All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 851 - Chapter 860

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第851話

「もちろん大丈夫ですよ。どうぞ行ってください」紬としては、一刻も早く今日の作業を終えて、ホテルに戻りたかった。シーツと布団を替えて、今度こそゆっくり眠りたい。病院側の責任者が立ち去ると、そばにいた2人の同僚が小声で話し始めた。「こんなボロい病院によりによって今、上の人が視察に来るなんて、タイミングよすぎない?」「だよな。俺たちの在庫確認に付き合いたくなくて、適当な理由をつけて逃げたんじゃないのか?」紬は何も言わず、手にしたペンを止めた。目の奥が重く、ひどく乾いている。口を開くのも億劫だった。とにかく早く薬品の確認を終わらせてしまいたい。それだけを考えながら、黙々と作業を続ける。すると、廊下の奥から慌ただしい足音と、誰かが挨拶を交わす声が聞こえてきた。どうやら、本当に視察の一行が来たらしい。紬が顔を上げると、白衣を着た職員たちが、何人かの白シャツ姿の男性を囲むようにして、管理棟のほうへ歩いていくのが見えた。なかなか物々しい一行だ。「おい、本当に来たみたいだぞ」同僚が意外そうに呟く。紬はそれにも答えず、すぐに視線を手元へ戻した。それから1時間半ほどで、ようやく在庫の確認が一通り終わった。一行はそのまま宿へ戻り、休憩することになった。ところが、病院を出ようとしたところで、1人の白シャツ姿の男が紬のもとへ歩み寄ってきた。「ヤクモヘルスグループから来た松本さんですよね?」紬は足を止め、振り返った。「はい」「あなたの友人だと言って、会いたいという方がいらっしゃいます」紬は数秒、きょとんとした。そして、少し離れたところで待っていた同僚を見る。「先にホテルへ戻っててください。私のことは待たなくて大丈夫です」「分かりました」同僚は頷き、ほかのメンバーと一緒にその場を離れていった。ほどなくして、紬は白シャツの男に案内され、病院の駐車場へ向かった。そこには1台の車が停まっている。後部座席の窓は半分ほど開いていて、薄暗い車内に人の横顔が浮かんでいる。紬が状況を飲み込めずにいると、その男がゆっくりと顔を向けた。そして、紬の目の下に浮かぶ青黒いクマに気づく。「昨日、よく眠れなかったんですか?」紬はその場から動かず、質問にも答えなかった。ただ、驚いたように尋ねる。「白石さん?どうしてここに?」倫也は少し間を置いて
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第852話

「この家、やっぱりホテルよりずっと快適だね!少なくとも、ゴキブリが出るようなところじゃなさそう!」紬は荷物を置くと、すっかり上機嫌で家の中を見て回った。倫也は玄関の外から室内をひと通り見渡したあと、白シャツの男に何やら話しかける。2人が何を話したのか、紬には聞こえなかった。やがて白シャツの男は車に乗り込み、そのまま去っていった。倫也がゆったりとした足取りで部屋の中へ入った時、紬はベッドに腰を下ろし、あたりを見回していた。ふと、脇にきちんと畳まれた布団へ視線を向ける。「この部屋って、もう誰かが使ってるの?」「はい」紬はきょとんとした。「誰が?」倫也は腕を組み、壁に寄りかかる。「誰だと思います?」紬ははっとして立ち上がった。「ここ、白石さんの部屋だったの?ごめんなさい……てっきり空き部屋だと思ってた。私はどの部屋を使えばいいの……?」倫也は顎で部屋の隅を示した。そこには、真新しい布団や枕、敷きマットがきれいに積まれている。「今空いてる部屋はないから、この部屋の床で寝てください」紬はしばらく固まった。やがて、信じられないとばかりに自分を指さす。「私が……?この部屋の床で?」「はい。あなたには何もしませんから、安心してください」倫也は至って真面目な顔で答えた。紬は一瞬、言葉に詰まった。――確かに、この人なら自分に何かすることはないだろう。けれど。自分の理性が持つかどうかは、また別の話だ。同じ部屋で夜を過ごすなんて、それこそ自分の忍耐力が試されるに決まっている。「私、一応女性なんだけど……」「男女平等です。それに、この部屋を先に使っていたのは私です」倫也は何事もなかったような顔で座布団に腰を下ろした。長い脚をゆったりと組み、低いテーブルの上に置かれていた本を手に取る。まるで、「ここは私のナワバリだ」と無言で宣言しているようだった。紬は少しむっとしたものの、それ以上ごねることはしなかった。覚悟を決めたように唇を引き結ぶ。「分かったよ。床で寝ればいいでしょ」そう言って、紬は部屋の隅へ向かった。積まれていた布団と枕、敷きマットを床へ運んでいく。倫也はテーブルにもたれかかるように腰を預け、片手をついていた。長い手足をゆったりと伸ばしながら、本を気ままにめくっている。ふと顔を上げると、紬
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第853話

「松本家の親戚がどんな人たちなのか、お姉ちゃんだって知ってるでしょう」咲希の声には、どうしようもない苦々しさが滲んでいる。「紬に縁談を持ちかけてきたのだって、一度や二度じゃないのよ。本当に紬のことを考えてくれているなら、私だって何も言わない。でも、あの人たちが何を考えているかくらい、私にも分かるわ」咲希は唇を噛んだ。「紬は純粋で世間知らず。松本家の事業を切り盛りするのも難しいだろうって、みんなそう思ってるんでしょう。今は私たちが後ろ盾になってあげられるからまだいい。でも、私たちがいなくなったら――あの子は身ぐるみを剥がされても、相手のためにお金を数えてあげるような子よ」千代は、何か言いかけては口を閉ざした。滝沢家に嫁いでからも、松本家の親戚たちからは何度も連絡を受けていた。誰かの就職を世話してほしい、仕事を回してほしい――そんな頼み事ばかりだった。最初は身内だからと断りきれなかった。けれど、滝沢家の人間に余計な負担をかけることになりかねない。それに、そうした親戚たちの言動が、松本家の名にまで傷をつけることを恐れた。だから千代は、いつしか親戚との付き合いをすべて断っていた。2人が話していた時、廊下から足音が近づいてきた。しばらくして、使用人に案内されるようにして、由奈が祐一の腕にそっと手を添え、2人並んで部屋へ入ってきた。千代は由奈を見るなり、ぱっと表情をほころばせる。「まあ、由奈さんも来てくれたのね」祐一は軽くうなずき、続いて咲希へと微笑みかけた。「叔母さん、ご無沙汰しております」咲希は由奈が妊娠していることは聞いていた。けれど、実際に会ってみると、想像以上に大きくなったお腹に驚く。「もう、いつ生まれてもおかしくないんじゃない?」「まだ予定日までは少しあるわよ」千代はそう答えながら、ふと祐一を横目で睨んだ。「それにしても、祐一。由奈さんは大変な時期なのに連れてくるなんて……もっとゆっくり休ませてあげなさいよ」祐一が口を開きかけるより先に、由奈が笑った。「妊婦だからって、ずっと寝たり座ったりしているわけにもいきませんし。私も暇だったから、祐一についてきただけですよ」「あんたは祐一の味方をしなくていいの。男の人は甘やかしたらだめなんだから」祐一は思わず笑った。「じゃあ、この家にはもう俺の味方はいないんですか?」
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第854話

「え?」由奈はきょとんとした。今日は祐一についてきただけで、夕食まで一緒に食べる予定はなかった。思わず隣にいる祐一を見る。祐一はわずかに眉を上げ、由奈が断らないことを期待しているような目を向けてきた。由奈は少しだけ唇を結び、それから小さくうなずいた。「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」千代はたちまち顔をほころばせる。「決まりね」そしてすぐに使用人を呼び、今夜の夕食にもう何品か追加するよう頼んだ。……倫也がキッチンに立ち、手際よく調理を進めていた。熱したフライパンに油をひき、肉を入れ、野菜を加え、最後に調味料を絡める。その一連の動きはあまりにも淀みがなく、そばで見ていた紬はすっかり見入ってしまっていた。またひとつ、知らなかった倫也の一面を知ってしまった気がする。料理ができる男の人って、やっぱり魅力的だ。「お皿を」倫也に声をかけられ、紬ははっと我に返った。「……あ、はい!」慌てて食器棚から皿を取り出し、彼に差し出す。紬はそっと顔を上げ、盗み見るように倫也を見つめた。伏せた横顔は鼻筋がすっと通り、料理に集中しているときの真剣な表情には、どこか不思議な柔らかささえ感じられる。「テーブルに運んでください」倫也が片手で皿を差し出す。紬が受け取ろうとすると、彼はすぐに言った。「まだ熱いので、しっかり握らないように。こう持ってください」紬は彼の持ち方を見て、その通りに皿を受け取ると、テーブルまで運んで置いた。並んだ料理は計5品。思わずスマホを取り出し、紬はその食卓を写真に収めた。倫也はエプロンを外しながらこちらへ戻り、椅子を引くと席についた。テーブル全体を撮ろうとしていた紬は、ふと倫也の手まで写り込んでいることに気づく。――指が長くて、きれいな手だ。一瞬だけ画面を見つめたあと、紬はその写真を保存し、何事もなかったようにスマホをしまった。そして倫也の向かいに座る。「白石さん、料理までうまいんだね。婚約者さんは将来、毎日おいしいものが食べられて幸せだよ」箸を手に取り、さっそく料理を取ろうとしたところで――カツン、と。向かいから伸びてきた倫也の箸に止められた。「……?」紬が怪訝そうに眉をひそめる。倫也は黙ったまま、じっと彼女を見つめていた。「食べたくないなら、無理に
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第855話

「千代さん、もう十分いただいたので、これ以上は……」さすがの由奈も耐えきれず、控えめに声をかけた。千代は一瞬きょとんとしたあと、箸を置いて笑う。「ごめんね。食べきれなかったら残せばいいんだから」「……そういえば、そっちは使用人が足りているのか?」将平が料理を取りながら、ふと祐一に尋ねた。「足りないなら、本邸から何人かそちらへ回そう。気心の知れた者ばかりだし、そのほうが安心だろう」「そうね」千代もすぐに同意した。「由奈さんも、これから出産を控えているでしょう。それに産後もしばらくはしっかり休まなきゃ。数人だけでは、とても手が回らないわ。赤ちゃんの世話だってあるし、手伝ってくれる人は多いに越したことないもの」由奈が何か言おうとするより先に、祐一が短く答えた。「そのあたりは、俺がきちんと手配します」「だったら、海都市で一番いい産後ケアのスタッフをお願いしなきゃね。産後の過ごし方は本当に大事なんだから。しっかり身体を休めて、きちんと体調を整えないと」千代は、自分自身のこと以上に由奈の産後を気にかけ、あれこれと思いを巡らせている。そこまで考えてくれているのを見ると、由奈も無下に断ることはできなかった。「由奈さんは、どう思う?」結局、意見を尋ねられても、由奈は困ったように笑うしかない。「……千代さんにお任せします」その答えに、千代は一気に機嫌をよくした。夕食を終え、2人は本邸を後にして自宅へ向かった。その帰り道、由奈のスマホに智宏から電話がかかってきた。「お母さんの容体が悪化したって聞いたけど……大丈夫なのか?」母の容体が悪化したことを、智宏が知ったのはつい先ほどだった。海外にいる彼のもとへ、朝早く父から連絡があったらしい。「うん。でも、もう大丈夫。あと2ヶ月もすれば、私がお母さんの手術をするから」「こんな大事なこと、どうして僕に黙ってたんだ?」「お父さんも、お兄さんが心配すると思ったんでしょう。でも大丈夫。私がいるから」そう答えてから、由奈はそっと隣の祐一へ目を向けた。すると祐一は、何も言わずに彼女の手の甲へそっと手を重ね、そのまま包み込むように握った。車窓の外を夜の街並みが流れていく。次々と通り過ぎる街灯の光が祐一の横顔を照らすたび、その表情はいつもより少しだけ穏やかに見えた。由奈は一瞬、目を見開く
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第856話

補佐役は書類を受け取ると、ろくに確認もせずに答えた。「そんなこと、こっちに言われても分かりませんよ」「毎年どれだけ薬を仕入れたか、納品書にも記録にも残ってるはずです。薬品庫の台帳と数が合わないのに、『分からない』で済みませんよ」「そうですよ。前回の確認から3年しか経ってないのに、こんなに大量な不足が出ているんですよ。まさか病院側が内部で横流しして、帳簿を書き換えたんじゃないでしょうね?」そう問い詰められ、補佐役もたちまち険しい顔になった。「何を言ってるんですか?証拠でもあるんですか?」「じゃあ、この帳簿の食い違いはどう説明するんです?」「俺が知るわけないでしょう!院長に聞いてくださいよ!」「何それ、そんな態度はないだろ!」言い争う声が聞こえてきて、紬もようやく作業から意識を引き戻した。慌ててそちらへ向かうと、さっきまでの口論は、いつの間にか揉み合いにまで発展している。「ちょっと、やめてください!」補佐役と男性同僚が互いに胸ぐらをつかみ、押し合っていたかと思うと、とうとう殴り合いまで始めた。そばにいた見習いの職員や看護師たちも、すっかり怯えている。「やめて!2人ともやめてください!」紬は慌てて2人の間に割って入った。次の瞬間、揉み合っていた2人がよろめき、紬にぶつかった。男が振り回した拳が、勢いそのままに紬の顔を直撃する。「……っ!」あまりの衝撃に、紬はその場に倒れ込んだ。さすがに2人も自分たち以外の人間に当たったことに気づき、動きを止める。周囲の人たちがすぐに駆け寄り、2人を引き離した。「大丈夫ですか、松本さん!」何人かに支え起こされ、紬はぼんやりと目を瞬かせた。頭の奥がずきずきと響き、目が回る。頬は熱を持ったようにひりつき、ひどく腫れている。左目の下には、皮膚が引きつるような痛みもあった。騒ぎのあと、紬は女性同僚に付き添われ、診察室で診てもらうことになった。額から左目の下にかけて青紫色に腫れ上がり、左まぶたは大きく腫れて、ほとんど開けられないほどだった。同僚が薬を染み込ませたガーゼを患部に当てながら、心配そうに尋ねた。「大丈夫ですか?」「っ……」紬は痛みに思わず息を呑み、手を振った。「平気です。ただ……こんな顔で人前に出られるのかな?」同僚は腫れ上がった紬の顔を
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第857話

気まずい空気を破ったのは、男性同僚のほうだった。「薬品庫のパソコンを調べられれば、話は早いんですけどね……」紬が何か答えるより先に、女性同僚が首を横に振る。「今の病院側の態度じゃ、見せてもらえるかどうか……」「はぁ……こんな面倒なことになるなら、最初から来なきゃよかったです。この病院の人たちは、ヤクモヘルスに喧嘩を売ってるとしか思えません」2人が口々に不満をこぼすなか、紬は黙って聞いていた。今さら何を言っても、彼らには響かないように思えてしまう。それでも――このまま何も分からないまま引き上げるのは嫌だった。紬はぎゅっと手を握りしめ、2人が口を閉じたところで、意を決して言った。「……力を貸してくれる人がいないか、当たってみます」2人が一斉に紬を見る。どうやら、最後に残された望みを彼女に託すしかないと思ったらしい。その日の帰り道、紬は同僚に頼んでサングラスと帽子を買ってきてもらった。これなら、少しは顔を隠せる。そう思っていたのだが――宿に戻ったところで、ちょうど倫也と鉢合わせした。彼は誰かと電話で話している最中だった。紬は反射的にうつむき、サングラスの位置を直す。やがて倫也が電話を切ったのを見計らい、できるだけ平静を装って声をかけた。「……今日の夕飯、外で食べてくる。私の分は作らなくていいから」それだけ言うと、倫也が何か答えるより先に、紬は足早に彼の横を通り過ぎ、部屋の中へ逃げ込んだ。倫也はその後ろ姿を見送り、眉をひそめる。――何かが、おかしい。部屋へ戻ると、紬はすでに布団の中へ潜り込んでいた。顔までしっかり布団に埋めている。人の気配が近づいてくるのを感じると、さらに布団を頭まで引き上げた。「ちょっと眠いから、少し寝る!」「起きてください」いつもより少し低く、強い口調だった。「嫌!」倫也が布団をめくろうと手を伸ばす。紬は必死に布団をつかんだ。「ちょっと、何するの?本当に眠いんだって!」すると、倫也の声が少しだけ柔らかくなった。「いいから、こっちに向いてください」紬は心臓が跳ねるのを感じ、ますます顔を布団に押しつけた。「絶対に嫌!」しばらくして、倫也の気配が消えた。――諦めた?紬はそっと布団から頭を半分だけ出そうとした、その瞬間。倫也が布団ごと紬を抱え上げた。「
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第858話

紬が手を伸ばしかけた、その直後だった。倫也はすっと身を引いた。「終わりました」抱きつくつもりでいた紬は、伸ばしかけた手を気まずそうに止めた。だが、すぐに気を取り直し、慌ててバッグからコンパクトミラーを取り出すと、顔の傷を確認した。倫也はそんな彼女を横目で見やり、「腫れが引くまで3日くらい。あざが消えるには、早くても1週間はかかるでしょう」と言った。「じゃあ、この1週間は帰れないよね……」紬はがっくりと肩を落とす。「病院がパソコンの記録を見せてくれない以上、在庫確認も進められないし。このまま帰ったら、上に説明もできない。やっぱり……祐一兄ちゃんに頼るしかないかな」そう呟いて、祐一にメッセージを送ろうとスマホを手に取った。すると、倫也の視線が静かに彼女へ向けられた。「本当に、それでいいんですか?滝沢社長はヤクモの件と滝沢グループの仕事でかなり忙しいでしょう。木谷市の問題まで手が回れるとは思いません」紬は顔を上げた。「でも、今の状況じゃどうにもならないでしょ。病院側が何かを隠してるなら、パソコンの中身なんて簡単に見せてくれるわけないし」「それを滝沢社長に話したところで、状況が変わらないのでは?」「それは……」言葉に詰まった。「本気でこの問題を解決したいなら、なぜ病院がそこまでして薬の帳簿を隠そうとしているのか、先に調べたほうがいいでしょう」倫也は腕を組み、落ち着いた声で言った。なるほど、と紬は思った。すでに打ちかけていたメッセージを削除すると、すぐに立ち上がる。「じゃあ、誰に聞けばいいの?」倫也は答えず、ただその場に立ったまま紬を見つめていた。その目には、どこか意味ありげな光が浮かんでいた。……翌朝、由奈と祐一は朝食をともにしていた。テーブルに置かれていた祐一のスマホが鳴り出す。麗子からの着信だった。「どうした?」祐一は電話に出ると、低い声で尋ねながら、指先でテーブルを軽く叩く。「木谷市の病院で、少し問題が起きまして――」由奈はコーヒーカップを持つ手を止め、弾かれたように顔を上げた。祐一は2、3秒黙ったあと、落ち着いた声で言った。「紬が無事なら、それでいい。白石さんもついているからな」麗子がさらに何かを報告したが、祐一はわずかに眉を動かしただけだった。「まだ法務には知らせなくていい
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第859話

その言葉に、看護師は一瞬、どう返せばいいのかわからなくなったようだった。気まずそうに視線を泳がせる。紬はそんな様子を気にすることもなく、研修生たちにコーヒーを配り始めた。「どうぞ。皆さんの分もちゃんとありますよ。ここ数日、本当にお疲れさまでした」「ありがとうございます、松本さん」研修生たちは戸惑いながらも、紬からコーヒーを受け取った。ただ1人、看護師だけはその様子をじっと見つめたまま、何かを考え込んでいるようだった。紬は最後の1杯を彼女の前へ差し出す。「はい、あなたの分です」しかし、看護師は受け取らなかった。少し眉をひそめると、静かに口を開く。「お気持ちはありがたいですが、まだ仕事がありますので、失礼します」そう言い残し、彼女は立ち上がると、離れたテーブルで薬の準備を始めた。紬は手にしたコーヒーをそのまま彼女の机の上に置いた。それから少し迷うように足を動かし、看護師のそばまで歩み寄る。「あの……ひとつだけ、聞いてもいいですか?」看護師は手を止めなかった。紬が何を尋ねようとしているのか、すでに察していたのだろう。「薬のことなら、私も分かりません。薬品の管理はずっと主任が担当していますし、私たちには口を出すことはできませんから」「それは理解しています。私が聞きたいのはそれじゃなくて――」紬の言葉を遮るように、部屋の扉が開き、薬剤部の主任が入ってきた。紬の姿を認めた瞬間、その表情があからさまに曇る。「松本さん、あなたたちは、いつまでうちにつきまとうつもりなんですか?」主任は紬を睨みつけ、苛立ちを隠そうともせずにまくし立てた。「薬の件なら、こちらは納品された分を受け取って、販売しただけです。帳簿だって、全部お見せしたでしょう?数字が合わないなら、それはそちらの管理の問題じゃないんですか?3年間も何も言ってこなかったくせに、今さら在庫確認に来て、帳尻が合わないからって……うちの責任にするつもりなんですか?とにかく、さっさと出て行ってください!」紬は何か言い返そうとしたが、その隙すら与えられなかった。「ちょっと待ってください。私は――」「まだ何か?」主任は入口を指差し、冷たく言い放つ。「今すぐ出て行かないなら、警備員を呼びますよ」これ以上、ここで騒ぎを大きくするわけにはいかない。紬は唇を噛み、仕
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第860話

倫也はそう言うと、くるりと背を向けて階段を下り始めた。紬は我に返り、慌ててそのあとを追う。「でも、わざわざそんなことをする必要ってあるの?病院の経営が苦しくても、市からの補助があるんじゃ――」「補助?」倫也は足を止め、ふっと笑った。そしてゆっくりと振り返り、紬を見た。「政府が負担できるのは、人件費の一部程度です。残りは医療サービスによる収入で賄うしかありません。あれだけの医師や看護師を抱えていれば、当然人件費もかかります。設備の維持費や更新費用だって必要です。木谷市は長年、経済的に厳しい地域です。政府だって、病院に十分な補助を出せるとは思えません」紬はその場に立ち尽くした。吹き抜けた風が、額にかかる髪を揺らす。倫也の話を聞いているうちに、さっきまで胸の中で燃えていた怒りは、いつの間にか半分ほど消えていた。それでも――どれだけ経営が苦しいとしても、不正をしていい理由にはならない。紬は足元の小石を軽く蹴った。「じゃあ……他に解決する方法はないの?」倫也は両手をポケットに入れたまま、意味深な目で紬を見た。「問題を確実に解決したいなら、ヤクモと病院との契約を打ち切るしかありません。つまり、木谷市から撤退するということです。ごまかされた分の薬の代金は、回収できない可能性が高いが、これ以上の損失は防げます」紬は少し考え込んだ。「……あの薬って、命に関わる薬なんだよね?」「そうです」「もしヤクモが病院との契約を打ち切ったら、これから木谷市の人たちは、その薬を手に入れられなくなるし、必要になったら、何時間もかけて都市部の病院まで行かなきゃいけないよね?」倫也は彼女の言葉を遮らず、黙って聞いていた。「そういうことです」「なら、契約は切れない」紬の即答に、倫也の眉がわずかに上がった。唇の端に、ごく淡い笑みが浮かぶ。しかし次の瞬間には、いつもの無表情に戻っていた。「なぜです?」倫也は一歩、紬との距離を詰めた。「ここの住民は、あなたとは何の関係もありません。あなたはヤクモの職員です。なら、まず会社の利益を優先するべきじゃないんですか?」紬は顎を上げ、まっすぐ倫也を見た。「私、商売なんてしたことない。でも、人として筋の通らないことはしたくないし、後ろめたいこともしたくないの」そこで一度言葉を切る。「さっき聞いた病院の
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