All Chapters of 春風は尽きず、愛は静かに永く: Chapter 1 - Chapter 10

23 Chapters

第1話

結婚から五度目の正月、藤堂瑠璃(とうどう るり)は突然と姿を消した。安部澄人(あべ すみと)が警察署に駆け込み、失踪届を出した。対応した警察は事情聴取を終えて記録に目を通すと、顔つきを一変させ、妙な表情を浮かべる。「奥さまが藤堂瑠璃だとおっしゃいましたね。では、あなたのお名前は?」「僕は安部澄人です。妻のことで何か分かったんですか?」彼は白杖をぎゅっと握りしめ、普段は冷ややかに沈んだ黒の瞳が、この時だけ不安を映して揺らいでいる。警察は眉をひそめ、机を強く叩く。「ふざけないでください。本当の名前を言いなさい!」澄人は眉をわずかにひそめる。「僕は確かに、安部澄人です」背後で金髪の若者たちがどっと嘲笑を噴き出す。「この目の見えないやつ、似てるからって本人のふりなんかできると思ってんのかよ。この港町じゃ誰だって知ってるんだよ。藤堂瑠璃は、安部澄人との子どもができた祝いに、彼に二千億円のヨットを贈ったんだ。安部澄人はSNSに連日投稿していて、何日間もトレンドに上がってたじゃねえか。それでお前が安部澄人だって?なら次は、自分が御曹司だって言ってみろよ!」ちょうどその話を裏づけるかのように、正面のLEDスクリーンに瑠璃の生中継のインタビューが映し出される。「昨日は大晦日でしたが、藤堂社長の新年の願いは何ですか?」「もちろん、澄人の子を無事に産めることです」「愛してるよ、瑠璃」耳に届いたのは、聞き覚えのある井上俊也(いのうえ しゅんや)の澄んだ声だ。澄人の頭の中で何かが爆ぜたように混乱し、顔色が真っ白に変わった。……五年前、二人が結婚する前夜のこと。澄人は交通事故で視力を失い、瑠璃は深い絶望に沈んだ。港町の誰もが口をそろえて言った――この街一番の名門令嬢が、盲目の男に嫁ぐはずがない、と。中には、澄人にそっくりな貧しい大学生を探し出し、密かに瑠璃の部屋へ送り込む者までいた。瑠璃は激しく声を張り上げ、護衛にその少年――俊也を取り押さえさせ、危うく命を奪わせるところだった。艶やかな瞳は怒りに燃えるように赤く染まり、胸の奥で渦巻く感情を必死に抑え込んだ。「出ていって!私が愛してるのは澄人だけよ。似ている誰かなんて、見るだけで胸が悪くなる!」真夜中、瑠璃は車を飛ばして病院へ向かい、澄人を力
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第2話

猛り狂う炎が燃え広がり、火災報知器が狂ったように鳴り響く。その混乱に紛れて、澄人は別の出口から外へ出ると、道端の電話ボックスを見つけ、ある番号にかけた。「ソフィア、五年以内なら、いつでもオーケストラに戻れるって言ってたよね。まだ有効かな?」女の澄んだ声が電話口から響く。「もちろんよ、私の愛しい澄人。北欧のファンたちは、あなたを恋しがって胸を痛めてるわ」「ただ、今の僕の立場が少し厄介でね。出国手続きに五日間かかる」「どうやって港町を抜けるつもり?私の知る限り、瑠璃はそう簡単にあなたを手放したりはしないわよ」澄人は瞳を深く沈め、低く言う。「彼女には僕の遺体を届けるつもりだ」瑠璃は俊也に澄人を演じさせている。ならば、彼は彼女の人生から、跡形もなく消えてやる。突然、細い腕が彼の腰に回り、彼女だけの香りがふわりと押し寄せてくる。瑠璃は彼の肩に顔を埋め、震える声で言う。「あなた……無事でよかった。もしあなたに何かあったら、私も生きていけない」「澄人、瑠璃はあなたがまだ中にいるって思い込んでて……あなたは目が不自由だからって、どうしても助けに入るって聞かなくて。火はすごい勢いで、シャンデリアが落ちてきて、もう少しで瑠璃が下敷きになるところだったの」祈が胸を押さえ、まだ怯えの残る顔でそう言った。そのとき初めて澄人は気づいた――瑠璃の腕には火傷が走り、服は大きく裂け、目は煙で真っ赤だ。息が詰まり、心臓に無数の針が刺さるような細かな痛みが広がる。瑠璃、君は僕のためなら命さえ惜しまない。なのに、どうして君の心は、二人の男を同時に愛せるんだ。「藤堂社長」背後から、聞き覚えのある男の声がした。白いシャツ姿の俊也が、スーツケースを引きながら、二人が抱き合うのを見て、目の奥に暗い影が走った。澄人は腕の中の瑠璃がはっきりと身を強張らせたのを感じた。そして、彼女はすぐに彼から身を離す。瑠璃は一瞬だけ澄人の目を確かめて、ほっと息をつくと、顔色ひとつ変えずに嘘を口にする。「澄人、取引先が来てるの。少し待ってて」続けて瑠璃は足早に歩み寄り、俊也の腕に自分の腕を絡めると、手話でそっと伝える。「俊也、どうして一人で来たの?今夜、あなたのところへ行くって言ったじゃない?」俊也も手話で返す。「君
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第3話

食事が終わったあと、いつものように専属の主治医が澄人の目を診察しにやって来た。「藤堂社長、中山医師が急用で来られないため、代わりに伺いました。カルテを拝見しましたが、ご主人の目は投薬を続ければ回復の見込みが十分にあります」澄人は扉の外で、医師と瑠璃が病状をやり取りするのを聞きながら、胸が締めつけられる。たとえ視力が回復したとしても、彼と瑠璃が昔のように戻れることはもうないのだ。この嘘と欺きに満ちた茶番の中では、むしろ「盲目」のままでいたほうがましだと、彼は思った。残された五日間、彼が願うのは港町を無事に出ることだけ。そして瑠璃とは、生きても死んでも、二度と顔を合わせないように。そう心に決めた矢先、部屋の中が数秒間静まり返り、そして、女の淡々とした声が響く。「必要ないわ」「中山医師から聞いていない?この五年間、私が中山医師に処方させていたのはただの滋養剤よ。視力なんて治らないわ。もし彼が見えるようになったら、俊也はどうすればいいの?」――パキン、と。澄人の指にはめられたダイヤの指輪が力任せに折れ、掌を裂いた血が指の隙間からじわりと滲み出た。彼はほとんど逃げ出すように部屋へ駆け戻り、全身が無意識のうちに激しく震えている。その拍子に、テーブルの上に飾られていたウェディング写真立てが、ガタンと倒れた。写真の中で、瑠璃はつま先立ちになり、澄人の口元に清らかな口づけを落としている。写真を見つめる彼の顔は蒼白に変わり、瞳には消えない赤が滲んている。外では霞む雨が降りつづき、いつもはまっすぐな背が、見る影もなく折れていく。ぽたり、ぽたり――床に涙が落ちていく。やがて澄人は狂おしいように笑いはじめる。胃が痙攣し、苦味がこみ上げる。「ははは……瑠璃、たいしたもんだ」彼が途方に暮れ、恐れ、怯えながら過ごした千にも及ぶ暗い夜――そのすべてが、瑠璃が仕組んだものだったのだ。震える手で、彼はウェディング写真を抜き取り、シュレッダーに差し込む。紙が砕け散るのとともに、瑠璃との数え切れない甘い記憶までもが、彼の脳裏から少しずつ色を失っていくようだ。「あなた、何してるの?」不意に瑠璃が扉口に姿を現す。澄人は真っ白な紙屑をゴミ箱に捨て、乾いた声で言う。「何でもない。間違った書類を処分していただけ
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第4話

そこに現れたのは、成長しきった虎と黒い狼だ。何かの匂いを嗅ぎつけたのか、獣たちは檻の中で狂ったように暴れ回る。アオーン――狼は天を仰いで遠吠えし、黄金色の瞳で獲物を狙うように澄人を睨みつける。澄人は思わず一歩後ずさり、ふとあの異様に鼻をつく花束の匂いを思い出す。澄人はハッと警戒し、不安を覚えながら口を開く。「瑠璃、僕、ちょっと気分が悪い。先に部屋へ戻る」これまでなら、彼が体調を訴えれば、瑠璃は決まって大慌てで彼を部屋へ連れ戻したものだ。だが今は、ただ困ったように眉をひそめるだけだ。「澄人、そんなこと言わないで。俊也はあなたに謝るために、ずっと準備してきたのよ」澄人は拳を握りしめ、唇を固く結んだ。血の気が引き、口元はすっかり白くなっている。やがて出し物が始まる。俊也がぎこちない手つきで虎と狼を操っている。二頭の猛獣は火の輪をくぐり、細い橋を渡っていく。一見、すべて順調に見えている。「すごいわ!俊也、本当に上手!」瑠璃は惜しみなく拍手を送り、その視線は俊也に釘づけだ。そして、そこに宿っているのは、あふれんばかりの愛だ。彼女には、澄人の視力がまだ戻っておらず、この「償いの出し物」を見ることができない――そのことに全然気づいていないんだ。だが、それ以上に澄人の胸を締めつけたのは、抑えきれない恐怖だ。指先の震えは止まらず、全身に広がっていく。彼だけが気づいていた――虎と狼が振り返り、自分を狙うように視線を向けてくる回数が、明らかに増えている。その目の底にあるのは、本能むき出しの食欲。彼は気づかれないように後ずさる。ひと歩、またひと歩。もう少しで、攻撃の間合いから抜けられる――そのとき。「きゃっ!」指揮台の上で俊也の体が大きく揺れ、手にしていた制御用のチェーンがぱっと外れた同時に、虎と狼が突如として暴れ狂い、耳をつんざく咆哮を上げる。「俊也!」瑠璃が思わず悲鳴を上げ、護衛たちを引き連れて駆け出した。その刹那、澄人は完全に二頭の猛獣の前にさらされる。虎と狼の動きがぴたりと止まり、剥き出しの牙をこちらへ向ける。澄人の瞳孔が縮み、呼吸が喉元で止められる。ほとんど瞬きする間もなく、二つの巨大な影が彼に向かって飛びかかってくる。痛い!あまりにも、痛い!内臓が押し潰さ
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第5話

それきり、瑠璃は戻ってこなかった。澄人は空腹と眠気に流され、深い眠りへ落ちた。夢の中でも悲しい出来事に苛まれているのか、澄人の眉間はずっと寄せられている。腕に走った鋭い痛みで澄人は目を覚まし、思わず視線を落とす。そこには血に染まった大きなガーゼが巻かれている。「ガーゼを替えますね。さっき皮膚を移植する手術を終えたばかりですから」看護師が新しいガーゼを取り出す。「皮膚移植の手術?なんのことだ」澄人は愕然とした。「隣の病室の藤堂社長が、夫の腕に擦り傷ができたからと、あなたの皮膚を少し移植するよう頼んだのです」看護師はため息をつき、ぽつりとこぼす。「同じ人間でも、立場が違えばこうも扱いが変わるんですね。安部さんがちょっと擦りむいただけで、藤堂社長は大げさに心配するんです。私たちとは違いますね」澄人の顔からさっと血の気が引き、胸の内を鋭い刃でえぐられたような痛みが走る。唇が震え、焼けた炭でも呑み込んだかのように喉が灼け、目の奥に湿りが差す。「すみません、転院の手続きをお願いできますか?」「転院?」扉が開き、両手いっぱいに栄養剤と、澄人の好物を抱えた瑠璃が入ってくる。彼女はコートを脱ぎ、澄人の手足を丁寧に拭き清めた。果物を洗って一口大に切り分け、口元まで運ぶ。さらに、最も美味しい栄養食を作ろうと、何度も配合を変えながら繰り返し試したという。「ねえ、澄人。ちゃんと食べて、早く治って」彼女はスプーンで一口分のスープをすくい、息を吹きかけて丁寧に冷ましてから、澄人の口元へそっと差し出した。その仕草は、昔と変わらぬ細やかさと優しさに満ちている。澄人はその様子を見つめながらも、心は日に日に冷え切っていく。彼には分かってしまう。瑠璃の愛は、もう別物だ。彼女は用意した栄養食の中で一番出来の良いものを俊也に食べさせるだろう。そして何度も俊也の手を自分の腹に添えさせ、待ち遠しそうに言うだろう――「俊也、あと少ししたら胎動が感じられるわよ」澄人が眠りについた後で病室に俊也を呼び入れ、互いの体に熱の痕を残すのだろう。そして周囲にはこう紹介する――「こちらが私の夫です。どうぞお見知りおきを」澄人は、ただ黙って見つめるだけだ。涙もなく、声を荒げることもない。本気で去ろうと決めた者は、「さよな
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第6話

澄人は、とても長い夢を見た。時は五年前――彼が初めて瑠璃と出会った日へ戻る。そのころ、彼はまだ視力を失っておらず、いちばんの楽しみはアウトドアでの冒険だった。その日、瑠璃が険しい山道で足を踏み外し、脚を折って高熱にうなされ、今にも命が尽きそうになった。彼は持っていたすべての保存食と水、それに薬まで差し出して、なんとか彼女の命を取りとめた。瑠璃が目を覚ましたのは三日後のことだった。そのとき、澄人はすでに力尽きて倒れていた。彼女は自分の手首を切り、十度にわたって血を飲ませ続け、救助隊の到着まで二人で持ちこたえたという。瑠璃が澄人を追い求めていた頃、彼女はよく言っていた。あの山を生きて出られたのは、きっと前世からの宿縁。運命に結ばれた生死を共にする絆なのだ、と。だが、場面はふいに反転する。目の前で瑠璃は、俊也を守るために、澄人を猛獣の前へと突き放していた。澄人は思わず叫び声をあげ、はっと目を見開く。だが手足は固く縛られ、視界は黒い布で覆われており、何ひとつ見えない。ただ、かすかに人の声が聞こえる。「藤堂社長、あなたがうちの土地を奪ったせいで、うちは破産寸前だ。このまま何もなしってわけにはいかないだろう?」「夏川沙耶(なつかわ さや)、あんた、私を拉致するなんて正気じゃないわね。命が惜しくないの?」それは、瑠璃の声だ。そして、沙耶――彼女の宿敵である。沙耶は高らかに笑い、狂気じみた調子で言う。「死ぬのも構わないわ。あんたを道連れにしてやる。でも、あんたをただ殺すだけじゃ安すぎるのよ」彼女はしばらく澄人と俊也を眺め、口元を不気味に吊り上げて、笑った。「ゲームをしようか」瑠璃は手をぎゅっと握りしめ、目に殺気を宿して言う。「無駄口はやめて。彼らを放す条件を言いなさい」「お仕置きは三つ。あんたが選びなさい。どちらを助けるか」そして、彼女の合図ひとつで、澄人と俊也は沙耶のそばへと引きずり出される。「ううっ!」俊也は怯えて必死にもがく。澄人は歯を食いしばり、砂利が背中に食い込む痛みに耐える。瑠璃はその光景を目にして、額に青筋を浮かべる。「彼らを放して。私とあなたのことなら、ほかの人を巻き込む必要はない」だが沙耶は耳を貸さない。「一つ目は――海に投げ込むことよ」
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第7話

俊也は苦しげにうめき声を漏らし、口に詰められていた布切れが外れた。彼は惨めな声で叫ぶ。「瑠璃、助けてくれ!僕たちの子に、父親を失わせるな!」その一言に、瑠璃の喉までこみ上げていた言葉がぴたりと止まり、彼女はそっと目を閉じる。しばらくの沈黙のあと、瑠璃はかすれた声で言う。「俊也」一瞬にして、澄人の全身から力が抜け落ちた。沙耶は狂ったように笑い声を響かせる。「いいわ!さすが藤堂社長、肝が据わってる!」合図ひとつで、沙耶の手下が澄人の髪をつかんで引きずり、冷たい海へ放り込む。四度、五度、六度――そして十度目まで。見ていられなくなった瑠璃は、目を真っ赤にして叫ぶ。「彼、喘息なのよ!殺す気か?」「自分で選んだんじゃないの?」と沙耶は鼻で笑いながら、面白そうに瑠璃の暗い面差しを見つめる。「二つ目の仕置きよ。私の愛しい人は腎臓がもう機能していない。調べはついてるわ――この二人の男、どちらもドナー適合。さあ、今度はどちらを助けるの?」瑠璃は鋭い爪が食い込むほど手のひらを握りしめ、血がにじむ。胸は激しく波打ち、呼吸さえ乱れている。澄人はなおも胸が裂けるように咳き込み、海水が五臓六腑にまで染み込み、全身の細胞が悲鳴を上げるような痛みに襲われている。彼は泳ぎがまったく苦手なうえに喘息を抱えている。ひとたび溺れれば、命に関わる危険は避けられない。瑠璃はこれまで、澄人を一人で水辺に近づけたことなどなかった。だが今は……澄人は引きつった笑みを浮かべた。鼻腔も気道も血の匂いで焼けつき、血管がはち切れそうだ。もう、もたない。そう思った刹那、瑠璃の答えが、彼を奈落の底へ突き落とす。「俊也」隣で俊也が歓喜に涙し、唇を結んで澄人に視線をよこす。「安部さん、つらかったね」澄人は応えない。ただ、信じられないものを見るように瑠璃のほうを向き、胸の痛みはしびれるほどに麻痺していく。ずしりと重みを感じさせる麻酔針が一瞬で体に突き立ち、彼は低くうめき声を漏らし、冷や汗が噴き出す。沙耶と俊也は意味深げに視線を交わし、唇をわずかに歪めて、瑠璃には聞こえない声で囁く。「麻酔はいらない」医師は一瞬ためらったが、麻酔針を引き抜くと、簡単に消毒しただけでそのまま澄人の下腹にメスを入れた。「――ああああっ!」激
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第8話

どれほどの時が過ぎたのか、耳をつんざくサイレンが空に響き渡る。澄人は救出された。病院で応急処置だけを受けた彼は、入院の勧めを断り、ひとりで誰もいない邸宅へ戻った。かつて瑠璃が、彼を笑わせたい一心で自ら図面を引き、現場にも立ち会って仕上げた場所だ。俊也がこの邸宅に住みついて、まだ二か月にも満たないというのに――すでに至るところに彼の生活の痕が散らばっている。もともと澄人のためのクロークルームも、音楽室も、いまは雑多な荷で埋め尽くされている。澄人が瑠璃のために手彫りした木彫りの一式でさえ、いまは無造作に床へ投げ出され、歪んで転がっていた。あの頃、彼女は目を赤くしながら、一生大切にすると言っていたというのに。澄人は窓を通して、外の真っ暗な夜空を見つめ、惨めに笑みをこぼす。もう丸一日と一夜が過ぎた。瑠璃はいまだ俊也のそばにいる。澄人は力なく笑みをこぼし、口端の血を拭うと、邸宅の門前に据えられたポストへ三つの品を入れた。一つ目。それは、昨日俊也が彼に贈った花にまぶされていた粉の検査報告だ。瑠璃がこれを開けば、あの夜、虎や狼が狂ったのは偶然ではなく、人為によるものだとすぐに分かるだろう。その花には、発狂を誘発する香料がふんだんに仕込まれていたのだ。二つ目。それは、彼が先ほど病院で受けた健康診断の報告書だ。そこには、彼の身体がすでに古びた機械のように綻びだらけであることが記されている。左腎をえぐり取られたとき、澄人は俊也と沙耶の会話を聞いた。腎臓に問題があるのは――俊也の方だ!すべては、澄人に俊也の腎臓移植を強いるための罠。そして瑠璃は、彼らの思惑どおり、自らの手で澄人を深淵へと突き落とした。腎臓に疾患を抱える男に、どうして子を宿させる力があるというのか?瑠璃の腹の子は、紛れもなく澄人の子だ。澄人は惨めに笑みを浮かべる。けれど、もういらない。子も、瑠璃も、すべていらない。三つ目。それは録音・録画機能を備えたダイヤの指輪。海辺での沙耶と俊也の密談が、そこに残されている。それは五年前、瑠璃が澄人にプロポーズするために、自らアフリカへ渡り、心を込めて選び、丹念に磨き上げた指輪だ。千三百回にも及ぶ磨き――半年を費やしたという。こんなにも純粋で揺るぎない愛は、当時、港
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第9話

レインボーブリッジの上を、マイバッハS680が疾走する。瑠璃は唇をきつく噛み、ハンドルを握りしめる。汗が鼻筋を伝い、ぽたり、ぽたりと落ちる。もっと速く。もっと。一刻も早く澄人に会って、その無事を確かめなければならない。十時間前、海辺。瑠璃は藤堂グループの資金をほとんど使い果たし、ようやく沙耶を折れさせた。血に染まった刃を手にした沙耶は、震える瑠璃の瞳を見て、鼻で笑う。「なるほどね。傲慢で苛烈と名高い港町の名門令嬢も、愛の前では頭を下げるってわけ?」「あなた、私と約束したはずよ。すぐに医療班に澄人を治療させなさい!」瑠璃は拳をぎゅっと握りしめ、眼差しは血の色を帯びている。「いいわ、私は有言実行よ。ただし、金が振り込まれるまで、彼には人質としてここにいてもらう」「人質は私でいい。彼を放して」瑠璃が冷ややかに言葉を遮った。沙耶は一瞬きょとんとしたが、すぐに声を上げて笑い出す。「いいわね。藤堂社長ご自身が人質だなんて、願ってもないことだわ」だが次の瞬間、彼女の眼差しは鋭く陰を帯び、俊也を指差す。「でも、彼は残していく」瑠璃の視線がわずかに沈む。「いいわ」こうして二人は沙耶の手下に連れられ、日の差さない倉庫へ閉じ込められた。闇の中、瑠璃の眉間には深い皺が刻まれる。血の気を失った澄人の顔が、瑠璃の脳裏で何度も何度もよみがえる。彼女は倉庫の扉のそばに腰を下ろし、身じろぎひとつせず、まるで一体の彫像のように佇んでいる。俊也が唇を噛みしめて言う。「瑠璃、どうして沙耶の要求をのんだんだ?まるごと一兆円もの大金を……」瑠璃は答えなかった。ただ静かに、扉の隙間から差し込む一筋の光を見つめている。そのかすかな光の中に、ぼんやりとした人影を思い描く。やがて空は暗く落ち、その一筋の光さえ消えてしまった。それでも彼女は、そこに座り続ける。どれほど経っただろう。耳を刺すサイレンが鳴り響く。瑠璃と俊也は救出された。だが、沙耶がそもそも医療班に澄人の治療を命じていなかったことも知らされる。彼女は慌てて警察に澄人の行方を尋ねたが、返ってきたのは「彼はもうひとりで去った」という報だった。胸が焼けるように焦る。傷を負った澄人が向かう場所は、ひとつしかない――あの邸宅だ。そう思った
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第10話

一方その頃、ヘリコプターの機内。澄人は静かに座席脇に身を預け、冷ややかでありながらどこか優しさを帯びた横顔を見せている。「澄人、大丈夫?」ソフィアが振り返ると、彼女の目に飛び込んできたのは、血の気の失せた澄人の顔色に思わず胸を突かれた。「ゴホッ、ゴホッ……」澄人は内臓をえぐられるような痛みを押し殺し、無理に笑みを浮かべる。「僕は大丈夫だ」ソフィアは眉をひそめ、澄人の動きをじっと観察する。澄人は腹をかばうように身を縮め、両手はかすかに震えている。ヘリコプターが気流に煽られて揺れた拍子に、澄人の下腹の傷口が引きつれた。歯を食いしばり、彼の額に細かな冷や汗が浮かぶ。ソフィアはすぐさま異変を見抜き、問いかける。「澄人、怪我してるの?」澄人は首を振ろうとしたが、視界がふっと暗転した。次の瞬間、彼の体は壊れた操り人形のように、力なく座席からずるりと滑り落ちていく。彼女は目を見開き、ほとんど駆け込むようにして澄人の体に飛びつき、その身をしっかり抱きしめた。「澄人?しっかりして!」手のひらに広がる生ぬるい感触に、ソフィアは思わず目を落とした。掌には鮮血がべったりついている。一瞬で表情が険しくなり、彼女はすぐに操縦席の通信ボタンを押す。「最寄りの病院を照会して、今すぐ降下して!」国連の平和維持部隊が駐留する基地、その付属の軍病院にて――ソフィアは窓辺に立ち、次々と救急室へ運び込まれる負傷者たちを見つめている。銃弾に目を撃ち抜かれた者、手足をもがれた者、爆弾で焼かれた者――担架からは血がぽたぽたと滴り落ち、医師や看護師の顔には重苦しくも、どこか麻痺した表情が張り付いている。背後の救急室の「手術中」の表示灯が消え、医師がマスクを外して出てくる。「先生、彼はどうなんですか?」白い髭の医師はため息をつき、首を横に振る。「……あまり良くない」「厳しい状態だ。急性の肺損傷に肺水腫、肋骨骨折、内臓破裂……それに腎臓移植後の後遺症まである」一語一句が、重い槌となってソフィアの神経を打ち据える。彼女は拳を固く握りしめ、目の奥に嵐を孕ませながら、背後に向かって声を放った。「アイラ」「はい、ご命令を」その声とともに、ひとりの女がソフィアの背後に姿を現した。目立たない顔立ちで、
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