られて、怖い思いをしたのだろう。 あの男。圭介といったか。 夫として3年も彼女を拘束したというのに、あんな形で再接近するなど、絶対に許せない。 夏帆さんを傷つけた報いは必ず受けさせる。僕の力で追い詰めて、破滅させてもいいが――問題は彼女がそれを受け入れるかどうか。 彼女は優しい人だから、不倫で裏切った元夫ですら、ひどい目に遭えば悲しむかもしれない。 僕としてはいっそ殺してやりたいのだが、彼女の気持ちを思うとそう簡単にできない。 不倫、不倫ね。あの圭介という男も馬鹿なことをしたものだ。 自分から裏切りを働いて、夏帆さんのような素晴らしい人を手放したのだから。 夫として彼女の心も体も手に入れていたのだろうに、なんと愚かなことだろう。それは、今の僕がどれだけ望んでも届かない立場なのに。そう思えば、制御の効かない嫉妬が後からあとから湧いてくる。 だがあの男が裏切ったからこそ、僕は夏帆さんに出会
last updateLast Updated : 2025-10-03
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 あの一夜で、僕の心はすっかり奪われてしまった。それだけじゃない。仕事を通じて夏帆さんを知れば知るほど、新しい魅力を見つけてしまう。 仕事熱心で、責任感が強いところも。  デザイナーとして抜群のセンスを持ち、妥協しないところも。  離婚直後で心細いだろうに、誰にも頼らず自分の足で立とうとしているところも。 仕事を口実にすればすぐに騙されてしまう、可愛らしいところも。 そして何よりも……あのスイートルームのコンセプト。温もりと歴史、利用者の体験を最大限に重視する、彼女の思い。  哲学と技術を高い次元で融合させる彼女の手腕は、いっそ嫉妬を覚えるほどで、それだけに深く尊敬している。  何もかもが僕を魅了してやまない。もう、彼女のいない世界など考えられないほどだ。 本当は今にでも彼女を捕まえて、誰にも見えない場所に隠してしまいたい。ぐずぐずに甘やかして溶けさせて、僕だけを見てもらえるようにしたい。  彼女の瞳に僕だけが映ると想像すれば、心が踊った。本当に実行してしまいたいと思う。 でも、彼女はそんなことを望まないだろう。  そして、そんな彼女だから好きなんだ。 自分がこんなに執着が強い人間だったとは、正直意外だった。  昔から何かに夢中になったことは一度を除いてないし、何かを強く欲しいと思ったこともなかったのに。  その一度とてすぐに諦めたのに。(彼女だけだ。こんなに離れがたく思うのは) 夏帆さんの全てを手に入れたい。たった一夜限りの関係ではなく、長い時を共に歩んでいきたい。  辛いこと全てから守ってあげて、幸せを分かち合いたい。何もかもを知りたい。暴きたい。  だから今は我慢するしかない。これ以上彼女を警戒させないように、踏み込みすぎないようにしなければ。 あぁ……だが、耐えられるだろうか。  愛しい人が目の前にいるのに、抱きしめられないもどかしさ。一度はベッドを共にしたのに、今は手を握ることすら難しい。  あの夜、しっかりと組み敷いて逃げられないようにしておけばよかった。
last updateLast Updated : 2025-10-04
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【夏帆視点】 翌日、私は湊さんの車で事務所まで送ってもらった。  とても気まずかったが、彼はいつも通りの微笑みを浮かべて仕事の話をしていた。「何かあったら、すぐに相談してくださいね」 彼はそう言って、事務所の前で私を車から降ろしてくれた。 事務所の前に立てば、昨日の一連の出来事が現実感を失って、どこか夢だったようにも感じられる。(気持ちを切り替えなければ) 仕事に没頭すれば、気まずさも圭介のことも忘れられるだろう。  そう思っていたのに。 お昼前になると、スマホがひっきりなしに震えた。圭介がしつこくメッセージを送ってきて、通知が埋め尽くされていく。『昨日の男は誰だ』『俺たちには思い出があるじゃないか』『本当に愛していたのは君だけだ』 自己陶酔と嫉妬と、見苦しい泣き落とし。  私は着信を拒否してアカウントをブロックした。  でも彼は次から次へと新しいアカウントを作っては、私に連絡を送ってくる。まるでモグラたたきのようだ。うんざりした。 絶え間ない通知音に、私の神経はすり減っていく。  仕事への集中力を欠いて、図面に小さなミスを描き込んでしまったり、業者への発注数を間違えたり。「相沢さん、大丈夫?」 同僚や所長が、心配そうに私の顔を覗き込んだ。「ええ、大丈夫です」 圭介とのいざこざはプライベートの話だ。仕事上で迷惑をかけるわけにはいかない。  私は無理に笑って、作業に意識を集中させた。 ◇  さらに翌日、ホテルでの湊さんとの打ち合わせ。  私は疲労とストレスをメイクでしっかりと隠して臨んだ。 打ち合わせの最中、マナーモードにしていたスマホがテーブルの上で静かに振動する。  その瞬間、私の肩が自分でも気づかないうちに、びくりと強張った。 それを見逃す人ではなかった。  湊さんは何も言わない。  でも静かな視線が
last updateLast Updated : 2025-10-04
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