All Chapters of 春風は尽きず、愛は静かに永く: Chapter 11 - Chapter 20

23 Chapters

第11話

港町。瑠璃は三日三夜、昏々と眠り続けている。ついに、その指がぴくりと動く。俊也は息を呑み、かすかな嗚咽が一瞬止まり、目の奥にぱっと喜びの光が差す。「先生、先生!今、指が動いた!」その声にせき立てられたかように、病室のベッドに横たわる彼女は眉をひそめ、まぶたをかすかに持ち上げた。瑠璃の瞳が開くのを見るや、俊也は抑えがきかず、彼女を抱きしめるように身を投げかける。「瑠璃、やっと目を覚ましたんだな。僕、心配で心配で死にそうだったんだ……」俊也は涙声でしゃくり上げながら、途切れることなく言葉を並べ立てる。「医者は、今日中に目を覚まさなかったら、もう二度と目が覚めないかもしれないって!」鈍い頭痛に苛まれながら、騒ぎ立てる声にうんざりした瑠璃は、腕にすがりつく男を押しのけ、不機嫌そうに言う。「あなた、誰?」俊也の泣き声まじりの声は、その瞬間ぴたりと途絶えた。頬をぬぐう動きが、まるで一時停止させられたかのように止まった。まつ毛に涙を宿したまま、俊也は衝撃に打たれた顔で瑠璃を見つめる。「瑠璃、ぼ、僕が分からないのか?僕は俊也だよ」女の眉はさらにきつく寄せられる。「私の夫、澄人はどこ?」彼女は澄人に似た顔をした男をことごとく嫌っていた。似ているからこそ、なおさら嫌悪が募るのだ。目の前の男がたしかに澄人に七、八分ほど似ている。ただ、瑠璃には一目でわかる――これは澄人ではない。澄人の目元はもっと柔らかく、清らかで、伏せた睫毛にはどこか慈しみの気配が宿っている。彼のことを思い浮かべただけで、瑠璃の眼差しはふっと和らぐ。彼女はすでにすべての準備を整えていた。三日後の誕生日パーティーで、彼にプロポーズするつもりなのだ。とりわけ、あの指輪……瑠璃はポケットへ手を伸ばす。だが、次の瞬間、顔色がたちまち曇った。深く眉を寄せ、彼女は俊也を鋭く問い詰める。「ちょっと、私の指輪は?澄人に渡すための、あの指輪を見なかった?」指輪?どの指輪のことだ?あの指輪なら、五年前に澄人に贈ったはずじゃないのか?冷ややかで、まるで他人を見るような視線にさらされた瞬間、俊也の全身から血の気が引き、時が止まった。その場に釘で打ちつけられたように動けず、瞳にはただ愕然とした影が広がる。「瑠璃、何を言ってるんだ
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第12話

瑠璃は両脚にまだプレートが入っていることもかまわず、ベッドから降りようともがいた。「教えてくれないなら、私が自分で探しに行くわ」傷はまだ塞がっておらず、その無茶のせいでまた血がにじむ。それでも彼女は痛みを感じないかのように歯を食いしばり、動きを止めない。「瑠璃、何をしてるんだ。まだ怪我が治ってないんだ!」止めに入った俊也は、彼女に力任せに突き飛ばされ、そのまま床へ倒れ込む。「消えて!」そう叫んだ直後、彼女自身も勢い余って床に激しく倒れ込んだ。激しい痛みに、彼女の冷ややかで艶やかな顔が一瞬こわばり、動きが止まる。大粒の汗がとめどなく滴り落ちる。祈が慌てて屈み込み、彼女を支え起こす。その拍子に、ポケットから光るものが転がり落ちる。瑠璃の動きが止まった。――折れたダイヤの指輪だ。点々と血の跡がついている。それはまさに、澄人に贈ろうとするあの指輪だ。次の瞬間、胸の奥が裂かれるように痛み、頭には砕け散るかのような激痛が走る。無数の断片的でぼやけた光景が、稲妻のように閃いては崩れ、脳裏をよぎる。どこかで聞いたことのある声が、苦しげにうめき、泣き叫んでいる気がする。瑠璃は頭が破裂しそうな痛みに耐えきれず、こめかみを抱え、首筋の血管が浮き上がる。それは澄人だ。澄人の声だ!どうして彼はあんなにも苦しげに泣いていたのか。どうしてあんな絶叫を上げていたのか?彼女は震える手で、その折れた指輪を拾い上げ、袖でこびりついた血をこすり落とそうとする。だが血は乾ききって、いくら拭っても落ちない。瑠璃は大きく息を吐き、祈の手首を力いっぱい掴んだ。砕きかねないほどの力で。そして、血走った双眸で叫ぶ。「この血は誰のもの?澄人は一体どこにいるの!祈、教えて!さもないと、昔の情でも容赦しないわ!」瑠璃の叫びは、理性を吹き飛ばした荒ぶる獣のそれに近かった。触れてはならぬ逆鱗をえぐられたかのように。祈の目に涙がにじむ。彼女はそっと目を閉じ、やるせない笑みを口元に浮かべる。「どうしても、彼に会いたいのね?」「当たり前よ。もう一言でもごまかしてみなさい!」祈は瑠璃をじっと数秒見つめ、それから深く息を吸い込んだ。「わかった。連れて行く」……一方その頃、国連平和維持部隊の付属の軍病院にて――
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第13話

その後まもなく、祖母は亡くなった。そして、澄人は瑠璃と出会った。命を預け合ったあの登山がきっかけで二人は惹かれ合い、彼は祖母の遺言に従い、港町に留まって瑠璃と結婚した。こうして彼は、自らの手で舞踊人生に句点を打ったのだ。かつてあれほど輝いていた人が、陽の差さぬ邸宅に閉じ込められ、闇の中で苦しみ、もがき続けていた。彼にとって瑠璃の愛は、干ばつの地に降る恵みの雨のように渇望すべきものであり、彼女こそが唯一の光だった。だが、結末はどうだ。あれほど烈しく燃え上がった愛は、腐り、変質し、崩れ落ちただけだった。それでも幸いなことに、彼が今立ち返るのは、まだ遅くはない。もう一度、彼は舞台に立つ。本来彼のものであるすべてを取り戻すのだ。「ソフィア、僕はまた踊りたいんだ」目指すところなら、扉を二度叩いても構わない。彼の瞳にきらめく星のような光を見て、ソフィアは思わず立ち止まった。そして静かにうなずく。「いいわ、踊りなさい。傷が癒えたら、また続きへ。私が伴奏してあげるわ」澄人の冷ややかだった顔にふっと笑みが浮かび、涙混じりに笑い出す。彼はソフィアへと手を差し伸べる。「光栄だよ。ピアノの名手に伴奏してもらえるなんて」ソフィアは小さく笑みを返し、彼の長い指にそっと指先を重ねる。彼女と澄人は、もともと息の合った最高の相棒なのだ。……一方、港町。「今が、五年後だって?」後部座席から、瑠璃の驚いた声が上がる。見慣れない町並みに、彼女は眉をひそめる。「じゃあ、私はもう澄人と結婚してるってこと?だったら、もう子どももいるはずよね!祈、私、もうお母さんなの?ねえ、そうなの?」胸の鼓動が急に速くなる。あふれる喜びが一瞬で顔じゅうに広がり、瑠璃の目元まで輝かせる。祈は無言のままハンドルを切り、口を開きかけては結局声を出さなかった。すぐに、後部座席から焦った声が飛んでくる。「じゃあ、あの指輪の血はどういうこと?澄人に何があったの?」車内は一気に静まり、瑠璃の荒い呼吸音だけが響く。「祈、答えてよ!いったい何があったの?私が何か悪いことをして、澄人を怒らせちゃったの?だったら先に言ってよ、謝りに行くから」祈は急ブレーキを踏み込み、車は一面の黒焦げた瓦礫の前で止まった。「着いたわ」彼
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第14話

さっきまで怒号を上げていた瑠璃は、その場でぴたりと固まる。茫然と顔を上げ、瞳に絶望と驚愕をいっぱいに湛える。「何て言ったの?」彼女は祈の胸ぐらをわしづかみにして詰め寄る。「澄人が自殺だなんて、あり得ない!あんなに誇り高く、自信に満ちた人が、そんなことするわけない!」祈は鼻で笑い、嘲るような視線を投げる。「そうよ。じゃあ、どうして、彼はそんなことをしたのかしら?瑠璃、彼を死に追いやったのは、実はあなたよ」その言葉は落雷のごとく、彼女をその場に打ち据えた。瑠璃は信じられないというように一歩後ずさり、思わず否定する。「あり得ない!そんなの、あり得ない!」「彼を苦しめたのはあなただ。なのに、彼が味わった痛みを都合よく忘れて、愛しているふりをするなんて。瑠璃、彼はもういない。ここだよ――あなたが彼を欺き、五年も閉じ込めたこの邸宅。この一生、あなたは彼に償いきれない」吐き捨てるように言い残すと、祈は背を向けて歩き去った。真昼の陽は容赦なく照りつけ、瑠璃は突然、目の前がくらむ。次の瞬間、耳元にいくつもの声が一斉に押し寄せる。「澄人、怖がらないで。これからは私があなたの目になるから」「私と結婚してくれる?あなたのおばあちゃんみたいに、一生あなたを愛するわ」「私は安部澄人と共に、夫婦として歩んでいくことを誓います。病めるときも健やかなるときも、貧しさの中でも富の中でも、互いに支え合い、寄り添い続け、永遠に共に生きていきます」その言葉を聞いているうちに、瑠璃の表情は少しずつ和らいでいく。未来の自分も、確かに澄人を愛していたのだ、と。だが、続いて浮かんできた声が、その喜びを粉々に打ち砕く。「澄人、今夜は残業なの。あなたの大好物の黒糖入りのくず餅を作って冷蔵庫に入れておいたわ。取り出すとき、気をつけてね」「会議中なの。あとでかけ直してもいい?」「澄人、ほんとに忙しいの。片付いたら一緒にコンサートへ行こう」「澄人、ごめんなさい。誕生日のこと、わざと忘れるつもりなんてなかったの。このところ会社で色々あって……」幾重にも重なる声が、瑠璃の頭を締め上げるように響きわたる。彼女はかすかに息を震わせた。その瞳には怒りと悔恨が入り混じる。――未来の瑠璃、いったい何をしているの?あんな大企業に、
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第15話

「雪だ!」澄人は屋内から飛び出し、手のひらにひとひらの雪を受け止める。「すごい……こんなにきれいなのか」雪片が彼のまつげに舞い降りる。ソフィアがその後ろからコートを手にして追いかけてくる。「澄人、ちゃんと上着を着て。まだ体が戻りきっていないのよ」彼の傷はほとんど癒えていて、少しばかりの虚弱さを除けば、他に不調はほとんど残っていない。ソフィアはイタリアでも名だたる眼科医を呼び寄せ、交代で診察させた。何度も何度も確認を重ね、やっと胸を撫で下ろした。澄人の視力は回復したものの、長期の失明状態が神経に及ぼした影響は残っており、長時間の酷使や大きな感情の起伏は避けるべきだという。知らせを受けたソフィアは、深く息を吐き出し、安堵に肩を落とす。「本当に、不幸中の幸いだわ。澄人、もうひとつ朗報があるよ」ソフィアのまなざしがそっと彼に注がれる。その紺碧の瞳にあたたかな微笑みを宿す。「明日からなら、ダンスのリハビリを始めていいって、先生が」「本当か!」澄人はぱっと立ち上がり、嬉しさに顔を輝かせてソフィアの手を取る。「ソフィア、本当に嘘じゃないんだな?」頷く彼女の腕に、ふいに重みがかかった。澄人が衝動のまま彼女を抱きしめたのだ。「よかった!ソフィア、ありがとう!」五年もの間、心の奥底で思い続けてきた人が今、自分を抱きしめている――その事実に気づいた瞬間、ソフィアは歓喜に呑まれる。彼女は全身がこわばって動けなくなり、やっとの思いで手を伸ばし、澄人の背にそっと触れる。「おめでとう、澄人」澄人の肩はしなやかで強く、今は喜びにわずかに震えている。ソフィアは宝物に触れるように、そっと抱きしめる。――澄人、これからは堂々と、自信をもって、ただ自分のために踊って……港町。救急室の『手術中』を示す赤いランプは、一晩中消えることがなかった。祈は外の長椅子に座り込み、その三文字をただ呆然と見上げていた。瑠璃は炭を呑み、自ら命を絶とうとした。今は生死の境にいる。ようやく事の全貌を理解したとき、祈はこの世界の荒唐さと滑稽さに打ちのめされた。たった一週間のあいだに、彼女は大切な二人の親友を同時に失うところだったのだ。「パチン」と音を立て、灯りがふっと消えた。祈ははっと我に返り、顔をぬぐって声
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第16話

瑠璃は、果てしなく長い夢を見た。夢の中には、あの交通事故はなかった。澄人の視力も失われていない。二人はいつも仲睦まじく、授かった二人の子どもは清らかで愛らしく、しかも従順で賢明だ。けれど、夢の中にあっても、彼女は少しも嬉しくなかった。これはすべて幻にすぎないと知っていたのだ。澄人に降りかかった出来事は、彼女にとってあまりに大きな打撃で、もはや脳の防御すら役に立たない。瑠璃の生きようとする意志がほとんど消えかけたそのとき、俊也の声が聞こえた。その瞬間、彼女の記憶が一気に戻った。驚愕と怒りが、全身を呑み込む。彼女の目に映る世間知らずの俊也は、いま彼女の身体から、値の張るものを漁っている。彼の声も言葉も、底に潜むのは貪欲と陰険さばかり。ならば――あの偶然の交通事故。偶然に彼女のベッドへ転がり込んだ俊也。偶然にも澄人によく似た顔立ち。仕草も、話し方も、好みさえも、驚くほど澄人と一致している。この世に、そんな都合のいい偶然があるだろうか?それに、沙耶と俊也は一体どんな関係なのか?だめだ、ここで死ぬわけにはいかない。瑠璃の蒼白な顔に、さっと血の気が戻った。彼女は重いまぶたを押し上げる。その眼差しには、暗く淀んだ怒りが宿っている。真相を突き止める。もしすべてが仕組まれていたのなら……相応の代償を、必ず払わせる。そして、すべてが終わったら、彼女は澄人のもとへ行き、自らの罪を悔いるのだ。瑠璃はある人に電話をかける。「カーター、持っているコネと情報網、全部使ってくれ。調べてほしい人がいる」当初、俊也が彼女のそばに現れたとき、瑠璃は一度その身元を調べた。だが、何の問題もなかった。ならば、可能性はひとつ――彼女の情報網そのものが、意図的に塞がれていたのだ。カーターは、彼女が南アフリカで知り合った一流のハッカーだ。彼が動けば、辿れない情報はない。今度こそ、彼女はこの出来事の真相をすべて突き止める。もし澄人の不幸が誰かの企みなら、容赦はしない。……北欧のとある邸宅。満開のチューリップのあいだから、ピアノの音がゆるやかに広がっていく。花々に囲まれ、すらりとした少年がつま先をそっと立て、四肢を鋭くしなやかに動かす。その身のこなしに、一片の淀みもない。ピアノの響きはひと
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第17話

ソフィアの手つきはひどくやさしく、澄人はほとんど違和感もなくスリッパに履き替えさせられた。「ありがとう、ソフィア。本当は、そこまでしてくれなくても……」彼はソフィアの思いが分からないわけではないし、彼女に心を揺さぶられていないわけでもない。けれど、彼は五年前にすでにさまざまな事情からすでに一度彼女を裏切っていた。今の彼が、別の女に傷つけられたあとで、この無垢で熱い愛情を当然のように受け取れるはずがない。ソフィアはそっと彼の服の裾を整えながら言う。「私は好きでやっているの。あなたに見返りも、返事もいらないの」その瞳にはあふれるほどの愛情が宿っている。「あなたがそこに立っているだけでいい。元気でいてくれて、それだけが、私にとって何よりの贈り物なのよ」澄人は見惚れるように彼女の美しい目元を見つめ、目の奥が少し熱くなる。「でも、僕は他の人と五年も一緒に暮らしていたんだ。僕は……」「澄人、そんなこと、私が気にしないって知っているのじゃない?」澄人は唇を噛む。「ソフィア、僕は君を傷つけるのが怖い。もしも過去の出来事から抜け出せなかったら。もしも、もううまく誰かを愛せなかったら……」彼の声は次第にかすれていき、身もまつげも不安げに震えている。ところがソフィアは、その言葉を聞いて逆にふっと笑みをこぼした。澄人はきょとんとする。「なにを笑ってるんだ?」「澄人、そんなこと気にしなくていいの。抜け出せなくてもいい、誰かを愛せなくてもいい、どんなあなたでも、私は受け止めるから。もし私のことで少しでも嫌だと感じたら、そのときはすぐに嫌って言ってくれてかまわないの、いい?」彼女は汗で濡れた彼の髪をそっと拭いながら続ける。「私の前では、ただあなた自身でいてくれればいいの」澄人は思わず立ち止まったようにつぶやく。「ただ……僕自身で?」ソフィアは絶世の美しさで、やわらかく微笑んだ。「そうよ」……そのころ、港町。瑠璃はすでにカーターが集めた資料を受け取っていた。USBメモリを差し込むと、画面いっぱいに動画の一覧が並ぶ。一本、また一本と見終えるにつれ、彼女の顔はみるみる蒼ざめていく。顔から血の気が引き、膝の上に置いた両手を震わせながら電話をかける。「夏川沙耶に渡した一兆円、そ
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第18話

瑠璃はその声に足を止め、脇に下ろした指先がわずかに丸くなる。「俊也、どうしたの?」彼女は背を向けたまま、瞳の奥には冷ややかな空虚が広がっている。「話がある!夏川沙耶のことだ」俊也の声は震えている。瑠璃は振り向き、やわらかな笑みを浮かべる。「いいわ、話してちょうだい」その後の一時間、彼女は椅子に腰掛け、俊也がでっち上げた――自分が沙耶に「強要され」、「脅され」、「威圧された」という一部始終を黙って聞いていた。彼女は、土下座し涙で顔をぐしゃぐしゃにした男を一瞥もしない。まぶたは気だるげに伏せられ、手の中のお守りを無造作に弄ぶだけだ。もし俊也がほんの少しでも心を落ち着け、彼女の手の中のお守りをよく見ていたなら――それが、かつて澄人が瑠璃のために、山頂の春日神社の九百九十九段の石段を、一段のぼるごとに額を地につけて祈り続け、ようやく授かったものだと気づけたはずだ。やがて俊也の泣き声は細り、彼は瑠璃のスカートの裾をつかんで恨みがましく吐き捨てる。「彼女は僕にあんな仕打ちをするとは……瑠璃、頼む。僕のために仇を討ってくれ」その言葉が終わるか終わらないうちに、背後で「ガコンッ」と重い機械ドアが開く音が響く。反射的に振り向いた俊也は、次の瞬間、恐怖に満ちた悲鳴をあげる。「うあ――っ!」沙耶が、首を吊られ天井からぶら下がっている。顔は鬱血で青紫に変わり、眼球は今にも飛び出しそうだ。「夏川社長、聞こえたわね。うちの夫が、あなたにいじめられたと言ってる」沙耶は必死に首を振り、震える指で俊也を差す。「その人が……嘘を……」瑠璃はすっと眉を上げ、合図するようにして「下ろして」と目で示した。「俊也、よくも私に濡れ衣を着せたわね!」沙耶は叫び声を上げながら俊也に飛びかかり、胸ぐらをつかんで激しく拳を打ちつける。たちまち部屋の中は怒号と悲鳴で渦を巻き、今にも天井が吹き飛びそうな騒ぎとなった。「俊也、あなた、私のベッドで裸になって『お願いだ』って泣きついたこと、忘れたの?」「でたらめ言うな!」俊也は怒鳴り声をあげて遮り、瑠璃の足首にすがりつく。「夏川沙耶が僕を買収して瑠璃を害そうとしたんだ。僕は断った!信じてくれ、瑠璃!」瑠璃の口元に、ごくかすかな笑みが浮かぶ。「私はあなたの子を身ごもっている。も
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第19話

雪は激しく降りしきり、瑠璃は回廊の手前に立ち、羊水検査の報告書を手にしている。【井上俊也との血縁関係は認められません】大きく印字されたその一行が、鋭い氷の矢のように瑠璃の目に突き刺す。間もなく、邸宅のポストに残っていたという証拠一式を、さらに秘書が運んでくる。瑠璃はその発狂を誘発する成分が検出された粉の検査報告書を、いつまでも見つめ続けていた。胸の奥では、見えない大きな手に心臓を何度ももみ潰され、ねじ切られるような痛みに苛まれている。あの償いの名目で用意された猛獣の出し物など、最初から澄人を葬るために仕組まれた周到な罠だったのだ。なのに、瑠璃は彼の拒絶や抵抗を顧みることなく、無理やり澄人を「刑」にかける場へと引きずり下ろした。そのせいで、愛する人は猛獣に襲いかかられ、地面に押し倒されて肋骨を踏み折られ、命さえ危うくした。その間ずっと、彼女は少し離れた場所で、俊也だけを庇っていたのだ。だが、彼女が澄人に背いてきたことは、こんなものひとつにとどまらない。俊也と、そして腹の子――俊也とは血のつながりのないその子のために、彼女は何度も会社の用件だと幾度となく偽りを口にし、さらに医師に命じて澄人の目を決して治させなかった。そのせいで彼は、恐怖と不安に満ちた五年間を、闇の中で過ごさねばならなかったのだ。俊也と彼女が絡み合っていたその時、愛する少年は山に置き去りにされ、崩れ落ちる雪に呑まれていた。そして彼女自身は、俊也との激しい交わりの果てに、澄人との最初の子を自らの手で葬り去ってしまったのだ。女の細く凛とした立ち姿がふいに折れ曲がり、顔には灰白の色がさっと広がる。彼女はページをめくるように視線を落としたが、そこで目にしたのは、さらに彼女を打ち砕き、絶望へ突き落とすものだ――それは健康診断報告書の内容、そして、録音と録画の機能を備えたあの指輪のことだ。瑠璃はその内容を余すところなく読み終え、ついに心が完全に打ち砕かれる。「どうして、こんな……」膝の力が抜け、瑠璃はそのまま地面に滑り落ちる。あのとき、沙耶の拉致は、澄人の腎臓を俊也に移植させるための罠で、そして彼女自身が、その企みに加担し、澄人を傷つけることを許してしまったのだ。「っ……」瑠璃の口から鮮血が勢いよくほとばしり、白雪をたちまち赤に染める。祈は息
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第20話

北欧。ソフィアは澄人と手を繋ぎ、ミラノの街をゆったりと歩いている。舞い落ちる大粒の雪は、彼の差す傘に遮られ、ソフィアの高価で贅沢なウールのコートには一片たりとも触れることがない。「澄人、このあと何を食べたい?」澄人はこのところ続いていたフレンチのことを思い出し、端正な眉をわずかに寄せた。「フレンチは、もういいかな。食べたいのは……」けれど、その言葉はついに口に出せなかった。彼の瞳には薄く翳りが差す。少年はうつむき、不安げにまつげを震わせる。「特に食べたいものなんてない」彼はふと、祖母が作ってくれた肉じゃがや桜餅の味を思い出した。ずっと恋しく思っていたが、もう口にすることは叶わない。ソフィアが彼の耳にそっと触れ、微笑む。「まあ、せっかく空輸でじゃがいもと桜の葉を取り寄せておいたのよ。本当は作ってあげようと思っていたのに――」「本当に?どうして僕が食べたいって分かったの?」澄人の顔に笑みが広がり、その瞳には無数の星々が瞬くような輝きが宿った。彼の目は細く弧を描き、まるで三日月のように笑みをたたえている。「ええ。本場の作り方を特訓したの。あなたの前で披露しても恥ずかしくないくらいにはね」ソフィアは明るく笑い、軽く揖をしてみせる。「どうか、お付き合いくださいませ」澄人はその仕草に思わず口元を押さえて笑い、慌てて彼女を支え起こす。「もちろん」こうして並び立つ美男美女の姿は、道ゆく人々の視線を引き寄せる。雪景の中、その光景は一枚の絵のように美しかった。――ただ、ある人間の目には、ひどく刺々しく映った。「澄人!」瑠璃が駆け出し、澄人の手をつかもうとする。「どうして他の女なんかと親しくしてるの。あなたは私の夫よ!」けれど、彼のコートの裾に触れるより早く、二人に付き従う護衛が瑠璃を一メートル先で抑え込む。「放して、放して!」瑠璃は必死にもがく。だが、その抵抗は虚しく、むしろ気高い気配はみじめに砕け散る。澄人とソフィアは遠巻きに立ち、冷ややかに見ている。「お嬢さん、人違いじゃなくて?これは私の夫よ」ソフィアは流暢なフランス語で、冷ややかに嘲った。まるで彼女の言葉を裏づけるかのように、澄人の手がソフィアの手をぎゅっと握りしめる。瑠璃へ向けられるまなざしは、氷のように
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