LOGIN結婚から五度目の正月、藤堂瑠璃(とうどう るり)は突然と姿を消した。 安部澄人(あべ すみと)が警察署に駆け込み、失踪届を出した。対応した警察は事情聴取を終えて記録に目を通すと、顔つきを一変させ、妙な表情を浮かべる。 「奥さまが藤堂瑠璃だとおっしゃいましたね。では、あなたのお名前は?」 「僕は安部澄人です。妻のことで何か分かったんですか?」 彼は白杖をぎゅっと握りしめ、普段は冷ややかに沈んだ黒の瞳が、この時だけ不安を映して揺らいでいる。 警察は眉をひそめ、机を強く叩く。 「ふざけないでください。本当の名前を言いなさい!」 澄人は眉をわずかにひそめる。 「僕は確かに、安部澄人です」 背後で金髪の若者たちがどっと嘲笑を噴き出す。 「この目の見えないやつ、似てるからって本人のふりなんかできると思ってんのかよ。 この港町じゃ誰だって知ってるんだよ。藤堂瑠璃は、安部澄人との子どもができた祝いに、彼に二千億円のヨットを贈ったんだ。安部澄人はSNSに連日投稿していて、何日間もトレンドに上がってたじゃねえか。 それでお前が安部澄人だって?なら次は、自分が御曹司だって言ってみろよ!」
View More次の瞬間、瑠璃のスマホに立て続けにメッセージが届く。画面を埋め尽くす通知――【藤堂グループ資金繰り崩壊、時価総額九割蒸発】女はハイヒールを鳴らし、振り返りざまに言い残す。「もう私と夫の邪魔はしないで。じゃないと、残りの一割もすぐに消えるかもしれないわ」瑠璃はその場に凍りつき、目も眉も氷の粒に覆われている。彼女の視線の先で、車からすらりとした影が降り立ち、ソフィアの手を絡め取る。瑠璃の胸の奥に、いやな確信が芽生える。これが、生涯で最後に見る澄人の姿かもしれない。この先、彼女の世界に、あの自信に満ちあふれた少年はもういない。遥か海の向こうから、ただ幾度となく願い、憧れ、澄人の名を呼ぶことしかできなくなるのだ。瑠璃はよろめき、力の限り澄人へと駆け出す。「澄人!澄人!」男の影がふと立ち止まり、その気高い横顔は雪に照らされ、いっそう冷ややかに映える。「澄人、お願い。一度でいい、振り向いて」せめて、これから償い続ける日々に、ひとつだけ思い出を残してほしいの。瑠璃は息を詰め、期待を胸にその背が振り返るのを待った。だが男の歩みは一瞬だけ止まったきり、何事もなかったようにソフィアの手を取り、そのまま前へ進んでいく。澄人は一度も振り返らなかった。背筋を伸ばし、背筋をまっすぐに伸ばし、迷いも未練もなく、歩み去っていったのだ。――瑠璃、僕は言ったはずだ。もう二度と君を愛さない。もう二度と君のために立ち止まったりはしない。雪は静かに舞い落ち、彼とソフィアの肩を白く染めていく。二人はそのまま歩みを揃え、寄り添いながら果てしない時の先へと歩んでいく。……澄人がプロポーズをしたのは、穏やかであたたかな春の日だった。きっかけは、ソフィアが何気なく口にした一言――「人生の大切な日に、美しいドレスを着ていたい」だからこそ彼は、この特別な日をアマルフィ海岸の春に捧げたのだ。このプロポーズの式に招かれたのは、二人にとってかけがえのない親友たちだけだ。夕陽に照らされた海は茜色に染まり、ふたりの頬にも自然な朱が差す。澄人は指輪を手に、片膝をつく。琥珀色の瞳はソフィアだけを映し、瞬きさえ惜しむほどに見つめている。彼の心にあるのは、ただひとつ。愛おしい姫を生涯守り抜きたいという想い――誠実に、敬意を込めて、そして限りない
幕が下りると、観客が三々五々ロビーへ流れ出ていく。誰もが余韻の笑みを頬に残している。瑠璃は街灯の温かな光に背を預け、マフラーで顔を覆いながら、もう一度だけ彼を見ようと目を凝らす。彼女の耳に、数人が澄人の舞台を惜しみなく称える声が届く。――五年の沈黙を経て、むしろ鋭い剣のような強靭さを身に宿している、と。気づけば口元がわずかに上がり、わけもなく胸が温かくなる。ほどなくして、あのすらりとした姿が視界に現れた。澄人は舞台衣装を脱ぎ、厚手のカシミヤのマフラーに顔をうずめて、大雪の中へ駆けだしていく。「ソフィア、ほら、また雪だよ!」彼はソフィアの手を取り、雪の中でくるくると回った。「この街が、すごく好きだ!」ソフィアはやわらかく微笑んで問う。「いつも雪が降るから?」澄人は振り返り、少し驚いたように首を振る。「もちろん、それだけじゃない。ここが好きなのは、君がいるからだ」街灯の陰で、それを聞いた瑠璃の肩がびくりと震える。ソフィアは一瞬きょとんとする。「澄人」彼は口元にやわらかな笑みを浮かべて、口を開く。「さあ、ソフィア、僕の彼女になってくれる?」「澄人、私……」ソフィアの瞳が大きく見開かれた。心のどこかでそうなる予感は抱いていた。けれど、彼女はあくまで選択を澄人自身に委ね、少しも強いられていると感じさせたくはなかった。「澄人、これは夢なの?」だが、その彼の口から、望んだ言葉がまっすぐに届くとは全然思わなかった。澄人は小さく首を振り、彼女の頭に額を寄せてそっとすり寄る。「ソフィア、君が夢を追うよう背中を押してくれた。君が、ありのままの僕を受け入れてくれて、もう一度歩き出す勇気をくれたんだ」「違うわ。あなた自身よ」ソフィアはそっとつま先立ちになり、彼の唇の端に軽いキスを落とした。だが次の瞬間、澄人の腕にしっかりと抱き寄せられ、その口づけは深く重ねられていく。男の体から漂う白檀の香りと、彼女の纏うジャスミンの香りが溶け合っていく。雪は静かに、ゆっくりと舞い落ち、まるでこの美しいひとときを邪魔するのをためらっているかのようだ。瑠璃は顔を覆い、ゆっくりとしゃがみ込む。指の隙間から涙がこぼれ落ちる。今、彼女の胸を満たしているのは、もう占有欲ではない。ただ果てのない悔恨だ。
パレルモ劇場。公演を観に来た人々が絶え間なく流れ込み、その多くは――五年の沈黙を破って復帰するジャズダンスの天才の澄人を目当てにしている。瑠璃は片足を引きずりながら、一歩一歩と劇場の中へ向かう。ようやく人波をかき分けて案内口に辿り着いたとき、案内係に行く手を遮られた。「このお客様、あなたはこちらから先へはお入りいただけません」「どうして?」瑠璃は不機嫌そうに眉をひそめた。これが、澄人にもう一度会える唯一の機会なのに。この劇場に招待状の決まりはない。チケットがあれば誰でも入れるはずだ。ところが案内係は一枚の写真を取り出し、瑠璃の顔とじっくり見比べたのち、表情を引き締めて告げる。「当劇場の団員に対する悪質なつきまといの疑いにより、あなたは当劇場への入場禁止となっています。どうかお引き取りください」瑠璃はその場に凍りつく。まるで暗闇の中で光を求めていた者が、唯一の蝋燭を吹き消されたかのように。「違う、違うのよ。聞いて。私は澄人のことをちゃんと知っている。私は彼の妻なの!」給仕はその言葉に、いっそう侮るような目つきを向ける。「安部様のパートナーはソフィア様だ。私を馬鹿だと思っているのか?」きついフランス語の抑揚が、ことさらに刺さる。瑠璃は慌ててスマホを取り出し、澄人とのウェディング写真を見せる。「見て、私は本当に彼の妻なのよ!」「ははは!こちらはとっくに調べがついてるんだ。この男の名は井上俊也だ。まさに石と玉を取り違えるってやつだな!」給仕は笑い崩れ、瑠璃をますます蔑む目で見下す。「どきなさい。他のお客様のご迷惑だよ!」乱暴に脇へ押しやられた瑠璃は、劇場の窓枠にしがみつく。せめて、もう一度だけ澄人の姿を目に焼きつけようとする。劇場の舞台裏。澄人はすでに舞台用の衣装に着替え、専門のスタッフが舞台化粧を施している。五年ぶりに立つ劇場の舞台。胸の奥には、やはり少しの緊張が残っている。深く何度か息を吸い込み、彼は頭の中で振り付けとリズムを繰り返し思い描く。扉が押し開けられ、そこに現れたのは、この世のものとも思えぬほど艶やかな顔だ。「ソフィア?どうしてここに」澄人の顔がぱっと明るくなる。ソフィアは、うっすら汗ばんだ彼の手のひらを握りしめる。「前で待っているうちに不安になって、心
北欧。ソフィアは澄人と手を繋ぎ、ミラノの街をゆったりと歩いている。舞い落ちる大粒の雪は、彼の差す傘に遮られ、ソフィアの高価で贅沢なウールのコートには一片たりとも触れることがない。「澄人、このあと何を食べたい?」澄人はこのところ続いていたフレンチのことを思い出し、端正な眉をわずかに寄せた。「フレンチは、もういいかな。食べたいのは……」けれど、その言葉はついに口に出せなかった。彼の瞳には薄く翳りが差す。少年はうつむき、不安げにまつげを震わせる。「特に食べたいものなんてない」彼はふと、祖母が作ってくれた肉じゃがや桜餅の味を思い出した。ずっと恋しく思っていたが、もう口にすることは叶わない。ソフィアが彼の耳にそっと触れ、微笑む。「まあ、せっかく空輸でじゃがいもと桜の葉を取り寄せておいたのよ。本当は作ってあげようと思っていたのに――」「本当に?どうして僕が食べたいって分かったの?」澄人の顔に笑みが広がり、その瞳には無数の星々が瞬くような輝きが宿った。彼の目は細く弧を描き、まるで三日月のように笑みをたたえている。「ええ。本場の作り方を特訓したの。あなたの前で披露しても恥ずかしくないくらいにはね」ソフィアは明るく笑い、軽く揖をしてみせる。「どうか、お付き合いくださいませ」澄人はその仕草に思わず口元を押さえて笑い、慌てて彼女を支え起こす。「もちろん」こうして並び立つ美男美女の姿は、道ゆく人々の視線を引き寄せる。雪景の中、その光景は一枚の絵のように美しかった。――ただ、ある人間の目には、ひどく刺々しく映った。「澄人!」瑠璃が駆け出し、澄人の手をつかもうとする。「どうして他の女なんかと親しくしてるの。あなたは私の夫よ!」けれど、彼のコートの裾に触れるより早く、二人に付き従う護衛が瑠璃を一メートル先で抑え込む。「放して、放して!」瑠璃は必死にもがく。だが、その抵抗は虚しく、むしろ気高い気配はみじめに砕け散る。澄人とソフィアは遠巻きに立ち、冷ややかに見ている。「お嬢さん、人違いじゃなくて?これは私の夫よ」ソフィアは流暢なフランス語で、冷ややかに嘲った。まるで彼女の言葉を裏づけるかのように、澄人の手がソフィアの手をぎゅっと握りしめる。瑠璃へ向けられるまなざしは、氷のように
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