All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 831 - Chapter 840

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第831話

凪紗のまつ毛がかすかに揺れた。だが、紬の嘘を指摘することはせず、ただ尋ねた。「……すごく仲のいいお友達なの?」紬は数秒間、言葉に詰まった。それからぎこちなく頷く。「ま、まあ……そんな感じ」「それなら、力を貸してあげてもいいんじゃないかな」凪紗は肩をすくめるようにして言った。「それもそうだね」紬は頭をかきながら笑った。「じゃあ、私もそろそろ行くね。また今度ご飯にでも行こう」「うん」凪紗が答える。紬が階段を下りていく姿を見送りながら、凪紗は眉を寄せ、何かを考え込んでいた。……例の投稿はあまりにも大きな騒ぎになっていた。ユーザーたちがたくさんコメントを残したことで、ヤクモヘルスグループもついに沈黙を保てなくなり、「投稿に言及された薬は当社が製造したものではない」と、声明を出すことになった。しかし、ヤクモ側が声明を出した直後、今度は別の話題がトレンドに浮上した。――「奇跡の新薬」の副作用が強すぎる、と糾弾する声だった。わずか数時間で閲覧数は数万件にまで跳ね上がり、被害者と名乗る人々が次々と体験談を投稿した。薬を服用してから病状が悪化したという者。薬の成分には大量の鎮痛剤が含まれているのではないかと疑う者。服用後に胃腸の不調や吐き気が生じ、さらには吐血したという者まで現れた。コメント欄はたちまち怒りと疑念で埋め尽くされ、その矛先は黒幕と目されたヤクモヘルスグループへと向けられた。ネット上で批判や追及が相次ぐなか、ヤクモは急きょ二度目の声明を発表した。問題の薬は一度も正式な承認を受けておらず、ヤクモが開発したものでも、製造を許可したものでもないこと。そして、すでに警察へ被害届を提出したことを明らかにした。だが、世間の騒ぎは収まるどころか、さらに広がっていった。「なぜ大量に流通していたのか」、「監督体制に問題はなかったのか」。そんな疑問が次々と投げかけられ、騒動はますます大きくなっていく。正俊はスマホの画面を睨みつけていた。指先が冷たくなる。本来、あの薬は短期間で副作用が現れるようなものではない。たとえ時間が経ってから患者に症状が出たとしても、それがあの薬によるものだと特定するのは難しいはずだった。――なのに、なぜこんなにも早く被害が出ている?正俊が考えを巡らせていると、凪紗が慌てた様子で部屋に入って
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第832話

その言葉を聞いた途端、会議室のあちこちでざわめきが起こった。先ほどまで言い争っていた幹部たちも、ようやく冷静に戻ったようだった。「そうですね。『臨床試用』や『緊急調達』といったルートを使って、薬の流通記録を通常の審査では確認できないところに紛れ込ませれば、監査部も把握できなくなってしまいます」研究開発部門を管轄する責任者の一人が、勢いよく立ち上がった。「ですが、こうした特殊な調達には、執行管理部門と医療倫理委員会の双方による承認が必要なはずです」そこで、和典がゆっくりと顔を上げた。「先週の倫理委員会の議事録に署名したのは、誰だ?」会議室が一瞬で静まり返った。エアコンから響く低い音まで、はっきり聞こえるほどに。ちょうど会議室に入ってきた正俊は、その言葉を耳にした瞬間、胸がざわついた。室内を見渡し、最後に視線を向けたのは、隅に座っている紬と英樹だった。英樹は目を閉じ、まるで何も知らないかのように静かに座っている。紬は正俊と目が合うと、意味ありげに微笑んだ。正俊は慌てて視線を逸らした。眉間の皺がさらに深くなる。2人があまりにも落ち着き払っているせいで、かえって胸騒ぎが大きくなっていく。「田辺さん、あなたたち製造部なら、この薬のことは知っているはずだろう?」亮介が青い箱の薬を正俊の前へ押し出した。正俊が答えるより先に、別の男が口を挟む。「確かに。これだけの薬がうちの会社から流出している以上、製造部が知らないはずがない。以前の偽造薬騒ぎも、製造部から出てたんだ。まさか今回の薬も、製造部が隠していた偽造薬じゃないだろうな?」正俊の顔色が一変した。「証拠もないのに、適当なことを言うな!」男は鼻で笑った。「適当なことかどうかは、これから分かる。ここにいる全員に、自分の無実を証明する機会がある。もしお前に納得のいく説明ができないなら、まずは製造部から徹底的に調べてもらうしかないな」その話を聞いて、正俊の背筋を、ぞっとするような寒気が駆け抜けた。冷や汗が一気に背中を濡らし、シャツが肌に張り付くのを感じる。どう反論したらいいのか――考えがまとまらない。そのとき、監査部長が何かを確認した。「署名した人物が分かりました、松本英樹さんです」次の瞬間、全員の視線が英樹へと集まった。予想外の名前に、会議室がざわめく。「
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第833話

さらに、彼女が会社に来たばかりの頃、あからさまに周囲へ贈り物を配っていたことまで持ち出す者がいた。「こっちは必死にやってるっていうのに、本人は箔をつけに来ただけなんだろ。俺たちのことなんて知ったこっちゃないってわけだ」もともと紬に対してそれほど悪い印象を持っていなかった古参の社員まで、眉をひそめた。「本当に何も知らなかったとしても、これだけ大きな案件で、ろくに確認もせず他人に署名を頼むなんて、規則を軽く見すぎだろう」会議室の隅に立つ紬は、次々と浴びせられる非難を黙って聞いていた。爪が掌に食い込むほど、強く手を握りしめる。説明することも、反論することもできない。胸の奥を締めつけるような痛みは、思っていた以上に重く、切実なものとして彼女を苛んでいた。そこへ正俊が追い打ちをかける。紬に責任を押しつけることで、自分に疑いの目が向く前に逃げ切ろうとしていた。「松本さん、あなたが社内の人間に贈り物をして取り入っていたのは、すべて今日のためだったんじゃないのか?。私までまんまと騙されるところだったよ」その言葉をきっかけに、会議室には再び紬を責める声が飛び交った。周囲の人間も次々と正俊に同調し、紬を見る目はますます険しくなる。廊下には、2人の警察官と倫也が立っていた。会議室の中から聞こえてくるのは、紬に向けられた非難の声。倫也はただ黙って、その声を聞いていた。追い詰められている紬の姿を思うと、胸の奥から言葉にできないほどの痛ましさが込み上げてくる。けれど、今は口を挟むこともできなかった。一方、紬は怒りで頭がおかしくなりそうだった。最初は、少しだけ正俊の顔を立ててやるつもりだった。だが、もうそんな必要はない。紬はふっと吹き出すように笑うと、ゆっくりと口を開いた。「私が松本さんに署名をお願いしたのは確かに事実です。でも、会社に偽造薬が出回っているなんて、入社したばかりの私に分かるわけがないでしょう?」紬は正俊をまっすぐ見据えた。「そもそも、社内に私に話を持ちかけてきた人がいなかったら、私一人でこんなことができると思います?」正俊の胸に、嫌なざわつきが広がった。「……あなたが外部の人間と手を組んで、ヤクモヘルスグループに罪を着せようとした可能性だってあるだろう」「田辺部長、私に協力してほしいって頼んで
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第834話

紬は顔を背け、片手で顔を隠しながら、隣の警察官に小声で急かした。「早く行きましょう」警察官も思わず笑いそうになる。自分たちに「早く行け」と催促してくる人間など、初めてだった。倫也は紬の姿を一瞬だけ目で追うと、先頭の警察官に声をかけた。「彼女のこと、よろしくお願いします」「ご安心ください。事情聴取をして、必要な手続きを済ませれば終わりますから」倫也は頷き、穏やかに微笑んだ。警察官たちが去るのを見届けると、倫也は振り返った。まだ収拾のつかない会議室を細めた目で見つめ、そのまま中へ足を踏み入れる。倫也の姿に気づいた和典は、わずかに目を見開いて立ち上がった。「白石さん、どうしてここに?」「滝沢社長の指示で来ました」その言葉を聞いた途端、先ほどまで言い争っていた幹部たちが一斉に口を閉ざした。全員の視線が倫也へ集まる。和典は眉間に深い皺を刻み、重いため息をついた。「会社がこんなことになってしまって……お見苦しいところをお見せしました」「いえ。私は以前から、この件について把握していました。先ほどの警察も、私が呼んだものです」倫也は淡々と答えた。和典はわずかに目を見開き、怪訝そうに倫也を見つめる。周囲の幹部たちも、互いに顔を見合わせた。やがて亮介が、和典と倫也を交互に見ながら口を開く。「しかし、警察が介入すると、事態はますます大きくなるでしょう。この件が外部に漏れれば、製薬工場だけの問題では済みません。ヤクモヘルスグループ全体にまで影響が及ぶ可能性があります。そうなれば、我々は滝沢社長にどう説明すればいいんです?」その言葉に、周囲の幹部たちも次々と頷いた。ヤクモヘルスグループの実権を握っているのは、滝沢グループだ。対応を一つでも誤れば、会社だけでなく、自分たちの立場まで危うくなりかねない。「真田さんのおっしゃる通りです」和典のそばにいた幹部が、小声で同調する。「会社の不祥事なら、できるだけ社内で処理するべきです。警察が動けば、メディアもすぐに嗅ぎつけます。そうなれば、いくら隠そうとしても手遅れですよ」和典の表情は、ますます険しくなった。だが、しばらくして、その視線は自然と倫也へ向かう。まるで、彼の判断を待つように。倫也は表情を変えないまま、静かに室内を見渡した。「滝沢グループも関わっているからこそ、滝沢
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第835話

そんなことを考えていたところへ、女性警察官が入ってきた。「松本さん、もう帰っていいですよ」「え?」紬は顔を上げた。「ほかに質問はもうないんですか?」「はい、もう大丈夫です。外で松本さんを待っている方もいますから」紬は立ち上がって取調室を出ると、出口で足を止めた。「ありがとうございました。お疲れさまでした!」そう言って笑顔で頭を下げ、警察署を出る。階段を下りたところで、入口前に1台の車が停まっているのが目に入った。紬はその車に向かって駆けていく。そして、フロントガラス越しに運転席の人物を確認した瞬間、足が止まった。倫也だった。紬は反射的にくるりと背を向け、そのまま立ち去ろうとする。すると倫也がドアを開け、慌てる様子もなく車から降りた。「滝沢社長に頼まれて、迎えに来ました」紬の足が止まる。一度深く息を吸ってから、仕方なく踵を返した。そして車の後部座席のドアを開け、黙って乗り込む。倫也も何も言わず、運転席へ戻った。乗車してからというもの、紬は腕を組み、頬を膨らませている。警察に連行されるのは、胸を張れることでもない。それなのに、よりによって祐一は倫也を迎えに寄越すなんて。倫也がルームミラー越しに彼女を見た。「私が迎えに来たのが、そんなに不満ですか?」紬は一瞬言葉に詰まり、すぐに顎を上げた。「そうだよ。だいたい、白石さんは私の何なの?」「友達です」その言葉を聞いた瞬間、紬は怒りを通り越して笑いそうになった。「あなたと友達になんかなりたくもないよ!」倫也は前を向いたまま、淡々と問い返す。「友達になりたくないなら、何になりたいですか?」紬は唇を噛んだ。細めた目に、ふっといたずらっぽい光が宿る。そして運転席の後ろまで身を寄せ、倫也の顔を覗くようにして言った。「もちろん……私が望むような関係だよ」車が急に止まった。シートベルトをしていなかった紬は、勢いで前のめりになり、額を座席にぶつける。「痛っ……!急ブレーキ踏むなら、ひと言くらい言ってよ!」紬が額を押さえて文句を言う。倫也は片手をハンドルに置き、視線は窓の外に向けたまま、低い声で答える。「……赤信号だったから」紬は大人しく座り直し、今度こそシートベルトをきっちり締めた。……倫也は紬を滝沢家の本邸まで送り届け
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第836話

「なんだ、その態度は?頼み事があるときだけ甘えてくるくせに、気に入らないことがあるとそれか?まったく、わがままな子だな」紬はむっとしたままソファにどすんと腰を下ろし、頬を膨らませた。「だったら、どうしてわざわざ白石さんに迎えに来てもらったの?ちゃんと説明してよ」祐一はそんな紬を振り返ると、どこか面白がるように口元を緩めた。「紬は、あの人のこと気に入ってるんだろ?」「それは……」言葉に詰まる紬を見て、祐一は肩をすくめた。「俺なりに手を貸してやっただけだ。もしかしたら、あの人が本当に俺の義弟になるかもしれないしな」そう言って、祐一はソファの背もたれに腕をかける。まるで何でもないことのような、気楽な顔をしている。紬は何か言い返そうと口を開きかけた。けれど、結局何も言えずに口を閉じる。考えれば考えるほど、なんだか腹が立ってきた。「……もう、その手には乗らないから!」紬はぷくっと頬を膨らませ、強がるように言い切った。「私はもう、とっくに振られてるんだから。あの人のことなんて……もう全然好きじゃないんだからね!」「本当に?」祐一が笑いながら聞き返す。「本当だよ!」紬はむきになって言い切った。「そうか……分かった。今すぐあの人に電話して、君はもう興味がないって伝えてやるよ」祐一はスマホを取り出し、電話をかけようとする。「ちょっと、何するんだよ!」紬は慌ててスマホをひったくった。祐一は楽しそうに首を傾ける。「だって、君がもう興味ないって言ったんだろ?」「これは私の問題なの!余計なことしないで!」「はいはい、分かった。もう口出ししないよ」祐一は組んでいた長い脚を解いて立ち上がり、スマホを取り返した。「そうだ。君が警察に連れていかれた件だが、あれは白石さんが手配したことだ。俺は関係ない。文句があるなら、彼に言ってくれ」そう言い残すと、祐一は上着を手に取って出ていった。残された紬は、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。……その後わずか2日のうちに、ヤクモヘルスはネット上で広まった「奇跡の新薬」をめぐる噂について公式声明を発表し、同時に警察による捜査結果も公表した。世間の反応はいまだに賛否が大きく分かれていたものの、この一件を受け、国の医薬品監督当局も偽造薬への取り締まりと審査体制をさらに強化することに
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第837話

「それはもちろん!」そのとき、エレベーターが「ピン」と音を立てて開いた。こちらへ近づいてくる足音に、さっきまで和やかだった一同の表情が一瞬で引き締まる。皆、慌てて散らばると、それぞれの席へ戻っていった。紬が振り返ると、オフィスの入口に麗子が立っていた。「松本さん、ちょっと来てもらえますか」落ち着いた声に、紬は立ち上がり、麗子の後を追って廊下へ出た。「どうしたんですか?」麗子が振り返る。「田辺部長と親しい部下が誰かいるか知っていますか?」紬は思わず息を呑んだ。真っ先に浮かんだのは、凪紗だった。けれど、紬は今でも、凪紗が正俊と同じ側の人間だとはどうしても思えない。「一応、知ってますけど……もし、その人が見つかったら、どうするんですか?」恐る恐る尋ねると、麗子が目を細めた。「それはどういう意味ですか?」「田辺部長の側近に、東山凪(ひがしやま なぎ)さんって人がいるんです。でも彼女は絶対に田辺部長の仲間じゃありません。偽造薬のことだって、私にこっそり教えてくれたんです!」紬は慌てて説明した。「たぶん、誰かに脅されて、仕方なく田辺部長の言うことを聞いてたんだと思います」麗子は紬の様子をじっと見つめ、それから単刀直入に尋ねた。「松本さんは、彼女とは親しいんですね?」紬はこくりとうなずいた。「でも、彼女はもう会社にはいないんです」麗子は腕を組み、淡々と続ける。「たぶん、事前に何か情報を掴んで逃げたんでしょう。もし残っていたなら、私たちだって話を聞くだけで済ませるつもりでした。でも、逃げたとなれば話は別です」「え……?」紬の表情が、一瞬で強張った。――凪紗が、逃げた?……その頃、祐一は由奈とともに恭子を海都市の病院まで連れてきていた。秀明と駿介も同行しており、しばらくは3人とも海都市に滞在することになっている。由奈は廊下で父と話しながら、ふと思いついたように口にした。「お父さんは私たちのところに泊まれば?空いてる部屋がありますし、ホテルに泊まるより快適ですよ」秀明は困ったように笑い、由奈の手を握った。「君たち夫婦のところに転がり込んだら、かえって気を遣わせるだろう。それに、ホテルのほうがお母さんの世話をするにも都合がいい。駿介もいるしな。心配しなくていい」由奈は素直に頷いた。そこへ、
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第838話

由奈は画面に表示された写真を見た瞬間、目を見開いた。見間違いではないかと、慌てて祐一からスマホを受け取り、もう一度じっくり写真を確かめる。「……やっぱり、凪紗さんだ!」「間違いないか?」由奈は大きく頷いた。「うん、間違いない」そう答えてから、すぐに顔を上げる。「でも、どうして……?」祐一はスマホを受け取り、淡々と答えた。「今回のヤクモヘルスの偽造薬騒動に、彼女も関わっていたんだ」「そんな……」由奈は言葉を失った。凪紗がどうして偽造薬事件に巻き込まれたのか、まるで分からない。それに、せっかく海都市に戻ってきたというのに、なぜ自分には何も連絡してこなかったのか。以前、綾香から聞いた話を思い返すほど、どうにも腑に落ちない。凪紗が帰国したのなら、なぜ両親に会いに行かなかったのだろう。海都市にいるのに、自分には連絡をよこさず、それどころか綾香にも連絡していない。――あまりにも変だ。由奈は眉間に皺を寄せ、考え込んだ。そんな彼女を見つめ、祐一が静かに口を開く。「彼女を見つければ、すべてが明らかになるだろう」由奈は黙って頷いた。……凪紗はタクシーに乗り、メッセージに記された住所を頼りに人里の離れた場所まで来た。周辺には住宅らしい建物がほとんどなく、製鉄工場だけが並んでいる。その近くには、広い葦原まで広がっていた。スマホを確認し、送られてきた写真に写っていた特徴的な建物を目印に進むと、ほどなく目的の場所に到着した。鉄製の階段を上って2階へ向かう。工場の中を覗くと、カップ麺をすすっている恒雄の姿があった。髪は脂でべたつき、身なりもすっかりくたびれている。いつも着ている白いシャツさえ、今は薄汚れていた。鉄製の簡易ベッドには上着を敷いただけ。脇には食べ終えたカップ麺の容器や空のペットボトルが転がり、コンセントにつながれた電気ケトルも置かれている。どうやらここ数日、外には出ず、食事も睡眠もすべてこの場所で済ませていたらしい。凪紗の姿を認めるなり、恒雄は慌ててカップ麺を置き、入り口付近まで駆け寄った。「誰かにつけられてないだろうな?」「大丈夫です」それを聞いてようやく表情を緩めた恒雄だったが、すぐに顔をしかめた。「田辺部長が余計なことをしたせいで、俺は家にも帰れないし、今はこんなとこ
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第839話

シャワールームで暖かいお湯を肩から浴びながら、ふと手を伸ばす。肩に残る銃創に触れたところで、動きが止まった。自分がなぜ撃たれたのか。なぜ記憶を失い、両親とも離ればなれになったのか、まったく分からない。それどころか、自分が以前どんな暮らしをしていたのか、何に傷つき、何を苦しんできたのかさえ、何ひとつ思い出せない。だからこそ、正俊に「あなたの両親を知っている」と言われたとき、凪紗は自分の過去を知る人にようやく巡り会えたのだと思った。それから正俊のそばで、言われた仕事を真面目にこなしてきた。けれど、彼が偽造薬を横流ししていると知ってからは、自分もまたその片棒を担いでいるのではないかと、ずっと心の中で葛藤していた。そして今――両親が、もしかしたら今も自分を探している。その事実を知った途端、胸の奥がまたきゅっと縮まり、鈍い痛みが広がった。凪紗は手を伸ばして蛇口を閉めた。シャワーの音が止まる。濡れた髪が額に張りつき、水滴が顎を伝って落ちていく。湯気で白く曇った鏡を、指先で強く拭う。そこに浮かび上がった青白い自分の顔を、凪紗はじっと見つめた。――恒雄の言葉を、鵜呑みにはできない。自分を助けられる人は、もう1人いる。……翌日、帰国した卓巳は、真っ先に祐一の執務室へ向かった。海外に置き去りにされたことへの不満を、ここぞとばかりにぶちまける。「そもそも、どうしてあんなところに僕一人を残していったんですか?あの後、どれだけ大変だったと思ってるんです?連絡もつかないし、帰る手段だって……」卓巳の恨み節は、いつまで経っても終わらない。その様子を傍で聞いていた麗子は、とうとう堪えきれず、ぷっと吹き出した。「……何がおかしいんですか?」卓巳はむっとした顔で立ち上がると、麗子の前まで歩いていく。そして、両手を広げて大げさに訴えた。「運が悪かったら、僕、臓器売買の連中に捕まってたんですよ!」麗子は顔色ひとつ変えず、ゆっくりと視線を上げた。「捕まったところで、臓器を狙われるのは相手のほうじゃないんですか?」「ちょっ……!」卓巳が言い返そうとした、そのときだった。祐一が机の上に1枚の資料を置いた。「彼女を知っているか?」卓巳はしぶしぶ机へ戻り、資料を手に取る。写真を見た瞬間、卓巳は首を傾げた。「……東山さ
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第840話

祐一からの連絡を受けて、由奈は初めて凪紗が記憶を失っていることを知った。だから、両親にも、自分や綾香にも連絡を取らなかったのだ。なぜ凪紗は今のような境遇に陥ってしまったのだろう。考えれば考えるほど、由奈の胸はやるせなさと悲しみに締めつけられた。かつては東山家の令嬢として何不自由なく暮らしていた凪紗が、海外へ攫われ、命を落としかけるまでになっていた。もしこの一連の出来事を知れば、東山夫妻はどれほど胸を痛めることだろう。家族3人が再会できるよう、由奈は綾香に頼み、東山夫妻の身の回りを整えてもらっている。あとは凪紗を見つけ出すだけだ。……綾香は東山夫妻を、病院側が用意した職員用の寮へ案内していた。かつての華やかさはすっかり消え、佳苗と隆は、今ではどこにでもいる年配の夫婦と変わらない姿になっている。わずか1年あまりの間に、2人の顔には隠しきれない苦労と歳月の跡が刻まれていた。隆は脳梗塞の後遺症で片脚が思うように動かず、今では車椅子での生活を余儀なくされている。佳苗もこめかみに白髪が増え、顔に刻まれた皺を隠すことはできない。「綾香さん。この数日、私たちの面倒を見てくれて、本当にありがとう」佳苗は、心から感謝を込めて頭を下げた。「気にしないでください。東山さんとは友達ですから」綾香は笑いながら首を振り、部屋のベッドを整えていく。「こうしてお二人の力になれて、私も本当によかったと思っています」その言葉を聞きながら、隆は俯いたまま、しばらく黙っていた。やがて、ぽつりと呟く。「もし……美夏があの頃、あんなことになっていなかったら。こんなことには、ならなかったのかな……」佳苗の手が、ふっと止まった。長女の美夏が亡くなってからというもの、隆が当時のことを口にすることはほとんどなかった。思い出せば、胸が痛む。佳苗もそれが分かっていたから、これまで何も言わずにいた。――あの事件のあと。佳苗と隆は、子どもを失った悲しみを、まだ幼かった次女にまで背負わせてしまった。残されたたった一人の娘が、あのとき何を感じていたのか。2人は、そのことに向き合おうともしなかったのだ。だからこそ、凪紗が姿を消してからの1年間、2人は何度も自分たちを責めた。そして、何度も夢に見た。凪紗が、必死に助けを求めて
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