All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 841 - Chapter 850

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第841話

倫也のチームのメンバーは、倫也の反応をうかがっていた。ヤクモヘルス側としては、気取らない形でもてなそうとしているのだろう。とはいえ、倫也がこういう店で食事をするかどうかは別問題だ。それに、彼が極度の潔癖症だということを、ヤクモヘルス側は知らないはずだ。――このような居酒屋なんて、普段なら絶対来ないだろう。そう思って、チームの一人が口を開こうとした。ところが、倫也はあっさりと言った。「ここで大丈夫です」「では、どうぞこちらへ」部署の幹部が笑顔で椅子を引く。倫也が腰を下ろしてから、ほかのメンバーも次々と席についた。店員がおしぼりを差し出す。倫也は受け取ると、黙々と手を拭き始めた。それからふと顔を上げ、少し離れたところにいる一団へ目を向ける。紬と目が合った。彼女は反射的に視線を逸らす。「ねえ、あの人って医薬総合研究所の白石さんじゃない?」「そうそう。やっぱかっこいいよね。恋人がいるのかな」何人かの女性社員が、すっかり浮き足立っている。紬はすかさず口を挟んだ。「婚約者がいるらしいよ」その一言で、女性陣の夢はあっけなく砕け散った。とはいえ、憧れが消えるわけではない。「いいなあ、婚約者さん。羨ましい」「分かる。毎朝こんな顔を見ながら目覚められたら、それだけで幸せだね」紬は平然を装っていたが、内心はすっかりかき乱されていた。ちらちらと、向こうの倫也へ視線を送る。――毎朝、あの顔を目の前にして目覚めるって、どんな感じなんだろう。そんなことを想像しているうちに、妙な気分になってきた。普段あれだけ隙のない男が、ベッドの上ではどんな顔をするのだろう。考えれば考えるほど、なぜか胸が騒ぐ。そして――ついには、くすっと笑い声まで漏れてしまった。「……?」上司や同僚たちの視線が、一斉に紬へ集まる。もちろん、倫也たちのテーブルからも視線が向けられていた。周囲が急に静まり返り、皆が自分を見ていることに気づいて、紬はようやく我に返る。慌てて口元を拭い、俯いた。「……失礼しました」倫也は指先で、テーブルをとん、とん、と間を置きながら叩いていた。やがて料理が運ばれてくる。周りに勧められると、倫也はやんわり断った。「皆さんは先に食べてください。私はまだお腹が空いていないので」倫
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第842話

男性社員が助手席のドアを開け、紬が乗り込もうとしたそのときだった。「松本さん」背後から呼び止められ、紬は不思議そうに振り返る。「はい、どうかしました?」すると、上司の山下(やました)がこちらへ歩み寄ってきた。「ちょうど俺も帰るところでね。よかったら、途中まで一緒に乗せてもらおうかな」そう言うと、男性社員の肩をぽんと叩く。「えっ……でも……」「方向が違うんじゃないか」と、男性社員がそう言いかけたが、言葉を続ける間もなく、山下は紬へ目を向けた。「松本さんは後ろに座って」そう言うなり、山下は助手席に乗り込んだ。道中、山下は男性社員に先に紬を送るよう指示した。目的地に着くと、紬は2人に礼を言って車を降り、そのままマンションのほうへと歩いていく。その姿が見えなくなったところで、山下はふいに手を伸ばし、男性社員の肩を軽く叩いた。「お前、松本さんのこと、好きなんじゃないのか?」「……そ、そんなことありませんよ」男性社員は慌てて否定した。「無理に隠さなくてもいいって」山下は呆れたように笑った。「ただな、松本さんは俺たちとは住む世界が違う。それに――もう、相手がいるようなもんだ」「えっ?」男性社員は目を丸くした。「でも、松本さんって彼氏はいないんじゃ……」「今はいないってだけだ」山下は苦笑しながら、もう一度彼の肩を軽く叩いた。「お前、本当に鈍いな。医薬総合研究所の白石さんと松本さんの関係が普通じゃないことくらい、見てれば分かるだろ?」男性社員は何も言い返せず、ただ呆然と立ち尽くした。……翌日の午前中、ヤクモヘルスグループでは全体会議が開かれることになった。製薬工場からも数名が出席することになり、山下は紬と、経験豊富な社員2人を会議に参加させることにした。入社して間もない紬にとっては、貴重な学びの機会でもある。まさか自分が選ばれるとは思っていなかった紬は、思わぬ機会に胸を躍らせていた。一方、紬とは対照的に、一緒に出席するベテラン社員たちは、朝から揃って浮かない顔をしている。「羨ましいねぇ。入社したばかりだから、やる気があるんだ」隣の席にいたベテラン社員が、嬉しそうにしている紬を見て笑った。「私たちみたいな古株になると、会議なんて一番面倒なイベントだからね」紬は手帳を整えながら、首を傾げる。「でも
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第843話

こんな偶然があるなんて。紬はすぐに視線をノートへ戻し、真剣な表情で会議の内容を書き留め始めた。ペン先が、紙の上を止まることなく走っていく。まるで、受験の最中に問題を解いていて――ふと気づいたら、以前に解いたことのある問題がそのまま出題されていたような。そんな嬉しさと安心感に、紬の胸はいっぱいになっていた。会議が終わると、参加者たちは次々と会場を出ていった。エレベーターの前にはすでに長い列ができていたため、紬は人の少ない隅へ移動し、壁に寄りかかりながらノートを見返していた。しばらくすると、会場の反対側から倫也がほかの幹部たちと一緒に出てくる。その姿を見つけた紬は、反射的にノートで顔を隠し、さらに壁際へ身を寄せた。――彼らが通り過ぎてからエレベーターへ向かおう。そう考えていたのに、倫也の足がふいに止まった。数歩先で立ち止まり、こちらを見ている。「松本さん」低い声が、はっきりと耳に届いた。紬はその場で固まり、ゆっくりとノートを下ろした。「……何?」すると、眼鏡をかけた幹部の一人が、立ち止まった倫也に気づいて引き返してくる。「白石さん。エレベーターが来ました」「皆さんは先に行ってください」幹部は一瞬だけ紬を見たものの、すぐに頷いた。「分かりました」人の流れが少なくなったのを確認した紬は、エレベーターへ向かおうとした。だがその腕を、倫也がすっと掴む。「待ってください。少し話があります」紬の心臓が跳ねた。何の話だろう。彼女は目をきょろきょろと泳がせながら、慎重に尋ねる。「……話って?」倫也は答えなかった。そのまま紬の手首を握り、彼女を人のいない反対側の廊下へと連れていく。手首を包む彼の手の温もりに、紬の胸の奥がこそばゆくなる。――もしかして……告白?倫也が足を止め、振り返った。「さっきの会議で、分からなかったところはありませんでしたか?」一瞬、紬は何を言われたのか理解できなかった。やがて、信じられないというように目を見開く。「私をわざわざ呼び止めたのって……それを聞くため?」「ほかに何かあります?」紬はノートを抱え直し、ぷいっと顔を背けた。「……別に、分からないところなんてなかったよ。全部メモしたし」「……」倫也は一瞬、彼女を見た。それから、何の前触れもなく言う。
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第844話

由奈は、家で静かに連絡を待っていた。隣に座る祐一は、彼女が緊張していることに気づくと、自分の手をその手にそっと重ねる。「大丈夫だ」その温もりに励まされるように、由奈は小さく息を吐いた。そのとき、玄関のチャイムが鳴った。家事をしていた使用人が手を止め、玄関へ向かう。やがて卓巳と麗子に連れられ、1人の女性が中へ入ってきた。由奈は反射的に立ち上がる。2人の後ろにいる凪紗から、目を離すことができなかった。一方の凪紗は、まず室内をゆっくり見回した。そして最後に、由奈と目を合わせる。その瞬間、彼女の表情がわずかに揺れた。理由は分からないが、目の前の女性に、どこか懐かしさを感じた。初めて会ったはずなのに、なぜか親しみがある。そして何より、不思議なくらい心の奥から警戒心が薄れていくのを感じた。由奈はゆっくりと彼女に近づく。「……凪紗さん」声が、かすかに震える。「久しぶりね」凪紗の体が、ぴたりと固まった。――凪紗。その呼び方が、頭の奥に強く引っかかる。凪紗……凪紗……何度も、誰かにそう呼ばれていたような気がした。「……あなたは、誰?」「池上由奈」由奈が自分の名前を告げた瞬間、凪紗は小さく息をのんだ。「池上……由奈……」その名前を口にした途端、頭の奥に鋭い痛みが突き抜けた。「っ……!」息が詰まり、呼吸がうまくできなくなる。「凪紗さん!大丈夫?」由奈が駆け寄ろうとした瞬間、卓巳と麗子が素早く彼女を支えた。2人は凪紗をソファへ連れていき、ゆっくりと座らせる。「思い出せない……」凪紗は苦しそうに頭を抱えた。「頭が……すごく痛い……」指先には力が入り、関節が白くなる。額には細かな汗が浮かび、背中を丸めたまま、荒い息を繰り返していた。まるで、目には見えない何かに胸元を締めつけられているようだった。由奈は数歩離れた場所に立ち尽くし、ぎゅっと服の裾を握りしめる。一歩踏み出そうとするが、卓巳がさりげなく彼女を制した。「今は、無理に思い出させようとしないほうがいいです」卓巳は急いで言った。「僕の幼なじみも言ってました。無理に記憶を呼び戻そうとすると、かえって強いストレス反応を起こすことがあるって」由奈は唇を噛んだ。それでも、苦しそうな凪紗をただ見ていることなどできない。しば
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第845話

まして圭介は、穏やかに生きることを望むような男ではない。そんな男のそばにいるということは、常に危険と隣り合わせで生きるということだ。――凪紗はずっと、そんな環境で生きてきたのだろう。……翌朝。凪紗が目を覚まし、1階のダイニングへ下りていくと、由奈はすでに朝食を用意して彼女を待っていた。「おはよう、凪紗さん」凪紗は小さく頷き、テーブルへ近づく。席には、温かいミルクと卵焼き、サラダや雑穀ご飯が並んでいた。「私、妊娠中だから、あまり脂っこいものが食べられなくて」由奈は少し申し訳なさそうに笑った。「だから、今日はあっさりした朝食になっちゃったの」「あ、全然大丈夫ですよ」凪紗は慌てて首を振った。「私、好き嫌いはありませんから。何でも食べます」その言葉に、由奈はふと胸の奥が沈むのを感じた。由奈の記憶にある凪紗は、紬と少しにていた。明るくて、自信家で、少しだけ気が強い。自分の気持ちを隠すこともなく、誰に対しても遠慮なくぶつかっていくような女性だった。それなのに今の凪紗からは、そんな面影がほとんど感じられない。尖っていたはずの部分は、いつの間にかすっかり削り取られ、何を言うにも相手の顔色をうかがうようになっていた。由奈は一瞬だけ視線を落としたが、気を取り直すように尋ねる。「そういえば……凪紗さんは、会社で紬さんと知り合ったんですって?」凪紗の手が、ぴたりと止まった。顔を上げ、由奈を見る。口の中のものを飲み込んでから、ゆっくりと尋ねた。「……池上さんも、松本さんのことを知ってるんですか?」「もちろん」由奈は笑った。「というより、あの子はね、昔のあなたとちょっと似てるの」凪紗のまつ毛が、かすかに揺れた。「……昔の私は、どんな人だったんですか?」「明るくて、自信家で……ちょっと意地っ張りなところもあったかな」由奈は片手で頬杖をつき、懐かしそうに彼女を見つめた。「でも、自分の気持ちにはすごく正直だった。好きなものは好き、嫌なものは嫌って、はっきり言える人だったの。江川市の病院で働いていた頃、私とあなた、それから綾香さんはすごく仲が良かったの」凪紗は黙ったまま、由奈の話を聞いていた。由奈の語る「昔の自分」は、まるで別人のように感じる。それでも――なぜだろう。話を聞いているうちに、胸の奥がじわりと熱
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第846話

佳苗は室内から出てくると、由奈と二人きりで話したいと言った。綾香が気を利かせて室内へ戻ったあと、佳苗は由奈の前に立つ。そして次の瞬間、突然その場に膝をつこうとした。「佳苗さん……!」由奈は慌てて佳苗の腕をつかみ、支えた。「どうしたんですか?」「池上さん……これまでのこと、本当にすみませんでした。当時の私たちは、目先の利益に目がくらんでいたんです。あのとき、あんな軽率なことをしなければ……今は、こんなことにはならなかったかもしれません」佳苗は胸元を押さえ、苦しそうに息を吐いた。「美夏が亡くなってから……私たちは、凪紗の気持ちを蔑ろにしていた。あの子が、あんなふうになってしまったのも……結局は私たちのせいなんです。親である私たちが、あの子をあんな目に遭わせたんです!」「佳苗さん……」「今回のことは、なんてお礼をすればいいのか分かりません……今後お力になれることがあったら、なんでも言ってください」「お礼はいいんです」由奈は静かに首を振った。佳苗がどれほど自分を責めているのか、痛いほど分かる。だからこそ、由奈はやわらかな声で言った。「私は、凪紗さんの友達として当たり前のことをしただけです。皆さんがこうして再会するのを見ただけで、私は十分うれしいんです。だから、佳苗さんがお礼をする必要なんてありません」そう言って、由奈は佳苗を支えながら室内へ戻った。凪紗はソファからゆっくりと立ち上がった。けれど、何を言えばいいのか分からず、ただ立ち尽くす。佳苗はそんな娘を見つめ、やがて由奈のほうを振り返った。「池上さんも今は大事な時期ですし、これ以上長居するわけにはいきませんね」そう言って、丁寧に頭を下げる。「本当に、ありがとうございました」車椅子に座る隆のもとへ歩み寄ると、凪紗へそっと視線を向ける。「……凪紗」佳苗の声には、期待と不安が入り混じっていた。「私たちと、一緒に帰りたい?」その言葉は、どこまでも慎重だった。娘は記憶を失い、自分たちのことを覚えていない。――きっと、一緒には帰ってくれないだろう。佳苗はそう覚悟していた。「……はい」凪紗は静かに頷いた。「一緒に帰る」佳苗と隆が、同時に目を見開く。「凪紗……本当に?」佳苗の声が震えた。「本当に、私たちと一緒に帰ってくれるの?」凪紗は、ゆっくりと佳苗の
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第847話

教授の言葉を聞き、由奈は少しだけ考え込んだ。ここまで来た以上、後戻りはできない。正式な返事が出たのなら、あと2ヶ月くらい待てないはずもなかった。「はい、待てます」「それならよかった。時期が近くなったら、こちらから連絡します。私も、あなたの手術を楽しみにしています」「ありがとうございます。頑張ります」通話を終えると、由奈は振り返り、病室の扉を押し開けた。病室では、父の秀明が恭子のベッドのそばに座り、濡らしたタオルでそっと彼女の手を拭いていた。恭子はぼんやりと前方を見つめたまま、何の反応も示さない。まるで、魂だけがどこかへ行ってしまったかのようだった。由奈は父のそばへ歩み寄る。「お父さん。特許の件、返事が来ました。手術は2ヶ月後になりそうです」「2ヶ月でも、何ヶ月でも待つよ」秀明は妻の手の甲を優しく拭きながら、静かに言った。「手術が受けられるなら、それでいい」その横顔を見て、由奈は胸が締めつけられた。「お父さんも少し休んだら?朝からずっとお母さんのそばにいますし、たまにはヘルパーさんに任せないと。せっかくお願いしてるんだから」父が無理をしていないかと、由奈は心配だった。秀明は顔を上げ、どこか得意げに目を細める。「こういうことはな、ヘルパーさんより私がやったほうが細かいところまで気がつくんだよ」「でも、お父さんまで倒れたらどうするんですか?」「大丈夫だ。ちゃんと休んでるから」秀明はタオルを絞りながら、今度は由奈のほうを見た。「それより、君だ。妊娠中なんだから、無理するなよ。君まで倒れたら、私には体がいくつあっても足りないからな」その言葉に、由奈は思わず笑った。「分かりました。ちゃんと気をつけます」少しして、由奈は病室を出た。そのとき、ふと思い出したようにスマホを取り出し、浩輔に電話をかける。けれど、何度かけても、浩輔は電話に出なかった。今日は週末で、彼は休みのはずだ。どこかへ出かけているのだろうか。そう考え、由奈が病院を出ると、その足で池上家へ向かった。浩輔の車は庭に停まっていた。それなのに、電話をかけても一向につながらない。由奈は首をかしげながら玄関へ向かい、暗証番号を入力して中へ入った。ところが、リビングに足を踏み入れた瞬間、由奈は目を疑った。テーブルの上は散らかり放題で、
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第848話

「いや、付き合おうって言い出したのは私のほうで……」「待って」由奈は綾香の言葉を遮った。「私が聞きたいのはそのことじゃなくて、2人がいつから付き合い始めたのかってことです」浩輔は気まずそうに視線を泳がせ、小さな声で答えた。「そんなに長くはないよ。1年……くらい?」「1年?」由奈は思わず笑ってしまった。「1年も隠しておいて、『そんなに長くない』はないでしょ?」2人は揃ってうつむいた。まるで怒られた子どものようだった。由奈はふと、以前の出来事を思い出す。半年前、浩輔が綾香と電話をしているとき、妙にこそこそしていたことがあった。しかし、あのときは特に気に留めなかった。「……まあ、いいけど」由奈は小さく息をついた。「私も弟のプライベートについて何も知らなかったし、弟が友達と付き合っていることにも気づかないなんて、姉として失格かも」「池上先生……ごめんなさい。私――」綾香が申し訳なさそうに口を開く。「綾香さんが謝る必要はないですよ。私が怒ってるのは、2人が付き合っていることじゃなくて、私に隠してたことだから」綾香は目を瞬かせた。浩輔も恐る恐る顔を上げる。「じゃあ……俺たちのこと、認めてくれるの?」「反対する理由もないでしょ?」その言葉に、2人は一瞬、言葉を失った。由奈は肩をすくめ、少し呆れたように笑う。「私が反対したら、大事な弟と友達を同時に失うかもしれない。それって、私にとって何の得もないから。それに、2人が本気で付き合ってるなら、私が無理やり引き裂くわけにもいかないでしょ」浩輔と綾香は顔を見合わせた。やがて、浩輔はそっと綾香の手を握り、晴れやかな笑顔を浮かべた。「はい、俺たちは本気で付き合ってる!」「だったら、ちゃんと幸せになりなさい」その一言に、2人の顔が同時にほころんだ。……夜の街が深い闇に包まれ、ネオンの明かりが空をぼんやりとオレンジ色に染めていた。由奈が風呂から上がると、寝室では祐一がベッドにもたれ、雑誌をめくっていた。仕立てのいいダークカラーのシャツは上から2つほどボタンが外され、指先がページをゆっくりとなぞっている。「今日はずいぶん遅かったのね」由奈はバスローブの紐を結びながら尋ねた。祐一は雑誌を閉じ、顔を上げる。「実家で夕食を食べてきたから、少し遅くなった」そ
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第849話

午前中、和典は祐一と話をするため、滝沢グループを訪れていた。麗子が淹れたお茶を、和典の前に差し出す。和典は湯呑みを手に取り、一口飲んでから口を開いた。「ヤクモの地方拠点にある薬局や病院については、整理が終わりました。ただ、木谷市だけはまだ誰も現地へ行っていません」祐一はわずかに目を上げた。「ヤクモが木谷市に拠点を置いてから、まだそれほど経っていなかったはずですよね」「ええ。木谷市は交通の便も悪く、町も小さい。とはいえ、あの地域では唯一、地域の中核病院クラスの病院があります。ただ、場所が遠いせいか、ほかの管理職は誰も現地へ行きたがらないんです」「それで、山本さんはどうしたいですか?」祐一は腕時計に視線を落とし、文字盤を指先でゆっくりとなぞる。そして、どこか楽しげに笑った。「俺から指示を出して、誰か管理職を一人、木谷市へ向かわせたほうがいいですか?」和典は茶に映る自分の顔をじっと見つめた。「……松本さんを派遣したいと言ったら、どうされます?」祐一の目が細められた。「彼女は滝沢社長がヤクモに入れた人材です。他の管理職が誰も行きたがらない中、彼女だけが引き受けると言っています。だから、一応社長の考えを聞いておく必要があると思いまして」祐一は納得したように頷いた。「それなら、彼女に任せればいい。今後は、俺の判断を仰ぐ必要はない。本人がやりたいと言うなら、それでいい」和典は残っていた茶を飲み干すと、そのまま席を立った。和典が出ていったあと、麗子はテーブルの上を片づけながら、ふと尋ねた。「松本さんに、そんな遠方までチームを率いて行かせるんですか?向こうで嫌な思いをしないといいんですが……それに、松本さんの経験では、まだチームを任せるには早いんじゃないでしょうか」「一人には行かせないさ」「……え?」祐一は大きく両腕を伸ばして背伸びをすると、ゆっくり立ち上がった。麗子の横を通り過ぎながら、意味ありげに口元を緩める。「もう一人、同行してもらうよ」……「木谷市って、すごく辺鄙なところですよね?本当に行くんですか?」「そうですよ。上の連中、自分たちは役職にしがみついてるくせに、行きたくない場所が出てくると、なんだかんだ理由をつけてこっちに押しつけてくるんだから。滝沢グループがリストラするなら、まずあの人たちからにしてく
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第850話

夕食を済ませた一行がホテルに着いたのは、すっかり遅い時間になってからだった。部屋数が足りず、2人ずつ同室になることになったため、紬は女性職員の1人と同じ部屋に入ることになった。木谷市に唯一あるそのホテルは、かなり簡素な造りだった。室内には、長い間使われていなかったのか、湿気を含んだかび臭さが漂っている。こんな古びた狭い部屋に泊まるのは、紬にとって初めてのことだった。何度も洗濯されてほつれたシーツにそっと触れ、黄ばんだ汚れの残るバスルームへ目を向けると、思わず眉間に皺が寄る。「松本さん、今週はずっとここに泊まることになりそうですね」正直、紬もこの環境にはまったく満足していなかった。だが、町自体が小さく、人口も多くない。ホテルがあるだけでもありがたいと思うしかなかった。千代は苦笑して首を振った。「大丈夫です。これくらいなら我慢できます」そう言いながら荷物を置き、ベッドの端に腰を下ろす。何気なく布団をめくった、その時だった。1匹のゴキブリが、中から突然這い出してきた。「きゃあっ!」紬は悲鳴を上げ、弾かれたようにベッドから飛び退いた。同僚は至って冷静だった。床に置かれていた虫たたきを手に取ると、一撃でゴキブリを床へ叩き落とした。それからティッシュで包み、ゴミ箱へ放り込んだ。「大丈夫ですよ。もう死んでますから」椅子に立って避難した紬は、しばらく固まったままだった。ようやく呼吸を整えると、恐る恐る尋ねる。「……怖くなかったんですか?」「ただのゴキブリですよ?別に怖がるようなものでもないです」同僚は何事もなかったようにベッドのそばへ戻り、荷物を整理し始めた。ふと、まだ青ざめた顔をしている紬を見上げる。「もしかして、ゴキブリを見たことがないんですか?」「も、もちろんありますよ。ただ……急に出てきたから、びっくりしただけ」実際には、これまで家の中で本物のゴキブリを見たことなど一度もなかった。人から話を聞いたことがある程度だ。だが、そんなことを正直に言えば、あまりにも世間知らずだと思われそうだった。紬はそれを悟られないよう、必死に平静を装った。ベッドにゴキブリが這っていたことが、紬にはどうしても気持ち悪くて仕方なかった。生理的な嫌悪感が先に立ち、とてもこのベッドで眠る気にはなれない。フロントに電話をかけ
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