All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 821 - Chapter 830

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第821話

紬の問いかけに、正俊の表情がわずかに強張った。「……まあ、簡単に言えば、がんの治療に使う薬です」そう答えてから、彼は取り繕うように笑い、湯呑みに口をつけた。「そうなんですね。それがどうかしたんです?」紬が本当に何も知らない様子を見て、正俊は内心ほっとした。それどころか、胸の奥にはかすかな喜びさえ湧いてくる。「いや、たいしたことではないんですが……」正俊はわざとらしくため息をつき、困り果てたような顔を作った。「工場のほうに、なかなか承認が下りない特効薬がありましてね。ご存じのとおり、製薬会社の扱う薬は審査も厳しい。まして今は、偽造医薬品の摘発が厳しくなっている時期ですから」そこで一度言葉を切り、声を落とす。「今回の薬は先発医薬品ではない、いわゆる後発品なんですが……正規のルートに乗せるのが難しくて、なかなか承認を通せないんです」「先発品じゃない特効薬……それって、偽物なんですか?」「いえ、それは絶対に違います!」正俊は慌てて手を振った。「今回の薬は偽造医薬品ではありません。いわばジェネリックのようなものです。先発医薬品とは価格が違いますが、効果そのものは同等なんですよ。ただ、うちの会社が正式に扱っている先発品とは違って、通常の販売ルートに乗せるのが難しい。かといって、このまま倉庫で眠らせておけば、私のところで不良在庫になってしまいます」正俊はそこで一呼吸置き、紬の反応をうかがった。「ですが、もし松本さんにこの薬をさばく手助けをしていただけるなら……会社から支給される利益の、2倍はお渡しできます」そう言って、正俊は2本の指を立てた。「純利益で2倍です。つまり、うちが1年かけて先発医薬品から得る利益に匹敵する額ですよ」紬は湯呑みをテーブルに置き、思わず目を丸くした。「そんなに?」その反応を見て、正俊は口元に意味ありげな笑みを浮かべた。「ええ。この話は難しいようでいて、実はそれほど難しくありません」声を少し落とし、身を乗り出す。「松本さんには、『臨床試用』や『緊急調達』といった名目でヤクモヘルスグループ内部の手続きを通してもらえれば、あとの処理はこちらでやります。誰もそこまで細かく調べたりはしませんよ。何しろ――」正俊はさらに声を潜めた。「今、薬局のほうも、この特効薬を待っているんですから」
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第822話

空港からの帰り道。祐一は、隣で何度も手にしたバラを弄んでいる由奈を横目に見ながら、ふっと笑った。「仕事が落ち着いたら、俺から会いに行くつもりだったんだ。でも、まさかこんなに早く来てくれるとは思わなかった」「早すぎて、逆に迷惑だった?」由奈は横目で祐一をじろりと見る。「まさか」祐一は小さく笑い、少しだけ彼女のほうへ身を寄せた。「むしろ、もっと早くこっちに引っ越してきてほしいくらいだ。ずっと君のそばにいたいからな」その言葉に、由奈は柔らかく笑う。「でも、私がこっちに来たのは、祐一のためだけじゃないよ。母の手術を海都市の病院で受けてもらおうと思ってるの。脳外科なら、やっぱり海都市のほうが評判がいいから」祐一は頷いた。「そうだな」短く答えたものの、どこか素っ気ない。それに気づいた由奈は、少し顔を覗き込むようにして笑った。「……あら。『祐一のためじゃない』って言ったから、拗ねちゃった?」「そんなことない」祐一は前を向いたまま答える。けれど、隣からじっと見つめられているのを感じると、とうとう観念したように由奈の手を取った。「……まさか、君のお母さんにまで嫉妬するわけにはいかないだろ」「ふふっ」由奈は何も言わず、ただ嬉しそうに笑った。そのとき、祐一のスマホが鳴った。画面を見ると、紬からの着信だった。祐一が電話に出る。まだ何も言わないうちに、向こうから声が飛んできた。「ちょっと話したいことがあるんだけど」「今俺に連絡すると、会社の人間に怪しまれる。誰かに見張られてる可能性もあるから、用があるなら土屋にメッセージを送ってくれ」紬は言葉に詰まった。そして、ふと周囲を見回す。いつの間にか、近くに何人か社員が増えていた。紬は咳払いをすると、突然声を張り上げた。「だから、すぐにでも会いたいって言ってるの!あんたは?私に会いたくないの?」「……」祐一は無言で電話を切った。これ以上聞いていたら、耳がおかしくなりそうだった。隣で聞いていた由奈が、不思議そうに尋ねる。「紬さんに何をさせてるの?」祐一は小さく笑った。「大したことじゃない。ただ、ヤクモヘルスで魚を釣ってもらおうと思ってな」……紬は電話が切れたあとも、甘ったるい愛の言葉を延々と並べ立てていた。そばにいた同僚たちは、まるでとんでもない
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第823話

彼女は、恥をかくこと自体は怖くない。けれど、倫也の前でだけは、あんな姿を晒したくなかった。凪紗は正俊の執務室で、これまでに分かったことを一つずつ報告していた。正俊は机を指先で軽く叩きながら、なおも警戒を解いていなかった。だが、凪紗の話を聞き終えると、それまで浮かべていた険しい表情がふっと消えた。「なるほど。口の堅いタイプでもなさそうだな。思っていたほど厄介な相手じゃない」正俊はそう呟くと、凪紗へ視線を向けた。「浪川さんに連絡して、準備を整えておくよう伝えてくれ」浪川恒雄(なみかわ つねお)――以前、凪紗とともに温泉で正俊と会っていた男だ。凪紗が黙ったままでいると、正俊は訝しげに目を細める。「なんだ。まさか、情が移ったわけじゃないだろうな?」「……いえ」「ならいい」正俊は椅子にもたれ、煙草に火をつけた。それから椅子を窓のほうへ向け、煙をゆっくり吐き出す。「自分の身の上を知りたいんだろう?だったら、私の言うとおりにしておけば間違いない」凪紗は目を伏せ、小さく頷いた。「……分かりました」部屋を出る。扉が閉まり、室内の気配がすべて遮断されたところで、凪紗は大きく息を吸い込んだ。そして何度も、自分自身に言い聞かせる。――これでいい。すべては必要なことなのだ。そうする価値は、きっとある。……由奈は滝沢家の本邸には住まず、祐一が用意した湖畔の一戸建てに身を寄せることになった。延べ床面積は約500平方メートル。2階建てで、地下室に加え、屋上には庭園まである。専用エレベーターを備え、キッチンも広い。テラスからは湖を一望でき、周囲には木々が連なる自然豊かな景観が広がっていた。プライバシーが守られる上、静かに過ごすにはうってつけの場所だ。テラスに立ち、遠くに広がる街並みを眺めながら、由奈は尋ねた。「こんな素敵な家、いつ買ったの?」祐一は両手をポケットに入れたまま歩いてきて、彼女の隣で足を止めた。「ここはもともとリゾート施設だったんだ。ここ数年は経営がうまくいかなくて、前のオーナーが手放すことになった。それを俺が買ったんだ」そして、さりげなく続ける。「これからは、俺たち夫婦の老後の住まいだ」「夫婦?」由奈は振り返り、手すりに背を預けた。「私たち、まだ離婚したままだけど?」祐一は深いため息をつくと、彼
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第824話

しばしの沈黙が落ちた。由奈は伏せていた睫毛をわずかに動かし、静かに口を開いた。「……どうして断るの?」祐一の目に一瞬、驚きが浮かぶ。だが、すぐにいつもの穏やかな表情へ戻った。「会ってくれるのか?」「私と千代さんの間に、解けないわだかまりがあるわけじゃないもの。それに、あなたのお母さんでしょう?」由奈は少し考えてから、柔らかく続けた。「私だって、息子がいつか彼女のためにあんな無茶をしたら、平気な顔ではいられないと思う。千代さんが私に厳しかったのって、結局はあなたのことを思ってのことだったから」祐一は何も言わず、由奈を見つめていた。やがて目を伏せ、ふっと笑う。「……何がおかしいの?」由奈が怪訝そうに尋ねると、祐一は不意に身をかがめ、彼女の額にそっと口づけた。「ありがとう」あまりに素直な礼を言われ、由奈は頬を赤らめる。けれど祐一は、それ以上何も言わず、ただ穏やかに微笑んだ。由奈は照れ隠しに、さっと顔を背けた。「別に、あなたを気遣って言ってるわけじゃないからね」「うん」祐一が低く返す。床に落ちた2人の影が、ゆっくりと寄り添っていった。……翌日、由奈は祐一とともに滝沢家の本邸を訪れ、千代を見舞った。千代はあらかじめ使用人たちに念を押していたからか、由奈が姿を見せると、彼らは一斉に頭を下げる。「奥様、お帰りなさいませ」本邸で働く使用人の多くは、由奈にとって昔からの顔なじみだった。祐一とはすでに離婚していることを知っていても、彼らにとって、祐一の妻は由奈しかいないのだろう。由奈は苦笑を浮かべ、祐一とともに2階へ上がった。ほどなくして、執事が寝室から出てきた。「千代様がお待ちです。どうぞ、お入りください」そう言って、穏やかに頭を下げる。祐一は由奈の手を取ると、そのまま寝室へと連れていった。由奈が会ってくれると知ったとき、千代はとても喜んでいた。ところが、いざ本人を目の前にすると、緊張してしまったのか、何から話せばいいのか分からない様子だった。やがて、その視線がお腹の膨らみに落ちる。「その……妊娠中って、大変でしょう?」由奈は微笑んだ。「ええ、少しは。でも、なんとかやっていけています」千代はしきりに息子へ目配せし、何か言ってくれと言わんばかりに訴えている。祐一はそんな母親を
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第825話

由奈は、ふっくらと膨らんだお腹を見下ろした。掌をそっと当てると、ときおり小さな胎動が返ってくる。まるで、今の話を聞いていたかのように。しばらくして、祐一と由奈は1階へ下りていた。由奈は少し歩調が遅く、足元の段差に目を落としている。けれど、その胸の内では、さっき千代から聞いた話がまだ大きく揺れていた。庭に出たところで、祐一が振り返った。後ろからついてくる由奈の様子がおかしいことに気づき、足を止めて待つ。「疲れたのか?」由奈は首を横に振った。「祐一」由奈が顔を上げた。その瞳は、驚くほどきらきらと輝いている。「お腹の子って、もしかして男女の双子だったりするのかな?」祐一は眉をわずかに上げ、くすりと笑った。「母の話、本気にしてるのか?」「本気にしたっていいでしょ?」由奈は楽しそうに笑った。「男の子も女の子も、どっちもほしいし」祐一は頷く。「そうだな。由奈がそう望むなら、きっと叶うよ」「もし本当に男女の双子だったら……男の子は絶対、あなたに似てほしくない」「なんで?」「だって、あなたみたいな女泣かせに育ったら困るもの」由奈はそう言い残すと、くるりと背を向け、歩いていった。「……」祐一は腰に両手を当て、眉間に深い皺を刻む。やがて、呆れたようなため息がこぼれた。窓辺にいる千代は、少し離れて歩いていく2人の背中を眺めながら、胸に込み上げる嬉しさを感じていた。もし和恵が天国からこの光景を見ているのなら――きっと、同じように喜んでくれていることだろう。……紬は正俊に頼まれ、臨床部門の松本英樹(まつもと ひでき)を食事に誘った。そして、あの「緊急調達」の名目で処理しようとしている後発医薬品について、上に掛け合ってもらえないかと持ちかけた。英樹は話を聞くなり、困ったように眉を寄せた。「松本さん、力になりたいのはやまやまですが……『緊急調達』には厳格な適用条件があります。明確な患者さんの適応があって、なおかつ医療機関への届出も必要です。今の話じゃ、その薬を何に使うのかすらはっきりしてないでしょう。そんなものを私が上に通せるわけがありません」やはり断ってきた。紬も最初から予想していた。それでも笑顔を崩さず、カバンから数枚の書類を取り出す。「松本さん、私たち、苗字まで同じなんですから、そこをなんとかお願い
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第826話

紬は一瞬きょとんとしたものの、すぐにスマホを取り戻した。「私が何しようと、白石さんには関係ないでしょ!」いかにも後ろめたそうな顔で立ち去ろうとしたそのとき、倫也が手を伸ばし、紬の腕をつかんだ。「ちょっと、何するのよ――」「確かに、あなたが何をしようと私には関係ありません」倫也の目がすっと細められる。その視線には、隠しきれない鋭さがあった。「ただ、滝沢社長があなたに何をさせているのか、それだけは知りたい」紬は視線を逸らし、それでも強気な態度を崩さなかった。「離して。離さないなら、人を呼ぶから!」倫也は動じることなく、淡々と言った。「答えてください」紬はなんとか手を振りほどこうとする。けれど、倫也の手はまるでびくともしない。しばらく悪戦苦闘した末、とうとう諦め、苛立ったように吐き捨てた。「そんなの、祐一兄ちゃんに聞けばいいでしょ!」「分かりました。とりあえず、少し話をしましょう」「嫌!」倫也はその場に立ったまま、深い闇を湛えたような瞳で紬をじっと見つめる。「コーヒーでいいですか?奢ります」「だから、私は――」断る言葉を最後まで言わせることなく、倫也は紬の腕を引いて歩き出した。明るい廊下に2人の足音が響く。大理石の床に反響する音が、妙に大きく感じられた。紬はなんとか手を振りほどこうともがいたが、倫也の力は安定していて、まるで逃がすつもりがない。「ちょっと、何なのよ!言っとくけど、何も話さないからね。聞いたって無駄なんだから!」「あなたが言わなくても、事情はだいたい分かっています」「……」紬は完全に言葉を失った。……倫也に連れてこられたのは、ショッピングモール2階の開放感のあるテラスカフェだった。周囲には何組かの客が座っている。倫也はカウンターで注文をしようとし、紬を振り返った。「何がいいですか?」紬はようやく視線を戻し、メニューをざっと眺める。「……じゃあ、アイスアメリカーノで」紬は花壇の脇にある席へ腰を下ろした。こっそり振り返ると、倫也は会計を済ませていた。やがて彼がこちらへ戻ってくるのが見え、慌てて姿勢を正し、わざと不機嫌そうな顔を作った。倫也は椅子を引き、紬の向かいに腰を下ろす。紬は視線を逸らしたまま腕を組んだ。「私をここに誘ったこと、婚約者の人は知ってるの?それ
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第827話

紬は呆然と倫也を見つめた。「それって、慰めてくれてるの?」倫也は小さく「はい」と答えた。紬は長い睫毛を伏せ、瞳の奥に滲んだ寂しさを隠す。「別に慰めてもらわなくていい。そういう優しい言葉は、婚約者にかけてあげれば?どうせ私たち、もう会うこともないんだし」倫也は何も言わなかった。紬が立ち上がって帰ろうとしたとき、背後から静かな声が追いかけてくる。「どうして私があなたの気持ちを断ったのか、聞かないんですか?」紬の足が止まった。唇をきゅっと結んでから、もう一度席に戻る。「……どうして?」「あなたの私への気持ちは、ただの勢いと勘違いだと思っているからです」紬は数秒、言葉を失った。やがて眉を寄せる。「それ、どういう意味?そんなこと――」「あなたはなぜ私のことが好きなんですか?」倫也が問い返す。「江川市にいた頃、私があなたに優しくしていたから?」紬は言葉に詰まった。まるで、胸の奥を見透かされたようだった。自分はどうして倫也を好きになったのか。考えてみれば、あの頃の彼が自分に向けてくれた優しさがきっかけだったのかもしれない。「私は……」「あなたは一時の勢いで私を選んだ。もし私がその気持ちを受け入れたとしても、あなたは私の愛情を最後まで背負いきれないかもしれません」倫也の感情は抑えられていたが、その言葉の端には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。紬は勢いよく立ち上がった。「私にチャンスもくれなかったくせに、どうして私には無理だって決めつけるの?」思わず声が大きくなり、周囲の客たちが一斉にこちらを振り返る。紬ははっとして、慌てて腰を下ろした。眉間には深い皺が寄っている。倫也は片手でこめかみを支え、静かに紬を見つめた。「私たちは歳も離れていますし、これまで歩んできた人生も違います。あなたは大学を卒業したばかりで、これから先、いくらでも可能性がある」一度言葉を切り、落ち着いた声で続ける。「今のあなたは、まだ何もかもが新鮮で、まっさらな状態に近い。そんなときに、一時の恋心で私を選んで、もし私もそれを受け入れたとします」倫也の声が、少しずつ低くなる。「何年か一緒に過ごして、私が仕事に追われて、あなたに構う余裕がなくなったら……きっと、あなたは後悔する。そんなとき、私はどうすればいいんですか?」その声音
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第828話

由奈の口元がわずかに引きつる。彼女はこめかみを抑えながら呟いた。「たぶん、年齢が理由ってわけじゃないと思いますけど……」「それより、由奈お義姉ちゃんはさ、結局、祐一兄ちゃんのどこが好きなの?」紬が不意に尋ねる。由奈はわずかに口元を緩めた。「私もよく分からないんです。子どもの頃、正義感が強くて格好いいなって思ったのが始まりかも。あとは……単純に顔が好みだったとか?」「……」紬は呆れて言葉も出なかった。とはいえ、自分に倫也のどこが好きなのかと聞かれても、やはり明確な答えは出てこない。由奈はそんな紬を見つめた。「じゃあ、紬さんにとって白石先生はどんな存在なんですか?」紬はしばらく黙り込み、やがて俯いた。「好きだから好き、それだけ。そんなに深く考えたことなかった。でも……今日、白石さんに言われたことを考えてみたら気づいたの。もしかしたら、あの頃彼が私に優しくしてくれたから、好きになったのかもしれないって」「聞きたいのはそこじゃないんです」由奈は紬のほうへ向き直り、真剣な表情を浮かべた。「大事なのは、紬さんが白石先生にどういう気持ちを抱いてるか。今が楽しければそれでいいっていう恋なのか。それとも、白石先生が言ってたみたいに、この先もずっと一緒にいたいと思えるのか。そこをちゃんと考えたほうがいいですよ」紬は長い睫毛を伏せ、考え込んだ。「それは……ちゃんと考えてみないと分からないかも」ふと何かを思い出したように、紬は肩を落とす。「……っていうか、あの人には婚約者がいるんだよ?今さら私が何を考えたって、意味ないじゃん」「まだ分からないんですか?」由奈は静かに言った。「もし白石先生が本当にその人と結婚するつもりなら、今日、あんなことを紬さんに言う必要なんてなかったと思いますよ」紬は目を見開いた。それから何かを考えるように、黙り込んだ。……数日後。英樹から再び連絡があり、協力してもいいと言ってきた。ただし、利益の1割をもらいたいという条件つきだった。紬は二つ返事で承諾した。もちろん、その報告は正俊にも伝えた。正俊の目元に、見るからに険しい色が浮かぶ。「松本さん。まさか、我々の計画をすべて話したんじゃないでしょうね?」凪紗が不安そうに紬を見た。「そんなわけないじゃないですか!」紬は慌てて身の潔白を訴え
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第829話

凪紗の青ざめた顔を見つめ、紬は数秒黙ったあと、静かに尋ねた。「私にこんなことを教えたら、田辺部長に目をつけられちゃうよ」凪紗は爪が掌に食い込むほど、強く拳を握りしめた。「分かってる。でも……松本さんはあの人とは違う。こんなことに巻き込まれて、リスクを背負う必要なんてないよ」「ありがとう、東山さん」紬は彼女の手を取ると、にっこり笑った。「教えてくれて、本当にありがとう。でも大丈夫。私なら平気だから」……滝沢グループ。麗子が執務室の扉を開け、祐一のもとへ歩み寄った。「社長、松本英樹さんのところから承認が下りました。例の薬も、近いうちに社長が指定した場所へ送られると思います」報告を聞いた祐一は、淡く笑った。指先でペンをくるりと回す。「舞台はもう整った。あとは観客を用意するだけだな」「はい、探してきます」「ちゃんと頭の切れるやつにしてくれ」麗子は頷いた。そのとき、執務室の扉がノックされた。「入れ」祐一がペンを置く。扉が開き、社員が顔を覗かせた。「社長、白石と名乗った男性がお見えになっています。社長にお会いしたいと……」祐一は机を指先で軽く叩いた。「通してくれ」麗子が社員とともに部屋を出ていく。ほどなくして、倫也がゆっくりと入ってきた。仕立てのいいベージュ色のミニマルなスーツに、濃色のニット。派手さはないが、隙のない装いだった。「珍しいですね、白石さん。今日はどういう風の吹き回しですか?」祐一は椅子の背にゆったりともたれ、肘掛けに指を置いたまま、倫也を見上げる。倫也は室内を一通り見渡すと、窓際まで歩いていった。「単刀直入に言いますが……関係者でもない松本さんに、ヤクモの製薬工場で起きている問題を探らせるのは、少し酷なんじゃないですか」祐一は腕時計を撫でながら、薄く笑った。「彼女のこと、心配になったんですか?」倫也が振り返り、冷ややかな目を向ける。「少し意外だっただけです。滝沢社長の下には優秀な人材がいくらでもいる。それなのに、なぜ彼女を選んだんです?」「白石さんもまだまだ紬のことをよく分かっていませんね」祐一は低く笑い、立ち上がるとソファへ移った。紅茶をティーカップに注ぐ。「何でも専門家に任せればいいってものではありません。事情に詳しい人間が動けば、かえって不自然さが出ることもあり
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第830話

薬が出回ってから、数日しか経っていないある日。そんなある日、「がん患者の家族」と名乗るユーザーが、ある薬を「奇跡の新薬」として紹介する投稿をSNSに上げた。そこには、その「新薬」を絶賛し、他人にも勧める言葉がびっしりと並んでいた。投稿は瞬く間に拡散され、コメント欄も騒然となった。「本当に効くのか?」「これ、いわゆる偽薬じゃないのか?」疑う声や検証を求める声が相次ぐ一方で、「実際に使ったけど効果があった」と擁護する声も上がり、議論はたちまち収拾がつかなくなっていった。さらに騒ぎが大きくなると、今度は「医療関係者」を名乗る人物まで現れ、その新薬はヤクモヘルスグループが開発した「特効薬」ではないかと推測した。わずか1日で、ヤクモヘルスグループの「特効薬」がSNSのトレンドを席巻。公式サイトのコメント欄にまで、大勢のユーザーが押しかけ、薬の安全性や購入方法について問い合わせ始めた。事態は瞬く間に大きくなり、その騒ぎは正俊の耳にも入った。「その投稿を見せろ!」正俊の声に、凪紗は慌ててスマホを差し出した。画面を開いてみれば、閲覧数はすでに数十万。コメントも1万件を超え、今なお増え続けている。しかし、「奇跡の新薬」が絶賛されていることを見ても、正俊の顔には喜びなど微塵も浮かばなかった。むしろ、表情は見る見るうちに険しくなる。この薬は、正規の承認手続きを経たものではない。そもそも正式な意味での後発医薬品ですらない。ただ「ジェネリック」を装っているだけの代物だ。そして、その異常な鎮痛効果が何によるものなのか――正俊は誰よりもよく知っていた。この騒ぎが本格的に表沙汰になれば……取り返しのつかないことになる。「何としてでも、今すぐこの投稿を潰せ!」「ですが……」「言い訳は聞かん!」正俊は険しい顔で凪紗の前まで歩み寄った。「あなたにできないなら、ほかに頼める人間がいるだろう?そいつなら喜んで力を貸してくれるはずだ……そうだろ?」誰のことを指しているのか、2人とも分かっていた。凪紗は何も答えなかった。正俊は苛立たしげに手を振り、彼女を追い払うように退室を促した。部屋を出た凪紗の顔は、ひどく険しかった。廊下まで来ると、もう一度スマホを取り出し、問題の投稿を開く。――あまりにも、出来すぎている。ま
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