徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る의 모든 챕터: 챕터 811 - 챕터 820

877 챕터

第811話

その言葉を聞いた瞬間、千代の瞳にわずかな寂しさが浮かんだ。「……そう」短く返した声には、少しだけ落胆が滲んでいた。きっと、自分が昔してしまったことが原因なのだ。由奈にとって自分は、今でも忘れられない「嫌な姑」のままなのだろう。それに――今の由奈と祐一は、まだ離婚したままだ。そう思った瞬間、千代はふと祐一へ視線を向けた。先ほどまでの柔らかな表情は消え、途端に厳しい顔つきになる。「祐一、あんた何をしているの?」「え?」突然責められ、祐一が目を瞬かせる。「まだやることがあるでしょう。由奈があんたの子どもを妊娠しているのに、どうしてまだ復縁していないの?」千代は勢いよく言葉を続けた。「早く迎えに行きなさい!」そして、まるで念を押すように最後の一言を付け加える。「もし子どもが生まれた時に、その子たちがあんたを父親だと思ってくれなかったら……その時は絶対に許さないからね」その剣幕に、そばにいた使用人は思わず肩を震わせた。祐一も、口にしていたお茶でむせそうになる。つい先ほどまで由奈が来ないことを寂しそうにしていた母が、次の瞬間には自分を責め立てている。あまりにも変わり身が早く、祐一は呆れながらも苦笑した。けれど、千代自身も分かっていた。これまでのことは、自分にも責任があるのだと。しばらくして、彼女は小さく息を吐いた。「……もし由奈が私を許してくれるなら、これから先、一生あの子の世話をして暮らしてもいいと思っているわ」祐一は思わず笑みを漏らした。指先でカップの縁をなぞりながら、からかうように尋ねる。「母さんが、由奈の世話を一生するんですか?」「ダメなの?」千代は少し慌てたように言い返す。「祐一をここまで育てたんだから、老後に嫁や孫の面倒を見るくらい、いいでしょう?」「もちろん、いいと思いますよ」祐一はカップを置き、ゆっくりと立ち上がる。「ただ、復縁については俺が決められることじゃない。でも、由奈は子どもを海都市で産むつもりだと言っていました」そう告げて、少し笑う。「母さんには、これからいくらでも会う機会がありますよ」その言葉を聞いた瞬間まで沈んでいた千代の表情が、ぱっと明るくなった。……祐一が部屋を出ると、外では麗子が待っていた。「例の薬の品質問題について、もう調べがついたか?」
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第812話

2日後。由奈は駿介に付き添われ、白石家を訪れていた。車が白石家の門前に停まると、すぐに警備員が駆け寄り、後部座席のドアを開ける。先に降りた駿介は、手を差し出した。由奈はその腕に手を添え、ゆっくりと車から降りる。彼女が身にまとっていたのは、淡い黄色のゆったりとしたワンピースだった。生地には上質なシルクが使われており、なめらかで軽やかな質感が、妊娠中の身体を優しく包み込んでいる。その上には薄いヴェールのような羽織を重ねていた。風が吹くたび、揺れる裾が光を受け、淡い輝きを帯びる。その姿を見つけた白石家の執事が、慌てて庭まで迎えに出てきた。由奈は穏やかに微笑む。「白石恭介先生はいらっしゃいますか?私は先生の教え子の池上由奈です。お取り次ぎをお願いしたいのですが」執事は彼女のことを覚えていたらしく、すぐに頭を下げた。「池上様でしたか。旦那様はご在宅です。どうぞ中へお入りください」「ありがとうございます」由奈は振り返り、駿介に車で待っているよう目で伝えると、執事について別邸へ向かった。2人が2階へ上がると、執事は先に書斎へ入った。ほどなくして、由奈は中へ通される。恭介は彼女の姿を見るなり、手にしていた本を閉じ、ゆっくりと立ち上がる。「池上さん、よく来てくれたな」由奈は小さく頷き、彼のもとへ歩み寄った。「ご無沙汰しております、先生」「どうぞ、座って」2人が腰を下ろすと、彼は執事に軽食と飲み物を用意するよう頼む。執事が部屋を出ていったあと、恭介は改めて由奈へ視線を向け、静かに口を開いた。「まさか、私に会いに来てくれるとは思わなかった。私はてっきり……」由奈は穏やかに首を振った。「昔、何があったとしても、先生は私にとって大切な恩師です。私は当時の先生のやり方を理解していますし、恨んではいません。それに、今回海外で学ぶ機会をくださったのも先生でした。だから、どうしても一度ご挨拶に伺いたかったんです」「今は身重の身体だというのに、こうして遠くまで足を運ばせてしまった……先生として、申し訳なく思うよ」由奈は目を伏せ、柔らかく微笑んだ。「体の方なら大丈夫です、ご心配なく。それに、今回江川市へ来たのは、ご挨拶だけが目的ではありません。もう一つ、大切なお願いがあって来ました」「そうか。私にできることなら、今度こそ力を
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第813話

由奈は思わず吹き出した。「それなら、もうしばらく心配をかけることになりそうね。特許が下りたら、今度は手術の準備もしなくちゃいけないから」祐一はわずかに眉を寄せた。「結構忙しくなるのか?」「ちゃんと休むつもりよ。無理はしないから」由奈はカウンターまで歩いていき、腰を下ろすと、グラスに水を注いだ。「祐一は?海都市での準備、もうできたの?」「ああ。全部済ませた」電話の向こうに、ほんの短い沈黙が落ちた。由奈は手にしていたグラスを握る指に、わずかに力を込める。そして、少し声を落とした。「祐一……私ね、実はあまり自信がないの。もう長い間、手術をしていないから……少し怖い」しばらくして、受話器の向こうから低く穏やかな声が返ってきた。「怖いと思うのは当然だ。でも、どんなことでも向き合わなきゃいけない時は来る。それに、君は一人で戦っているわけじゃない。君の後ろには、支えてくれる人がいる。池上先生は、自分の腕には誰より自信があるって言っていたんじゃなかったか?」少しだけ笑いを含ませる。「まさか、怖さに負けるつもりなのか?」由奈はグラスの中で揺れる水面に映る自分の姿を見つめた。そして、小さく鼻で笑う。「……まるで私のこと、全部分かっているみたいな言い方ね」「何年も君を振り回してきたからな」祐一の声には、少しだけ苦笑が混じっていた。「たとえ敵同士だったとしても、これだけ長く関わっていれば、相手のことくらい分かるようになる」少し間を置いて、静かに続ける。「ましてや、俺と君の関係ならなおさらだ」由奈の睫毛がわずかに揺れた。けれど、すぐにいつもの調子を取り戻し、笑いながら返す。「祐一は、自分がしてきたことをちゃんと分かっているみたいね」「まあな」祐一も小さく笑う。「一段落したら、俺が会いに行く」「うん」由奈は窓の外へ視線を向けた。江川市の街並みに、ひとつ、またひとつと灯りがともっていく。初めてこの街を訪れた時、彼女は失望と迷いを抱えながらやって来た。けれど今は――あの頃とは、もう何もかも違っている。電話を切った後も、祐一はしばらくスマホの端を無意識に指でなぞっていた。その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。麗子がノックをして部屋に入ってくると、ようやく祐一は表情を引き締めた。麗子は書類を差し出してから、どうしても気に
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第814話

わずか数日で、紬は社内の人間とすっかり打ち解けていた。一般社員はもちろん、管理職の中にも、彼女から直接声をかけられた者は少なくない。食事を差し入れたり、ドリンクを配ったり、さらには自宅を訪ねて手土産を渡したり――彼女の積極的な距離の縮め方に、陰では相変わらず噂をする者がいた。だが、実際に恩恵を受けてしまえば、表立って悪く言うこともできない。結果として、紬は短期間のうちに社内で一定の人脈を築き上げていた。もちろん、そんな彼女の動きを面白く思わず、密かに警戒する者もいた。……「ヤクモヘルス本社から突然送り込まれてきたあの松本紬って……一体、何者なんだ?」薄暗い温泉。湯気が立ち込める中、中年の男が1人、湯に浸かっていた。その向こうには衝立があり、脇には男女1人ずつが立っている。口を開いたのは、温泉に浸かっている男と同年代の、少し小太りな男だった。彼は首をすくめるようにして、腰を低くする。「ヤクモ側からは、リーダーとして1人送り込むとしか聞かされていません。素性までは不明です。ただ、あの様子を見る限りでは、おそらくヤクモの役員の親族が現場を経験するために来た、といったところではないかと……」「現場を経験するために?」男は手で湯をすくい、肩からゆっくりとかけた。その声には、明らかな疑念が滲んでいる。「こんな時期にわざわざ送り込んでくるとは……自分から面倒事に首を突っ込んでいるようなものだろう」男は言葉に詰まった。「それは……」「例の後発医薬品の件、警察がまだ追っている。滝沢祐一のほうでも、間違いなく調べているはずだ。何があっても、こちらの始末が完全につくまでは、一切の失敗は許されない」「ええ、田辺部長のおっしゃる通りです」小太りの男は慌てて頷いた。「では、私の方でもう一度調査を……」「いや」男は遮るように言った。「凪に任せる。血の繋がりはないが、私の娘だ。信用できる」そう言って、男は視線を上げる。そして、目の前の男の後ろに立っていたショートヘアの女性へ目を向けた。「凪、松本紬の素性を探れ。必ず信用を得たうえで、こちら側に引き込め」ショートヘアの女性はゆっくりと前へ歩み出る。湯気の向こう、淡い光に照らされたその姿は――東山凪紗だった。彼女は静かに頷く。「分かりました」……由奈は、階下にあるワークスペース
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第815話

凪紗は紬から書類を受け取りながら説明した。「私は製造部所属です。ただ、正社員ではなくて……まだ試用期間中なんです」「ああ、なるほど!」紬は納得したように頷き、彼女の社員証へ視線を落とす。確かに、所属は製造部。まだ正式採用前の研修社員だった。「さっきは本当にごめんなさい。急いでいてぶつかっちゃって……痛いところはないですか?」「大丈夫です」「それならよかった」紬は明るく笑う。「私は松本紬。品質管理部なんです。これから同じ会社で働くことになるし、よろしくお願いします」紬の人懐っこい態度に、凪紗も自然と笑みを浮かべた。本来なら、彼女に近づくきっかけを探していた。それが、思いがけず向こうから距離を縮めてくれたのだ。凪紗にとっては、手間が一つ省けたようなものだった。……麗子はその後も、密かに製薬会社の動きを追っていた。紬が取っている行動の意味は理解できなかったが、それでも口を挟むことはしなかった。祐一が彼女を送り込むと決めた以上、何か考えがあるはずだ。ただ――紬の行動が、麗子の想像以上に派手だったことは確かだった。麗子は最近の紬の動きをまとめ、祐一へ報告する。「普通なら、相手に取り入るための贈り物なんて、周囲に知られないようこっそり渡すものですが……松本さんの場合は、全部堂々とやっています。媚びを売っていると言えばそうなのかもしれませんが、相手によって態度を変えるわけでもなく、誰に対しても同じなんです。今では製薬会社の中で、彼女のことを『歩く福袋』なんて呼ぶ人までいるそうです」祐一は思わず小さく笑い、書類を机の上へ置いた。その反応からすると、予想外ではなかったらしい。「『歩く福袋』には、それなりの使い道があるからな」麗子は首を傾げる。「でも……本当に、そんなやり方で黒幕を引きずり出せるんでしょうか?」「もちろん」祐一は椅子の背にもたれ、腕を組んだ。「この状況で誰を送り込んでも、相手は警戒する。だが、もし送り込まれた人間が――派手に行動し、誰にでも愛想を振りまいて、何も知らない世間知らずの若い女性だったら?どれだけ疑われても、少なくとも俺が裏で動かしているとは考えないだろう」麗子は一瞬目を見開き、すぐに理解した。「つまり……松本さんのあの行動自体が、相手の判断を狂わせるということですね。もし相手が、松本さん
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第816話

紬は呆然とした。自分が不用意なことを聞いてしまったと気づき、慌てて謝る。「ごめんなさい。まさか、そんなことが……」「気にしないで」凪紗は笑って流したものの、視線は手つかずの料理へ落ちた。「でも、私も松本さんのこと、ちょっと気になってたの。会社ではみんな陰でいろいろ言ってるけど……私が実際に接してみた感じだと、聞いていた話とは少し違う気がして」紬はさほど気にした様子もなく、あっけらかんと答えた。「そりゃそうだよ。人に何を言われたって、私は気にしないもん。こういうの、今に始まったことじゃないし。前に江川市でバイトしてたときも、散々言われたから」――江川市。その地名を聞いた瞬間、凪紗の目が止まった。次の瞬間、勢いよく顔を上げ、紬を見つめる。けれど紬はそんな異変に気づかず、何気なく話を続けていた。「でも、江川市は私にとって、もう戻りたくない場所なんだ。まあ、これから先は二度と行かないと思うけど」「……そう、なんだ」凪紗はわずかに震える手を握りしめ、掠れた声で尋ねた。「どうして、もう行きたくないの?」「実はね、前に江川市にいたのって、好きな人を追いかけてたからなの。でも、その人には全然相手にされなくて」途端に食欲が失せたのか、紬は箸を置き、両手で頬杖をついた。「しかもその人、もうすぐ婚約するんだって」凪紗のまつげがかすかに震える。それでも平静を装い、さらに尋ねた。「そうか。その人って、何をしてる人なの?」「医療研究。白石倫也って名前、聞いたことない?ほら、白石家の――」その瞬間、凪紗の手から箸が落ちた。カラン、と乾いた音が響き、紬の言葉を遮る。異様な反応に、紬は怪訝そうに凪紗を見た。「どうしたの?もしかして、白石さんのことを知ってるの?」凪紗は勢いよく立ち上がった。「ごめんなさい。急に用事を思い出したの。続きはまた今度話そう」紬が返事をする間もなく、凪紗はテーブルの上を手早く片づけ、そのまま足早に立ち去っていった。残された紬は、遠ざかっていく凪紗の背中を呆然と見つめ、首を傾げた。――倫也の名前を出した途端、どうしてあんな反応をするんだろう?……翌日の午後、田辺正俊(たなべ まさとし)は凪紗を自分の執務室へ呼び出した。どうやら、紬についての調査状況を確認するつもりらしい。凪紗は落ち着かない様子で、唇を何
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第817話

凪紗は眉をひそめる。「松本さんを連れていくんですか?」正俊は鼻を鳴らす。「そうだ。彼女、白石家の人間と知り合いなんだろ?それが本当かどうか、確かめるんだ」数日後。ヤクモヘルスグループと江川市の医薬総合研究所との会食は、セントラルタワーのレストランで開かれることになった。20人ほど入れる個室では、何人もの店員が手際よく食器やグラスを並べている。医薬総合研究所の一行はまだ揃っていないため、先に到着した者たちも席には着かず、個室の外にあるソファスペースで談笑しながら待っていた。もちろん、そこで顔を並べているのは、ヤクモヘルスグループでもそれなりの地位にある幹部ばかりだ。正俊でさえ、端のほうでほかの管理職たちと話をしている。紬は凪紗や他部署の代表者たちの後に続き、一人ひとりに挨拶を済ませていった。その後、2人で隅のほうへ移動すると、紬が小声で尋ねる。「ただの食事会なのに、どうしてこんなに人が集まってるの?」凪紗は肩をすくめた。「ヤクモヘルスは江川市の医薬総合研究所との提携をかなり重視してるからね」「また江川市か……」紬は小さく呟き、ソファスペースへ視線を向けた。祐一の姿は見当たらなかったが、その代わりに麗子の姿が目に入る。ちょうど麗子も紬の視線に気づき、2人の目が合った。その瞬間、正俊も彼女たちのほうへ目を向けた。麗子は何食わぬ顔で視線を逸らす。紬も特に声をかけることはせず、ただ周囲を物珍しそうに見回していた。その顔には、隠しようのない好奇心が浮かんでいる。凪紗はそんな紬の様子をしばらく横から観察していた。けれど、やはり不審なところは見当たらない。正俊もそれを確認すると、彼女たちにこれ以上注意を向けるのをやめた。「滝沢社長はいらっしゃらないんですか?」ヤクモヘルスグループの幹部の一人が、麗子に尋ねた。麗子は祐一の側近として動いている。祐一が出席できない場では、決まって彼女が代理を務めていた。麗子は笑顔で頷く。「ええ。社長は、どうしても手が離せない仕事がありまして」それを聞いた正俊は、意味ありげに麗子を見つめる。そして、探るような笑みを浮かべた。「滝沢社長は、本当にお忙しい方ですね。先日もヤクモヘルスの事業を海外まで広げられたばかりでしょう。今は海外事業にかかりきり、といったところですか?
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第818話

どうして倫也が……?紬はしばらく呆然と倫也を見つめていた。やがて、彼がこちらを振り向きそうになった瞬間、紬は慌てて背を向けた。握りしめた指が、スカートの裾を強く掴む。もう、決めたはずだった。あの人への未練も、叶わなかった想いも、全部きれいに断ち切って前へ進むと。それなのに――こうして再び本人を目の前にすると、平静ではいられなかった。紬は胸の奥から込み上げてくる感情を、必死に押し込める。そのせいで、隣にいた凪紗の様子がおかしいことにはまったく気づかなかった。凪紗は倫也の背中を食い入るように見つめていた。その瞬間、頭の中にいくつもの断片的な光景がよみがえった。何の記憶なのかも分からない。けれど、次々と浮かんでは消えていく映像に、頭の奥が締めつけられるように痛む。「……っ」凪紗は反射的に額を押さえた。目の前がぐらりと揺れる。このままここにいたら、頭がおかしくなりそうだ。ふらつく足を引きずるようにして、凪紗はその場から逃げるように立ち去った。「東山さん、やっぱり私たちは――」紬が振り向く。けれど、さっきまで隣にいたはずの凪紗は、もうどこにもいなかった。そのとき、人の輪の向こうから、倫也の視線がまっすぐ紬へ向けられる。2人の視線がぶつかった。ほんの数秒だけなのに、紬の心臓は今にもおかしくなりそうなほど激しく鼓動を打った。慌てて視線を落とすと、倫也を避けるように人の間をすり抜け、足早にその場を離れようとした。ところが、数歩進んだところで、にこやかな笑みを浮かべた正俊に行く手を塞がれる。「松本さんはお一人なんですか?東山と一緒だったのかと」「東山さんは……たぶん、急用ができたんだと思います。私も少し気分が悪くて……先に帰ろうかと」紬はどうにか笑顔を作り、横をすり抜けようとする。だが、正俊はそれを許さなかった。「松本さんは、我々製薬会社の代表として来ているんですよ。ここで帰るのは、少しまずいんじゃありませんか?」声を荒らげたわけではない。それでも、その言葉は周囲にいた人間の耳には十分届いた。一瞬にして、そこにいた者たちの視線が紬へと集まる。「彼女が、最近製薬会社に送り込まれたあの子なの?」「そうだ。噂の金持ちのお嬢さんだろ。みんな『歩く福袋』って呼んでるらしいぞ」紬が製薬会社
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第819話

倫也と知り合いだなんて、正俊に言ったことがないはずだ。紬は戸惑いながら考える。いや、違う。凪紗にだけその話をしたことがある。――じゃ、どうして正俊がそれを知っているのか。紬が考えを整理する間もなく、倫也がほかの人間を伴ってこちらへ歩いてきた。紬はわずかに眉を寄せ、顔を上げる。倫也は顎を引き、ふっと小さく息を吐いた。彼が口を開くより先に、紬が答えた。「以前、白石さんの研究室でアルバイトをしていたんです。それで何度かお会いしたことがあって」その話を聞いて、倫也も顔を引き締めた。正俊が訝しげに尋ねる。「白石さんの研究室でアルバイトを……?」「はい。大学を卒業してから、家族にいい加減社会に出て仕事の経験を積んでこいと言われまして。それで白石さんの研究室で働かせてもらっていたんです」紬はそこまで淀みなく説明すると、倫也へ視線を向けた。「そうですよね、白石さん?」倫也はわずかに目を伏せ、「はい」と短く答え、それ以上何も言わなかった。それを聞いて、正俊もようやく疑念を引っ込めたようだった。一方、人の輪の中にいた麗子は、さっきから気が気ではなかった。紬を助けるために割って入ろうとまでしていたが、本人がうまく切り抜けたのを見て、ようやく胸を撫で下ろす。そのまま人混みから離れると、スマホを取り出して電話をかけた。やがて全員が揃い、会食が始まった。席は役職に応じて決められており、ヤクモ側の幹部と倫也のチームは当然、上座に近い位置を占めている。紬の席は倫也から数人分離れたところだった。幸い、向かい合わせではない。会食が始まってからも、紬は凪紗の姿を一度も見かけなかった。どこへ行ったのかも分からない。その間、何人もの人間が紬のところへ挨拶しにきた。紬はその度に立ち上がっては、笑顔で応じた。誰も声をかけてこないときは、ひたすら料理を口に運んでいた。そして、倫也のほうには一度も視線を向けなかった。「白石さん、以前は医薬総合研究所から代理の方が来られていたと記憶しています。まさか今回は、白石さん自らお越しになるとは思いませんでした」ヤクモヘルスグループの執行役員・山本和典(やまもと かずのり)は、倫也とグラスを合わせながら、探るように尋ねた。倫也はグラスを手に持ち、一口だけ酒を含む。「滝沢グループと
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第820話

近くにはまだほかの同僚たちがいる。帰るに帰れず、紬は覚悟を決めて彼のもとへ歩み寄ると、何でもないふうを装って口を開いた。「まさか白石さんが来るとは思わなかったよ。それで、その医薬総合研究所ってのは、あなたの会社なの?前に勤めていた研究所は?」「医薬総合研究所は、あの研究所からできた会社なんです」「……」紬は気まずそうに笑った。「そうだったんだ……」「今の髪型、よく似合っています」不意にそんなことを言われ、紬はぽかんとした。その言葉にどんな意味があるのか、まるで分からない。そのとき、倫也がスマホを取り出し、電話に出た。紬は我に返ると、ふと、婚約者からの電話なのかもしれないと思った。これ以上ここにいる理由もない。紬は長居せず、すぐにタクシーを拾って立ち去った。倫也が電話を終えて振り返ったときには、もう彼女の姿はどこにもなかった。――2日後。由奈はパソコンに向かい、間近に迫った手術の術式を確認していた。そこへ、突然、綾香から電話がかかってきた。しばらく近況を話したあと、綾香がふと東山夫妻のことを口にした。由奈はキーボードを打つ手を止め、数秒間、呆然とした。「2人がどうかしたんですか?」「この前、何度か病院に来てたんです。東山先生を探しに来たって……」凪紗が行方不明になって、もう1年以上になる。東山夫妻が江川市を離れてから、由奈も2人とは一度も顔を合わせていなかった。「娘が行方不明になったんだもの。親なら、そう簡単に諦められないですよね」由奈は自分の実の両親のことを思い浮かべた。立場を置き換えて考えれば、2人の気持ちも分かる気がした。「私もそう思います。でも、佳苗さんが、東山先生はもう戻ってきてるって言い張ってて……しかも、実際に東山先生を見た人がいるって」由奈は息を呑んだ。「凪紗さんを見た?誰が?」「それは私にも分からなくて……」綾香は数秒黙ってから、静かに続けた。「池上先生。もしかしたら……本当に東山先生が戻ってきたんじゃないかって思うんです」由奈は何も答えなかった。ただ、激しく上下する胸元が、その言葉に心を揺さぶられていることを何よりも雄弁に物語っていた。――それが本当なら、どれだけいいのか。……正俊の指示で、凪紗が紬を訪ねてきた。紬は、前回凪紗が何も言わずに帰
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