All Chapters of 徒に過ごした六年間――去り際に君の愛を知る: Chapter 861 - Chapter 870

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第861話

由奈は感傷に浸っている父を見つめ、智宏と視線を交わした。そして立ち上がると、秀明のそばへ歩み寄る。「お父さん、落ち込まないで。お母さんもきっと、そう遠くないうちに意識が戻りますから」秀明は由奈の手をそっと握り、それから智宏へ視線を向けた。「お母さんには、私と由奈がついてるから、君は心配しなくていい。せっかく古澤さんと一緒に帰ってきたんだ。ちゃんと彼女のそばにいてやれ」智宏は視線を伏せた。「しかし……」「手術まではまだ1ヶ月以上ある。どうしても気になるなら、古澤さんを連れて栄東市へ戻って、少しゆっくり過ごしてきてもいい」秀明は智宏の言葉を遮ると、どこか困ったように続けた。「会社のことは、いつまでも君の叔父さんに任せておくわけにもいかないからな」智宏は父を見たあと、由奈へ視線を移した。由奈は小さく頷き、安心するよう目で伝える。……ホテルを出たあと、智宏は駿介を呼び止め、少し離れた場所で話をしていた。心愛は、2人の背中をちらりと見送ってから、由奈へ向き直った。「お母さまのこと、お兄さんから聞きました。私たちがここに残って、お母さまの看病をしてもよかったのに……」由奈はふわりと微笑んだ。「大丈夫ですよ。兄はずっと家のことや仕事で忙しくしていたから、父も少しくらい休んでほしいんだと思います。それに、せっかく古澤さんを連れて帰ってきたのに、母の看病までさせるわけにはいかないでしょう?」そう言って、由奈は冗談めかして笑った。「まだ正式に家族になったわけでもない未来のお義姉さんに、いきなり義理のお母さんの世話をお願いするなんて……それじゃ、あまりにも人使いが荒いじゃないですか」心愛が思わず小さく笑う。「それに、母の世話をする人手なら足りています。私も父もいますし、藤堂さんもいます。それに、専門のスタッフも何人もついてくれていますから」「……そうですか、分かりました」心愛は小さく頷き、わずかに目を伏せた。実は、智宏とともに帰国するまでの間、彼女は何度もこれからのことを考えていた。智宏の実家が、いわゆる普通の家庭ではないことは以前から知っていた。本人は「両親とも気さくで、付き合いやすい人だから」と話していたが、それでも育ってきた環境があまりにも違えば、どうしても気後れしてしまう。けれど――実際に秀明
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第862話

「智宏さんと古澤さんと、一緒に食事でもしてくるのかと思った」祐一は会議を終えると、ノートパソコンを閉じた。由奈は振り返り、彼のもとへ歩み寄る。「お兄さんたちは、2人でゆっくり過ごしてるよ。せっかくの時間なんだから、邪魔しちゃ悪いでしょう?」「それもそうだな」祐一はそう言うと、由奈をそのまま腕の中へ引き寄せた。そして、大きく膨らんだお腹にそっと手を添える。「この子たちが生まれたら、俺たちもまた二人きりの時間を作れるな」「……あっ」由奈が小さく声を漏らした瞬間、祐一の表情が変わった。「どうした?」先ほどまでの余裕は消え、途端に緊張した面持ちで由奈の顔を覗き込む。由奈は両手でお腹を包むように押さえながら、くすりと笑った。「今、蹴ったの」「お母さんを困らせるとは、悪い子たちだな」祐一は眉を寄せると、由奈のお腹にそっと耳を当てた。そのあまりにも真剣な姿に、由奈はとうとう堪えきれず、吹き出した。……数日後――木谷市。紬が何日にもわたって粘り強く通い続けた甲斐もあって、薬剤部の看護師から、休憩時間なら話ができるという返事をもらった。そのことを倫也に報告したとき、紬は嬉しさと達成感でいっぱいだった。目元にはまだ痛々しい青あざが残り、腫れも完全には引いていない。目を細めると片方はほとんど線のようになってしまうほどだったが、それでも本人はそんなことなど気にもしていないらしい。「どう?やっぱり、諦めなければ何とかなるってことじゃない?」今にも倫也にくっつきそうなほど身を乗り出し、きらきらとした目で褒めてもらうのを待っている。倫也はわずかに視線を逸らした。「……まあ、しつこく食い下がった甲斐はあったということですね」「……ふん、絶対そう言うと思った」紬は一瞬で笑顔を引っ込め、むっと頬を膨らませた。「でも、あなたにしかできないことです」倫也がそう口にした瞬間、ちょうど通りを走る車がクラクションを鳴らした。紬には聞こえなかったらしい。「え?今、何て言った?」「看護師さんの仕事が終わるまでまだ時間があります。どこかで待ちましょう」倫也は彼女の横をすり抜け、そのまま先に歩き出した。紬は唇を尖らせたが、結局その背中を追いかけるしかなかった。看護師は昼の仕事を終えると、約束どおり紬が指定した
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第863話

看護師は一瞬、目を見開いた。やがてうつむき、その表情からは何を考えているのか読み取れない。長い沈黙のあと、彼女は深いため息をついた。「そこまで考えてくれているのは……本当にありがたいです」少し間を置き、重い口を開く。「実は、うちの病院はもう3年以上、まともな収入がないんです。そのせいで、職員も、腕のいい医師も、次々に辞めていきました。残ったベテラン職員たちは、貯金や家族の援助でどうにか生活をつないでいます。でも、若い人たちはみんな出ていきました。今の病院は人手も足りないし、設備も不足しています。難しい症例の患者さんは、都市部の病院を紹介するしかありません」看護師は自嘲気味に笑った。「結局、うちに残る患者さんのほとんどは、木谷市で暮らす貧しい高齢者ばかりです。だから、病院にはほとんど収入がないんです」「政府のほうは何もしてくれないんですか?」紬が尋ねると、看護師は冷たく笑った。「市のトップが替わってから、うちの病院に支給されていた補助金が、突然半分に減ったんです。私たち看護師なんて、月に10万円ももらえない人がいるんですよ」10万円――紬は驚いた。あまりにも少ない。自分が使っているスキンケア用品1本にも届かないほどだ。「ひどすぎる……!」紬は思わず声を上げた。「院長は、そんな状況を黙って見てるだけなんですか?」「院長の懐が痛むわけじゃありませんから。私たち末端の人間がどうなろうと、院長には関係ないんでしょう」看護師の声には、隠しきれない皮肉が滲んでいた。「働けるなら働けばいい。嫌なら辞めればいい。そんなものですよ。でも、病院の職員はほとんどが地元の人間です。親も子どもも養わなければならない。簡単に辞められるはずがありません」溜め込んでいた不満と悔しさを吐き出してから、自分が話しすぎたことに気づいたのだろう。看護師はふと腕時計に目を落とした。「もう行かないと」紬も立ち上がり、彼女を見送る。看護師は扉の前でふいに足を止めた。そして少しだけ振り返り、声を潜める。「……ひとつだけ、松本さんにお伝えしておきたいことがあります。病院の件は、皆さんが思っているほど単純な話ではありません。でも……私からはこれ以上、お話しできません。すみません」そう言うと、看護師はすぐに扉を開け、店を出ていった。
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第864話

大雨は長くは続かず、やがてしとしととした雨に変わり、そのまま一晩中降り続いた。雨の影響を受け、露店などはいつもより早めに店じまいとなった。濡れた路地からも人影が消えたが、裏通りにある比較的大きなカラオケ店だけは、今も煌々と明かりを灯していた。駐車場には車がびっしりと並び、店内のステージでは、露出の多い衣装をまとったダンサーたちが音楽に合わせて腰をくねらせている。客席にもまだ多くの客がいた。どうやら、雨で客足が落ちることはなかったらしい。2階の個室では、店員がフルーツの盛り合わせをテーブルに運び入れた。部屋にいるのは、白いシャツを着た男が2人と、店のオーナーだけだった。オーナーは2人の男とグラスを合わせ、店員がフルーツを置くと、自分の執務室から取っておきのウィスキーを2本持ってくるよう指示した。「金子さん、相変わらず景気がいいね。毎晩これだけお客さんが入るなんて、今の木谷市じゃ、ここだけなんじゃないのか?」「いやいや、とんでもないですよ」カラオケのオーナー――金子克也(かねこ かつや)は笑顔で酒を注ぎながら応じた。「この3年間、うちが繁盛したのも、柴崎さんのお力添えがあってこそです」白シャツの男――柴崎康(しばさき やすし)は満足そうに頷き、酒を一口飲んだ。「そういえば、ヤクモの人間が、薬剤部の帳簿を調べているらしい」克也は気に留める様子はなく、軽く答える。「ああ、その件なら知ってますよ。例の薬のことでしょう?あれはどうせ病院側の責任です。私たちには関係ありませんよ」「関係があるかどうかは、君が決めることじゃないと思うがな」康はグラスを置き、目を細めた。「上から下りてきた補助金が何に使われたのか――君も私も、よく分かっているはずだ。病院を徹底的に調べられれば、私たちだって無傷では済まないよ」克也の表情がわずかに変わった。さっきまでの余裕は消え、顔つきが慎重になる。康は彼の肩を軽く叩いた。「病院の職員に余計なことを漏らす人間がいるかもしれないから、少し目を光らせてくれると助かる」そう言って克也のそばへ身を寄せると、笑みを浮かべたまま声を潜めた。「それから、病院の事情を探っている連中にも注意するように。どう始末するかは……君に任せるよ」そう言い残すと、康は立ち上がり、マイクを手に取って一曲歌い始めた。ソファに
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第865話

「もう来ちゃってるし、私を見捨てたりしないよね?」紬は背筋を伸ばし、いかにも当然といった顔で倫也を見つめた。けれど、本心では彼がどう出るのかまるで読めていない。そんな彼女の内心まで見透かしたように、倫也は小さく鼻で笑っただけで、何も答えなかった。紬は途端に不安になり、強気な態度を崩す。「じゃあ……お願い。力を貸してほしいの」倫也は顔を上げ、じっと彼女を見つめた。「いいですよ」紬は目を瞬いた。断られたらどうしようと、すでにあれこれ頼み込む算段までしていたのに、まさかこんなにあっさり承諾されるとは思わなかった。とにかく、助けてもらえるならそれでいい。ほっと胸を撫で下ろすと、紬は嬉しそうに朝食へと箸を伸ばした。……午前中。紬が再び病院の薬剤部を訪ね、例の看護師を探すと、今日は休みだと告げられた。「休み……?」思わぬ肩透かしに、紬は落胆しながら病院を後にすると、スマホが震えた。見知らぬ番号からメッセージが届いた。【この間お話をさせてもらった鈴木咲子です。例の薬の件について、すべてをお話しします。真相を知りたいなら、次の住所に一人で来てください】ようやく明らかになるかもしれない真相を前に、深く考える間もなく身体が動いていた鈴木咲子(すずき さきこ)から送られてきた住所を頼りに、紬は指定された場所へ向かう。しかし、タクシーは見当たらない。仕方なく、紬は歩きながら道を尋ね、20分ほどかけて町外れまでやって来た。ナビが示した場所の近くには、古びたセメント工場があった。門は開け放たれており、その先には真っ直ぐ伸びた舗装路が続いている。周囲には見渡す限り田園が広がり、道端には農作業用の車が2台停まっていた。紬はスマホを取り出し、咲子に電話をかける。1分ほどして、ようやく相手が出た。「もしもし……」「もしもし、鈴木さん。今、教えてもらった住所の近くまで来ましたよ。まだ先に進みますか?」電話の向こうから返ってきた声は、ひどく小さかった。それだけではない。微かに震えているようにも聞こえる。「……はい。もう少し先に進んでください。そこに個人経営の農場がありますから」「分かりました。それで――」紬がもう一度尋ねようとした瞬間、電話が切れた。「え……?」耳元に残ったのは、無機質な通話終了音だけ。
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第866話

咲子はその場に凍りついたように立ち尽くし、何も言えなかった。克也は彼女の横まで歩み寄ると、声を落として冷たく告げる。「お前の息子は、俺たちが預かってる。もしヤクモヘルスの連中がこれ以上薬の件を調べるようなら――」耳元で、低い声が響いた。「息子の遺体を引き取りに来ることになるぞ」まるで舌をちらつかせる蛇のように、ゆっくりと、逃げ道を塞いでいく。咲子は青ざめたまま、身動きひとつ取れなかった。克也はそれ以上何も言わず、部下たちに撤収するよう手で合図した。数歩進んだところで、ふと思い出したように振り返る。「床のゴミも片づけとけ」そう言い残すと、克也は男たちを引き連れ、堂々と裏手から表へ出ていった。するとちょうど、中年女性が紬を連れて入ってくるところだった。「あら、金子さん、今日はもうお開きかい?」女性が気さくに声をかける。「ああ。勘定も済んだしな。また今度、遊びに来るよ」克也も愛想よく頷き、それから紬へ視線を向けた。その目だけは、さっきまでの気さくな笑みとはまるで違っていた。冷たく、鋭い。それだけで、ただ者ではないことが伝わってくる。紬は男たちが出ていくのを振り返って見送り、姿が見えなくなってからようやく強張っていた身体の力を抜いた。「お嬢さん、怖がらなくていいよ。あの人、怖い顔してるけど、本当は面倒見がいいんだから」女性が振り返り、笑って言う。「金子さんっていってね、この辺じゃ知らない人はいないくらい。あの人がいなかったら、うちの町じゃ商売を続けられない人も多いんだから」「そうなんですか……」紬は引きつった笑みを浮かべた。「でも……あの人たち、どう見ても商売をする人には見えませんけど」「ああ、あの若い連中かい?彼らは金子さんの部下さ。金子さんが来る前は、あの子たちもずいぶん荒れててね。まともに仕事もしないで、毎日ぶらぶらしては喧嘩ばっかりしてたんだよ。それが今じゃすっかり大人しくなってね。みんな金子さんのところで真面目に働いてるんだよ」女性の話を聞きながら、紬は黙っていた。どうにも胸の奥に引っかかるものがある。けれど、うまく言葉にはできなかった。「あんたが探してる人って、あの人かい?」女性はそう言いながら、紬を農場の裏手へ案内した。「そうだったら、私は仕事に戻るからね。また暇なときにでも遊びにおい
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第867話

紬が慌てて後を追ったときには、もう間に合わなかった。「ドボン」と大きな水音を立てて、咲子が迷いなく池へ飛び込んだ。「誰か……!助けて!」あまりにも突然なことに頭が真っ白になった紬は、反射的に叫んだ。その直後、一人の影が紬の横を駆け抜けていく。――倫也だった。彼は迷うことなく池へ飛び込んだ。紬の叫び声を聞きつけ、農場にいた人たちも次々と駆けつけてくる。先ほどの女性も慌てて戻ってきた。「どうしたんだい?誰か身投げしたのかい?」事情を聞いた途端、女性は顔色を変える。「早く救急車呼んで!急いで!」周囲の人たちも慌ただしく動き始めた。ほどなくして、倫也が咲子を抱えて水から上がってきた。岸にいた人たちが一斉に駆け寄り、2人を引き上げる。倫也は濡れた身体をものともせず、咲子を地面に横たえた。呼吸を確認するが、反応がない。すぐさま胸元に手を重ね、心肺蘇生を始めた。紬は少し離れたところで、ただ呆然と立ち尽くしていた。心臓が早鐘のように鳴っている。どうか助かって――それだけを、ひたすら祈った。そんな騒ぎの陰で、群衆の後ろに立っていた一人の人物が、すべてを黙って見届けていた。やがて誰にも気づかれないよう、その場を離れていく。救急車が到着した頃には、咲子は意識を取り戻していた。紬と倫也はひとまず付き添いとして救急車に同乗し、そのまま病院へ向かうことになった。全身ずぶ濡れになった倫也は、医療スタッフから借りた大判タオルを肩に掛けている。倫也が医者だとわかると、救急隊員たちは、搬送中も何度か彼と言葉を交わしていた。病院に到着すると、2人は救急車を降りる。咲子はすぐにストレッチャーへ移され、医療スタッフに付き添われて院内へ運ばれていった。紬も数歩あとを追ったが、ふと足を止めた。――倫也が来ていない。振り返ると、彼は少し離れた場所に立ったままだった。顔色が妙に悪い。「白石さん、大丈夫?」紬は慌てて駆け寄った。「平気です」「でも、顔が真っ白だよ」心配になった紬は、彼の腕を掴む。「念の為、白石さんも先生に診てもらいましょ!」そのまま引っ張ろうとしたが、びくともしない。その時、倫也が腕を引いた。紬は手を離せず、勢いのまま引き寄せられる。気づけば、胸元に抱き込まれている。服越しで
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第868話

会議室にいた一同は、祐一が入ってきた途端、ぴたりと口を閉ざした。祐一はそのまま和典の隣に腰を下ろし、軽く姿勢を整える。「山本さん、木谷市で何かあったんですか?」和典が頷き、木谷市の病院が薬の差額を補填していない件について説明する。その間も、祐一の表情をさりげなく窺っていた。話を聞き終えた祐一は、しばらく考えるように黙り込んだ。「木谷市のここ数年の人口動態を考えれば、経営が厳しいのは無理もないでしょう。若い世代は町を離れて、残っているのは高齢者や子どもが中心です。病院の収益が落ち込むのも理解できます」すると、先ほどの幹部が鼻を鳴らした。「まさか滝沢社長まで、後払いでいいなんて言うつもりじゃないでしょうね?そこだけ特別に認めてしまうと、他の病院はどう思います?『うちも待ってくれ』と言い出したら、きりがありません。ヤクモヘルスグループは慈善事業をやってるわけじゃないんですから」ほかの出席者たちは互いに顔を見合わせた。誰も口を挟まなかったが、彼の言葉に頷く者も少なくない。ヤクモヘルスグループは創業から数十年にわたり、国内でもトップクラスの医薬品研究・開発技術を築いてきた。全国各地の大きな病院にも、その拠点が置かれている。とりわけ特効薬の分野では圧倒的なシェアを誇っている。だからといって、これまで守ってきた会社のルールまで曲げるわけにはいかない。祐一は椅子の背にゆったりと身体を預け、組んだ長い脚の上で両手を重ねた。「では、皆さんはどう思います?法務部に動いてもらって、裁判所に強制執行を申し立てればお金を全額回収できると?」先ほどの幹部が少し躊躇ったが、すぐはっきりと答えた。「たとえ全額回収できなくても、こちらの姿勢は示すべきです。うちと契約を切ることが、どれだけ大きな損失になるのか、あの病院には思い知らせる必要があります」その言葉に、周囲から小さなざわめきが起こった。賛成する者もいれば、難色を示す者もいる。祐一はそれを聞きながら、ほんのわずかに口元を緩めた。そして、麗子へ視線を向ける。「土屋、そもそも、これまでヤクモヘルス側が、裁判所を通して差額の支払いを求めていたことはあるか?」「ありません」麗子はすぐに答えた。「契約上は、毎年こちらから担当者を木谷市へ派遣し、薬の納入状況と代金を精算することになっています。しかし
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第869話

「松本さんが、今まさに解決に動いているんじゃないですか?」「……松本さん一人で、どうにかできるんですか?」和典は意外そうに振り返った。祐一は指先で机を軽く叩きながら、淡々と答える。「一人じゃありませんよ。ほかにも助っ人がいます」和典はその場をゆっくり行き来した。歩幅は小さく、足取りも重い。しばらく考え込んだ末、ようやく足を止め、祐一へ向き直った。「滝沢社長、単刀直入に聞きます。もしかして……木谷市の病院に問題があること、最初から知っていたんですか?」「実は、ずっと引っかかっていることがあるんです」祐一の視線が、机の上に置かれた会議用のネームプレートへ落ちる。「田辺部長が長い間、偽造薬を横流ししていたのに、誰にも気づかれていなかった。しかも、その偽造薬の流通先の中に、木谷市も含まれています。それは、本当に偶然だと思いますか?」和典の表情が固まった。「まさか……」「もし、数が合わなかった薬の中に、偽造薬が混じっていたとしたら?」祐一の口調はあくまで静かだった。だが、その言葉には一つ一つ確かな重みがあった。「考えられるのは、こういう仕組みです。まず本物の薬を納入したように見せかけて、実際にはよく似た偽造薬とすり替える。本物の薬は別ルートで流し、偽造薬を使って差額まで抜く」和典は黙って聞いている。「だから、こちらの帳簿と実際の在庫が合わない。一方で、システム上は納入された薬に異常がない。ヤクモヘルスグループが納入した薬の数量自体は決まっているからです。余分に出回っている薬――それが、システムには記録されない偽造薬だったと考えれば説明がつきます。その差額問題も、偽造薬の存在を隠すための口実でしょう。偽造薬が出回っていると認めるより、自分たちの薬を高く売って、その分で差額を埋めていると言ったほうが、まだ体裁がいいからね」和典は呆然と立ち尽くしていた。例の偽造薬問題が、まさか木谷市の病院にまでつながっているとは思ってもいなかった。「……だったら、どうして先ほどの会議で言わなかったんです?」「まだ確信がないからです。裏が取れていない段階で口にすれば、相手に警戒されるだけですから。それに、田辺部長が長期間にわたってあの薬を扱えた以上、背後に誰もいなかったとは考えにくい。単なる私利私欲だけでここまで続けられたとは、私は
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第870話

倫也は視線を戻した。「病院にいるんじゃなかったんですか?」「そうだけど……」紬は俯き、いかにも傷ついたように唇を尖らせた。「鈴木さん、何だか様子がおかしくて……急にすごく警戒するようになっちゃったの。私たちに帰ってほしいって、ずっと言ってる」「……そういえばこの前、農場で彼女に会ったとき、何人かの男を見たと言っていましたよね?」紬は頷いた。「うん。あのおばさんが言ってたんだけど、先頭にいた人が木谷市では有名な商売人で、金子さんっていうんだって。商売してる人なのに、周りには見るからに怖そうな不良みたいな人たちを何人も連れてて……」倫也の目が、すっと険しくなる。何か考えているのか、それ以上は口を開かなかった。紬は腕を組み、部屋の隅へ歩きながら考え込む。「やっぱり、誰かに脅されてるんじゃないかな。だって、あの日とは態度がまるで違うんだもん。うん、きっとそうだよ。ねえ、白石さんもそう思わない?」振り返った紬の瞳には、ひらめいたことへの嬉しさが浮かんでいた。笑うと、口元に大小の違うえくぼが浮かぶ。その無邪気な表情には、どこか人を惹きつける愛嬌があった。倫也は答えなかった。ただ、目の前で生き生きと話す彼女をじっと見つめる。やがて視線がゆっくりと下がり、よく動く唇へと吸い寄せられた。その視線は、深い夜のように静かで、どこか危うい気配を纏った。「ねえ、ちょっと!私が話してるのに、全然聞いてないじゃん!」紬が抗議しようと一歩近づいた、そのときだった。「わっ……!」足先を自分のスリッパに引っかけ、身体が大きくよろめく。倫也は避けなかった。――いや、避ける暇がなかったのかもしれない。倒れ込んできた紬の身体を、反射的に両腕で受け止める。大きな手が彼女の腰をしっかりと支え、紬もとっさに倫也の肩へ両手を回した。紬は目を見開いたまま、完全に固まった。以前の倫也なら、すぐに彼女を引き離していたはずだ。なのに今は――自分から抱き留めている。「え……あ、ごめんなさい」頭が真っ白になりながらも、紬は慌てて謝った。わざと距離を詰めたと思われたくない彼女は、倫也の腕からそっと抜け出すと、顔を見ることもできないまま、逃げるように寝室へ駆け込んでいった。一人残された倫也は、しばらくその場から動かなかった。やがて片手を額に当てる。
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