徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る의 모든 챕터: 챕터 801 - 챕터 810

877 챕터

第801話

ほんの一瞬だけで、紬の表情はいつもの落ち着きを取り戻した。笑みを浮かべて話しかける。「見舞いに来てくれてありがとう。今日は休みなの?」涼太は持ってきた花束をテーブルに置くと、付き添い用の椅子に腰を下ろし、頷いた。「今日は研究室も忙しくなかったから、白石先生に休みをもらいました」倫也の名前が出た瞬間、紬の瞳に再び期待の色が灯る。けれど、涼太が何か言いにくそうにしているのを見て、彼女はすぐに察した。小さく鼻で笑い、自嘲気味に呟いた。「私が入院したこと、たとえあの人が知ったとしても、気にしたりしないから」涼太は心配そうに尋ねた。「体調はもう大丈夫なんですか?」「平気だよ」「じゃあ、どうして入院なんか……?」紬はベッドの背もたれに寄りかかり、淡々と答えた。「私が入院して経過を見ることにしたの」涼太はそれ以上、何も聞かなかった。答えなんて、もう分かりきっていたから。しばらくしてから、彼はゆっくり口を開いた。「失礼かもしれませんが……ひとつ聞いてもいいですか?」「いいよ」紬は食べかけのリンゴをかじりながら、あっさり答えた。「もし……本当にもしもの話ですけど」涼太は両手を膝の前でぎゅっと握り合わせ、落ち着かない様子で続ける。「もし白石先生を諦めたら……他の人と付き合おうって、考えたことはありますか?」紬は不意を突かれたように、一瞬だけ動きを止めた。静かな病室には、彼女がリンゴを噛むカリッという音だけが響く。少し考えたあと、紬は真剣な表情で答えた。「その場合は……政略結婚を受け入れるしかないと思う」「政略結婚じゃないと駄目なんですか?」紬は視線を落とし、涼太の目を避けた。「私みたいな家の人間は……自分で結婚相手を選ぶのって、すごく難しいから」「もし、選べるとしたら?」涼太の問いはあまりにも率直で、空気が少しだけ気まずくなる。紬が黙り込むと、涼太は苦笑して話を流した。「踏み込みすぎてしまいましたね。すみません」「ううん、大丈夫」紬も無理に笑みを作った。涼太は長居せず、その後すぐ帰っていった。紬は、彼の気持ちに薄々気づいていた。けれど、彼に対する感情は、せいぜい親しい同僚への好意くらい。彼女にとって、涼太はもしかすると、まだ「友人」と呼べる存在でもないのかもしれない。それでも、罪悪感はあ
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第802話

夕方になった頃。由奈のもとに、心愛から「家に来てほしい」という連絡が届いた。何か急な用事でもあるのかと思いながら、由奈は心愛の家へ向かった。玄関の扉を開けた瞬間――思わず目を丸くした。部屋は華やかに飾り付けられ、長いテーブルの上には、和洋さまざまな料理が並べられている。「これは……?」驚く由奈に、心愛はグラスを並べながら笑顔で答えた。「池上さんのお祝いです」「私の?」由奈は首を傾げる。「今日って……何か特別な日でしたっけ?」すると、キッチンから料理を運んできた智宏が口を開いた。「由奈の研究が大きな一歩を踏み出したお祝いだよ」その言葉に、由奈は目を瞬かせる。「え……でも、まだ初期段階ですよ?こんなに盛大に祝ってもらうほどじゃ……」「そんなことないです」心愛は微笑みながら、由奈のそばへ歩み寄った。「それに――今日はもう一つ、お祝いすべき理由があります」「もう一つ?」由奈が不思議そうに尋ねると、心愛は優しく告げた。「今日は、池上さんの誕生日でもあるんです」その瞬間、由奈の表情が固まった。そして、ゆっくりと智宏を見る。自分の誕生日。正確に言えば、由奈は自分がいつ生まれたのか、本当の日付を知らなかった。これまで誕生日として祝われていた日は、育ての親が決めたもので、夏が始まった頃の日付だった。けれど――それは、本当の誕生日ではない。智宏は料理を並べ終えると、静かに由奈を見た。「由奈が生まれたのは、3月の終わりだ」少し間を置いて、穏やかに続ける。「ちょうど……今日なんだ」「……そうだったんですね」由奈は小さく息を吸った。胸の奥に、静かな感情が広がっていく。ようやく、自分自身の本当の誕生日を知ることができた。そこへ、祐一が最後の料理を運んできた。「3人とも、まさか立ったまま一晩中話すつもりですか?」その一言で、4人はそれぞれ席についた。由奈はテーブルいっぱいに並ぶ料理を眺める。「これ、全部祐一が作ったの?」「ああ」祐一はワインオープナーを手に取り、1本のワインを開ける。そして、デキャンタへゆっくり注いだ。「智宏さんは料理ができないし、未来のお義姉さんに作らせるわけにもいかないからな」「お義姉さん」と呼ばれ、心愛は少し照れたように言う。「その呼び方……まだ少し早いんじゃ
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第803話

心愛はその言葉を聞くと、俯きながら小さく笑った。これまでにも、異性からアクセサリーを贈られたことは何度もある。けれど、どれもどこか似ていた。「どれくらいのものを贈れば喜ぶのか」――相手はそんなことを考えながら、彼女の機嫌を取るための「正解」を探しているようだった。高すぎれば惜しくなる。かといって安すぎれば、彼女に相応しくないと思われるのが怖い。そうして選ばれるのは、結局その時々で流行っている無難な品ばかりだった。彼女のことを本気で考え、時間をかけて選んでくれる人はひとりもいなかった。だからこそ――智宏が渡してくれたこの贈り物が、同じアクセサリーであっても、込められた想いがまったく違うと、心愛にはすぐに分かった。心愛は小さく唇を噛んだ。「今、中道さんに渡せるようなもの……何も用意してなくて」そう言いかけた瞬間だった。智宏が何か言葉を返すより先に、心愛はそっと身を寄せ、彼の頬に口づけを落とした。一瞬、智宏の動きが止まる。普段、どんな時でも冷静で感情を表に出さない瞳に、初めて大きな揺らぎが浮かんだ。驚きと、隠しきれない喜び。長い間抑えていた感情が、静かに表情の奥から滲み出ていた。やがて智宏は小さく息を吐き、いつもの落ち着きを取り戻すように尋ねる。「……今のが、僕への贈り物ですか?」心愛は恥ずかしそうに視線を伏せた。長い睫毛がわずかに揺れる。「えっと……その……贈り物の代わり、ということで……」本当は、後でちゃんと選びたいと思っていた。彼に似合うものを、自分の気持ちを込めて贈りたい。そんな想いは胸の奥にしまったまま。智宏はすぐには答えなかった。ただ、彼女の手をそっと引き寄せ、もう片方の手で後頭部に触れる。真っ直ぐ向けられた視線に、心愛の鼓動が急に速くなった。まるで、周囲の時間だけが止まったようだった。「……じゃあ、僕からお願いしてもいいですか?」低く穏やかな声が耳元に届く。その瞬間、心愛の耳まで一気に赤く染まった。けれど――彼女は逃げなかった。智宏はそんな彼女を見つめ、ゆっくりと額へ口づける。それは、何かを確かめるような、そして大切なものに印を残すような優しいキスだった。心愛はそっと目を閉じる。胸の奥は、どうしようもないほど大きく揺れていた。――けれど。彼がくれたものは、
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第804話

倫也は彼女を見て、口を開く。「お久しぶりです、西村さん。急なお願いですみませんが、今夜一緒に食事でもいかがですか?」西村愛莉(にしむら あいり)は一瞬、意外そうに目を瞬かせた。まさか倫也のほうから誘われるとは思っていなかったのだろう。しかし、すぐに穏やかな笑みを浮かべると、快く頷いた。「ぜひ」2人が出て行った直後――入れ替わるように、紬が倫也の執務室へやって来た。退院したばかりの彼女は、緊張と期待を胸に抱えながら、執務室の前を何度も行き来していた。どんな顔で入ればいいのか。最初になんと声をかければいいのか。あれこれと悩んでいる時、突然ドアが開いた。中から出てきたのは涼太だった。涼太は栄東市で倫也の助手を務めていたが、倫也が江川市の研究所へ移るのに伴い、彼も一緒に移ってきていた。「つ、紬さん……!退院されたんですか?」「うん、そうなの」紬は笑って答えながら、何気なく室内へ視線を向けた。しかし、そこに倫也の姿はない。「……白石さんは?」涼太は一瞬言葉に詰まった。「えっと……」「どうしたの?」紬は涼太の態度が気になった。「白石先生は……さっき、女性の方と食事に行かれました」その言葉を聞いた瞬間、紬の長い睫毛がわずかに揺れた。胸に驚きが広がる。そして、その目には隠しきれない寂しさが滲んだ。「女性……?どんな人だった?若い人?綺麗だった?」涼太は答えに迷った。本当のことを言えば、きっと紬を傷つける。けれど、嘘をつくこともできなかった。「僕も詳しくは……ただ、聞いた話では……白石先生のお見合い相手だそうです」お見合い相手……紬はその言葉を胸の中で繰り返した。心がじわりと痛む。それでも、すぐに笑顔を作った。「そうなんだ……それで、2人はどこに行ったのか、分かる?」……レストランで、倫也と愛莉が食事をしながら、店内に流れるクラシック音楽に耳を傾けていた。演奏されているのは、誰もが一度は耳にしたことのある名曲だった。「白石さんは、クラシックがお好きなんですね」愛莉はグラスを手にしながら、向かいに座る倫也を見た。「私の周りでクラシックを聴く人って、年配の方ばかりですけど……白石さんは、私とそんなに年齢が離れているわけではないのに、落ち着いた趣味をお持ちですね」どこか探るような笑みを浮かべなが
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第805話

「どうして私が、そんな話に乗ると思います?」倫也は口元にわずかな笑みを浮かべた。「西村さんが海外に『彼女』がいること、ご家族はまだ知らないんですよね?」その瞬間、愛莉の表情が変わった。鋭い視線が倫也を射抜く。「……私のことを調べたんですか?」「結婚を前提に紹介された相手ですから。たくさん知りたいのは当然でしょう」淡々と返され、愛莉はグラスを握る手に力を込めた。倫也はそんな彼女を気にする様子もなく、静かな口調で続ける。「あなたの私生活や恋愛事情に興味があるわけではありません。ただ、ご家族がその事実を受け入れられるかは別問題です。私と協力することは、今のあなたにとって一番現実的な選択だと思います。私はあなたの協力が必要。そしてあなたにとっても、私と組めば、少なくとも当面は家族から別の縁談を持ち込まれることはないはずです」反論する余地はなかった。その条件は、愛莉にとって決して悪いものではない。彼女の秘密は、家族にだけ隠していればいいものではない。父が重要な役職に就いたばかりの今、もし自分のことが公になれば、父の立場にも影響が及ぶ可能性がある。しばらく考えた末、愛莉は倫也との協力を受け入れた。……紬がレストランへ駆けつけた時には、2人はすでに食事を終え、店を出ようとしていた。その姿をいち早く見つけたのは倫也だった。彼は足を止めると、隣にいた愛莉を自分の前へ引き寄せる。突然のことに、愛莉は反射的に抵抗しようとした。しかし、倫也は彼女の肩を軽く押さえる。「動かないでください」「……何?」愛莉は一瞬戸惑った。だが、倫也が意味もなくそんなことをする人間ではないことは分かっている。まさか――誰かに見られている?「しばらくの間、私に合わせてください」「……分かりました」愛莉はそれ以上何も言わず、倫也の動きに合わせた。2人の距離は近い。けれど、そこに恋人同士の甘い空気など微塵もなかった。しかし――紬には、その光景がまったく違って見えた。彼女の目に映った倫也の表情は、いつもの冷静なものとは違っていた。あの女性を見る目が、自分に向けられた時よりもずっと柔らかく見えた。胸の奥が、鋭く痛む。紬は無意識に、身体の横で手を強く握り締めた。……そんなはずはない。きっと、何か理由がある。倫也があの
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第806話

レストランを出ると、倫也はようやく愛莉の手を離した。愛莉は手首をさすりながら、黙ったまま歩く彼の背中を見つめる。やがて、口元にわずかな笑みを浮かべた。「なるほどね。私に協力してほしいって言ったのは、彼女のためだったんですか。あんなに可愛くて、素直そうな子を断るなんて、白石さんって、本当に変わってますね」「私のことをどう評価しようと、あなたの自由です」倫也は淡々と言った。「ですが、協力すると約束してくれた以上、しばらくは付き合っていただきます」愛莉は返事をせず、ただ横目で彼を見る。その瞳は、氷のように冷たい。けれど、その奥には隠しきれない複雑な感情が揺れていた。まるで、自分でも認めたくないほど強い気持ちを、必死に閉じ込めているようだった。……それから数日もしないうちに、倫也と愛莉が「デート」をしている写真がネット上に流れた。2人は近いうちに結婚するのではないかと、メディアはこぞって騒ぎ立てた。さらには皐月までもが取材に応じ、「理想の嫁は愛莉さん」と公言する始末だった。愛莉の父親である西村孝太郎(にしむら こうたろう)は、川口弘志の後を継ぎ、江川市のトップに就いたばかりの人物だ。そんな彼の娘は、世間から見ても白石家と釣り合いの取れる相手だった。その話題性もあって、関連ニュースは何日もの間、ネット上で大きく取り上げられ続けた。一方で、紬はそれ以来、何日も研究所に姿を見せていなかった。他の職員たちにとっては、彼女の遅刻や欠勤など珍しいことではなく、気に留める者もいなかった。そんなある日、涼太が紬の自宅を訪ね、ドアを叩いた。しかし、しばらく待っても中から返事はない。まさか何かあったのではないか。そう思い、電話をかけようとしたその時――扉がゆっくりと開いた。姿を見せた紬を見て、涼太は一瞬言葉を失った。以前は背中まであった長い髪を、彼女は耳にかかるほどのショートヘアに切っていた。見慣れない姿だったからか、それだけで雰囲気が大きく変わり、まるで別人のようにも見えた。「紬さん……大丈夫ですか?」「大丈夫だよ。どうしたの?」紬の表情には、何ひとつ変わった様子がない。涼太は戸惑いながら頭をかいた。「いや……何でもないです。元気ならよかったです。それより、髪……どうして切ったんですか?」「なんとなく、長い髪が似合わ
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第807話

紬は思わず小さく笑った。気づけば視界が滲んでいる。周囲に気づかれないよう、慌てて指先で涙を拭うと、彼の連絡先をブロックした。その後、紬はSNSの固定投稿を更新した。【今日から、新しいスタートを切る!】投稿した直後、彼女のスマホが鳴った。画面に表示されたのは、母の番号だった。……「あなたも少しはあの子のことをちゃんと見ておいて。毎日、何をしているのか分からないような投稿ばかりしているうえに、私たちには見られないように設定までしているんだから!」紬の母・咲希は、使用人にスマホを借りて紬のSNSを確認していた。そこで初めて、自分たちには表示されない投稿がいくつもあることに気づいたのだ。紬は決して、投稿を期間限定で公開していたわけではない。もともと日々の出来事を記録することが好きで、些細なことでも残しておきたい性格だった。ただ、その中には両親には知られたくない内容もあり、父と母のアカウントだけ閲覧できないよう設定していた。その隠し方が、今回は逆に仇となった。使用人もこれ以上隠し通すことはできず、咲希に事実を話すしかなかったのだ。康雄は困ったように苦笑する。「紬ももう大人だ。自分だけの秘密があったとしても、おかしいことじゃないだろう」「毎晩のように遊び歩くことが、大人になるってことなの?」咲希は唇を噛みしめた。怒りを必死に抑えていることが、その表情からも伝わってくる。「家にも帰ってこない。今どこで何をしているのかも分からない……もしある日突然、『妊娠した』なんて言って帰ってきたら、私、絶対に許さないから!」「少し落ち着きなさい」康雄は穏やかな声で彼女をなだめる。「紬だって、何が大切なのかくらい分かっているはずだ」「はぁ……まったく、あなたが甘やかしすぎなのよ」それから2時間あまりが経った頃。紬はスーツケースを押しながら帰宅した。髪を短く切ったため、玄関をくぐった彼女を、使用人は一瞬誰なのか分からなかった。「お嬢様……?」慌てて近づき、目を丸くする。「お帰りなさいませ。髪を切られたのですか……」「うん、どう?似合ってる?」紬はわざと使用人の前でくるりと一回転してみせた。明るく、何でもないことのように振る舞っている。使用人は微笑みながら彼女を眺めた。「本当ですね。短いほうがずっと爽やかで、すっきりして
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第808話

それから3ヶ月後。研究所が、アルツハイマー病に対する新たな治療法――「脳のリンパ排出経路の再建」に関する情報を発表すると、脳医学の分野に大きな波紋が広がった。なかでも業界を驚かせたのは、そのプロジェクトを率いていた人物が、女性の脳外科医だったという事実だ。各国メディアの視線は、一斉に由奈へと集まった。かつては、ただの脳外科医だった女性。そんな彼女がここまでの成果を成し遂げたなんて――さらに、由奈が研究所でミシェルと共同研究を進めてきた数多くの論文も正式に登録された。マウスモデルを用いた検証では、リンパ排出経路の再建がβアミロイドの除去効率に与える影響メカニズムを明らかにし、手術における最適なバイパス構築位置や必要な規格も確定した。それらの研究成果は、今後の臨床試験に向けた確かな理論的根拠とデータ基盤となり、新たな手術の実現可能性を、より多くの専門家に認めさせることになった。こうした功績によって、由奈の名前は医療界で瞬く間に広まった。国内外の複数の医学部が、高額な報酬を提示して彼女を招聘しようとしているほどだった。アンデル教授も、できることなら彼女には研究所に残ってほしいと思っていた。だが同時に、彼は誰よりも理解していた。由奈がここへ来たのは、この場所だけに留まるためではないということを。由奈がまもなく帰国すると知り、ミシェルは寂しさを隠せなかった。共に研究した時間は、わずか数か月。それでも、研究に対する考え方や物事への向き合い方など、由奈とは不思議なほど通じ合う部分が多かった。「また会えるといいですね」「会えますよ」由奈は机の上に残った唯一の私物――マグカップを手に取りながら、笑顔で答えた。「今度は、私の故郷を案内します」ミシェルはそっと腕を伸ばし、彼女を抱きしめた。しばらく抱き合ったあと、ミシェルは名残惜しそうに離れる。「じゃあ、その時はお願いしますね」由奈は笑顔で頷いた。「はい、任せてください」研究所を出た由奈が、最初に目にしたのは、そこで待っていた祐一の姿だった。お腹が大きくなり、妊娠中期に入ってからというもの、祐一はほとんど毎日のように彼女を迎えに来ていた。車にもたれていた祐一は、由奈の姿を見るとすぐに歩み寄る。肩に掛けていたバッグを自然に受け取り、もう片方の手は優しく彼女の腰へ添えられた。
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第809話

由奈は振り返り、驚いたように目を見開いた。「え?お兄さんまで……」そこまで言いかけて、すぐに納得したように笑う。「……でも、そうですよね。大切な婚約者を一人で残して帰るわけにはいかないですもんね」その言葉に、心愛の頬は一気に熱を持った。思わず隣にいる智宏を見ると、彼もちょうどこちらを見ていた。智宏の表情はいつもと変わらず穏やかだった。返事もただ小さく「うん」と頷いただけ。けれど、その瞳には隠しきれないほど優しい色が浮かんでいた。2人の間に流れる甘い空気を感じ取った由奈は、呆れたように肩をすくめる。「じゃあ、私は先に帰りますね」そう言って、2人を残したまま歩き出した。心愛は少し目尻を下げ、嬉しそうに笑いながら智宏を見る。「中道さん……本当に帰らないんですか?」「付き合い始めたばかりなのに、いきなり遠距離恋愛にするつもりですか?」「でも……ご家族は心配するんじゃないですか?」心愛が気遣うように尋ねると、智宏は腕を組み、少しからかうような表情を浮かべた。「僕ももう子どもじゃありません。それに、やっと恋人ができたんです。家族だってきっと喜んでくれますよ」その言葉があまりにも真面目で、心愛は思わず吹き出した。智宏は少しだけ眉を上げ、どこか楽しそうに彼女を見つめる。視線を感じて顔を上げた心愛は、彼の瞳に込められた想いに気づき、思わず胸が高鳴った。「……どうしてそんなに見てるんですか?」照れ隠しのように尋ねると、智宏は迷うことなく答えた。「あなたが綺麗だから」あまりにも自然に言われて、心愛は一瞬言葉に詰まる。「それは……分かってますけど」少し頬を膨らませながら笑う。「でも、そんなにじっと見るのは禁止です」そう言って伸ばした手で、彼の視線を遮ろうとした。すると智宏は、その手首をそっと掴む。強引ではないのに、逃がすつもりはないような優しい力だった。そのまま彼女を自分の胸元へ引き寄せる。「僕の彼女なんですから……」低く穏やかな声が、すぐ近くで響く。「見るのは当然でしょう?」心愛は思わず笑みをこぼした。けれど、その瞬間――ふと庭の向こうに人影が見えた。誰かがこちらへ歩いてくるのに気づき、心愛は慌てて智宏から離れる。赤くなった頬を隠すように背を向けた。「……先に部屋に戻ります!」そう言い残すと、逃げ
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第810話

秀明は、娘が抱えている不安と迷いを察すると、そっと彼女の肩に手を置いた。「大丈夫だ。父さんは待てる」力強く、そして真剣な声だった。「君がこの研究に取り組んだのは、母さんのためであり、母さんと同じ病気で苦しむ人たちのためだってことは分かっている。この手術だって、今すぐ実施できなくても、いつか必ず実現できる」父の言葉は、由奈にとって何よりも大きな慰めであり、何よりも強い信頼の証だった。由奈は顔を上げ、父を見つめながら静かに尋ねる。「お父さん……もし私が、お母さんにこの手術の最初の患者になってもらいたいと言ったら……受け入れてくれますか?」秀明は一瞬、言葉を失った。最初の患者。それはつまり、これまで誰一人として受けたことのない手術を意味する。どんなリスクがあるのか、どんな予期せぬ事態が起こるのか――まだ誰にも分からない。けれど、娘がその案を口にしたということは、決して何の確信もなく言っているわけではないはずだ。「その手術……今、できるのか?」秀明の問いに、由奈はゆっくりとまつげを伏せた。「特許の申請が通って、技術面で信頼できるチームを整えられれば、実施できます。それに、これまで何度もシミュレーションを重ねてきました。手術の過程でミスがなければ、大部分のリスクは回避できます」一度言葉を切り、続ける。「ただ……最初に受けてくれる患者さんが必要なんです」秀明は黙り込んだ。膝の上に置いた指先が、一定の間隔で小さく動く。しばらく考えた後、静かに口を開いた。「分かった。お母さんに手術を受けてもらおう」「お父さん……」由奈は驚いたように目を見開く。「父さんは、君が『できる』と言うなら、きっとできるんだと思っている。父さんは君を信じている」妻は長い年月、病に苦しめられてきた。一度すべてを懸けて挑んでみるのもいいかもしれない。そう思った。言葉を交わし終えると、由奈と父は顔を見合わせ、穏やかに笑った。その後すぐ、由奈はアンデル教授へ連絡を取り、最初の手術を実施するための特許申請を進めてもらうことにした。アンデル教授は少し驚いた様子だった。このプロジェクトが正式に認められたのは、まだつい最近のことだ。総合的な実験では問題がなく、専門家たちからも高い評価を得ている。しかし、実際の患者に対して行われたことは
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